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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第二章 王都の闇
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第二章 第四十一話 地下からの反撃

旧共同貯水槽から四人が戻って以降も、白環治療院の正門前に大きな変化はなかった。治安局の大盾は割れた門の外へ並び続け、鉄帯を巻かれた破城槌も、その場へ置かれたまま動いていない。高所へ配置された弓兵も撤収した様子はなく、このしばらく矢が飛んでこなければ門への打撃も再開されていなかったが、白環の者たちはそれを包囲の終わりとは考えなかった。黒銀剣は武器保管庫で四者の封印を受けたまま動かされず、銀縁のロケットもレンの首から離れていない。治療院の内側では患者の治療と防壁の維持が続き、地下についても、これまでと同じく、現地へ踏み込む前に残された記録を可能な限り確かめる方針が守られていた。


 中央回復室の机には、旧共同貯水槽から持ち帰った調査記録と、北市場第三保管庫について確認できる市営施設資料が並べられていた。ミレナが最初に確かめたのは、建物の現在の管理主体だった。北市場第三保管庫は治安局の施設ではなく、市が所有する資材保管庫として登録されている。道路補修用の板材や縄、空樽、冬季用の砂袋、石畳の修繕道具などを収め、北市場周辺の道路や排水設備に工事がある時だけ職員が出入りする施設で、常時誰かが詰めているわけではない。通常は施錠され、必要に応じて市場管理側の職員や市の修繕担当者が使用することになっていた。


「昨日聞こえた音は、市の職員だった可能性がある」


 アイリが言うと、ミレナはすぐには頷かなかった。


「可能性はある。でも、昨日あそこにいたのが市の職員だったとは、まだ言えない」


「建物の使い方とは合ってる?」


「合ってる。だから不自然な音ではなくなった。でも、それだけ」


 ミレナは一枚の出納記録へ指を置いた。北市場第三保管庫から道路補修用の板材と縄が持ち出された記録は数日前にも残っており、さらに今朝の予定欄には、市場北側の石畳修繕に使う資材を確認する予定が記されていた。


「今朝も誰か来る予定だったの?」


「記録上はね」


「何時?」


「細かい時刻まではない。『朝刻』だけ」


「昨日の音が、その準備だった可能性もあるか」


 移動椅子に座ったレンが資料を覗き込みながら言った。


「ある。でも、それなら今も人がいるかもしれない」


「だから、すぐ蓋を開けない」


「そういうこと」


 少し離れた治療区画で話を聞いていたラウル・エステンにも、院長の許可を得たうえで一般的な確認だけが行われた。右足首は変わらず固定され、自力で歩くことは許されていない。


「北市場第三保管庫に、治安局が常駐することは?」


 ミレナが尋ねる。


「俺の知ってる範囲ではない」


「巡回は?」


「市場の外周は通る。特に今みたいな監査中なら、普段より多いだろうな」


「保管庫の中を使う?」


「知らない。少なくとも俺が東地区詰め所にいた間、治安局の常設場所として扱われてたことはない」


「今朝の封鎖で使われている可能性は?」


「分からない」


「それでいい」


 ラウルは苦笑した。


「最近、それを言われると少し安心するようになってきた」


「何も知らなくても怒られないから?」


「知らないのに知ってるふりをするよりはましだろ」


「その通りよ」


 ミレナはラウルの証言を、市の施設記録とは別の紙へ記した。建物の登録用途、市場外周を巡回する治安局員、現在の包囲下における使用状況。その三つは近い話題ではあっても、同じ事実ではない。


「問題は、地下から蓋を開けるかどうかだな」


 ガリックが言った。彼は杖を近くへ置き、左脚を伸ばしたまま座っている。歩けないわけではないが、地下の急な階段へ入れる状態ではなかった。


「その前に、患者を通せるかも考えるべきだ」


 院長が答えた。


「出口が安全でも、重傷者を運べないなら避難路にはならん」


「昨日の階段幅は測った」


 ミレナが測り縄を机へ置く。


「標準担架を水平にしたままだと、上の折れで詰まる可能性が高い」


 ガリックは縄を取り、両手で幅を確かめた。


「担架そのものを短くしたら患者の脚が出る。幅を削るなら、二本の棒と布だけに近い形へ変えた方がいい」


「傾ける前提?」


 アイリが尋ねる。


「患者次第だ。骨や腹の傷なら角度を変えられん奴もいる。だが、腕の傷や軽い衰弱なら、狭い運搬布へ変える手はある」


「ラウルみたいな足首の骨折は?」


「固定した脚を守れるなら可能性はある。ただし、下手に傾ければ悪化する」


 院長が答えた。


「実際の患者で試す段階ではない」


 エリリアは測り縄と地下図面を見比べた。風の魔力は使わず、紙の上に残された寸法と階段の形だけを追っている。


「上部の曲がりで必要なのは、担架全体を水平に回す空間ではなく、前後の持ち手が位置を変えられる余白ですね。固定式の棒ではなく、片側を短くできる構造なら通せる患者が増えるかもしれません」


「折り畳む?」


 アイリが尋ねる。


「完全に折れば患者が危険です。前後の棒を差し替えられるようにして、曲がる場所だけ持ち手の長さを変える方が安全でしょう」


「風を使わなくても、こういうことはできるんだな」


 レンが言うと、エリリアは静かに頷いた。


「今必要なのは魔法ではなく、幅と角度ですから」


 ガリックが薄く笑った。


「なら、俺の仕事も残ってる」


「最初からあります」


「そう言われると妙に嬉しいな」


 院長はそこで話を本題へ戻した。


「運搬方法は別に試す。今は出口候補の地上側をどう確認するかだ」


 ミレナは机に並ぶ記録をもう一度見渡した。


「朝刻の資材確認が終わる頃まで待つ」


「終わったと、どう判断する?」


「地下から音を聞く。それだけじゃ足りないけど、記録どおりなら市場の作業が始まる頃には、保管庫から資材を出すはず。昨日の音が通常作業なら、その後は静かになる可能性がある」


「可能性だけだ」


「だから、一定時間音がなくても無人とは決めない。現地へ行って蓋の下で待つ。人の声や足音がなく、地上側の状況に変化がないと判断できた場合だけ、蓋の金具を動かせるか確認する」


「開けるのか?」


 レンが尋ねた。


「完全には開けない。最初はごく僅か。光、空気、音だけを確認する。危険がないと判断できた場合に限って、次に内部を見る」


「外へは?」


「出ない」


「保管庫の中には?」


 ミレナは一瞬考え、それから答えた。


「蓋を開けた時点で人影が確認できず、院長が許可するなら、一人だけ床へ上がって即時周辺を確認する。外扉には触れない。窓も開けない。建物からは出ない」


「誰が上がる」


「私じゃない」


 アイリが少し驚いた顔をした。


「ミレナが行かないの?」


「私は記録と時間を見る。蓋を開けたら、何でも自分で見に行けばいいってものじゃない」


 ガリックが低く笑った。


「本当に成長したな」


「昨日からそれを言われすぎてる」


 ◇


 二度目の確認は、最初の調査から十分に時間を空けて行われた。正門側ではその間も大盾と破城槌、高所の弓兵が残っていたが、新たな攻撃はない。地下水位にも大きな変化はなく、旧水門も前回の状態を保っていた。


 再び地下へ入ったのは、ミレナ、年配の修繕職員、白環の護衛二人だった。入口には前回と同じように人員を残し、縄の合図も変えない。今回の目的は旧共同貯水槽を改めて調べることではなく、北市場第三保管庫の床下点検蓋について、許可された範囲で地上側の状況を確認することにある。


「名前の壁は?」


 地下へ入る直前、アイリが確認した。


「通るだけ」


「昨日見えた名前は?」


「今日は最初から近づかない」


「それはちょっと違う気もするけど」


「止まらないなら同じよ」


 四人は石扉の向こうへ消えた。


 旧水門を越え、北側点検路へ入り、整然と名前の並ぶ壁を通る。ミレナは今回は最初から壁へ近い側を歩かず、油灯も足元と進行方向だけを照らすようにした。昨日までなら、それは何かを見落とす行為のように感じたかもしれない。だが今は、見ないことも、次に同じ場所へ戻るための選択になっていた。


 北共同貯水槽点検階段へ入り、損傷した段を避けながら上る。旧共同貯水槽そのものにも目立った変化はない。乾いた底、古い水跡、塞がれた流入口を必要な範囲だけ確認し、四人は留まらず北西側の狭い階段へ進んだ。


 点検蓋の下へ着くと、全員が動きを止めた。


 上から目立った音は聞こえない。


 ミレナは壁際へ腰を下ろし、砂時計を置いた。


「ここで待つ」


「どれくらい?」


「長くは使わない。決めた時間まで何もなければ、次の確認へ進む」


 誰も蓋へ触れなかった。


 最初のうち、上からは何も聞こえない。遠くで車輪らしい音が一度だけ伝わったが、建物の中なのか市場の通りなのかは判断できなかった。さらに待つと、人の声に似たものがかすかに聞こえたものの、言葉までは判別できず、やがて遠ざかっていく。


 砂時計の砂が少しずつ落ちる。その間、誰も結論を急がなかった。


 やがて決めた時間が過ぎる。


「声なし。足音なし。直上での作業音なし」


 ミレナが記録した。


「無人?」


 護衛が尋ねる。


「そこまでは書かない」


「分かってた」


 修繕職員が蓋の下へ移った。


「まず閉鎖金具だけだな」


「音が大きく出そうなら止めて」


「分かってる」


 錆びた横棒へ布を巻き、ゆっくり力を加える。最初は動かなかったが、少し角度を変えると、鉄の擦れる小さな音が地下へ響いた。


 全員がその場で止まった。


 上から反応はない。


 もう一度だけ力を加える。


 今度は、ごく僅かに横棒が動いた。


「まだ動く」


 修繕職員が息を吐いた。


 ミレナの木炭筆が紙を走る。


『下部閉鎖金具、強い腐食あり。ただし手動で僅かな可動を確認』


「次へ進む」


 横棒を完全には外さず、蓋が僅かに浮く位置まで緩める。護衛二人が左右を警戒する中、修繕職員が指先だけで板を持ち上げた。


 細い光が地下へ落ちた。


 誰も声を上げない。


 乾いた木と砂埃の匂いが、地下の冷えた空気へ混じる。上から人の声は聞こえず、足音もなかった。ごく僅かな隙間から見えるのは暗い床と、その向こうに積まれた板材の端だけだった。


「中だけなら少し見える」


 修繕職員が囁く。


「上げすぎないで」


 僅かに隙間を広げる。


 床には細かな砂と木屑が散り、近くに巻かれた縄と古い麻袋が積まれている。治安局の装備と判断できるものも、人影も、現在見える範囲にはなかった。


「入るなら一人」


 ミレナが言った。


「俺が行く」


 護衛の一人が前へ出た。


「武器は?」


「剣は持つ。でも抜かない」


「外扉へ行かない。窓を開けない。確認は蓋の周辺だけ。人がいたら戦わず戻る」


「分かった」


「長居もしない」


「ああ」


 蓋を人一人が通れるだけの幅まで、できる限り音を抑えて持ち上げる。護衛は最初に頭だけを出し、左右と背後を確認してから、ゆっくりと床へ上がった。


 しばらく、その場で動かない。


 下に残った三人は、彼の靴の位置を見ながら待った。


「人はいない」


 小さな声が落ちてくる。


「見える範囲は?」


「資材棚。板。縄。樽。砂袋。正面側に大きな扉。右に小さい窓。どっちも閉じてる」


「治安局の装備?」


「見当たらない」


「最近使った跡は?」


 護衛が僅かに位置を変える。


「板が何枚か減ってる。床に新しい擦れがある」


「昨日の音と結びつけないで」


「分かってる」


「点検蓋の上側は?」


 護衛がその場でしゃがみ込む。


「蝶番に油がある」


「状態は?」


「完全には乾いてないように見える」


「近くに何かある?」


「壁際に小さい油壺。それから札がある」


「読める?」


「『床下点検蓋 金具確認済』」


「日付は?」


「今月初め」


 地下でミレナの筆が止まった。


「誰の名前?」


「市修繕班。個人名はない」


「それだけでいい」


 昨日見つけた腐食の軽い蝶番と油脂様の残留物に、初めて日常的な説明が一つ加わった。秘密の使用を示す証拠ではなく、少なくとも市の修繕班が今月初めに点検したという札と、実際に残る油の状態は矛盾していない。


「昨日の油は、通常整備で説明できる可能性が高くなった」


 ミレナが呟く。


「決まった?」


 修繕職員が尋ねる。


「まだ。でも、普通の整備だったという説明は前より強くなった」


 護衛は決められた範囲を越えず、蓋の近くへ戻ろうとしたところで足を止めた。


「窓の方から、外が少し見える」


「窓へ近づいた?」


「近づいてない。棚の隙間から見える」


「どこまで?」


「北市場の通りの一部」


 ミレナは僅かに考えた。


「今いる位置から見える範囲だけ確認して。窓へは寄らない」


「分かった」


 護衛が身体を低くし、棚の隙間越しに外を見る。


「治安局がいる」


 地下に残る三人の表情が変わった。


「何人?」


「今見えるのは四人。二人ずつで歩いてる」


「止まってる?」


「いや。通り過ぎた」


「方向は?」


「東から西」


「その場で待てる?」


「まだ時間はある」


 ミレナは砂時計を確認した。


「一度だけ。戻ってくるかを見る。それ以上は待たない」


 護衛は動かず、棚の陰に留まった。


 決めた時間が尽きる少し前、再び小さな声が降りてくる。


「戻ってきた」


「同じ四人?」


「遠くて顔までは分からない。人数は四。今度は西から東」


「同じ者たちの巡回かもしれない」


「かもしれない」


「常時その場所に立っている治安局員は?」


「今見える範囲にはいない」


「それで十分。戻って」


 護衛はすぐに蓋へ戻り、地下へ降りた。


 点検蓋を閉じ、横棒も元の位置へ戻す。修繕職員が閉鎖状態を確認し、床下へ道具や布片を残していないことも四人で確かめた。


「外へ出られそうだった」


 護衛が言う。


「出なかった」


「出た方がもっと見えた」


「でも、それで見つかったら帰り道まで失う」


「分かってる」


 ミレナは砂時計を止めた。


「今日はこれでいい」


「反撃って感じはしないな」


 もう一人の護衛が言った。


「反撃?」


「囲まれてるのに、向こうの外側を見た」


 ミレナは少しだけ考え、口元を緩めた。


「……それなら、少しはそうかもね」


 ◇


 四人は予定より早く白環へ戻った。旧水門にも名前の壁にも寄り道せず、地下薬草庫の石扉を越えると、入口で待っていた者たちは何より先に人数を確かめた。


「四人」


 アイリが一人ずつ見る。


「全員いる」


「いるわよ」


 ミレナは革袋を机へ置いた。


 中央回復室では、院長、レン、アイリ、エリリア、ガリック、東門副長が揃って報告を聞いた。ラウルには、治療上問題のない範囲で、後から必要な部分だけを共有することになった。


「蓋は開いた」


 ミレナが最初に言った。


 アイリの目が大きくなる。


「地上へ出た?」


「出てない。保管庫の中まで一人だけ上がった」


「誰かいた?」


「確認した範囲では人影なし」


「治安局は?」


「室内には見当たらなかった」


「外は?」


「棚の隙間から北市場の通りを限定的に確認した。治安局員と思われる四人が移動しているのを二度見た。最初は東から西、次は西から東」


「同じ人?」


「未確認」


「巡回?」


「その可能性はある。でも二回しか見てないから、巡回だと確定はしない」


 ガリックが笑った。


「ずいぶん徹底してきたな」


「何が?」


「可能性を可能性のまま持ち帰ることだ」


「最初からそうしてるわよ」


「そういうことにしておく」


 ミレナは次に、市の修繕記録について説明した。


「点検蓋の地上側には油壺と、『床下点検蓋 金具確認済』の札があった。市修繕班名義で、日付は今月初め。昨日見つけた腐食の軽い蝶番と油脂らしい残留物は、通常整備で説明できる可能性が高くなった」


「秘密に使われていた証拠ではない」


 レンが言った。


「少なくとも、あの油については秘密の使用を想定しなくても説明できるようになった」


「昨日の擦れ跡は?」


「原因不明のまま」


「上の音は?」


「市の資材作業だった可能性はある。でも、それも確認できてない」


 エリリアが静かに頷いた。


「分からなかったものを、無理に秘密へ変えずに済みましたね」


「秘密の方が面白いんだけど」


 アイリが言う。


「物語ならね」


 ミレナが返した。


「現実で地下全部が秘密だったら、調べる方が困るわよ」


 院長は冗談へ付き合うことなく、本題へ戻した。


「出口としては?」


「昨日より一段進んだ」


 ミレナは新しい紙を机へ置いた。


『北市場第三保管庫床下点検口――内部から限定開放を実施。保管庫内部、確認範囲で人影なし。地上側扉及び窓は未開放。建物外へは出ていない』


 その下へ、もう一つの記録を続ける。


『北市場通り――限定観測中、治安局員と思われる四名の移動を二度確認。同一人物か未確認。常時封鎖か巡回警戒かも未確定。継続観測必要』


「なら、まだ避難はできない」


 アイリが言った。


「ええ」


「でも、外を見ることはできる」


「条件が合えばね」


「それって大きいよね」


「大きい」


 今度のミレナは、ためらわず認めた。


 白環は正門から自由に外へ出られず、窓の外には弓兵がいて、周囲には治安局の盾兵がいる。相手は白環の出入りを監視し、院内で必要な患者移動についてさえ、監査対象に関連する所在変更として扱う余地を残していた。


 しかし、北市場第三保管庫の床下まで続く旧水路は、少なくとも白環の正門や窓からは見えなかった場所へ、こちらの視界を伸ばせる可能性を持っている。


「囲まれていても、外側の動きを見られる」


 レンが言った。


「まだ一か所だけです」


 エリリアが答える。


「一か所でも、昨日まではなかった」


 ガリックは机へ身を寄せた。


「市場側の動きが分かれば、いずれ物資を入れる道として使える可能性もある」


「待って」


 ミレナが止める。


「まだ二回見ただけ」


「分かってる。可能性だ」


「ならいい」


「面倒な鴉だな」


「正確な鴉よ」


 ◇


 午後へ近づく頃、白環ではもう一つの確認が始まった。すぐに患者を地下へ移すためではなく、本当に避難が必要になった時、どの状態の患者ならあの階段を通すことができ、誰には別の方法が必要になるのかを知るためだった。


 ガリックの指示で、古い寝台布と二本の細い木棒を使った簡易運搬具が作られた。通常の担架より幅を狭くし、前後の棒を完全に固定せず、折れ曲がりの位置で片側だけ短い棒へ差し替えられる構造にする。実際の患者は乗せず、砂袋を人の体重に近い重さまで積み、院内の廊下へ縄で再現した地下階段の幅を使って向きを変えられるか確かめた。


「前を上げすぎるな」


 ガリックが椅子から指示する。


「患者の腹に負担が掛かる」


「こう?」


 護衛二人が砂袋を載せた運搬布を傾ける。


「それだと後ろが壁に当たる。前の棒を先に外せ」


「外したら支えが減る」


「反対側を短い棒に替えてから支えるんだ。先に荷重を移せ」


 エリリアが測り縄を見ながら加えた。


「曲がる前に、前後の持ち手の高さを無理に揃えない方がいいと思います。階段そのものに上下差がありますから、後ろ側を一段低く保てば、布面の傾きを少なくできます」


「なるほど」


 ガリックが頷いた。


「風より便利じゃないか」


「それは言いすぎです」


「でも使わずに済む」


「それなら同意します」


 レンとアイリは実際の運搬作業には加わらず、寸法と手順の記録を手伝った。レンの右腕は戦闘用の負荷を掛けられる状態ではなく、アイリの手や右肩も無理をさせる段階ではない。二人とも、その事実を隠そうとはしなかった。


「軽傷者なら、自分で歩いてもらえる人もいる」


 アイリが患者一覧を見ながら言った。


「歩けない人だけ、この運搬具?」


「それも全員ではない」


 院長が答える。


「身体を大きく傾けてはいけない患者には使えん。状態が変われば判断も変わる。地下へ移すことを優先して治療を壊したら意味がない」


「ラウルは?」


 レンが尋ねる。


「足首の固定を維持できれば候補にはなる。ただし、狭い階段で脚を壁へぶつけない工夫が必要だ」


「ガリックは?」


「俺は歩く」


 ガリックが即答した。


 院長が彼を見る。


「お前が決めるな」


「……はい」


 アイリが笑いを堪える。


「怒られた」


「聞こえてるぞ」


「ごめん」


 短い笑いが中央回復室へ広がった。外ではまだ治安局が白環を囲み、大盾も破城槌も高所の弓兵も残っている。包囲そのものは何一つ解決していなかったが、治療院の内側で行われていることは、ただ耐え続けるための準備だけではなくなり始めていた。


 ◇


 その日の記録へ、ミレナは新しい束を作った。


『北市場第三保管庫 地上側限定確認』


 その中には、保管庫の管理用途、市修繕班による点検札、室内で確認した資材、点検蓋の可動状況、建物外へ出ていない事実、北市場通りで治安局員と思われる四人の移動を二度確認したこと、そして観測が二回に過ぎず、巡回と断定できないことまで、それぞれ分けて記されている。


 最後に、ミレナは余白へ一行だけ書き加えた。


『現時点では避難路ではない。ただし、包囲外側の状況を限定的に確認できる観測経路となる可能性あり』


「観測経路」


 レンが読み上げた。


「出口じゃなく?」


「出口候補でもある。でも、今すぐ一番使えるのは外を見ること」


「治安局は、俺たちが外を見られないと思ってるかな」


「分からない」


「またそれか」


「でも、少なくとも正門と窓だけを見張れば十分だと思ってるなら、その前提は崩せる」


 ガリックが低く笑った。


「それなら反撃だ」


「剣も振ってないのに?」


 アイリが尋ねる。


「反撃ってのは、殴り返すことだけじゃない」


 ガリックは正門の方角へ目を向けた。


「相手に決められたやり方で動くのをやめることも、反撃だ」


 エリリアも静かに頷いた。


「白環は、外から見られるだけの場所ではなくなりました。こちらからも外を見ることができる」


 レンは机に広げられた二枚の地図へ目を落とした。一枚には白環治療院と、その周囲で確認された治安局の配置。もう一枚には地下の旧水路と、北市場第三保管庫まで続く細い経路が記されている。正門を壊したわけでも、弓兵を倒したわけでも、包囲そのものを解いたわけでもない。それでも、治安局が治療院の視界を正門と窓の内側へ閉じ込めたつもりでいるなら、その前提の外側へ伸びる道を、白環は地下で一つ見つけていた。そこから確認できたのは、まだ市場の一角と、通りを行き来する数人の影に過ぎない。


 それでも、昨日までとは違う。


 白環治療院は初めて、包囲の内側で耐えるだけではなく、自分たちの手でその外側を確かめ始めていた。誰かを傷つけるための剣も、敵を押し返すための魔法も使わず、奪われかけていた視界を地下から取り戻す。


 その静かな一歩が、白環にとって最初の反撃になった。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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