第二章 第三十七話 王都に埋められた名簿
夜半が近づいても、白環治療院を取り囲む気配は薄れなかった。破城槌によって裂かれた正門の向こうには治安局の大盾が重なるように並び、鉄帯を巻かれた破城槌も撤去されないまま暗がりに残されている。高所へ配置された弓兵も姿を消してはいない。ただ、このしばらくは新たな射撃も門への打撃も確認されず、玄関広間では二枚の防壁が変わらず役目を果たしていた。白環側も、その静けさを撤退や攻撃終了とは呼ばない。治療師たちは患者への処置を続け、護衛たちは正門、窓、高所への警戒を交代しながら維持し、記録係は何も起こらなかった時間さえ時刻とともに書き残していた。
地下水路の入口もまた、静かな緊張の中にあった。石扉の脇へ白墨で引かれた水位線は、前回の調査後に指一本ほど上昇した位置で止まり、それ以上は動いていない。人一人が通れる程度に開けられた扉の隙間からは、冷たい空気と絶え間ない細い水音だけが流れ出している。それでも院長は、患者を地下へ移さないという判断を変えていなかった。出口も安全性も分からない場所を、正門が危険だからという理由だけで避難路へ変えることはできない。
だから次に地下へ向かう前に、ミレナはまず机へ向かっていた。中央回復室の一角には、白環に残されていた古い建物図や修繕記録だけでなく、東門副長が東地区の保管記録から取り寄せた水路関係の写しまで積み上げられている。白環の地下で見つかった古い水門が何のための設備なのか。それを確かめないまま先へ進むべきではないというのが、前回の調査を終えた全員の結論だった。
「これじゃない?」
アイリが一枚の図面の端を指すと、ミレナはすぐ隣へ寄り、その場所を灯りの下へ引き寄せた。紙は古く、折り目の一部が裂けているものの、東地区北側の地下排水系統が複数の線で描かれている。
「どれ?」
「ここ。白環の昔の位置がこの辺なら、その北側に大きな門みたいな印がある」
「……形は似てる」
ミレナは現在の街路図と古い水路図を重ね、方角と距離を慎重に合わせていった。その横では、前回地下へ同行した年配の修繕職員も図面を覗き込み、太い指で一つの線を追っている。
「門の横に細い道があるな」
「点検路?」
「そう見える。その先は……こっちの太い水路へ繋がってる」
ミレナが薄れた文字へ顔を近づけるより先に、東門副長が読み上げた。
「東部旧溢水幹線」
「今も使ってるの?」
「ほとんど使われていないはずだ。新しい排水路が造られた後は、雨量が多い時だけ一部へ水を逃がすと記録されている」
「じゃあ、白環だけの排水路じゃなかった」
移動椅子に座るレンが図面を見ると、ミレナも頷いた。
「ええ。少なくとも途中の水門から先は、東地区全体の古い排水設備へ繋がってる可能性が高い」
「出口は?」
アイリの問いに、ミレナはすぐ首を横へ振った。
「そこまでは描かれてない。幹線の先に点検口らしい印はいくつかあるけど、今も開くのか、地上へ出られるのか、人が通れる大きさなのかは分からない。この図面だけで逃げ道だとは言えないわ」
年配の修繕職員は別の記録を引き寄せ、古い水門の保守手順を指で追った。
「門そのものは洪水時の流量調整用だ。白環側から来た水と北側から入る水を、東の幹線へ逃がす仕組みらしい。ただ、長いこと正式な運用記録がない」
「最後に動かしたのは?」
「記録上では十四年前だ」
「でも、実際には半分開いたままだった」
「運用を止めた時にその位置へ固定した可能性もあるし、故障して途中で止まった可能性もある。見ただけじゃ分からん」
「なら、やっぱり触らない」
「それが一番だ」
ミレナは頷き、次の紙へ視線を移した。水門と同じくらい気になっているのは、前回その脇の壁から写してきた名前だった。レナ・ヴァルス。ドルン・メイル。途中までしか読めなかったサフィという名。そのほかにも十を超える名前があったが、白環の古い主要職員台帳にも、すぐ確認できた長期患者の記録にも一致する者はいなかった。その後、修繕職員の名簿や白環の増築工事を請け負った主要業者の記録まで範囲を広げたものの、少なくとも現在確認できた資料の中に、該当する名前は見つかっていない。
「工事をした人じゃない可能性が高くなった?」
アイリが尋ねると、ミレナは名前の写しと台帳を混ぜないよう別々に置いた。
「少しだけね。正規の職員でも、主要な請負人でもなかった可能性は上がった。でも、臨時で雇われた人まで全部記録に残っている保証はないし、設備を使っただけの人かもしれない。自分の名前じゃなく、別の誰かの名前を刻んだ可能性だってある」
「まだ何も決められない」
「そう。でも、一番簡単だった『白環か工事関係者の名前』という説明は、昨日より少し弱くなった」
ガリックは椅子へ深く腰を預けたまま、机上の写しを見ていた。長時間同じ姿勢を続ければ左脚の強張りは増すものの、脇腹にも古い背中の傷にも新しい異常はない。
「六年前の記録と繋がるか?」
その問いが落ちた瞬間、部屋の空気がほんの僅かに変わった。ミレナは迷わずガリックを見る。
「まだ繋がらない」
「……そうか」
「地下に知らない名前がある。それだけで、あなたが見た荷車やセインの件と同じものにはならない」
「分かってる」
ガリックは少し黙り、やがて写しから目を離した。
「なら今は、並べるだけだ」
「そうして」
その答えを聞いたレンは、水路図へ視線を戻した。
「次はどこまで調べる?」
ミレナは水門から延びる細い点検路を指した。
「ここ。水門の横を通って、次の設備標識が確認できるところまで。それより先に新しい分岐があれば、そこで止まる」
「出口は探さない?」
アイリが確認する。
「探さない」
「名前がもっとあったら?」
その問いにだけ、ミレナは一瞬答えを遅らせた。
「確認はする。でも、全部を書き写すために予定を延ばしたりはしない」
「本当に?」
「……そこが一番信用されてないのね」
「だって、ミレナだから」
「今日は戻るわ。名前が百個あっても」
そう言いながら、ミレナ自身が、その約束を一番厳しく見張らなければならないのは自分だと分かっていた。
◇
三度目の地下調査が始まったのは、それから間もなくのことだった。
地下へ向かったのはミレナ、前回も同行した年配の修繕職員、それに白環の護衛二人。東門副長は石扉の外に残り、地上から届く報告と地下側の連絡を繋ぐ。今回も一本の縄を入口から伸ばし、一度強く引けばその場で停止、二度なら即時帰還という決まりは変えなかった。
「次の設備標識までだ」
出発前、東門副長が念を押す。
「分かってる」
「名前がいくらあっても?」
「戻る」
「水門の先が広くても?」
「戻る」
「出口が見えても?」
ミレナは眉を寄せた。
「それは少しくらい――」
「ミレナ」
「……今いる位置から見える範囲だけ確認して戻る」
「よし」
「何であなたが満足そうなの」
「出発しろ」
石扉を越えると、細い水音がすぐ足元を満たした。前回より水位は僅かに高いものの、昨夜の上昇が止まった後の線から大きな変化はない。先頭の護衛が長い棒で床を確かめ、その後ろを修繕職員、ミレナ、最後尾の護衛が進んでいく。
最初の右曲がりを越え、「北排水」の管理刻印を確かめ、左側が崩落した分岐から右へ入る。すでに二度歩いた範囲は、初めて足を踏み入れた時よりずっと短く感じられた。それでもミレナは歩数を省略せず、壁、水位、天井、床の状態に前回との変化がないことを一つずつ確かめながら進んだ。
やがて天井が低くなり、その狭い区間を抜けると、石造りの空間が急に広がった。そこには前回確認した旧水門があり、厚い門板は同じ高さで止まり、錆びた鎖も歯車も動いていない。黒い水だけが、その下を何事もなかったかのように静かに流れている。
「水位はほぼ同じだな」
修繕職員が言った。
「鎖にも変化なし。最近触ったような跡も見えん」
「触らない?」
「触らん」
「確認しただけ」
「お前の目が歯車に向いてた」
「見るだけなら何も壊さないでしょう」
壁際へ移動すると、前回見つけた十数人分の名前が灯りの中へ現れた。水垢に半分埋もれた文字も、比較的深く削られた名も、そのまま残っている。ミレナは一度だけそれらを確認し、すぐ水門の右側へ続く点検路へ視線を移した。
「ここからが新しい範囲」
点検路は水面より腰ほど高い位置にあり、数段の石階段を上がった先へ細長く伸びていた。片側には水門の太い石枠、もう片側には湿った壁が続き、二人が横へ並べるほどの幅はない。
「石の状態は?」
護衛が尋ねると、修繕職員は一段ずつ足元を叩き、ひびや沈み込みを確認した。
「見えている範囲に大きな崩れはない。ただし端へ寄るな。下は水路だ」
一人ずつ点検路へ上がり、水門の横を抜ける。下を流れる水音が少し遠ざかるにつれ、壁の造りも再び変わっていった。粗い切石の上から後年になって煉瓦を重ねた箇所、古い横穴を完全に塞いだ跡、さらにその上から補修材を塗った部分。同じ道の中に、異なる時代の手が何層にも残されている。
「やっぱり何度も使い方が変わってる」
ミレナが言うと、修繕職員は前を見たまま答えた。
「古い水路なんてそんなもんだ。造った時のまま何百年も残る方が珍しい」
「何百年?」
「たとえだ。年代を勝手に決めるな」
「私の台詞を取らないで」
点検路は緩く左へ曲がり、その先で再び幅を広げた。そこには、人が長く滞在するためというより、設備を点検する者が道具を置き、水路へ降りるために使っていたらしい小さな石室があった。壁には錆びた金具がいくつか残り、床の隅には朽ちて崩れた木箱の痕跡がある。
「標識があります」
先頭の護衛が灯りを高く掲げた。
正面の壁には四角い石板が埋め込まれていた。
『東部旧溢水幹線 北側点検路』
その下には方向を示す矢印があり、右へ進めば旧溢水幹線、左側の細い横道は旧集水路と刻まれている。
「図面と合うな」
修繕職員が言う。
「ここまでは」
「つまり、水門の先が白環だけの設備じゃないことは確定?」
「この標識が後から別の場所から移されたものでなければな」
ミレナは石板そのものではなく、周囲との継ぎ目を見た。縁は長い年月を経て周囲の石と馴染み、最近になって埋め直したような痕跡も見えない。
「少なくとも、ここで使うために置かれた可能性はかなり高い」
「その言い方ならいい」
目的としていた設備標識は見つかった。本来なら、ここで必要な情報を持って帰る準備へ入るべきだった。
だが、先頭の護衛が灯りを少し右へ動かした瞬間、ミレナの視線が壁へ吸い寄せられた。
「……待って」
修繕職員が露骨に嫌そうな顔をする。
「その『待って』は嫌な予感がするな」
「壁を見て」
最初はただの水染みにしか見えなかった。しかし灯りを斜めから当てると、石の表面へ刻まれた無数の細い線が浮かび上がってきた。それは一つや二つの傷ではなく、水門脇で見つけたものより明らかに多い、人の名前だった。
「名前か?」
護衛が近づきかけると、ミレナがすぐ止めた。
「その位置から見て」
壁の左端には縦へ一本の深い線が刻まれ、その右側には複数の名前がほぼ同じ高さで並んでいる。数段下にはまた別の区切り線があり、水門脇にあった名前とは違って、偶然空いた場所へ思い思いに刻んだような配置ではなかった。灯りをさらに右へ動かすと、名前の列と区切り、一定の空白、その先にまた別の名前の列が続き、石室の一面だけでなく、右へ伸びる点検廊の壁にも同じ配置が暗闇の奥まで残されていることが分かった。
「昨日の名前は……これの端だった?」
ミレナは来た道を振り返ったが、修繕職員がすぐに答えた。
「まだそこまで決めるな」
「分かってる。でも、こっちは明らかに刻み方が違う」
四人は予定していた標識の位置から大きく離れず、持ってきた灯りが届く範囲だけを確認した。名前は四十を超えたところで正確に数えることを止めたが、それより先にも文字の列は続いている。古いものは水垢に沈み、一部を判別できない。比較的深く刻まれた名前もあれば、表面へ何度も鑿を入れ、文字を削り取ろうとしたように見える箇所もあった。その一部には、削られた石の上から新たに文字を深く彫ったような痕跡まで残っている。
「これ……」
護衛が低い声を漏らした。
一つの名前の中央部が横から何度も削られ、文字の大半を失っていた。それでも最初と最後の数文字だけは残り、かつてそこに一人分の名が刻まれていたことまでは分かる。
「消したのか?」
「そう見える」
「誰が?」
「分からない」
隣では、一度表面を削られたような石へ、別の線が深く刻まれていた。
「こっちは、削られた後に何かを刻み直したように見えるな」
修繕職員が目を細める。
「ただし、元と同じ名前を戻したのか、別の文字を刻んだのかまでは分からん。誰がやったのかも同じだ」
ミレナは何も答えず、名前の高さ、区切り線、空白の幅、削られた箇所、後から刻まれたように見える線を順番に目で追った。水門脇に残っていた気まぐれな落書きとは、明らかに様子が違う。
「ミレナ」
最後尾の護衛に呼ばれ、彼女はようやく顔を上げた。
「時間」
簡図の端へ記した出発時刻を確認する。帰還予定まではまだ僅かに余裕があったが、壁のすべてを書き写せるほどではない。
「……全部は無理ね」
「当たり前だ」
修繕職員が答えた。
「四十以上ある。奥まで同じなら、もっと増える」
「だから、残し方を決める」
ミレナは新しい紙を取り出した。
「壁を位置で区切る。入口側から第一確認区画、第二確認区画、第三確認区画。今日見える範囲だけ。それぞれ最初に完全に読める名前と、最後に完全に読める名前を書く。確認できる人数、読めない箇所、削られた場所、後から刻まれたように見える場所も別に残す」
「全部の名前は?」
「今日は写さない」
護衛が意外そうに目を向けた。
「いいのか?」
「よくないわよ」
ミレナは即答した。
「一つ残らず持って帰りたい。でも、全部やろうとして時間を越えたら、情報どころか私たちまでここに残るでしょう」
「鴉でも諦めるんだな」
「諦めてない。次に同じ場所へ戻れる形を作ってるの」
彼女は壁そのものへ新しい印を加えることなく、紙の上だけで位置を区切った。
第一確認区画には、入口側から十二名。最初に完全に読めた名はレオナ・フェル、最後はマルク・テイラ。二名は一部欠損し、一名は中央部に削除されたような痕跡がある。第二確認区画には十四名。最初はケイル・ノード。最後の姓名は水垢によって判別できず、二名に削除痕、一名に後から文字を刻んだような痕跡が残る。第三確認区画では、灯りの届く範囲だけでも十五名前後が確認でき、そのさらに奥にも列が続いていた。
「四十一」
護衛が数えると、ミレナはすぐ首を横へ振った。
「完全に読めない箇所もある。四十一で固定しない。『灯りの届く範囲で四十以上』にする」
「細かいな」
「ここで一人増やしたり減らしたりしたら、名前を残すための記録なのに、私たちが最初から間違えることになるでしょう」
修繕職員は改めて壁を眺め、眉を寄せた。
「昨日の十数人と合わせると、偶然名前を書いたにしては多いな」
「ええ」
「工事へ参加した連中を何年もかけて足していった可能性は?」
「まだある」
「だが、この区切り方は職人が好き勝手に残した落書きには見えん」
ミレナはしばらく黙っていた。そして初めて、その言葉を慎重に口へ出した。
「……名簿みたい」
「何の?」
護衛が尋ねる。
「それは分からない」
ミレナは壁から目を離さなかった。
「誰の名前なのかも、何のために並べたのかも分からない。でも、ここだけを見るなら、偶然名前が重なった壁には見えない。名前を並べて残すために、区切って使われた可能性が高い」
「公式の名簿?」
「それも分からない。むしろ正式な記録なら、なぜ紙じゃなく、こんな地下の石へ刻む必要があったのか説明が要る」
「紙を信用してなかった?」
「それも今は答えにしない」
ミレナの視線は、削られた一つの名前へ戻っていた。文字を消そうとしたように見える痕跡があり、その隣には削られた石へ後から別の文字が深く刻まれたような跡がある。誰が削ったのか。誰が新しい線を刻んだのか。元の文字と後の文字が同じだったのか。何のためだったのか。何一つ分からない。それでも、そこに人の名前が意図的に並べられていたことだけは、もはや偶然では説明しにくかった。
「戻る」
ミレナは自分から紙を閉じた。
「もういいのか?」
「よくない。でも、今日の目的は終わった」
「点検路はまだ先へ続いてる」
「見えてる」
「壁も続いてる」
「それも見えてる」
「だから?」
ミレナは暗い点検廊の先を一度だけ見つめた。灯りの向こうには、まだ名前らしき細い傷が続いている。
「続きがあるって分かった。それを持って帰る」
◇
四人が石扉まで戻った時、約束した時間にはまだ僅かな余裕が残っていた。
東門副長は砂計を確かめてからミレナを見る。
「遅れてないな」
「当たり前でしょう」
「何を見つけた?」
「水門の先が東部旧溢水幹線へ繋がっていることを示す標識。図面とも一致した。それから――」
ミレナは一度だけ言葉を区切った。
「名前が増えた」
「何人?」
「灯りの届く範囲だけで四十以上」
東門副長の表情が変わる。
「四十以上?」
「全部は写してない」
「お前が?」
「何その反応」
「いや」
「時間を守ったの。褒めて」
東門副長は僅かに息を吐いた。
「……よく戻った」
「最初からそう言えばいいのよ」
地下入口の水位は調査中も大きく変化していなかった。石扉は再び人一人が通れる程度の隙間で仮止めされ、誰も続けて中へ入ろうとはしない。四人はそのまま中央回復室へ戻り、確認したことを順番に整理した。
最初に伝えたのは、水路そのものについてだった。
「水門の横の点検路は、東部旧溢水幹線の北側点検路として使われていた可能性がかなり高い。古い図面と現地の標識が一致した」
ミレナは簡図へ新しい線を書き加える。
「これで、白環の地下だけで終わる設備じゃないことはかなり強く言える」
「白環の外まで続いてる?」
レンが尋ねる。
「少なくとも東地区の下へ続く古い幹線へ接続している。でも、人が地上へ出られる場所まではまだ確認してない」
「避難路には?」
院長の問いにも、ミレナは迷わなかった。
「まだしない方がいい。水位がどう変わるか分からないし、水門から先の道幅も全部確認できてない」
「分かった」
その確認が終わってから、ミレナは名前の配置を記した紙を机へ広げた。
「こっちが問題」
アイリがすぐ近くへ寄る。
「昨日より多かったの?」
「ずっと」
「何人?」
「灯りの届く範囲だけで四十以上。奥へまだ続いてる」
「全部、名前?」
「見えた範囲では」
ガリックも椅子から少し身を乗り出した。
「知ってる名前は?」
「一つもなかった」
「セインは?」
「なかった」
「マラとリコも?」
「なかった」
ガリックは短く息を吐いた。
「……そうか」
「安心した?」
アイリに尋ねられ、彼は少し考えた。
「分からん。見つからなくて安心した気もするし、何も分からないままなのが嫌な気もする」
「どっちでもいいんじゃない?」
「また簡単に言うな」
「気持ちは証拠じゃないから」
ガリックは一瞬黙り、やがて小さく笑った。
「そうだったな」
エリリアはミレナが描いた壁面の配置へ目を落とした。
「昨日の名前とは違って、区切られていたんですね」
「ええ。縦と横に区切りがあって、名前の間隔もある程度揃っていた。削られた名前もあるし、削ったような跡の上から別の文字を彫ったように見えるものもあった」
「何の名簿?」
アイリが尋ねる。
ミレナはすぐには答えなかった。
「それは、まだ分からない」
「でも名簿なの?」
「少なくとも、名前を並べて残すこと自体を目的に使われた壁である可能性は高いと思う」
「昨日の十数人も同じ?」
「位置が近いから関係している可能性はある。でも昨日の名前は、もっとばらばらに刻まれていた。あそこがこの記録の端なのか、まったく別の理由で刻まれた場所なのかはまだ決めない」
「並べる。でも重ねない」
アイリが言う。
「そう」
レンは区画ごとに整理された紙を見つめた。
「全部は写せなかったんだな」
「ええ」
「悔しい?」
「ものすごく」
「戻らなかった方がよかったと思う?」
ミレナは少し考え、それから首を横へ振った。
「それは思わない」
「珍しいな」
「今日、それ何回目?」
「成長したってことじゃない?」
アイリが笑う。
「その言い方、ガリックにも使ってたでしょう」
「便利だから」
「便利に使いすぎ」
ほんの短い笑いが部屋へ落ちたあと、ミレナは再び紙へ目を戻した。
「全部持って帰れなかったから、次はもっと多く持って帰れる方法を作る。壁を区画ごとに分けて位置を固定する。読む人と書く人も分ければ、今日よりずっと速く残せる」
「また行く前提か?」
院長が尋ねる。
「水位と地上の状況が許せば」
「今夜は?」
「行かない」
「本当に?」
「院長まで?」
◇
それから白環では、地下で確認された名前を既存の記録と混ぜないため、新しい記録束が作られた。
表紙へ書かれたのは、『北排水路 旧水門以東 壁面人名記録』という、確認済みの事実だけを示す名称だった。
「失踪者名簿」とも、「移送者名簿」とも、「犠牲者名簿」とも書かない。何の名簿なのかが、まだ分からないからだった。
第一確認区画から第三確認区画までの記録も、それぞれ別紙へ分けて残された。読めた名前、読めなかった名前、削除されたように見える箇所、後から文字が刻まれた可能性のある箇所、壁のどの位置に存在したのか。判断できないものには、判断できないとそのまま記す。
その作業を横で見ていたアイリが、ふと尋ねた。
「消された名前は、どうするの?」
「読めるところだけ残す」
「全然読めないところは?」
「『一名分と思われる削除箇所』として位置だけ残す」
「名前が分からなくても?」
「そこに何かが刻まれていた痕跡まで消さないために」
アイリは少し黙った。
「名前を消された人かもしれない?」
「かもしれない。でも、石が傷んだだけの場所かもしれない」
「どっちか分からない」
「ええ」
「それでも残すの?」
「だから残すのよ」
アイリはその答えを聞き、今回確認された名前のうち、最初に記録されたレオナ・フェルという名を見つめた。
「この人も、誰なのか分からない」
「まだね」
「昨日のレナ・ヴァルスとは別の人」
「ええ」
「名前が増えたら、もっと分からなくなるね」
「そうね」
「鴉としては嬉しい?」
「最悪よ」
ミレナは迷わず答えた。
「情報が増えれば、それだけ答えに近づくとは限らない。繋げられそうなものが増えるほど、間違って繋ぐ危険も増えるから」
「じゃあ、どうするの?」
「一つずつ分ける」
ミレナは地下水路の構造図と、壁面人名記録の束を離れた場所へ置いた。
「道は道。名前は名前。水門は水門。今はまだ、それ以上にはしない」
少し離れたところで聞いていたガリックが頷いた。
「六年前も別だ」
「ええ」
「エドラスの荷車も」
「別」
「黒い鳥も」
「別」
「治安局も?」
ミレナはそこで表情を僅かに引き締めた。
「この壁を治安局が作った証拠はない」
「分かった」
「ちゃんと分かってる?」
「今日は俺が言われるのか」
「順番よ」
その時、正門側から伝令が戻ってきた。
「外に変化はありません。盾兵は配置を維持。破城槌もそのままです。高所の弓兵も残っています。新しい文書は届いていません」
「射撃は?」
東門副長が尋ねる。
「この四半刻では確認していません」
「記録して、持ち場へ戻れ」
「はい」
攻撃が再開されていない。それだけの報告が、この夜には重要だった。白環はまだ治療院として機能し、患者を地下へ移さなければならない状況には、少なくとも今はなっていない。だからこそ、地下で見つかったものも、焦って一つの答えへ変える必要はなかった。
◇
夜がさらに深くなった頃、エリリアは更新された地下道の簡図を見ながら、ミレナから点検路の空気について詳しく聞いていた。
「水門を越えた先でも、冷たい空気は流れていましたか?」
「ええ。石室までずっと。水門の前より少し乾いていた気はするけど、そこは感覚だけ」
「流れる向きは?」
「点検路の奥から白環側へ。強くはなかった」
「なら、奥に別の空間か開口部がある可能性はさらに高くなります」
「風を使わなくても?」
「その程度なら普通に感じられます」
エリリアは穏やかに答えた。風の存在を感じても、それへ魔力を重ねようとはしない。
「今は図面も増えましたし、魔力を使わなくても確認できる範囲が広がっています。次へ進むなら、まず東部旧溢水幹線の点検口がどこへ出るのか、残っている記録を探した方がいいでしょう」
「やっぱり先に紙?」
アイリが尋ねる。
「先に紙です」
「ミレナみたいになってきたね」
「それは褒めていますか?」
「半分くらい」
「残り半分が気になります」
ミレナが横から顔を上げた。
「私は全部褒め言葉として受け取るけど」
「そういうところ」
「何よ」
再び小さな笑いが生まれたが、机の上に置かれた人名記録だけは、誰も冗談として扱わなかった。
四十を超える名の一部には削られたような痕跡があり、その一部には後から文字が刻まれたように見える跡が残り、さらに奥にも同じような列が続いている。白環の主要記録には一致しないものの、工事関係者である可能性はまだ消えていない。地下水路を利用した者たちの名なのか、それともまったく別の目的で並べられた記録なのか、答えはどこにもなかった。ただ、そこに人の名前が残されているという事実だけが、少しずつ重さを増していた。
「ミレナ」
レンが呼ぶと、彼女は人名記録から顔を上げた。
「何?」
「もし全部調べても、何の名簿なのか分からなかったら?」
ミレナは少しだけ考えた。
「その時は、『分からない名前がこれだけ残されていた』って記録する」
「それで終わり?」
「終わりにするかどうかは、その時に決める。でも、答えが出なかったからって、名前まで捨てる必要はないでしょう」
レンはゆっくり頷いた。
「そうだな」
ミレナは人名記録の束を閉じ、地下水路の構造図とは別の箱へ収めた。
王都の地上には、役所が作った台帳がある。住民の名、荷車の数、物資の出入り、治安局の命令、治療院の患者。紙へ書かれ、署名され、封を押され、それが正しい記録として扱われる。そのさらに下、古い水門を越えた先の暗い点検路には、誰が刻んだのかも、何のために残したのかも分からない名前が、石の壁へ整然と並べられていた。
何の名簿なのかも、誰の名簿なのかも、まだ分からない。それでも、偶然できた傷の集まりではないことだけは、もう否定できなかった。王都の地上から見えない場所で、誰かが人の名前を並べていた。削られたように見える箇所にはその痕跡が残り、その一部には、削られた石の上から別の文字が深く刻まれたような跡さえある。紙だけでは足りなかったのか、紙を信じられなかったのか、それとも別の理由があったのか。その答えを、ミレナはまだ書かなかった。
ただ、新しく作られた記録束の表紙にある言葉だけを、もう一度見つめる。
『北排水路 旧水門以東 壁面人名記録』
王都の地下へ埋められていた名簿は、ようやくその端を、白環治療院の者たちへ見せ始めたばかりだった。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!




