↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第二章 王都の闇
99/110

第二章 第四十話 契約に縛られた舌

夜が薄れ始めても、白環治療院を取り巻く状況に大きな変化はなかった。割れた正門の外には治安局の大盾が残り、鉄帯を巻かれた破城槌も撤去されていない。高所へ配置された弓兵の姿もいくつか確認できたが、このしばらく新たな射撃はなく、門へ破城槌が打ち込まれる音も止まっている。だからといって包囲が解かれたわけではないことを、白環の誰もが理解していた。玄関広間では二枚の防壁が引き続き使える状態に保たれ、護衛と職員が交代で正門側を監視している。地下薬草庫の奥でも、前夜につけた白墨の水位線から大きな変化はなく、旧水路へ続く石扉の前には見張りが置かれたままだった。


 中央回復室では、夜のうちに整理された記録を囲みながら、これから地下へ入る四人の行動範囲が改めて確認されていた。ミレナ、年配の修繕職員、そして白環の護衛二人。前回より人数を増やさず、負傷者も加えない。今回の目的は一つだけだった。東部旧溢水幹線の先に存在すると記録された旧共同貯水槽へ到達し、その上部へ続く階段と、北市場第三保管庫の床下に残されている可能性が高い『旧設備点検蓋』を確認する。それ以上の探索は許可されていない。


「もう一度言う」


 院長は地下簡図へ指を置き、一つずつ条件を確認した。


「旧水門には触れない。名前の壁でも止まらない。途中で図面にない分岐を見つけても入らない。共同貯水槽へ続くと確認できる道だけを使う。点検蓋を見つけても、地上へ出るために開けない」


「分かってる」


 ミレナが答えた。


「蓋の向こうを確認できそうでも?」


「隙間から安全に分かることだけ。持ち上げて顔を出すことはしない」


「出口らしいものを見つけても?」


「その場で避難路とは呼ばない」


「時間は?」


「往復を含めて半鐘より短く。予定より遅れた時点で戻る」


「縄の合図は?」


「一度強く引かれたら停止。二度なら即時帰還」


 院長はそこでようやく頷いた。


 移動椅子に座るレンは、そのやり取りを聞きながら地下簡図を見ていた。旧水門、北側点検路、壁面人名記録、そしてその先に記された共同貯水槽候補。紙の上では、白環から北市場第三保管庫まで一本の経路として繋がり始めている。しかし紙の線が途切れていないからといって、実際に人が安全に通れるとは限らない。


「ミレナ」


「何?」


「名前の壁で止まりたくなっても、止まるなよ」


「あなたまで言うの?」


「止まりたいだろ」


「止まりたい」


 ミレナは隠さず答えた。


「まだ読めていない名前がある。削られた場所もある。さらに奥へ続いてるのも分かってる」


「なら?」


「今日は貯水槽を見に行く日よ」


 アイリが小さく笑った。


「ちゃんと言えるようになったね」


「最初から言えてたわよ」


「前は言えても、止まれなかったかもしれない」


「……それは否定しない」


 ガリックは椅子へ深く腰掛け、杖を膝の横へ置いたままミレナを見た。


「紙より地下の方が逃げないぞ」


「人の名前も逃げない」


「だから今日見なくていい」


「分かってる」


 少し離れた位置では、エリリアも地下図面へ目を向けていた。風の魔力は使わない。今回の調査に同行しないことも、離れた場所から魔力を伸ばして何かを補おうとしないことも、すでに自分で決めている。


「旧共同貯水槽まで本当に空気が通っているなら、現地にいる人たちが自分で感じられます」


「エリリアが調べなくても?」


 アイリが尋ねた。


「ええ。今はその方がいいでしょう」


「使えないわけじゃない」


「使わないだけです」


 エリリアの返事に迷いはなかった。


 ミレナは銀色の羽根飾りをいつもの位置へ直し、記録用の紙束、木炭筆、細い測り縄を小さな革袋へ収めた。今回必要なのは、それだけだった。


「行ってくる」


「戻ってきて」


 アイリが言った。


「戻る」


「四人で」


「四人で」


 必要な約束はすでに共有されている。それ以上に言葉を増やすことなく、ミレナたちは地下へ向かった。


 ◇


 地下薬草庫の奥にある石扉を開くと、冷えた空気と浅い水の匂いが流れ込んできた。入口側には東門副長と護衛一人が残り、縄の端を管理する。ミレナたち四人はそれぞれ灯りを持たず、先頭と最後尾だけが油灯を携えた。光を増やせば見える範囲も広がるが、そのぶん影も増え、狭い地下ではかえって距離の感覚が狂いやすい。年配の修繕職員の提案で、中央の二人は前後の灯りを基準に歩くことになった。


 最初の分岐までは、すでに何度も確認した道だった。左側は崩落したまま変化がなく、右側の浅い水も前回とほぼ同じ深さを保っている。石壁には古い修繕跡が幾重にも重なり、切石の間へ後世の煉瓦が差し込まれた場所や、ひび割れを埋めた灰色の漆喰が筋になって残っていた。


「水位、変化なし」


 ミレナが記録する。


「入口の白墨とも合う」


 修繕職員が答えた。


「雨も降ってない。今のところは落ち着いてるな」


 やがて旧水門のある広い空間へ出た。太い木材で作られた水門は以前と同じ位置で半ば上がり、錆びた鎖も歯車も動いていない。水面にも大きな乱れはなく、少なくとも目に見える範囲では、誰かが最近触れたと判断できる変化はなかった。


「見るだけ」


 ミレナが自分へ言い聞かせるように呟いた。


「触らない」


「覚えてるならいい」


 年配の修繕職員は水門へ近づかず、そのまま右側の高くなった点検歩廊へ上がった。


 四人はそこから前回の探索範囲へ進んでいく。不規則に刻まれた最初の名前――レナ・ヴァルス、ドルン・メイル、途中までしか読めないサフィ。そしてその先には、『東部旧溢水幹線 北側点検路』と記された固定管理板があり、そこを越えれば、前回見つけた整然とした名前の列が始まる。


 油灯の光が壁面を撫でると、四十を超える名前が再び浮かび上がった。レオナ・フェル、マルク・テイラ、ケイル・ノード。その間には完全には読めない文字もあり、削られたように見える箇所も残っている。一部では、削られた石の上から別の文字がより深く刻まれたような痕跡も確認できたが、それが何を意味するのかは、前回と同じく分からない。


 ミレナの歩調が僅かに遅くなった。前回、灯りの届かなかった先にも文字は続いている。今ならほんの数歩近づくだけで、さらにいくつか読めるかもしれない。


「ミレナ」


 後ろを歩く護衛が名前を呼んだ。


「分かってる」


 彼女は壁から視線を外した。


「今日は止まらない」


「いいのか?」


 修繕職員が尋ねる。


「よくはない」


 ミレナは歩みを止めずに答えた。


「読みたい。でも、ここへ戻れるように記録した。だから今読まなくても、消えたことにはならない」


 壁面へ新しい印を残すこともせず、四人はそのまま通過した。


 ◇


 名前の壁を越えると、点検路はゆるやかに上り始めた。それまで靴底を薄く濡らしていた水は次第に浅くなり、やがて中央の排水溝だけを流れるようになる。壁の下半分には白っぽい鉱物の筋が幾重にも残り、かつて現在より高い位置まで水があった時代を示していた。天井も少しずつ低くなり、ところどころには古い鉄製の金具が埋め込まれている。


「これ、何に使った?」


 護衛の一人が尋ねた。


「点検道具を吊ったか、板を固定したかだろうな」


 修繕職員は金具へ触れずに表面を見た。


「錆び方を見る限り、長いこと使われてないようには見える」


「全部?」


「そこまでは言わん。先を見るぞ」


 さらに進むと、壁へ埋め込まれた小さな石板が現れた。


『北共同貯水槽 点検階段』


 ミレナは足を止めた。今度は名前へ惹かれて立ち止まったのではなく、ここで記録と現実が一致しているかを確かめることそのものが、今回の調査の目的だった。


「図面と同じ」


 彼女は記録用紙を取り出した。


「名称一致。方向も合う」


「なら、この先だな」


「貯水槽へ続くことは確認できた。でも、まだ出口じゃない」


「誰も出口とは言ってないぞ」


「言われる前に言っただけ」


 石板の横から、細い階段が上へ伸びていた。最初の数段は石造りで、長年の使用によって角が丸く擦れている。途中から煉瓦を組み直した跡があり、壁際には古い鉄製の手摺も残されていたが、錆が厚く、体重を預けられる状態には見えなかった。


 修繕職員が先頭へ移る。


「一段ずつ踏む。手摺は使うな。前の奴が次の段へ移るまで上がらない」


「崩れそう?」


「今すぐ全部落ちる感じじゃない。ただ、記録より古い部分が多い。まとめて体重を掛けるな」


 四人は間隔を空けながら上がっていった。三段、七段、十一段と進んだところで、一枚の煉瓦が僅かに沈み、先頭の修繕職員がすぐに足を戻した。


「そこは避けろ」


 白墨で段の端へ小さな印をつける。


「避難に使うなら修繕が要る?」


 ミレナが尋ねた。


「歩ける人間だけなら、注意して通れるかもしれん。担架は別だ」


「幅は?」


「測ってみろ」


 ミレナは持ってきた細い縄を壁から壁へ渡し、上部の曲がりも含めて幅を確かめた。標準的な担架を水平に保ったままでは、中ほどの折れ部分を通過するのが難しい可能性が高い。前後へ振るための余裕がなく、患者の状態によっては傾けること自体が危険になる。


「今のままの担架じゃ厳しい」


「傾ける?」


 護衛が尋ねる。


「患者による。傷の位置によっては無理だ」


「なら今の段階では、重傷者用の道とは言えないな」


 ミレナはそのまま記した。


『階段――健康成人は慎重に通行可能と思われる。一部損傷あり。担架通行未確認。上部折曲部、標準担架水平搬送困難の可能性あり』


「思われる、まで?」


「四人しか通ってないから」


「相変わらずだな」


「褒めてる?」


「半分」


 ◇


 階段を上り切った先には、低い石造りの空間が広がっていた。


 旧共同貯水槽――紙の上で何度も見た名称が、初めて目の前の場所として形を持った。広さは大きな集会所ほどではなく、かつて水を溜めていた四角い槽の底は完全に乾いている。壁には過去の水位を示す筋が何段も残り、最も高いものはミレナの頭より上にあった。古い流入口の一つは石で塞がれ、別の一つには腐食した鉄格子が残されている。底には薄い砂と剥がれ落ちた漆喰が積もり、少なくとも長い間、大量の水がここへ流れ込んでいないことだけは見て取れた。


「水はない」


「今はな」


 修繕職員は床だけでなく、天井と壁の継ぎ目まで慎重に見た。


「乾いてるから安全とは限らん。上に建物が乗ってるなら、荷重も見なきゃならん」


「保管庫?」


「図面が正しければ、この上だ」


 貯水槽の北西側には、さらに狭い石段が壁に沿って上がっていた。


「これが地上側?」


 ミレナが尋ねる。


「たぶんな」


「たぶん?」


「上まで見てからだ」


 その階段は下の点検階段より急で、幅も狭かった。二人が並んで通ることはできず、壁へ取り付けられた古い金具のいくつかは欠けている。頭上からは時折、細かな木屑らしいものが落ちてきた。


 四人はここでも間隔を空けて上がった。上へ近づくにつれて、湿った石の匂いに乾いた木や埃、古い縄のような繊維の匂いが混じり始め、地下水路とは明らかに異なる空気が感じられる。


「上に建物はありそうだな」


 最後尾の護衛が小声で言った。


「匂いだけで決めない」


 ミレナが返す。


「でも、地下だけの匂いじゃない」


「それは書ける」


 階段の最後には、平らな木板ではなく、鉄枠へ厚い板を組み込んだ四角い蓋があった。裏側の金具には錆が浮いているものの、完全に朽ちてはいない。


 ミレナは手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「触る前に見る」


「成長したな」


 護衛が言った。


「今日はそれを何回言われるの」


 修繕職員が灯りを近づけ、蓋の位置と構造を確かめる。


「図面の『旧設備点検蓋』でほぼ間違いない」


「ほぼ?」


「位置、寸法、構造が合ってる。だが、上の建物そのものを見てない。北市場第三保管庫の床下だと断定するなら、地上側からの確認が要る」


「なら記録は『図面上の位置と一致』」


「それでいい」


 点検蓋の下には横向きの鉄棒があり、本来なら下から押し上げる前に解除する構造らしかった。錆びてはいるが、棒そのものは折れていない。


「恒久閉鎖」


 ミレナが呟いた。


「少なくとも、石や土で埋めてはいないな」


 修繕職員が答える。


「階段も蓋も残ってる」


「開けられる?」


「そこまでは試さない」


「分かってる」


「今のはお前に言ったんじゃない。俺自身に言った」


 ミレナが小さく笑った。


 灯りを少し寄せると、蝶番の一部だけが周囲と違って見えた。周辺の鉄は赤黒く錆びているのに、一本の軸だけ表面の腐食が薄い。新しいと呼べるほどではないが、他の部品とは明らかに状態が異なっている。


「ここ」


 ミレナが指を向けた。


「触らずに見て」


 修繕職員が顔を近づける。


「……油が残ってるようにも見えるな」


「最近?」


「分からん」


「周りより状態がいい?」


「それは言える。ただ、材質が違う可能性もあるし、後から交換した可能性もある」


「なら」


 ミレナは記録へ書き込んだ。


『蝶番軸一本、周辺部品より腐食軽微。油脂様の残留物に見えるものあり。交換・整備時期不明』


「動かした跡?」


「そこまでは言えん」


「分かった」


 蓋の真下には薄い埃が溜まっていたが、端から中央へ向かって細い擦れが一本だけ残っている。


「これも?」


「何かが擦れたようには見える」


「人?」


「分からん」


「蓋?」


「分からん」


「鼠?」


「知らん」


「全部分からない」


「だから来て見てるんだろ」


「そうだった」


 ミレナは擦れ跡の位置と形だけを記録した。


 その時、頭上から鈍い音が落ちてきた。四人が同時に動きを止める。木の擦れる音に続き、何か重いものを床へ置いたような響きが伝わり、点検蓋の向こう側で何かが動いていることだけは分かった。護衛の一人が反射的に剣の柄へ手を置いたが、抜かなかった。


「人?」


 もう一人が囁く。


「分からない」


 ミレナも声を落とした。


 しばらく待つと、今度は足音に似た振動が二度、蓋を通じて伝わってきた。誰かがすぐ真上にいるとは限らない。資材を移動させた音かもしれず、建物の離れた場所を歩く振動が伝わっただけかもしれない。それでも、少なくとも点検蓋の上にある建物が完全な無人施設ではない可能性は、先ほどより高くなった。


「開けない」


 ミレナが言った。


「ここまで来たのに?」


 護衛が尋ねる。


「ここまで来たからこそ」


「少しだけ上げれば、中が見えるかもしれない」


「今日の目的は、蓋と階段が残っているかを確かめること」


「地上へ出られるかも」


「それを確かめる許可はもらってない」


「でも――」


「蓋を開けるために来たんじゃない」


 ミレナは頭上の四角い板を見上げた。


「残っているかを確認しに来たの。地上へ顔を出すためじゃない」


 修繕職員が横で頷いた。


「正しい。上に誰がいるか分からんし、蓋を動かせば音も出る」


「治安局かもしれない」


「市場の職員かもしれない」


「誰もいないかもしれない」


「だから、今は開けない」


 ミレナは最後に点検蓋の寸法を測り、階段の幅と折れ位置も縄へ印をつけると、それ以上の確認を求めることなく帰還を決めた。


 ◇


 帰路につく前、ミレナは旧共同貯水槽の入口で一度だけ振り返った。紙の上だけに存在していた場所は、確かに残っていた。階段も、貯水槽も、その上へ続く点検蓋も現実に存在している。それだけなら、大きな前進だった。


 だが、一つの出口候補を見つけたことと、白環にいる患者たちをそこから安全に逃がせることは、まったく別の問題だった。上部階段は狭く、担架を水平に保ったまま曲がれる保証がない。地上の保管庫に誰がいるのかも分からず、治安局が周辺を監視している可能性も確認できていない。蓋そのものが実際に動くかどうかさえ、今回は試していない。だからミレナは紙へ『避難路』とは書かず、『地上側点検蓋到達。構造残存確認。通行及び避難適性未確認』とだけ残した。


 四人は旧水門に触れず、途中の横道にも入らず、来た道をそのまま戻った。そして再び名前の壁へ差しかかった時、油灯の光が行きとは僅かに違う角度で石面を照らし、その端にまだ写していない一つの名前を浮かび上がらせた。最初の二文字だけは読めたが、その先は暗がりへ沈んでいる。


 ミレナの足が僅かに止まりかけた。


「見えた?」


 護衛が尋ねる。


「見えた」


「記録する?」


「今日はしない」


「忘れない?」


「忘れるかもしれない」


「それでも?」


 ミレナは壁から目を離した。


「今日の目的じゃない」


 そう答えると、今度は誰にも名前を呼ばれる前に、自分から先へ歩き出した。


 ◇


 四人が地下薬草庫へ戻った時、約束した時間にはまだ僅かな余裕が残っていた。


「四人」


 入口で待っていたアイリが、最初に人数を確かめた。


「四人とも戻った」


「戻ったわよ」


 ミレナは濡れた靴のまま石扉を越えた。


 院長は時計と縄の記録を確認してから、ようやく結果を尋ねた。


「どうだった」


「旧共同貯水槽まで到達した」


 中央回復室へ戻る前に、ミレナはまず口頭で要点だけを伝えた。


「図面どおり点検階段が残ってた。貯水槽本体も残存。地上側へ上がる階段もある。上部には『旧設備点検蓋』と位置、寸法、構造が一致する蓋を確認した」


「開けた?」


「開けてない」


「地上は見た?」


「見てない」


「人の気配は?」


「点検蓋の上から物音と、足音に似た振動を確認。原因も人物も不明」


「蓋は開きそう?」


「少なくとも、石や土で完全に埋められてはいない。下側の金具も残ってる。ただし、実際に動くかは試してない」


「階段は患者を通せる?」


「歩ける健康な人なら、慎重に通れる可能性がある。標準担架は上部の曲がりで水平搬送が難しい可能性が高い」


 ガリックが顔をしかめた。


「俺みたいなのは?」


「今の担架のままは厳しいと思う」


「また肩幅か」


「今回は階段の方が悪い」


「それなら許す」


 アイリが笑いかけたが、すぐに真剣な表情へ戻った。


「じゃあ、出口?」


 ミレナは首を横へ振った。


「出口候補」


「違う?」


「違う」


「どこが?」


「地上へ続く構造が残ってることは確認できた。でも、安全に開けられるか、実際に外へ出られるか、患者を運べるか、出た先が安全か、そのどれもまだ確認してない」


「避難路ではない」


 レンが言った。


「まだね」


 エリリアも静かに頷いた。


「でも、紙の上だけにあった可能性ではなくなりました」


「ええ」


 ミレナはそこでようやく、少しだけ笑った。


「そこまでは言える」


 ◇


 中央回復室へ戻ったあと、ミレナは現地で取った記録を一つずつ清書した。旧水門には目視上の変化なし。壁面人名記録は停止せず通過。北共同貯水槽点検階段の標識を確認。下部階段は健康成人なら慎重に通行可能と思われるが、一部損傷あり。共同貯水槽本体は残存し、現在は乾燥。地上側階段は狭く、担架通行は未確認。旧設備点検蓋と位置、寸法、構造が一致する設備を確認。蝶番軸の一部には周囲より腐食が軽い箇所があり、油脂様の残留物に見えるものもある。蓋下の埃には細い擦過様の乱れがあり、上方から物音と足音様の振動を確認したものの、原因、人物、時期はいずれも不明。


 そして最後に、新しい分類を書き加えた。


『北市場第三保管庫床下点検口――地上側出口候補として構造残存確認。避難適性、安全性、地上側状況は未確認』


「候補から昇格?」


 アイリが紙を覗き込む。


「何に?」


「もっと出口っぽい候補」


「正式な言葉じゃない」


「じゃあ、何が変わったの?」


「昨日までは古い図面にあるだけだった。今日は、本当にそこまで歩いて行けることと、上へ続く蓋が残ってることを確認した」


「なら、大きいね」


「大きい」


 ミレナは素直に認めた。


「でも、まだ逃げられない」


「そこも大事」


「ええ」


 少し離れた治療区画では、ラウル・エステンも報告の一部を聞いていた。右足首は固定されたままで、地下へ同行することなどできない。


「北市場第三保管庫か」


 彼が呟いた。


 ミレナが振り返る。


「知ってる?」


「場所だけなら。市の資材置き場だ。東地区の巡回が市場の外周を通ることはあるけど、あそこ自体が治安局の施設だとは聞いたことがない」


「今も?」


「そこまでは知らない」


「内部に誰がいるかは?」


「知らない」


「治安局が張ってる可能性は?」


「分からない」


 ミレナは頷いた。


「それでいい」


「役に立たない答えばっかりだな」


「役に立ってる。治安局施設だと決めなくて済むから」


 ラウルは少し考えた後、固定された足へ視線を落とした。


「俺が知ってる範囲じゃ、普通の市の保管庫だ」


「その範囲だけ記録する」


「ああ」


 新しい情報は、また別の紙へ分けられた。地下の出口候補、地上の保管庫、市場周辺を通る巡回。それぞれが近い場所に存在していても、今はまだ一つの意味へまとめない。


 ◇


 正門側では、その間にも治安局の配置が続いていた。大盾は残り、破城槌も残り、高所の弓兵も消えてはいない。地下で地上へ続く構造を確認したからといって、白環の置かれた状況そのものが好転したわけではなかった。


 それでも、前日まで存在していなかった選択肢が一つ増えた。白環の地下から東部旧溢水幹線を通り、名前の壁を越え、古い点検階段を上がった先には、閉ざされた共同貯水槽が確かに残っている。そのさらに上には、北市場第三保管庫の床下へ続くと考えられる点検蓋も、石や土で埋められることなく存在していた。


 点検蓋を開けたわけではなく、その向こう側も確認していない。誰がいるのかも分からず、患者を安全に運べる保証もない以上、現時点で避難路と呼ぶことはできなかった。それでも、白環からそこまで実際に歩いて到達し、階段も貯水槽も地上へ続く蓋も残っていることを確かめた今、その道はもはや古い地図の中にしか存在しないものではなかった。


「次は地上側だね」


 アイリが言った。


「そうなる」


 ミレナが答える。


「どうやって見るの?」


「地下から蓋を開けずに分かることは、たぶんここまで。今度は北市場第三保管庫が現在どう使われてるか、誰が出入りするか、周辺に治安局がどれくらいいるかを調べる必要がある」


「外へ人を出す?」


「まだ決めない」


「また紙?」


「まず紙。そのあと必要なら人」


 レンが笑った。


「結局そこに戻るんだな」


「紙は逃げないから」


「地下の名前も?」


 アイリが尋ねた。


 ミレナの視線が一瞬だけ、地下へ続く方角へ向いた。


「逃げない」


 今度は迷わなかった。


「だから、順番に取りに行く」


 机の上には、旧共同貯水槽についての新しい記録が残されている。閉ざされていたはずの場所は壊されておらず、階段も、貯水槽も、地上へ続く蓋も残っていた。だが、その蓋の向こうに安全があるかどうかは、まだ誰も知らない。白環治療院がこの調査で手にしたものは逃げ道そのものではなく、逃げ道になり得る場所が確かに存在しているという、次の判断へ進むための一つの事実だった。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。