第二章 第三十五話 鴉が開く地下道
夜の色が王都の屋根へ降り始めても、白環治療院の外に並ぶ治安局の盾は消えなかった。破城槌によって正門中央には人一人が通れるほどの裂け目が生まれ、その内側では、エリリアが考案した二枚の防壁が梁と縄、鉄枠、満水の樽に支えられたまま玄関広間を守っている。治安局側はラウル・エステンの引き渡しを要求したあと、正門への大きな攻撃をいったん止めていたが、高所の弓兵は撤収せず、盾兵たちも割れた門の向こうで隊列を保っていた。静かになったからといって、攻撃が終わったわけではない。むしろ次に何が起こるのか分からない時間の方が、院内にいる者たちの神経をゆっくりと削っていた。
ラウルは骨折した右足首を固定され、処置室の寝台で治療師と護衛一人の見守りを受けながら休んでいる。本人が戻ることを望んだとしても、現状では安全に移動させられる状態ではなく、その医学的理由と救助時の経緯はすでに書面で治安局へ返されていた。黒銀剣は武器保管庫で四者の封印を受けたまま動かされておらず、銀縁のロケットもレンの首から離れていない。白環側が治安局から示された保全条件を破った事実はない。それでも門は破られた。だからこそ院長は、正面の防壁だけを頼りに患者を一か所へ集め続けることもまた危険だと判断した。
「門が完全に抜けた場合に備えて、別の移動経路を確認する」
中央回復室の机へ白環治療院の建物図を広げながら院長が言うと、ガリックが椅子に座ったまま少し身を乗り出した。長時間同じ姿勢を続けた左脚には強張りが残り、治療途中の脇腹も無理をすれば痛むため、杖はすぐ手の届く位置へ置かれている。
「西側の裏口は?」
「通りそのものが高所から見える。歩ける者だけならまだしも、担架を何台も続けて出せば、どう反応されるか分からん」
「中庭側は?」
「隣の建物との壁が高い。患者を越えさせる場所じゃない」
「地下は?」
その一言を口にしたのはミレナだった。
机の端で治安局との文書を整理していた彼女は、白環の建物図を自分の方へ引き寄せると、地下薬草庫と洗濯場の下に描かれた細い排水線へ目を止めた。
「この線、どこへ続いてるの?」
「排水溝だ」
院長が答えた。
「洗濯場の下から地下へ落として、北側の沈殿槽で終わる。少なくとも今使っている図面では、そうなっている」
「今使っている図面では?」
ミレナがその言い方を拾うと、院長は少し考えてから記録棚の方へ視線を向けた。
「建物そのものが古い。増築も何度もしている。今の図面は十数年前の大改修後にまとめ直されたものだ。もっと古い図面なら、記録庫に残っているかもしれん」
「見たい」
「今からか?」
「今だからよ。門が完全に抜けてから別の道を探し始めるより、ずっといいでしょう」
院長は反論せず、記録庫へ職員を走らせた。
エリリアは机の反対側から現在の建物図を覗き込み、地下薬草庫の位置と正門からの距離を確認していた。午後から一度も風の魔力は使っていない。割れた正門や鎧戸から入る空気の流れは普通に感じ取っているが、それへ魔力を重ねて外の様子を探ろうともしていなかった。
「仮に地下に道が残っていたとしても、すぐ患者を入れるのは危険ですね」
「当然だ」
院長が頷く。
「崩落、汚水、空気不足、出口の封鎖。治安局が使っている可能性だって否定できん」
「だから、まず道があるかどうかだけ確かめる」
ミレナは現在の図面に描かれた排水線の終点へ指先を置いた。
「それに、この沈殿槽は少し変よね」
「何が?」
アイリが尋ねる。
「洗濯場と薬草庫の排水を全部受けるには小さすぎる。雨水までここへ流す構造なら、強い雨の日には溢れるはずよ」
「別に地面へ浸透させる穴があるんじゃない?」
「それなら普通は図面に書く。水がどこへ消えるのか分からない排水図なんて、設備図として役に立たないでしょう」
移動椅子に座るレンも図面を見下ろした。
「書き忘れかもしれない」
「もちろん。でも、書き忘れなら古い図面を確認する価値がある」
「わざと消した可能性は?」
「そこまで考えるのはまだ早い」
ミレナは迷わず答えた。
「今分かっているのは、線がここで終わっていることだけ。それ以上は、古い紙を見てから」
しばらくして職員が戻り、埃を被った図面筒を三本、机の上へ置いた。白環の増築前に使われていた古い建物図、そのさらに前の排水設備修繕図、そして東地区の道路下を走る水路の一部を写した簡易図だった。どれも長い年月で紙が黄ばみ、端には湿気を吸って波打った跡が残っている。
ミレナは三枚を現在の図面と並べ、まず方角と建物外周を合わせた。古い白環は今より小さく、現在の洗濯場はかつて中庭だった場所へ増築されている。地下薬草庫も後年に拡張されたらしく、最古の図面では現在の半分ほどの広さしかなかった。
「ここ」
ミレナの指が止まる。
最も古い修繕図では、現在の図面で沈殿槽として終わっている排水線が、そのまま北へ延びていた。途中で細い水路と合流し、さらに紙の端まで続いているが、行き先までは描かれていない。ところが一つ新しい年代の図面では、その北へ延びる線だけが消え、沈殿槽を示す記号へ置き換えられていた。
「いつ消えた?」
ガリックが尋ねる。
「この二枚の間。日付を見る限り、十七年くらい差がある」
「その間の改修記録は?」
「今から探す」
ミレナはすぐ別の記録束へ手を伸ばした。
「鴉って、こういうのを探すの?」
アイリが尋ねると、ミレナは紙をめくりながら僅かに口元を緩めた。
「秘密を探しているつもりはないわ。紙と紙が違うことを放っておけないだけ」
「同じじゃないの?」
「違う。秘密があると思って探し始めると、何でも秘密に見えるでしょう」
「じゃあ、何を見るの?」
「書いてあることと、途中から書かれなくなったこと。それを説明する記録が残っているかどうか」
やがてミレナは十六年前の修繕記録から、地下北側の排水設備に関する一項目を見つけた。そこには「旧溢水路閉鎖、北側導水部使用停止」とだけ記され、理由は「施設改修に伴う不要化」とされている。工事を担当した業者名も通常どおり記されており、治安局や不明な組織を示すものは見当たらなかった。
「閉鎖されたこと自体は記録に残ってる」
レンが言う。
「ええ。ただし、『埋設』とも『撤去』とも書いてない。あるのは使用停止と閉鎖だけ」
「つまり、道そのものは残ってるかもしれない」
「かもしれない」
「入口は?」
ミレナは古い図面の縮尺を取り、現在の地下薬草庫へ位置を重ねていった。
「北壁。今、薬草棚が置いてある辺りね」
◇
地下薬草庫へ向かったのは、ミレナ、東門副長、白環の護衛二人、それに建物の修繕を担当している年配の職員だった。レン、アイリ、エリリア、ガリックは中央回復室に残り、院長も患者の状態と正門側の動きを把握する必要があるため同行しない。ミレナが健康で自由に動けるからといって、一人で未知の地下設備を調べる理由にはならなかった。
「最初に確認するだけだ」
出発前、レンが念を押した。
「出口まで一気に探そうとするなよ」
「分かってる」
「目的は?」
「北側に古い排水路が残っているか確認すること」
「見つかったら?」
「入口から最初の曲がり角まで。そこで一度戻る」
「何か見つけても?」
「追わない。勝手に触らない。意味が分からないものは分からないまま持ち帰る」
「戻る目安は?」
「鐘四分の一より前」
ミレナはそこでレンへ目を向けた。
「満足?」
「今のところ」
「本当に細かくなったわね」
「お前が勝手に先へ行きそうだからだ」
「今日は行かない」
「今日は、って言ったな」
「言葉尻を拾わないで」
ミレナが歩き出す横で、アイリが小さく笑った。
地下へ降りるにつれ、地上の音は厚い石に削られていった。正門の向こうで盾が動く音も、時折屋根や外壁へ当たる矢の音も、階段を一つ下るたび遠ざかる。代わりに聞こえるようになったのは、水滴が石へ落ちる小さな音と、薬草庫の換気口を通る空気の低い唸りだった。
地下薬草庫では、夜に備えて薬箱の一部がすでに石壁側へ移されている。北壁には背の高い棚が二つ並び、乾燥薬草の袋や空瓶が整然と積まれていた。古い図面では、そのちょうど後ろから北へ水路が伸びている。
「この棚、動かしたことは?」
ミレナが年配の職員へ尋ねた。
「俺がここへ来てからはないな。壁へ固定されてる」
「ここで何年働いてるの?」
「二十二年」
「古い水路が閉鎖された頃のことは覚えてる?」
職員はしばらく考えたあと、ゆっくり首を振った。
「地下の封鎖工事なら、俺が来る前に始まってたのかもしれん。北側の棚も最初からあった気はするが、そこまで確かじゃない」
「気がする、までね」
「二十年以上前の棚なんぞ、全部正確に覚えてる奴はいない」
「その正直さは助かるわ」
棚の中身を安全な場所へ移し、壁へ固定されていた金具を外す。護衛二人と職員が力を合わせて少しずつ棚を前へ引くと、長年動かなかった脚が石床を擦り、低い音が薬草庫へ響いた。
現れた壁は、一見すると周囲と同じ灰色の石積みだった。しかし灯りを近づけたミレナは、すぐ左寄りの継ぎ目へ目を止める。
「石が違う」
「色か?」
東門副長が隣へ立つ。
「色も少し違う。でも一番違うのは目地。周りは古い石灰が痩せてるのに、ここだけ深く残ってる」
年配の職員が指先で石灰を擦り、感触を確かめた。
「確かに後から手を入れた部分だ。ただ、何年前かまでは分からん」
「なら年代は決めない」
ミレナは壁の下部へ視線を移した。床には浅い排水溝が走っているが、問題の部分の直前で平たい石板に覆われ、その先が見えなくなっている。古い図面どおりなら、この下を北へ延びる水路が通っているはずだった。
「壊すのか?」
護衛が尋ねる。
「いきなり全部は壊さない」
年配の職員は壁を軽く叩き、返ってくる音を順番に確かめた。周囲の石壁は低く詰まった音を返すが、中央より少し右だけ響き方が違う。
「向こうに空間はあるな」
職員は壁の端を調べ、積まれた石の一つに錆びた鉄片が埋め込まれていることへ気づいた。
「待て。これ、ただの石じゃない」
表面の石灰を小さな工具で慎重に落とすと、その下から平たい鉄の輪が現れた。
「扉?」
「たぶん、保守口だ」
職員がさらに周囲を削っていくと、長方形の継ぎ目が少しずつ姿を見せ始めた。壁そのものを積み直したのではなく、古い石扉の表面を薄い石材と石灰で覆い、周囲の壁と同じように見せていたらしい。ただし、それが何かを秘密にする目的だったと決める理由はない。使わなくなった設備を誤って開けないよう封鎖しただけの可能性も十分にあった。
「鍵穴は?」
東門副長が尋ねる。
「下にあるはずだ」
職員が鉄輪の下側を削ると、錆の浮いた古い鍵穴が現れた。形そのものはまだ残っている。
「白環に鍵は?」
「使ってない地下設備用の古い鍵束が保管庫にある」
職員が答える。
「取ってくる」
「一人で?」
護衛が聞く。
「廊下を往復するだけだぞ」
「今の白環で一人だけ動かす必要はない」
東門副長がすぐ止めた。
「護衛一人をつける。残りはここで待つ」
ミレナが僅かに眉を上げる。
「ずいぶん染まったわね」
「何にだ」
「私たちの面倒な手順に」
「役に立つから使ってるだけだ」
「その言い方まで移ってる」
◇
持ち込まれた古い鍵束のうち、三本目が石扉の錠へ入った。しかし回そうとすると内部で固く止まり、無理に力を加えれば鍵の方が折れそうだった。
「錆びてる」
年配の職員が錠を確かめる。
「油を入れて少し待つ。十年以上開けてないなら、力任せに回すのが一番まずい」
ミレナは壁際へしゃがみ込み、床の排水溝を調べた。石扉の下には細い隙間が残り、そこから僅かに冷たい空気が流れ出している。
「風がある」
護衛が言った。
「向こうが完全な袋小路ではない可能性は上がる」
東門副長が答える。
「出口がある証拠にはならないわ」
ミレナがすぐに付け加えた。
「途中の縦穴から空気が入っているだけかもしれないし、別の排水溝へ繋がっているだけかもしれない。奥が崩れていない保証もない」
「鴉ってのは、本当に夢のないことを言うんだな」
「夢だけで患者を地下へ入れたら殺すでしょう」
油が錠へ染み込むのを待っている間に、正門側から伝令が一人だけ地下へ降りてきた。
「地上に大きな変化はありません。盾兵は割れた門の外で待機。破城槌も動いていません。ラウル・エステンの返還要求への追加文書も、まだ届いていません」
「高所の弓兵は?」
「残っています。この四半刻では射撃を確認していません」
「分かった」
東門副長は伝令をすぐ地上へ戻し、地下に余計な人員を残さなかった。
頃合いを見てもう一度鍵を回すと、今度は錠の内部で鈍い金属音が鳴った。職員が途中で止め、手応えを確かめてからさらに僅かに回す。長い間動かなかった内部の金具が外れ、石扉がほんの少し手前へ浮いた。
「開くぞ」
「一気に引かないで」
ミレナが止める。
「空気が悪かったら困る」
「まず隙間だけだな」
鉄輪へ縄を通し、全員が扉の正面を避けた状態で横から少しずつ引く。指二本ほどの隙間が生まれると、湿り気を含んだ冷たい空気が薬草庫へ流れ込んだ。腐敗臭や刺激の強い臭いはなく、水と古い石、それに僅かな土の匂いが混じっている。
職員が灯りを隙間へ近づける。火は消えず、極端に弱くもならなかった。
「少なくとも入口付近の空気は問題なさそうだ」
「それでも、すぐ入らない」
扉を人一人が通れる程度まで開き、しばらく空気を入れ替える。その間にミレナは入口周辺を調べたが、鳥の印も、黒い蝋も、見覚えのある暗号も見つからなかった。あるのは市の古い設備に使われる簡単な管理刻印と、過去に何度か補修された痕跡だけだった。
「何もない?」
護衛が尋ねる。
「何を期待してるの?」
「鴉が開けた地下道なんだから、鴉の印くらいあるのかと」
「私が今見つけて開けたから、鴉が開けた地下道になるの。昔ここを使った人まで鴉にする必要はないでしょう」
東門副長が僅かに笑った。
「その方が分かりやすいな」
「でしょう」
扉の向こうには、狭い石造りの通路が北へ伸びていた。床の中央を浅い水が流れ、その左右には人一人が歩ける程度の乾いた縁が残っている。天井は低いものの、身体を屈め続けなければならないほどではない。ただ、担架を二人で持って進むには狭く、途中の曲がり方によっては搬送方法を変える必要がありそうだった。
「今日は最初の曲がり角まで」
ミレナが改めて確認する。
「出口は探さない」
「分かってる」
東門副長が答えた。
「先頭は俺が行く」
「駄目」
「なぜだ」
「あなたは正門側へ戻る必要がある。ここで足でも捻ったら、今度は地上が困るでしょう」
「なら護衛を先頭にする」
「一人が前、一人が後ろ。私は中央。それでいい」
「自分で決めるのか」
「三人とも健康。目的も距離も戻る時刻も決めてある。問題があるなら言って」
護衛二人も異論を示さず、その三人で中へ入ることになった。東門副長と年配の職員は入口に残り、一本の縄を内部へ伸ばす。身体を拘束するためではなく、入口までの距離と帰路を失わないための目印だった。
「一回強く引いたら停止。二回なら戻れ」
東門副長が言う。
「逆じゃない?」
「入口側が分かるのは、戻れという判断だけだ。先へ進めなんて合図は作らない」
ミレナは少しだけ目を細めた。
「正しい」
「珍しく素直だな」
「あなたたち、本当に人の言葉を返すようになったわね」
◇
地下道へ一歩入ると、背後の薬草庫とは空気の重さが変わった。冷たい湿気が石壁へ薄くまとわりつき、足元を流れる水が灯りを細かく揺らしている。壁には苔が薄く残り、ところどころに過去の補修で埋められた四角い跡が見えた。長く使われていないことは分かるが、完全に自然へ戻った空間でもない。
先頭の護衛が長い棒で足元を確かめながら進み、ミレナはその後ろで壁、床、水深、天井の高さを一つずつ見ていった。最後尾の護衛は何度も振り返り、石扉から差し込む灯りとの距離を確認している。
「担架は通せそうか?」
先頭の護衛が尋ねた。
「今の幅なら布担架でしょうね。硬い担架は、曲がり方によっては通せないかもしれない」
「寝台は無理だな」
「そもそも地下へ寝台ごと入れる想定はしない方がいいでしょう」
「患者を運ぶ順番は?」
「出口も安全も確認してないのに、順番だけ決めても意味がないわ」
「また分からない、か」
「便利でしょう」
ミレナの返事に、護衛が小さく笑った。
十数歩進んだところで、水路は緩く右へ曲がった。その手前の壁には古い管理刻印があり、浅い傷で「北排水」と読める文字が残っている。さらにその下には、過去の水位を記録したらしい複数の横線が刻まれていた。
「今のところは普通の設備ね」
「不満そうだな」
「安心してるのよ」
「秘密の地下道じゃないから?」
「少なくとも、ここまで確認した範囲ではね」
曲がり角の先へ灯りを差し出すと、通路はさらに二十歩ほど続き、その先で二つに分かれていた。左側は十歩も進まないうちに大量の石と土で塞がれ、天井の一部も崩れている。右側は少し狭くなりながらも暗闇の奥へ続き、立っているだけでも分かるほど弱い冷気が流れてきていた。
「右はまだ続いてる」
「出口まで?」
「そこまでは分からない」
ミレナは分岐の手前で足を止めた。
「今日はここまで」
「まだ戻る時刻には余裕があります」
後ろの護衛が言う。
「時間が余ったからって目的を増やすのが、一番危ないのよ」
「鴉らしくないな」
「鴉だからでしょう。情報は持ち帰って初めて使える」
左側の崩落へ近づくことも、右側の通路へ踏み込むこともしなかった。分岐の形、幅、水の流れ、空気の向きだけを確認する。右側の壁には市の設備番号らしい古い刻印が残っていたが、摩耗が激しく完全には読めない。
「写す?」
「見えるところだけ」
ミレナは小さな紙へ、確認できる線だけをそのまま書き取った。意味を推測して欠けた文字を補うことはしない。
「何て書いてある?」
「分からない。最後の一文字は『北』に見えるけど、それもまだ確定しない」
「次は設備に詳しい人間を連れてくればいい」
「ええ。もっと明るい灯りも必要ね」
床を流れる水へ小さな木片を落とすと、それは右側の通路へゆっくり流れていった。少なくとも水には先がある。しかし、その先が外へ抜けているのか、別の貯水部へ落ちているのかまでは分からない。
ミレナは暗闇の奥をしばらく見つめたあと、自分から来た道へ身体を向けた。
「戻る」
護衛二人も異論なく、すぐに引き返した。
◇
三人が薬草庫へ戻った時、東門副長は小さな砂計を見ていた。
「予定より早いな」
「褒めて」
「何が分かった?」
「先に褒めて」
東門副長は僅かに呆れた顔をした。
「無事に戻った。それで十分だ」
「……まあ、いいわ」
ミレナは古い図面の横へ新しい紙を広げ、実際に確認した範囲だけを書き加えた。石扉から北へ十数歩。緩い右曲がり。その先に分岐。左は崩落。右は継続。浅い流水あり。弱い空気の流れあり。出口、安全性、全長、他の出入口、人が最近利用した痕跡はいずれも未確認。
中央回復室へ戻ると、レンが最初に尋ねた。
「避難路として使える?」
「まだ使えない」
ミレナの答えに迷いはなかった。
「道はある。でも出口が分からない。途中で崩れているかもしれないし、地上へ出られても治安局の配置の真下かもしれない。今すぐ患者を入れるのは危険すぎる」
「でも、候補にはなる?」
「候補の入口に立った、くらいね」
アイリが少し首を傾げる。
「入口の候補?」
「逃げ道を見つけたんじゃない。逃げ道になるかもしれない道の一部を見つけただけ」
「でも、見つけたのはミレナでしょう?」
「正確には、古い図面と白環の鍵と職員の知識で開けた」
「最初に違いを見つけたのは?」
「……私」
「じゃあ、鴉が開けたでいいんじゃない?」
ミレナは一瞬だけ答えに迷い、やがて肩を竦めた。
「そこは認めてあげる」
ガリックが椅子から図面を覗き込んだ。
「右側から風は来てたんだな?」
「普通の冷たい空気。強くはない。でも奥から流れてきてた」
その言葉にエリリアが顔を上げる。
「通路が長く続いている可能性はあります。どこかで外気と繋がっている可能性も。ただ、縦穴や別の排水路から入っている空気でも同じことは起きます」
「風を使えば分かる?」
アイリが尋ねた。
エリリアは少し考えてから答える。
「今より多く分かる可能性はあります」
「使う?」
「今は使いません」
声は穏やかだった。
「朝までこの状態が保てるなら、まず人の目で調べた方がいいです。風を使う必要があるかどうかは、その結果を見てから決めます」
「正門が保たなかったら?」
「その時は、状況が変わります」
都合よく大丈夫だとは言わず、だからといって今すぐ魔力を使うとも決めない。その答えに、アイリは小さく頷いた。
「ラウルにも聞いてみる?」
レンが尋ねる。
「地下道について何か知っているか、その一点だけなら」
ミレナはそう答え、処置室へ向かった。
◇
ラウルは痛み止めの影響で少し眠そうにしていたが、問いかけには意識を保ったまま答えた。
「古い排水路?」
「白環の地下から北へ延びている。東地区の巡回で聞いたことは?」
「詳しくは知らない」
「知らないなら、それでいい」
「待て。排水路そのものなら、勝手に入るなって言われたことはある」
ミレナが足を止める。
「誰に?」
「詰所の上役。東地区には古い水路がいくつか残ってるから、設備担当が一緒じゃない時は勝手に下りるなって。崩れてる所もあるし、雨の日は急に水が増えることもあるって」
「特定の場所だけ禁止されていた?」
「いや。俺が聞いたのは全体の注意だ」
「白環の下に道があることは?」
「知らなかった」
「治安局が使っているかどうかは?」
「知らない」
「最近、誰かが地下へ入った話は?」
「聞いたことない」
ミレナはそれ以上質問を増やさなかった。
「ありがとう」
「それだけか?」
「それだけ」
「もっと何か聞き出すと思った」
「知らない人から、知らない答えを無理に出させても意味がないでしょう」
「本当に変な連中だな」
「今日だけで何回目、それ」
「数えてない」
「なら正確な記録には残せないわね」
ラウルは呆れたように小さく息を吐き、そのまま目を閉じた。
◇
夜がさらに深くなる前、白環では地下道について確認できた情報だけが短く整理され、院内の各責任者へ伝えられた。ただし「避難路発見」とは呼ばない。古い排水路の入口を開放し、最初の分岐まで確認したこと。左側は崩落していること。右側はさらに続いていること。出口と安全性はいずれも未確認であり、院長の許可なく患者も職員も入らないこと。それだけだった。
石扉は完全には閉じず、必要な時に再び開けられる状態で仮止めされた。入口には護衛を一人置き、開閉時刻と出入りする者の名前を記録する。治安局にも、この時点で地下道について知らせる必要があるとは判断されなかった。監査対象物を移動させたわけでも、患者の避難に使用したわけでもなく、そもそも安全な通路かどうかすら確認できていない。実際に用途を決める段階になれば、その時点で必要な手続きと記録を改めて考えることになった。
地上では、割れた正門の向こうに大盾が並んだままだった。高所の弓兵も残っている。破城槌はしばらく動いていないものの、再び使われない保証はどこにもない。
その一方で、白環の地下では十数年閉ざされていた石扉の隙間から、冷たい空気が静かに流れ込んでいた。
ミレナは現在の建物図、古い修繕図、自分たちが確認した範囲を書き加えた地下道の簡図を机へ並べ、三枚をしばらく見比べた。
「何か分かった?」
アイリが尋ねる。
「今日分かったことなら」
「うん」
「逃げ道は、まだ見つかってない」
「でも、道はあった」
「ええ」
ミレナは古い図面から消えていた一本の線を指先でなぞり、その先へ自分たちが確認した分岐を書き加えた。
「だから次は、この線がどこへ出るのか確かめる」
「明日?」
「白環が朝まで今の状態を保てたらね」
アイリはその条件を聞いても、無理に明るい答えを返そうとはしなかった。
「そっか」
「怖い?」
「ちょっと。でも、道が一つ増えたのは嬉しい」
「まだ使えない道よ」
「それでも、何もなかった時よりはいいでしょう?」
ミレナは少し考え、やがて静かに頷いた。
「それは事実ね」
正門の方角から、遠くで大盾の縁が石へ触れる鈍い音が一度だけ響いた。その音のさらに下では、誰にも意識されないまま長く閉ざされていた排水路を、細い水が絶えず流れ続けている。
鴉が開いたのは、白環から安全に逃げ出すための地下道ではなかった。出口も行き先も分からず、避難に使える保証すらない、古い道の入口にすぎない。それでも、紙から消えていた一本の線を拾い直したことで、白環治療院には昨日まで見えていなかった選択肢が一つ生まれていた。
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