第二章 第三十九話 監査の仮面
夜明けにはまだ少し早く、王都の空は夜の色を残していた。白環治療院の正門前には治安局の大盾が並び、鉄帯を巻かれた破城槌も、高所へ配置された弓兵も撤収していない。割られた門の向こうに立つ人影は時折位置を変えているものの、このしばらくは新たな射撃も門への打撃も確認されず、治療院側もその静けさを撤退とは判断していなかった。玄関広間の二枚の防壁は引き続き使用でき、護衛たちは正門や窓への警戒を交代しながら維持し、その間に治療師たちが僅かでも身体を休められる時間を作っている。地下薬草庫の奥にある石扉も警備されたままで、扉の内側を流れる水位は、前夜に白墨で記された線の近くからほとんど変わっていなかった。
黒銀剣は武器保管庫で四者の封印を受けたまま動かされておらず、銀縁のロケットもレンの首から離れていない。地下の名簿について調べているからといって、正門側で争われている問題が消えたわけではなかった。白環の中には、患者の治療、治安局への対応、保全対象となった二つの品、地下水路、壁に刻まれた名前と、いくつもの問題が同時に存在している。だからこそ、一つの答えを追うために別の事実を見失わないことが必要だった。
中央回復室では、ミレナが前夜に続いて机いっぱいの記録と向き合っていた。今度の目的は、東部旧溢水幹線の点検口候補として前夜に絞り込んだ、旧共同貯水槽について確かめることだった。旧対外使節区の北端に造られ、かつて周辺施設へ水を送るために使われていた設備。その地上部分はすでに失われ、現在は別の建物が建っているものの、古い記録には人が出入りするための階段が存在したことだけが残されている。
「これが閉鎖記録だ」
東門副長が一枚の写しを机へ置いた。紙の上部には、『旧共同貯水槽 運用停止及び地上側出入口恒久閉鎖』と記されている。
「恒久閉鎖」
アイリが文字を読み、僅かに眉を寄せた。
「じゃあ、もう出られない?」
「そう決めるのは早い」
ミレナは紙を手元へ引き寄せ、記述を最初から確かめ直した。
「『出入口を埋設した』とは書かれてない」
「閉鎖と埋めるのは違う?」
「違うわ。鍵を掛けて使わせないのも閉鎖だし、板を打ちつけるのも閉鎖。石や土で完全に潰しても閉鎖と書ける。実際に何をしたのかが、この紙だけでは分からない」
年配の修繕職員も記録を覗き込みながら頷いた。
「施設関係じゃ、その言葉はかなり幅がある。『恒久』まで付いていても、今後は通常運用へ戻さないという意味で使うことがあるからな。構造そのものを壊したかどうかは、工事の方を見なきゃ判断できん」
「なら、閉じられてはいるけど、階段そのものは残ってる可能性もある」
移動椅子に座ったレンが言う。
「ええ」
ミレナは閉鎖記録とは別に、一枚の施設点検表を机へ置いた。
「それで、こっち」
記録の日付は閉鎖後だった。
『旧給水設備北側 地下階段及び踊場、異常なし』
アイリが二枚の紙を交互に見る。
「閉じた後なのに、地下階段を点検してる」
「そう」
「どうやって?」
「それを知りたいの」
ミレナは二枚を混ぜずに並べた。
「地上側の出入口だけを閉じて、別の管理口から入れたのかもしれない。地下水路側から点検した可能性もあるし、『恒久閉鎖』が私たちの想像とは違う状態を指している可能性もある」
「どっちかの記録が間違ってる可能性は?」
「もちろんある」
「じゃあ矛盾?」
「まだ矛盾とは書かない」
アイリは予想していたように笑った。
「言うと思った」
「慣れてきたわね」
「誰かさんが毎回言うから」
さらに記録を遡ると、旧共同貯水槽の地上部分が撤去された後、その場所には市営の保管庫が建設されていたことが分かった。現在の記録上の名称は『北市場第三保管庫』。食料や薬品を扱う施設ではなく、道路補修用の縄、板材、空の樽、冬季に使う砂袋などを一時保管するための建物で、日常的に多数の人間が出入りする場所でもない。
「北市場」
レンが現在の街路図へ視線を移した。
「白環からは?」
「北西だ」
東門副長が位置を指した。
「直線ならそれほど遠くない。ただし、治安局の配置が正門周辺だけとは限らない。仮にそこから地上へ出られても、安全な出口かどうかは別だ」
「出口として使えることと、安全に使えることは別ですね」
エリリアが言った。
「まず前者を確認して、それから後者を判断するべきでしょう」
「そういうこと」
ミレナは北市場第三保管庫に関する図面へ手を伸ばした。建築図そのものには地下室が描かれていない。しかし床面の補修記録を順番に確かめていくうち、一か所だけ目を引く記述があった。
『北側床下点検蓋周辺、沈下なし。金具腐食軽微。通常使用なし』
ミレナの指が止まる。
「これ」
「点検蓋?」
アイリも紙を覗き込んだ。
「保管庫の床に?」
「そう読める」
「旧貯水槽へ降りるための?」
「そこまでは、まだ分からない」
「でも可能性は上がった?」
「上がった」
今度はミレナも迷わなかった。
「閉鎖後にも地下階段の点検記録がある。現在の保管庫には、通常使用されていない床下点検蓋がある。そして旧貯水槽の地上位置とも近い。階段そのものが今も残っている可能性は、前より高くなった」
「地上へ出られるかもしれない」
レンが言った。
「かもしれない」
「そこは言い直さないんだな」
「今の使い方は合ってるから」
アイリが小さく笑った。
◇
旧共同貯水槽について調べているうちに、ミレナは別の箇所で手を止めた。
閉鎖後に作られた施設点検表の末尾にある、立会欄だった。
通常なら、設備を確認した職員の名前、所属、立会人、日付が並ぶ。ところが、旧共同貯水槽について残されていた数枚の記録では、実際に作業した修繕職員の名前は書かれているのに、その隣にある立会欄には個人名がなかった。
『東地区施設監査立会』
それだけが記され、その横に印が一つ押されている。
「これ、何?」
アイリが尋ねた。
「立会人のところに、部署みたいな名前しかない」
「珍しい形式?」
「同じ時代の記録を比べないと分からない」
ミレナはそこで推測せず、周辺施設の点検簿を集め始めた。橋梁点検、排水塔補修、市場倉庫の梁交換、道路地下の空洞確認。似た時期の記録を並べると、個人名まで記されたものもあれば、所属部署や機関の印だけで立会を処理したものもある。
「普通にも使われてたんだ」
アイリが言った。
「そうみたい」
「じゃあ、手掛かりじゃない?」
「それも早い」
ミレナは印の形だけを別紙へ写した。
「重要なのは、これが怪しい形式かどうかじゃない。この形式なら、後から紙だけを読んでも、その場にいた個人の名前まで辿れない場合があるってこと」
レンは机の端にまとめられた、現在の治安局文書へ視線を移した。
「今の文書も?」
ミレナもそちらを見る。
白環がこれまで受け取った通達と回答、そのすべての写しが残されている。『東地区監査担当』という表記。『監査対象に関連する人物または物品の所在変更が継続して確認されているため』という回答。『監査対象物の無断移動を疑わせる行為』という説明。そして、破城槌が正門へ向けられた時、外から告げられた『監査執行を妨げる障害を除去する』という言葉。
監査。
制止措置。
所在変更。
障害除去。
制度や行為を示す言葉は残っている。
しかし、最初に矢を使うと決めた者の名前は分からない。火矢が使われた経緯も、誰の判断によるものだったのか確認できず、破城槌を正門へ向ける決定がどこから始まったのかも現時点では特定されていない。ラウルが白環へ救助された後に届いた帰還要求も、治安局としての要求であって、その場で誰が決定を下したのかまでは書かれていなかった。
「……似てる」
レンが言った。
ミレナは彼を見る。
「何が?」
「人の名前より、やったことの名前だけが残るところ」
室内が僅かに静まった。
「監査。制止措置。障害除去。所在変更。何をしたか、何を理由にしたかは書いてある。でも、誰が決めたのかは見えない」
「それ自体が不正だとは限りません」
エリリアが静かに答える。
「組織が組織名で文書を発行することは、制度として普通に行われているのかもしれません」
「うん」
レンは頷いた。
「でも、普通の仕組みだからこそ、そこにいる人間が見えなくなることもある」
ミレナは現在の文書と古い施設記録を、少し距離を空けて並べた。
「同じ仕組みだとは言わない。でも、個人名が書かれていなくても命令や確認は成立する。その点だけは同じね」
「誰も名前を書かなかったら、責任者がいなくなる?」
アイリが尋ねる。
「いなくなるわけじゃない」
ミレナは即座に答えた。
「紙から見えなくなるだけよ」
◇
ラウル・エステンは、中央回復室から少し離れた治療区画にいた。骨折した右足首は固定されたままで、体重を掛けることは許されていない。救出された時に持っていた盾と剣は正門の外へ残されており、彼のそばには白環の護衛が一人ついている。それでも拘束具は使われず、院長が治療上問題ないと判断した範囲で身体を起こすことは許されていた。
「一つだけ確認したい」
ミレナは彼のそばへ椅子を寄せた。
「地下の場所についてじゃない。治安局の文書や命令の出し方について」
「俺で分かることなら」
ラウルは答えた。疲労は残っているものの、意識ははっきりしている。
「現場へ出る時、命令書には誰の名前が書かれてる?」
「場合による」
「部署名だけのこともある?」
「ある」
「珍しい?」
「珍しくはない」
ミレナはそこで一度筆を止めた。
「誰が最初に命令を決めたのか知らないまま、現場で動くこともある?」
「ある」
「今回も?」
ラウルの表情が僅かに硬くなった。
「俺が朝に詰め所で聞いたのは、白環が証拠保全監査を妨げる可能性があることと、内部で監査対象に関連する人物か物品の所在変更が続いているという話だ。それで、現場指揮に従えと言われた。そこから先は現地で指示を受けた」
「誰から?」
「俺が直接聞いた相手の名前なら分かる。でも、その人が最初に決めたとは限らない」
「だから、その人の名前を出さない?」
「そういう意味じゃない」
ラウルは少し考えてから続けた。
「俺が知ってる人の名前だけを言えば、その人が全部決めたみたいに聞こえるだろ」
ミレナの灰色の瞳が僅かに細くなった。
「……そうね」
「俺は、最初に誰が矢を射てと言ったのか知らない。火矢も知らない。破城槌を使えと決めた奴も知らない。自分の近くにいた人間から受けた指示しか分からない」
「その人も?」
「さらに上から聞いたのかもしれない」
「その上は?」
「知らない」
「ロウか?」
少し離れた場所から、ガリックの声が落ちた。
ラウルは彼を見る。
「分からない。あの朝、遠くに似た人を見た気はする。それだけだ」
ガリックは目を逸らさなかった。
「分かってる」
「本当に?」
今度はミレナが尋ねる。
「ああ」
ガリックは杖を膝の横へ立てたまま答えた。
「六年前なら、少なくとも俺の前にはロウがいた。あいつが命令して、あいつが俺を後ろから打った。だから俺には、怒る相手の顔と名前があった」
左脚へ余計な力を掛けないよう座り直しながら、ガリックは現在の治安局文書へ視線を向けた。
「今は違う。矢が飛んできても、火が飛んできても、破城槌で門を壊されても、紙の上に出てくるのは『監査』だの『制止措置』だのって言葉ばかりだ」
「だから全部ロウの命令だと思う?」
ミレナが尋ねた。
「思いたくはなる」
「でも?」
「そう書ける証拠はない」
「なら、それでいい」
ガリックは僅かに口元を歪めた。
「最近、お前に褒められる基準が妙に低くないか?」
「昔が低すぎたのよ」
「ひどいな」
ラウルが二人を見比べ、ほんの僅かに笑った。その後で、自分の固定された右足首へ視線を落とす。
「俺も、門の向こうにいた時は白環を一つの対象として見てた」
誰もすぐには口を挟まなかった。
「病人がいることは聞いてた。でも、『監査を妨害している施設』って言われると、最初にそっちが頭へ入る。盾を持って前へ出た時も、中にいる一人一人の顔なんて見えてなかった」
「今は?」
アイリが尋ねた。
「見える」
ラウルは答えた。
「見えるから、余計に分からなくなった」
「何が?」
「外にいる奴らが、どこまで知ってるのか」
その言葉に、エリリアが目を上げた。
「あなたと同じ程度しか知らない人もいるかもしれない?」
「いると思う。でも、全員がそうだとは言えない」
「それで十分です」
「十分なのか?」
「知らないことを、知らないと言えるなら」
ラウルは小さく息を吐いた。
「白環に来てから、そればっかりだな」
「大事なことなので」
「耳が痛い」
◇
中央回復室へ戻ったミレナは、現在の治安局文書を時系列に沿って机へ並べ直した。最初の保全命令、剣とロケットに関する手続き、内部移動についての照会、白環から送った質問と、それに対して返された回答、火矢について具体的な返答がない箇所、正門へ破城槌が向けられた後に法的根拠と責任者名を求めた記録、そしてラウルの返還を求めた文書。その隣へ、旧共同貯水槽の閉鎖後点検記録を置く。
「古い方と今の方を繋げるの?」
アイリが尋ねる。
「繋げない」
「じゃあ、なんで隣に置くの?」
「形式を比べるため」
ミレナは二つの紙の空白へ指を置いた。
「古い記録では、施設監査の立会欄に個人名がないものがある。でも、それは当時として普通の書式だった可能性が高い。今の治安局文書も部署名で出されている。それも組織の文書なら普通なのかもしれない」
「普通が二つ」
「ええ」
「でも、困る?」
「責任を辿ろうとした時にはね」
レンが机へ視線を落とした。
「顔が見えない」
「そう」
「命令はあるのに」
「そう」
「仮面みたいだな」
その言葉に、ミレナが顔を上げた。
「仮面?」
「誰かは後ろにいる。でも、外から見えるのはいつも同じ顔だけ。治安局とか、監査とか、そういう名前の」
アイリも少し考えた。
「盾の向こうに誰がいるのか分からなかったのと似てる?」
「少しな」
ガリックが答える。
「盾なら近づけば、中にいるのがラウルみたいな人間だって分かる」
「文書の仮面は?」
「紙を一枚ずつ遡るしかない」
ミレナが答えた。
「それでも部署名しか出てこなかったら?」
「名前が確認できないこと自体を記録する」
レンは僅かに笑う。
「やっぱりそこに戻るんだな」
「当然でしょう」
ミレナは新しい紙を一枚取り出し、上部へ『白環治療院周辺監査 責任主体確認表』と記した。その下には、推測を挟まず、現在までに確認できた内容だけを書いていく。保全命令の発行部署は王都治安局証拠保全部と確認済み。現在の監査に関する文書は東地区監査担当から到達。内部移動に関する制止措置の適用は、現場担当者が個別状況に応じて判断するとの回答。矢による制止措置については制度上の説明があるものの、最初の発射命令者は未確認。火矢については具体的回答なし。破城槌による門への打撃は、現場で「監査執行を妨げる障害を除去する」と告げられたものの、責任者名は未確認。ラウルの返還要求は治安局名義であり、個人の決定者は確認できていない。
最後まで書き終えたミレナは、紙をしばらく見つめた。
「空いてるところが多いね」
アイリが言った。
「ええ」
「誰が決めたのか分からないことが多い」
「誰が直接動いたのか分かる部分と、その行動を誰が決定したのか分からない部分がある」
「現場の人に全部聞けば?」
「ラウルみたいに、本人も自分より上を知らない可能性があります」
エリリアが答えた。
「命令が何段階も伝達されるなら、一番下の人だけに聞いても始まりには届かないでしょう」
「だから、監査の仮面」
レンが呟いた。
「誰か一人が仮面の後ろに隠れてるってことじゃなくて、監査って言葉そのものが、人の顔を見えにくくしてる」
「そうね」
ミレナは頷いた。
「でも、それを正式な記録へ書く時は比喩にしない」
「分かってる」
「あなた、私が何でもそのまま記録すると思ってない?」
「するじゃないか」
「正確なことだけよ」
◇
旧共同貯水槽について最後に確認できたのは、北市場第三保管庫の床面図だった。現在の保管庫は長方形の小さな建物で、正面に大きな搬入口、裏側に職員用の扉が一つある。内部には三列の棚と、床へ直接資材を積むための区画があり、その北西隅、棚の下へ隠れるような位置に小さな四角が描かれていた。
『旧設備点検蓋』
「ある」
アイリが言った。
「少なくとも図面上ではね」
ミレナは同じ位置を旧共同貯水槽の図面と比べた。
「旧階段の真上にかなり近い」
修繕職員も縮尺を確認する。
「誤差を考えても、ほぼそこだろうな」
「今も開く?」
「図面じゃ分からん」
「最後の点検記録は?」
「金具腐食軽微。通常使用なし」
「その後に埋めた記録は?」
「今ある束には見当たらん」
ミレナはしばらく二つの図面を見比べた後、院長へ顔を向けた。
「現地確認を提案する」
「地下からか?」
「ええ。白環から旧水門を越えて、東部旧溢水幹線の点検路を共同貯水槽側へ進む。目的は階段と点検蓋が残っているかを確かめることだけ。地上へは出ない」
「なぜ?」
レンが尋ねた。
「蓋の向こうに誰がいるか分からないから。出口が存在することを確認するのと、そこから外へ出ることは別よ」
「隙間から中を見るくらいは?」
「安全に確認できる構造なら、点検蓋の内側だけ。ただし、外へ顔を出すために持ち上げることはしない」
「誰が行く?」
「前回と同じ。私、修繕職員、護衛二人」
「名前の壁は?」
「通過するだけ」
「止まりたくならない?」
「なる」
「止まれる?」
「止まる」
院長はすぐには許可を出さず、地下水路の記録と正門側から届いた最新の状況報告を順番に確認した。
「水位は?」
「安定してる」
「旧水門は?」
「触らない」
「新しい分岐を見つけたら?」
「共同貯水槽へ向かうことを記録上確認できる範囲以外には入らない」
「時間は?」
「往復を含めて半鐘より短く設定する」
「地上の攻撃が再開したら?」
「入口側から縄を二度引いて即時帰還」
「負傷者は連れていかない」
「もちろん」
院長は最後にミレナを見る。
「出口を見つけても、その場で避難開始とはしない」
「分かってる」
「本当に?」
ミレナが眉を寄せる。
「今日は全員それを言うの?」
「大事だからだ」
「……分かった。確認するのは出口候補まで。それ以上はしない」
「なら許可する」
◇
調査の準備が進められる一方で、正門側の状況に大きな変化はなかった。盾兵も破城槌も高所の弓兵も残っている。ただ、攻撃だけが止まっていた。白環の者たちは、その沈黙に勝手な意味を与えなかった。
ラウルも、自分なら外にいる治安局員を説得できるとは言わなかった。ガリックも、現在起きているすべてをロウの命令だとは言わない。ミレナも、旧共同貯水槽の監査記録と現在の治安局監査が、一つの意図によって繋がっているとは記録しなかった。分からないものは分からないまま残しながら、それでも、どこが空白なのかだけは見落とさない。
中央回復室の机には、先ほど作られた責任主体確認表が残っている。部署名の横には確認できた事項もあれば、個人名を書けない欄もあった。矢による制止措置が実施されたこと、火矢が実際に使われたこと、破城槌によって正門が打たれたことは、それぞれ事実として記録できる。だが、矢を放つ判断がどこから始まったのか、火矢がどのような判断で使用されたのか、破城槌による門への打撃が誰の決定によって実行へ移されたのか、その経路はまだ分からない。そして、その命令の一部だけを受け取って動いたラウルのような者もいる。
「不思議だね」
アイリが表を見つめながら言った。
「人の名前を探してるのに、地上でも名前がない」
「地下とは逆だな」
レンが答える。
「地下は、名前は残ってるのに何の記録なのか分からない。こっちは、何が起きたかは残ってるのに、それを決めた人の名前が分からない」
ミレナの手が止まった。
「……本当ね」
「同じ謎?」
アイリが尋ねる。
「違う」
ミレナは迷わず答えた。
「似て見えても、別の問題よ。ただ、どっちも名前を探さなきゃいけないってだけ」
ガリックが低く笑った。
「鴉には向いてる仕事だな」
「最悪の褒め言葉ね」
「褒めたつもりだ」
「なら受け取っておく」
レンはもう一度、責任主体確認表へ目を落とした。
「仮面を外すには、名前が要るのか」
「名前だけじゃ足りない」
ミレナが答える。
「その人が、本当にその判断をしたって証拠まで要る」
「面倒だな」
「面倒だから、簡単に悪人を決めちゃ駄目なのよ」
「分かってる」
白環治療院を囲む盾の向こうには、一人一人の人間がいる。その者たちへ命令を伝えた人間も、そのさらに上で判断を下した人間も、どこかにはいるはずだった。けれど、現在の白環が手にしている記録だけでは、どの判断がどこから始まり、何段階を経て現場まで届いたのかを確定することはできない。だからこそ、その命令の一部だけを受け取って動いたラウルと、まだ名前の分からない決定者たちを、一つの顔へ重ねることもできなかった。
そこにいる全員の顔を、一つの敵の顔として重ねれば、また事実を見失う。
だから白環は、監査という仮面そのものを誰か一人の顔とは決めなかった。その背後にいる者の名前も、判断の経路も、まだ十分には分かっていないからだった。
ミレナは責任主体確認表を閉じ、その上に次の地下調査の目的を書いた紙を置いた。
『旧共同貯水槽 北市場第三保管庫床下点検口 現地確認』
誰かの顔を暴くことを急ぐより先に、まず一つの出口が本当に存在するのかを確かめる。
それが今、彼らにできる次の一歩だった。
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