第二章 第三十六話 治療院の地下水路
白環治療院の地下で十数年ぶりに開かれた石扉は、夜が深くなっても閉じられないままだった。完全に開放されているわけではなく、人一人が通れる程度の隙間で仮止めされ、入口には護衛が一人ついて出入りする者の名前と時刻を記録している。その奥から流れ込む冷たい空気と絶え間ない細い水音は、地上とはまるで別の空間が治療院の下に横たわっていることを知らせていた。正門では破城槌が動きを止めたまま、割れた門の向こうに治安局の大盾が並び、高所へ配置された弓兵も撤収していない。玄関広間の第一板と第二板はまだ防壁として機能していたものの、いつ再び攻撃が始まるかは誰にも分からず、院長は地下道を「避難路」と呼ぶことを禁じたまま、今夜もう一度だけ、限られた範囲を確認することを許可した。
中央回復室の机には、現在の建物図、古い修繕図、そして前回の調査でミレナが確認した範囲だけを書き加えた簡図が並べられていた。石扉から北へ進み、緩い右曲がりを越えた先で通路は二つへ分かれ、左側は崩落、右側はさらに奥へ続いている。前回確かめられたのはそこまでであり、その先に地上へ通じる出口があるのか、別の地下設備へ繋がっているだけなのか、人を安全に通せる状態が保たれているのか、そのどれもまだ分かっていない。
「今夜、もう一度だけ見る」
ミレナが簡図の右側へ指を置くと、院長はすぐには答えず、彼女の顔と図面を交互に見た。
「どこまでだ」
「右の分岐から、最初に見つけた大きな設備まで。何もなければ、前回の到達地点から二十歩前後を上限にする」
「出口まで行くつもりは?」
「ないわ」
「本当に?」
横からアイリに聞かれ、ミレナは僅かに眉を上げた。
「あなたまでそれを言うの?」
「みんな言われてるから」
「ずいぶん便利な言葉になったわね」
軽く返したものの、ミレナは笑って曖昧にすることなく、改めて目的を言葉にした。
「確認するのは、右の道がどこまで続いているか、水位がどう変わるか、人を運べる幅が保たれているか、それから途中に水門や落下箇所がないか。新しい分岐が出たら、そこで止まる。何か見つけても追わないし、今日は出口を探さない」
移動椅子に座るレンは、妹の隣から簡図を見下ろした。
「戻る時間は?」
「鐘四分の一以内」
「誰と行く?」
「前回同行した護衛の一人と、地下設備を見られる修繕担当の人。三人で十分よ。人数を増やしても、狭い場所では動きにくくなるだけだから」
院長はしばらく考えた末、白環の古い設備を長年見てきた年配の修繕職員を呼び、本人の意思を確認した。男は地下道へ入ること自体には不安を見せたが、古い排水設備を構造の分からない者だけに触らせる方がよほど怖いと言って同行を承諾した。
「何か見つけても、触る前に見る。それだけは守れ」
「それ、私が言う台詞じゃない?」
ミレナが返すと、修繕職員は鼻を鳴らした。
「紙ばかり読んでる奴は、古い機械を見つけた途端に自分まで職人になった気になる」
「随分な偏見ね」
「経験だ」
「気が合いそうだな」
ガリックが椅子から口を挟んだ瞬間、ミレナと修繕職員の視線が揃って彼へ向かった。
「何で俺を見る」
「余計なことを言ったからでしょう」
短いやり取りのあと、地下調査の手順も決め直された。入口には東門副長と護衛一人が残り、内部へ進む三人とは前回と同じく長い縄を繋ぐ。ただし合図はさらに単純にし、一度強く引けばその場で停止、二度なら即時帰還とする。入口側から前進を求める合図は作らない。中で何が起きているか見えていない人間が、事情も知らずに「先へ進め」と命じないためだった。
「地上に変化があれば呼び戻す」
東門副長が確認する。
「破城槌が動き始めたら?」
「二度引く」
「正門側の防壁が崩れたら?」
「二度だ」
「ほかに何が起きても?」
「戻れという意味しか持たせない。中にいる者へ、外から余計な判断を押しつけない」
ミレナはそれを聞いて頷いた。
「その方がいいわ」
◇
石扉の向こうへ入ると、前回と同じ冷たい湿気が三人の身体を包んだ。先頭を歩く護衛が長い棒で足元を確かめ、その後ろを修繕職員、最後をミレナが進む。前回は中央を歩いたが、今回は設備を見る職員を中央へ置き、ミレナ自身は最後尾から壁面や天井、道幅の変化を見落とさない役を取った。
最初の緩い右曲がりまでは異常がなく、床を流れる浅い水も前回とほとんど同じ深さを保っていた。石壁には「北排水」と読める古い管理刻印が残り、その下に刻まれた過去の水位線にも目立った変化はない。三人は一度そこで足を止め、入口から伸びる縄にまだ十分な余裕があることを確かめてから、前回到達した分岐まで進んだ。
左側は相変わらず崩れた石と土に塞がれている。修繕職員は近づくことなく天井の割れ方だけを灯りで確認し、すぐ首を横へ振った。
「こっちは掘るな。下手に触れば上まで崩れる」
「上には何があるの?」
「古い図面が正しいなら、昔の中庭の端だ。今の地上がどうなってるかまでは、ここからじゃ分からん」
「調べる価値は?」
「いつかはあるだろうな。だが今夜じゃない」
「同意」
ミレナは左側へ余計な意味を与えず、前回小さな木片が流れていった右の通路へ視線を移した。分岐を越えたところから道幅は少し狭くなるものの、一人ずつなら十分に歩ける。水は足首より僅かに深く、暗闇の奥から流れてくる冷気も、前回よりはっきり肌へ触れていた。
「風、強くなってないか?」
護衛が尋ねる。
「夜が冷えたせいかもしれないし、奥の状態が変わったのかもしれない。今は、前回より空気の流れを強く感じる、までね」
「何でも面倒な言い方にするんだな」
「簡単に言って間違える方が、あとでずっと面倒でしょう」
修繕職員が小さく笑った。
「そこだけは同意だ」
三人は右側の通路へ入った。進むにつれて壁の造りは何度も変わり、古い灰色の切石が続いたかと思えば、一部だけ赤茶けた煉瓦で補修され、その先では再び大きな石材へ戻っている。床中央を走っていた細い水溝も途中で消え、水が通路全体へ薄く広がる場所があった。
「一度に造られた道じゃないわね」
ミレナが灯りを壁へ寄せると、修繕職員は煉瓦で塞がれた部分を指先で軽く叩いた。
「当たり前だ。古い排水路を何度も広げたり、狭めたり、崩れた所だけ直したりしてる。ここは後から壁を煉瓦で補った跡で、向こうは床を上げ直してる。水の流れが変わるたび、その時代の人間が必要な所だけ手を入れたんだろう」
「どれくらい古い?」
「俺に年代を聞くな。石の顔を見ただけで何年前か分かるほど偉くない」
「正しい答えね」
「お前に褒められると腹が立つな」
さらに進むと天井が一度低くなり、大人なら少し頭を下げなければならない狭い区間へ入った。その部分を抜けた途端、今度は通路が急に広がり、三人が横へ並んでも余るほどの石造りの空間が現れた。
先頭の護衛が足を止めるより早く、修繕職員が低い声で制した。
「待て。ここから先へ近づくな」
三人は入口から数歩手前で止まり、灯りだけを高く掲げた。広い空間の中央には、水路を横切るように太い石枠が組まれ、その内側へ厚い木製の板が吊られている。板は完全には下りておらず、水面から半分ほど持ち上げられた状態で固定され、その下を黒い水が静かに流れていた。上部からは二本の鉄鎖が垂れ、脇には大きな手回し輪と歯車が残されているが、どれも錆と石灰に覆われ、今でも動くのかどうかは見ただけでは判断できない。
「水門?」
護衛が尋ねた。
「そうだろうな。増水した時に水量を変える設備か、別の水路へ流れを逃がすための門だと思う。ただし、向こう側の構造が見えない以上、何をすればどこへ水が行くかは分からん」
修繕職員はその場から一歩も動かず、まず上部へ灯りを向けた。鎖は太い梁を介して古い巻き上げ軸へ繋がっているものの、梁の一本にはひびが入り、鎖にも赤い錆が浮いている。
「触ったら落ちる?」
「可能性はある」
「水門が落ちたら?」
「こちら側の水位が上がるかもしれんし、逆に下がるかもしれん。向こうの流れを知らないまま触れば、どっちになるか分からない」
「なら、触らない」
「そういうことだ」
ミレナはすぐ簡図を取り出し、自分たちの位置と確認できた構造だけを書き加えた。
「入口からここまで、どれくらい?」
「全部で四十歩少し。前の分岐からなら二十三歩くらいだ」
護衛が答えると、修繕職員がミレナへ視線を向けた。
「最初に決めた上限、少し越えてないか?」
「大きな設備を見つけた場合はそこまで、って決めたでしょう。これがそれ。だから、ここで止まる」
「ちゃんと覚えてるじゃないか」
「失礼ね」
水門へ近づかないまま左右を確認すると、石室の右側には人一人が歩けるほどの高い足場があり、その先へ細い点検路が続いていた。左側には低い横穴があるが、その半分ほどが水へ沈み、灯りを向けても先までは見えない。
「右の足場は?」
「水門を越えて点検するための道だろう」
護衛が灯りを高く掲げると、点検路は水門の横を抜け、その先で少し高い位置へ続いていた。さらに奥の石壁には、古い管理板らしい長方形の金属片も見える。
「文字がある」
「読める?」
「ここからじゃ無理だな」
ミレナは数秒だけ、その先の暗闇を見つめた。
「行きたい?」
護衛に聞かれ、彼女は迷いなく答えた。
「ものすごく」
「行く?」
「行かない」
「即答だな」
「今日の目的は最初の大きな設備まで。目の前にあるのがそれでしょう」
「時間はまだあるぞ」
「時間が余ったから目的まで増やすのが一番危ないって、昨日も言ったわ」
修繕職員が満足そうに頷いた。
「紙ばかり見てる割には分かってる」
「褒め方が下手ね」
それでも踵を返す前に、ミレナは点検路へ上がる石段の横へ灯りを向けた。そこには設備の管理刻印とは明らかに違う、細い傷がいくつも残されていた。
「待って。壁に何かある」
「設備には触るなよ」
「設備じゃない。文字」
三人は水門との距離を保ったまま少し横へ移動し、灯りを近づけた。石段の脇には、人の手で刻まれた名前がまばらに並んでいた。一つや二つではない。高さも深さも書き方も揃っておらず、丁寧に姓名まで刻んだものもあれば、姓だけ、名だけ、途中で削るのをやめたようなものまである。統一された名簿とは到底呼べず、異なる時期に別々の人間が残していったように見えた。
「設備を直した職人の名前か?」
護衛が尋ねると、ミレナは最も上の文字へ灯りを向けた。
「可能性はある。でも、工事の正式な記録なら、こんなふうに好きな高さへばらばらに彫るとは考えにくい」
「昔の職人なら、仕事をした所へ名前を残す奴もいる」
修繕職員が言った。
「自慢だったり、仲間の人数を確かめるためだったりな」
「じゃあ職人?」
「そうだとは言ってない」
「あなたも随分面倒な言い方を覚えたわね」
「お前のせいだ」
ミレナは壁へ直接触れず、読める文字だけを順番に確認した。古いものは水垢に半分埋まり、すべてを判別することはできない。比較的新しく見える傷も混じっているが、それが十年前なのか三年前なのか、石に残った線だけから正確な年代を決めることはできなかった。
「読める名前は?」
「全部じゃない。『レナ・ヴァルス』……その下が『ドルン・メイル』。これは姓の途中が欠けてる。こっちは……『サフィ』までは読める」
「知ってる名前はある?」
「私は知らない」
「白環の古い記録にいるかもしれんな」
修繕職員の言葉にミレナは頷き、小さな紙へ確認できた文字だけを書き写した。読めない部分を推測で埋めることはせず、欠けている箇所は欠けたまま残し、名前の横にある日付らしい線や小さな傷も見た通りに記す。
「何のための名前か分からないのに、全部持ち帰るのか?」
「分からないからよ」
「意味がなかったら?」
「それを判断できる材料がまだないでしょう」
「もっと奥にも同じものがあったら?」
ミレナは点検路の先へ広がる暗闇を一度だけ見つめ、それ以上踏み込むことなく紙を閉じた。
「その時は、その時に考える」
◇
来た道を戻り始めて十歩ほど進んだところで、先頭の護衛が突然足を止めた。
「水、増えてないか?」
三人は同時に足元へ視線を落とした。往路では靴底から足首ほどだった水が、今は僅かに高くなっている。急激な変化ではないものの、壁へ残っている古い水位線との位置を見比べれば、少しずつ上昇していることは明らかだった。
「水門には触ってない」
ミレナが言う。
「当たり前だ」
修繕職員は流れへ灯りを向け、しばらく水面を見つめた。
「こっちが何もしなくても、水路は王都のどこかと繋がってる。別の場所から水が入れば、ここの水位だって変わる」
「雨は降ってない」
「浴場や工房から大量の水が落ちたかもしれんし、別の水門が動いたのかもしれん。理由はここからじゃ分からない」
「危険?」
「今すぐ流される量じゃない。だが、このまま止まるのか、もっと上がるのかも分からん」
ミレナは一度も水門の方向を振り返らなかった。
「戻る」
「もう一度だけ水門を見なくていいのか?」
「増水してる時に戻って確かめるのは、調査じゃなくて欲張りよ」
三人は歩調を速めた。ただし走ることはしない。濡れた石床で転倒すれば、急いだ意味そのものがなくなる。入口までの縄が張られるほど道を外れることもなく、石扉から漏れる灯りが見えているうちに全員が薬草庫へ戻った。
「早いな」
東門副長が小さな砂計を確かめる。
「予定の範囲内よ」
「何があった?」
「大きな水門を見つけた。触ってない。その横に点検路があって、さらに奥へ続いてる。壁には十数人分の名前が刻まれてた。それから、帰る途中で水位が少し上がったから、その時点で戻った」
「出口は?」
「見てない」
「道は続いている?」
「少なくとも、水門の横の点検路は奥へ続いている」
「水位は今?」
修繕職員が石扉の向こうへ目を凝らした。
「入口でも僅かに上がってるな。まだゆっくりだが」
「扉を閉めるか?」
護衛が尋ねると、修繕職員はすぐ首を振った。
「今ここで閉めても、向こうの水が消えるわけじゃない。圧が溜まった状態で次に開ければ、一気に流れ込む可能性もある。今の量なら仮止めのまま水位を見た方がいい」
東門副長は入口脇の石へ白墨で現在の水面の高さを引き、時刻も並べて記した。
「さらに上がったら?」
「高さ次第で地下調査は中止。患者を入れるなんて論外だ」
「元から、今夜患者を入れる話にはなってないわ」
ミレナが言うと、東門副長もすぐ頷いた。
「その通りだ」
◇
中央回復室へ戻ったミレナは、最初に「出口は見つからなかった」と報告した。
「そこから言うのね」
アイリが僅かに笑う。
「先に期待だけ膨らませても仕方ないでしょう」
「じゃあ、何を見つけたの?」
「水門」
ミレナは前回の簡図へ続きを書き加えながら、確認した構造を順番に説明していった。
「右側へ二十歩少し進んだ先に、かなり古い水門がある。完全には閉じてなくて、半分ほど上がった状態。その横に人が通れる点検路があるから、道自体はさらに奥へ続いてる」
「出口へ?」
「まだ分からない」
「やっぱり言うと思った」
「事実だから仕方ないでしょう」
レンは図面へ視線を落としたまま尋ねる。
「水門までなら、担架は通せる?」
「今確認した範囲なら布担架は通せると思う。低い場所では持ち方を変える必要があるけど、完全に通れない幅ではなかった。ただし、水位が上がった」
「どのくらい?」
「帰路で数指分。入口でもまだ少し上がってる」
その報告を聞いた院長の表情が険しくなった。
「なら、現時点で患者を地下へ移す選択はしない」
「私も反対」
ミレナは即答した。
「候補が一つ増えたことと、今使えることは別よ」
ガリックが椅子から身を乗り出し、簡図を覗き込む。
「俺は通るか?」
「そこが最初に気になるの?」
「重要だろ」
「確認した範囲なら、肩を斜めにすれば通れると思う」
「少し斜めか?」
「……かなり」
「今、言い直したな」
「正確さが大事だから」
「俺を測る時だけ楽しそうじゃないか」
「気のせいよ」
アイリが思わず笑いかけたが、ミレナが別の紙を机へ置いたことで、すぐそちらへ視線を移した。
「それと、名前があった」
部屋の空気が僅かに変わる。
「誰の?」
レンが尋ねた。
「分からない」
「何人?」
「確認できた範囲で十数人。全部は読めなかったし、同じ時期に刻まれたものかどうかも分からない。水門脇の壁に、ばらばらに残っていた」
ミレナは写しを広げた。そこには読み取れた名前と、判別できなかった部分を無理に補わず残した文字の断片が並んでいる。
「設備を直した人たち?」
アイリが尋ねる。
「その可能性はある。修繕担当の人も、昔の職人が仕事をした場所へ名前を刻むことはあるって言ってた。ただ、それだけと決める理由もない」
「知ってる名前は?」
ガリックが聞いた。
「今のところ一つもない」
「それなら、どうして全部持ち帰ったの?」
アイリの問いに、ミレナは少しだけ考えた。
「知らない名前だから、かな」
「どういう意味?」
「知っている人の名前なら、どこかに覚えている人がいるかもしれない。でも、誰も知らない名前は、そこへ書かれた理由まで失われたら、それだけで消えやすいでしょう」
アイリは紙の一番上へ書かれた名前を見つめた。
「レナ・ヴァルス。この人が誰かは分からない」
「ええ」
「生きているかも分からない」
「ええ」
「自分で名前を刻んだのかも分からない」
「そうね」
「でも、そこに名前があったことだけは分かる」
ミレナは静かに頷いた。
「そこまでは事実」
「白環の記録と照らす?」
レンが尋ねる。
「まずは白環だけ。昔ここで働いていた人や、治療を受けた人の中にいるかもしれない。それで見つからなければ、次に東地区の古い設備記録を調べる」
「治安局の記録は?」
「今すぐ向こうへ『地下で名前を見つけました』と聞きに行くつもり?」
「聞いただけ」
「必要になった時に考える。ただ、この地下道を治安局が把握しているかどうかさえ、今は分からない」
ガリックの表情に一瞬だけ考え込む色が浮かんだのを見て、ミレナが先に釘を刺した。
「六年前の件と重ねないでよ」
「まだ何も言ってない」
「顔が言ってた」
「地下に名前があっただけで、セインたちと繋ぐつもりはない」
「ならいい」
「お前に確認されるのも慣れてきたな」
「便利でしょう?」
「腹が立つ」
◇
その後、白環に残されている古い職員台帳と患者台帳のうち、すぐに確認できる範囲だけが中央回復室へ運び込まれた。何十年分もの記録を一晩で調べることはできないため、まず古い排水路が閉鎖された時期の前後と、現在の地下薬草庫が拡張された頃の記録に範囲を絞る。
ミレナは壁から写した名前を一つずつ照合していった。レナ・ヴァルスという名は見つからず、ドルン・メイルも該当しない。途中までしか読めなかったサフィという名についても、同時期の主要職員や長期入院患者の中には一致する人物がいなかった。
「いないね」
アイリが台帳を覗き込む。
「白環が今すぐ確認できる記録にはいない、というだけよ」
「じゃあ、水路を使っていた人?」
「その可能性は少し上がる。でも、まだ何者かは分からない」
古い修繕職員の名簿にも一致する人物はいなかった。ただし、工事へ一時的に雇われた人間や下請けの職人まで全員が残されている保証はなく、これだけで設備関係者ではないと断定することもできない。
「結局、答えは出なかった?」
アイリが尋ねると、ミレナは照合済みの紙を別の束へ分けながら答えた。
「一つは増えたわ」
「何が?」
「少なくとも、白環が今ここで確認できる主要記録には一致しなかった。それだけでも、次に同じ台帳を最初から調べ直さなくて済むでしょう」
「答えがなかったことも情報?」
「ええ。見つからなかった場所を残すのも、探す仕事の一部よ」
少し離れた場所では、エリリアが地下へ同行した修繕職員から説明を受け、水門の位置と通路の高さ、空気の流れ、水の向きを簡図上で確認していた。魔力は使わず、入口と水門周辺で感じた冷気の差や、空間の広さについて一つずつ聞き取っていく。
「水門の先へ向かって空気が動いていたなら、さらに大きな空間か、別の通路へ繋がっている可能性は高そうですね」
「地上へ抜けてる?」
アイリが尋ねる。
「そこまでは言えません。大きな地下室でも、別の排水路でも、縦穴でも空気は動きます」
「風を使えば、もっと分かる?」
エリリアは以前ほどその問いに迷わなくなっていた。
「今より分かることは増えるかもしれません。でも、通路の構造を知らない状態で遠くまで風を流しても、どこへ入り、何に当たり、どう戻ってきたのか判断できない可能性があります。それに今は、魔力を使わなくても調べられることがまだ残っています」
「じゃあ、今は使わない?」
「ええ。今は」
エリリアはそう答えると、簡図の水門へ新しい印を加えた。
「次へ進む前に、水門そのものの設備記録を探した方がいいと思います。動かした時にどこへ水が行くのか分からないものへ、先に手を触れるべきではありません」
「誰も触ってないわよ」
ミレナが言うと、エリリアは僅かに笑った。
「それならよかったです」
「私を何だと思ってるの?」
「気になるものを見つけると、もう一歩だけ進みたくなる人です」
「否定しにくい」
レンが思わず笑う。
「自覚はあるんだな」
「あるから戻ったのよ」
◇
夜半が近づいた頃、地下入口の水位上昇は止まった。東門副長が白墨で引いた線から指一本ほど高い位置で安定し、それ以上増える様子はない。それでも院長は今夜の再調査を認めず、患者を地下へ入れないという判断も変えなかった。
正門側にも大きな変化はなく、割れた門の向こうには大盾が残り、破城槌も置かれたままになっている。高所の弓兵も退いていない。治安局側が静かにしているという事実だけが記録され、それを撤退や攻撃終了と呼ぶ者はいなかった。
ラウル・エステンには地下水路の詳しい位置を伝えず、ミレナは古い水門について治安局内で何か聞いたことがないかという一点だけを尋ねた。骨折した右足首を固定されたラウルはしばらく考えたあと、ゆっくり首を横へ振る。
「知らない。東地区の古い排水設備へ勝手に入るなって注意は聞いた。でも、水門の場所までは教えられてない」
「水門を治安局が管理している可能性は?」
「知らない」
「今夜、水位が上がった理由について心当たりは?」
「分からない。そもそも、どこの水がそこへ流れてくるのか俺は知らない」
「なら、それで十分」
「またそれだけか」
「知らないことを長く話しても、知らないままでしょう」
ラウルは少し呆れたように息を吐いたが、ふと思い出したように続けた。
「ただ、雨が降ってなくても古い排水路の水位が上がることはあるって聞いたことはある。浴場とか工房とか、大きな建物がまとめて水を捨てる時間があるからって」
「誰から聞いたの?」
「詰所の先輩。設備担当じゃない」
「なら、事実かどうかは未確認」
「そうなるな」
「覚えるの早いじゃない」
「お前らと一日いれば、嫌でも覚える」
ミレナは僅かに笑い、その話もラウル本人が過去に聞いた未確認情報として、確定事項とは分けて残した。
◇
夜がさらに深くなってから、地下道の新しい簡図が完成した。白環北壁の石扉から北排水路へ入り、最初の右曲がりを越えて分岐へ至る。左側は崩落しており、右側はさらに奥へ続き、その先に旧水門と点検路がある。水門より先はまだ調べられておらず、昨日まで白環の図面では一本の線すら存在しなかった場所へ、実際に確認した範囲だけが少しずつ加えられていた。
「白環の外まで続いてると思う?」
アイリが尋ねる。
「その可能性は、昨日より高くなった」
ミレナは完成した簡図を見ながら答えた。
「水門と点検路まであるなら、白環だけの小さな排水設備ではない可能性が高い。でも、どこまで続いているかはまだ分からない」
「明日は出口を探す?」
「まず水門の設備記録を探す」
「先に紙?」
「先に紙」
「鴉なのに、地下へ行かないんだ」
「鴉だから、同じ危険な場所へ何度も頭から飛び込まないの」
アイリは納得したように頷き、机の端へ置かれている名前の写しへ視線を落とした。
「この人たちも調べる?」
「ええ。ただし、地下道の構造とは別の束にしておく」
「どうして?」
「壁に名前があったことと、水門の目的は別の事実だから。最初から一つにまとめたら、本当は関係がなくても関係があるように見えてしまうでしょう」
「並べる。でも重ねない?」
ガリックが横から言う。
「そういうこと」
「俺たち、だいぶ面倒な集団になったな」
「前より長生きしそうでしょう?」
「そこは否定できん」
そのやり取りのあと、張り詰めていた部屋へほんの少しだけ穏やかな空気が戻った。それでも机の上に置かれた名前の写しは消えず、レナ・ヴァルス、ドルン・メイル、途中までしか読めなかったサフィという名、そのほかにも水垢に半分埋もれた文字や欠けた名前がいくつも残っている。
誰が刻んだのかは分からない。何のために残されたのかも分からず、白環へ逃れてきた者なのか、地下設備を修理した職人なのか、ただ一度そこを通っただけの人間なのか、そのどれである可能性もまだ捨てられなかった。
それでもミレナは、名前の写しを閉じようとはしなかった。
「どうした?」
レンに尋ねられ、彼女は紙へ視線を落としたまま答えた。
「知らない名前って、厄介だと思って」
「調べたくなる?」
「なる」
「今から?」
「行かない」
「珍しい」
「それ、今日二回目よ」
ミレナは名前の写しを地下道の簡図とは別の封筒へ収め、その表へ確認した場所と時刻だけを書き加えた。
「今夜はここまで。道も名前も持ち帰った。続きは、それを失くさないまま明日考える」
割れた正門の向こうでは、治安局の大盾が依然として白環を塞いでいる。そのさらに下、誰にも意識されないまま長い年月を流れ続けてきた地下水路では、古い水門の下を黒い水が静かに通り抜けていた。
白環治療院が見つけたものは、まだ逃げ道ではない。それでも一本の閉ざされた排水路は、白環だけで終わる小さな設備ではなく、王都の下へさらに続く古い水の道である可能性を見せ始めている。そして、その途中には理由さえ失われたまま石へ刻まれ、それでも消えずに残っていた人々の名前があった。
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