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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第二章 王都の闇
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第二章 第三十四話 大盾の向こう側

日が西へ傾き、白環治療院の石壁に長い影が落ち始めた頃、正門前で組み上げられていた木製の装置が、ついに白環へ向けて動き始めた。鉄帯を幾重にも巻かれた太い長材が車輪付きの枠へ吊られ、その左右へ取りつけられた縄を複数の治安局員が握っている。先ほどまで用途を断定できなかった装置は、正門とほぼ一直線になる位置までゆっくりと押し出され、鉄で補強された先端を門板の中央へ向けて止まった。鎧戸の隙間からその様子を確認していた東門副長の報告を最後まで聞いたガリックは、椅子へ腰掛けたまま目を細め、これまで何度も避けてきた言葉を初めて推測ではなく事実として口にした。


「破城槌だ。今度は見間違えようがない」


 中央回復室の空気が静かに張り詰める中、ミレナはすぐ記録紙へ時刻を書き込み、それまで「用途不明」として残していた記録とは分けて、装置が正門へ向けられ、長材を前後へ動かせる状態になったことを記した。ただし、誰がその使用を命じたのか、現場で最終的な指揮を執っているのが誰なのかは、依然として確認できていない。ヘルマン・ロウが現在の監査に関わっていることと、この破城行為を命じた人物であることは同じではなく、ガリック自身もそこへ勝手な答えを置くことはしなかった。


「向こうの人数は?」


 移動椅子に座るレンが尋ねた。深く傷ついた右上腕は固定されたままで、右手の指は動くものの、腕そのものへ無理に力を入れようとはしていない。


「装置の左右に少なくとも八人。前方には大盾を持った者が六人。さらに左右にも別の盾兵がいる。ただ、高所の弓兵も残っているから、正門だけ見ていればいい状況じゃない」


 東門副長の答えを聞きながら、エリリアは机へ広げられた簡略図へ視線を落とした。彼女が中心となって考えた二枚の遮蔽物は、すでに玄関広間へ固定されている。第一板は右柱から左前へ、第二板はその奥で逆方向へ斜めに配置され、二枚の間には担架一台を通せる折れ道だけが残されていた。梁へ分けて取った縄、寝台の鉄枠、満水の樽、砂袋。それぞれに負荷を分散し、誰かが身体で支え続けなくても立ち続けられるように作った防壁だった。


「正門が壊れてから初めて、本当の役目を持つ形です」


「できれば、その役目を持たないまま終わってほしかったがな」


 ガリックが答えると、院長は正門側から届いた報告書を手に取り、短く息を吐いた。


「その前に、こちらの立場をもう一度伝える。門を壊されるまで何も言わず待っていたと、あとから書かれるのも困る」


 東門副長は頷き、護衛二人とともに正門内側の安全な位置まで移動した。割れ始めた門の正面へ身体を晒すことはせず、厚い石壁の陰から外へ届くよう声を張る。


「王都治安局へ告ぐ! ここは白環治療院だ! 院内には治療中の負傷者、歩行困難者、子供がいる! 当院は治療上必要な監査協力を拒否しておらず、黒銀剣および銀縁のロケットについても既存の保全条件を継続している! 正門への破壊行為を行うのであれば、その法的根拠、対象、命令責任者を明示されたい!」


 すぐには返事がなかった。正門の向こうから聞こえるのは、治安局員たちの足音と、破城槌へ取りつけられた縄を調整する音ばかりだった。やがて外側から男の声が返ってきたが、名乗ることはない。


「監査執行を妨げる障害を除去する! 門前から離れろ!」


「何を監査対象としている!」


 東門副長が問い返しても、戻ってきたのは同じ言葉だった。


「門前から離れろ!」


 中央回復室では、ミレナがそのやり取りを一語ずつ確認し、相手が名乗らなかったこと、法的根拠と監査対象について具体的な回答がなかったことまで記録へ残した。


「開始前の照会に具体回答なし。退避要求のみ」


「十分だ」


 院長が静かに判断を下した。


「正門側の職員を下げる。玄関広間には見張りだけ残せ。遮蔽物の前へ人を立たせるな」


 ◇


 最初の一撃は、白環側の警告からそれほど時間を置かずに来た。外から複数人の掛け声が上がり、車輪と木枠が短く軋んだ直後、鉄帯を巻いた長材が正門中央へ叩きつけられる。腹の底まで響くような衝撃が治療院全体を揺らし、玄関広間の石床から中央回復室まで低い振動が走った。壁へ掛けられていた小さな器具が一斉に鳴り、天井から白い粉が落ち、遠くの病室からは驚いた患者の声が上がる。


 その瞬間、アイリの肩が反射的に強張り、右手の指にも僅かに力が入った。しかし、腰へ存在しない剣を探すことはなかった。彼女は自分から膝の上へ置いた両手を見つめ、次に隣の兄へ視線を移す。


「怖い」


「俺もだ」


 レンはそれ以上言葉を重ねず、妹が自分から現在へ留まっていることだけを確認した。


 同じ衝撃を受けたエリリアの右手も、椅子の肘掛けから僅かに浮いていた。正門への一撃によって院内の空気が震え、その変化を彼女は確かに感じている。風へ魔力を重ねれば、正門前の動きや次の衝撃の瞬間をもっと早く読めるかもしれない。それでも、エリリアは浮いた指を静かに閉じ、魔力へ繋げることなく伝令へ顔を向けた。


「門の状態を教えてください」


「外板中央に亀裂。閂は残っています。玄関広間の第一板には異常ありません」


「梁は?」


「異常なし。樽も動いていません」


「分かりました。次も同じ場所へ来るとは限りません。見張りは門板だけではなく、左右の石枠も確認してください」


「はい!」


 伝令が走り出す横で、アイリが小声で尋ねた。


「使ってない?」


「使っていません」


「今も使いたい?」


「とても」


 エリリアは隠さず答え、それ以上は言わなかった。


 二撃目は一撃目よりも強かった。正門中央へ走った亀裂が上下へ伸び、外側の木板の一部が剥がれて玄関広間へ飛び込む。飛散した木片は第一の遮蔽物へぶつかったが、斜めの板に当たったことで壁際へ逸れ、正面には誰も立っていなかったため負傷者は出なかった。


「第一板、木片を受けました! 固定に変化なし!」


「患者通路は?」


「使えます!」


「なら動かさないでください」


 エリリアが答える一方、ガリックは正門方向の音へ意識を向けながら、長く同じ姿勢を続けていた左脚を僅かに伸ばした。強張りは増しているが、立ち上がろうとはしない。


「左脚が五。脇腹は三。背中の古傷は問題なし。まだ座ってる」


 レンが尋ねるより先に全部を言われ、アイリが少し感心したように笑う。


「聞く前に言うようになったね」


「毎回聞かれるより早い」


「成長したね」


「その言い方はやめろ」


 短いやり取りが終わるより先に、治安局側では三度目の打撃へ向けた準備が始まった。今度は破城槌だけではなく、盾兵たちも割れ始めた正門の左右へ寄り、槌が下がるたびに大盾を並べて隙間を詰めている。白環側から見えるのは、濃紺の制服の一部と、顔をほとんど隠す大盾ばかりだった。


 三度目の衝撃には、これまでとは明らかに違う太い破砕音が混じった。正門中央の板が内側へ大きく裂け、幅の狭い隙間から夕方の光が玄関広間へ差し込む。鉄の補助金具はまだ残っているものの、門板そのものはもう一度か二度同じ場所へ打ち込まれれば耐えられそうになかった。


「門中央に裂け目! 外の盾が見えます!」


「第一板との距離は?」


「まだ三歩以上あります!」


「なら、門が抜けても破城槌がそのまま第一板へ届く距離ではありません」


 エリリアは図面を確かめながら答えた。


「外の装置をそのまま押し込むより、先に人が入る可能性が高いな」


 ガリックが言うと、すぐ横でミレナが視線を上げた。


「可能性ね」


「ああ。まだ入ってない」


 ガリックは自分から言い直し、簡略図へ視線を戻した。


 ◇


 四度目の衝撃で、正門中央の板が大きく内側へ折れた。門そのものが完全に失われたわけではなく、左右の板と鉄枠は残っている。それでも中央には、人が一人ずつ通れるほどの不規則な開口部が生まれた。


 外側の盾兵はすぐに動いた。二枚の大盾を並べて裂け目へ押し込み、白環側が何かするより先に玄関広間へ入り込もうとする。だが、白環の護衛は迎え撃つため前へ出ることはなく、東門副長の指示どおり第一板よりさらに奥、第二板と石壁の陰へ下がり、武器も抜かずに待っていた。


「治安局へ告ぐ! 院内へ入るな! ここから先は治療区域だ! 負傷者と子供がいる!」


「監査執行だ! 退け!」


「対象を示せ!」


「退け!」


 押し問答の間にも、最初の盾兵が割れた正門を抜けた。大盾を正面へ構えたままでは、エリリアが設計した第一板との間を真っ直ぐ進めない。左へ向きを変えようとしたところで後続の盾が背後から詰まり、狭い玄関広間の中で隊列が乱れた。


「第一板前に二人! 門の裂け目に一人! まだ武器は抜いていません!」


「こちらも抜かない」


 東門副長が答える。


 外から新たな号令が聞こえると、盾兵たちは第一板へ肩と大盾を押し当て始めた。板そのものを倒そうとしているらしいが、斜めに配置された第一板は力を正面から受けず、下端の鉄枠と満水の樽へ圧力を逃がしている。それでも押されるたび縄が低く鳴り、梁には小さな振動が伝わった。


「右側の縄が強く張っています!」


 見張りからの報告を受け、ガリックが簡略図へ手を置く。


「柱に亀裂は?」


「ありません!」


「なら触るな。壊れてない物を、不安だからって動かす方が危ない」


「同意します」


 エリリアも続けた。


「第二板側の通路だけ確保してください。第一板に実際の変化が出るまでは、そのままで」


 しかし治安局側も、正面から押すだけでは板が動かないと判断したらしい。割れた門の外から長い鉄鉤が一本差し込まれ、第一板の上端近くへ食い込んだ。


「鉤です!」


「位置は?」


「右上! 縄より下です!」


 外側で綱が張られ、鉄鉤が板の表面を削る音が玄関広間へ響いた。梁から伸びる二本の縄が強く張り、右側の満水樽が僅かに石床を滑っていく。


「今度は引いて外すつもりだ」


 ガリックが言うと、アイリがすぐに尋ねた。


「それはもう確定?」


「鉤を掛けて外へ引いてる。ここまで来れば、目的は板を動かすことだと言っていいだろ」


「その範囲ならいいわ」


 ミレナも認めた。


 鉄鉤がもう一度強く引かれた瞬間、第一板の下端が僅かにずれた。板そのものは倒れなかったが、その向こうへ身体を押し込んでいた盾兵の一人が、水と泥に足を取られて態勢を崩す。後ろから別の盾が押され、男の身体が横へ傾いた直後、玄関広間へ短い悲鳴が響いた。


「待て! 動かすな! 脚が挟まった!」


 治安局側の声だった。白環の護衛たちが動きを止める間にも、外では鉤へ繋がった縄がまだ張られている。


「もう一度引くぞ!」


「待て! 一人挟まれてる!」


「綱を緩めろ!」


 複数の声が重なり、誰が上官で誰が盾兵なのか、白環側から判別することはできなかった。


「罠の可能性はある」


 東門副長が低く言い、ミレナも否定せず頷いた。


「助けようとして板を動かした瞬間に押し込まれることも考えられる。まず、本当に挟まれているのか確認しましょう」


「どうやって?」


 アイリの問いに、院長は処置台へ置いてあった小さな銀鏡へ目を向けた。


「傷を見る時に使う鏡がある。柄を伸ばせば、こちらが身体を出さずに板の下を見られる」


「それがいい」


 ガリックも頷いた。


 長い木の棒へ布で銀鏡を固定し、玄関広間の護衛が第二板の陰から床近くへ滑らせる。第一板の下へ鏡を差し込み、少しずつ角度を変えていくと、濃紺の制服、泥で汚れた大盾、その横で不自然な角度へ押し込まれている右脚が映った。男はすでに盾を手放し、両手で割れた門板を押し返そうとしている。腰の剣は鞘へ収まったままで、背後にいるもう一人の盾兵も、前へ進むより男を引き戻そうとしていた。


「本当に挟まれています。右脚、膝より下。大きな出血は見えませんが、足首を動かせていません」


「周囲は?」


「すぐ後ろに一人。盾は持っていますが、挟まれた人を助けようとしています。二人とも武器は抜いていません」


 院長は迷わなかった。


「なら助ける」


「治安局兵ですよ」


 若い護衛が思わず言うと、院長は相手の顔をまっすぐ見た。


「今は足を挟まれている人間だ」


「でも、向こうは白環へ矢を射った」


「この男が射ったのか?」


「……分かりません」


「なら、分からないことを埋めるな」


 護衛はそれ以上何も言わなかった。


 アイリは割れた門の向こうへ連なる大盾を見つめた。顔が隠れていると、それだけで全員が同じものに見える。治安局。矢を射つ者。門を壊す者。自分たちを傷つける側。けれど、その盾の下には今、脚を挟まれて痛みに耐えている一人の人間がいる。


「名前を聞こう」


「名前?」


 東門副長が振り返る。


「誰を助けるのか分からないまま、『治安局兵一人』にしたくない」


 その言葉を聞いた護衛が、第一板越しに声を張った。


「挟まれている人! 聞こえるなら名前を言って!」


 向こう側には一瞬戸惑うような間があり、それから苦痛を押し殺した男の声が返った。


「何だ!」


「名前!」


「……ラウル! ラウル・エステン!」


「もう一度!」


「ラウル・エステンだ!」


 ミレナはすぐに名前と時刻を書き残した。


「ラウル・エステン。右脚挟圧。意識あり」


「所属は!」


「東地区の詰所だ! 今朝ここへ回された!」


「武器を抜かないで!」


「抜いてない!」


「後ろにいる人も、武器を抜かないで!」


「分かった!」


 東門副長は続けて外へ白環側の条件を告げる。


「ラウル・エステンの医療救助を行う! 救助中は前進を止めろ! 武器を抜くな! こちらも攻撃しない!」


 正式な了承は返らなかった。しかし鉤へ繋がった縄は緩み、裂け目へ押し込まれていた盾も動きを止めた。少なくともこの瞬間、治安局側にも救助を妨げようとしていない者がいることだけは確認できた。


 ◇


 ラウルの脚を救うためとはいえ、第一板を大きく動かすことはできなかった。板を外せば玄関広間が一気に開き、後方の盾兵まで押し込まれる危険がある。一方で、挟まれた状態が長引けば血流が阻害され、脚そのものへ深刻な損傷が残る可能性もあった。


「板全体を上げる必要はありません」


 状況を聞いたエリリアは、簡略図へ指を置いた。


「ずれたのは下端だけですよね」


「右側が指二、三本分程度だ」


 ガリックが答える。


「なら、元の位置へ戻そうとせず、右側だけを僅かに浮かせます。板そのものを持ち上げるより、支えにしている樽と梃子を使った方が小さく調整できます」


「人が板の前へ出る必要は?」


「ありません。縄を柱の裏へ回して横から引けます」


 院長は怪我の状態を頭に置きながら尋ねた。


「どれくらい浮かせる」


「それは先生が決めてください」


「足首なら指四本分もあればいい。無理に曲げるな。真っ直ぐ引き抜く」


「では、板の下へ濡れ毛布を二重に垂らしてください。外から白環側の手元が見えにくくなります」


「矢除けにも少しはなるな」


 ガリックが言った。


「風は?」


 レンがエリリアを見る。


 エリリアは一瞬だけ玄関方向へ意識を向けた。あの隙間へ風を通せば、板を浮かせる補助もできるかもしれない。しかし、すぐに首を横へ振った。


「使いません。今は、人と道具だけでできます」


 準備が整うと、護衛が第一板越しに声を掛けた。


「ラウル! 板の右下だけ少し上げる! 脚を無理に曲げないで!」


「分かった!」


「後ろの人は、ラウルの肩を引ける?」


「できる!」


「合図するまで引かないで!」


 柱の裏へ回した縄を職員二人が握り、樽の下へ短い鉄棒を噛ませる。院長の指示に合わせてゆっくり力を加えると、第一板の右下がほんの僅かに浮いた。


「今!」


 向こう側でラウルが呻き、同僚が肩を引く。白環側では濡れ毛布の下へ護衛二人が腕だけを差し入れ、泥で滑る足首をできるだけ真っ直ぐ支えた。


「痛い!」


「痛みは!」


「九……十だ!」


「意識は?」


「ある!」


「足の指は動く?」


「分からない!」


「無理に動かさなくていい! そのまま!」


 しかし、革靴の踵が板の縁へ引っかかり、脚は途中で止まった。


「靴が抜けません!」


「留め具を外せ!」


「泥で滑ります!」


 院長はすぐ処置台から先端の丸い包帯鋏を持ってこさせた。


「革紐だけを切れ。足へ刃を向けるな」


「外から刃物を見られたら」


 東門副長はその懸念を聞くと、間を置かず外へ声を張った。


「靴を外すため治療用の鋏を使用する! 武器ではない!」


 外から返答はなかったが、治安局側も動かなかった。泥に濡れた革紐だけを慎重に切り、靴を板の向こうへ残したまま踵を抜く。次の瞬間、ラウルの右脚が遮蔽物の内側へ抜けた。


「抜けた! 後ろへ!」


 護衛二人が身体を引き、ラウル自身も両手で石床を掴む。濡れ毛布の下から濃紺の制服が現れ、大盾も剣も持たないまま、彼の身体が白環側へ引き込まれた。


「板を戻せ!」


 縄を緩め、第一板の下端を再び鉄枠へ落とす。ずれた樽を押し戻し、二本の縄と梁を確認したところ、大きな損傷はなく、防壁はまだ機能していた。


 石床へ仰向けになったラウルは歯を食いしばり、右脚を押さえていた。足首はすでに腫れ始め、向きにも僅かな異常が見える。


「剣は?」


 東門副長が尋ねる。


「向こうだ」


「盾も?」


「置いた」


「ならそのままだ。院内では武器を持たせない」


 院長はラウルの横へ膝をつき、足先の色、温度、脈、感覚を順番に確かめていった。


「骨折の可能性が高い。血は通っている。ここで立たせるな。処置室へ運ぶ」


 ラウルは信じられないものを見るように院長を見上げた。


「……治すのか」


「そのための建物だ」


「俺は治安局だ」


「制服は足首の中まで入っていない」


 院長は淡々と答え、助手へ担架を指示した。


「ただし治療中は見張りを付ける。勝手に院内を歩かせない。武器も渡さない。それと、治療に必要のない質問は処置が終わってからだ」


「尋問しないのか」


「今のお前に必要なのは尋問じゃなく固定だ」


 ラウルはそれ以上何も言えず、担架へ乗せられた。


 その姿を見送ったアイリは、大盾の向こうから聞こえていた声と、目の前で痛みに顔を歪めている男が同じ人物であることを、どこか不思議に感じていた。盾しか見えなかった時には、彼は治安局兵の一人でしかなかった。だが今は、ラウル・エステンという名前があり、痛みがあり、今朝別の詰所から命令でここへ回されたという彼自身の時間がある。


 ミレナはその感覚を自分の解釈として紙へ書くことはせず、確認できた事実だけを記した。


『治安局員一名を医療救助。本人申告名、ラウル・エステン。右下肢挟圧。救助前に武器未抜剣を確認。本人の剣および盾は門外側に残留。白環側から攻撃なし。』


「そこまで書くのか」


 担架の上からラウルが尋ねると、ミレナは筆を止めずに答えた。


「あなたがあとで『武器を奪われて連れ込まれた』ことにされないためでもあるわ」


「誰だ、お前」


「ミレナ・クロウ」


 ラウルの目が僅かに見開かれた。


「……鴉」


「そう呼ばれることもあるわね」


「いや、名前を聞いたんだ」


「だから答えたでしょう」


 ◇


 ラウルの右足首は骨折していたが、骨が皮膚を破るほどではなかった。院長は腫れがさらに強くなる前に位置を整え、添え木で固定する。痛み止めは必要最低限に留められたが、それはラウルだけを粗末に扱ったからではなく、白環全体で薬を節約しなければならない状況が続いているためだった。


 処置が一段落すると、東門副長が寝台脇へ椅子を置いた。


「治療に必要なこと以外は後にすると言った。今から聞くのは、この建物にいる者の安全へ直接関係する範囲だけだ。答えたくないものには答えなくていい」


 ラウルは警戒を残した目を向けた。


「治安局の人間に、そんな権利があると思ってるのか」


「少なくとも白環では、今ある」


「答えたら戻れなくなるかもしれない」


「答えるかどうかも、お前が決める」


 ラウルはしばらく天井を見つめたまま黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。


「俺は今朝まで東地区の詰所にいた。白環の周辺へ回す人間が足りないから行けって言われた。それだけだ」


「監査対象が何か聞いたか?」


「聞いてない」


「黒銀剣か、ロケットか」


「知らない。俺が聞いたのは、証拠保全の監査を白環が妨げている可能性がある、院内で無断の移動が続いている、必要なら現場の指示に従って止めろってことだけだ」


 レンは首元の銀縁のロケットへ触れかけたが、その手を途中で止めた。


「誰の指示?」


「俺に伝えたのは詰所の上役だ。その人が決めた命令なのか、もっと上から来たのかは知らない」


「矢を射つ命令については?」


「知らない」


 ガリックの声には僅かな硬さがあったが、相手の答えを決めつける調子ではなかった。


「本当に?」


「俺は地上配置だった。屋根の弓兵とは動く場所も伝令も違った。夜から白環へ矢が飛んでることは知ってる。でも、誰が最初に射てと言ったのかなんて聞かされてない」


「火矢は?」


「それも知らない」


「正門を壊す命令を出した人間は?」


 ラウルは僅かに眉を寄せた。


「外で指示してる人間の名前を、俺は直接確認してない。『現場指揮に従え』ってだけだ」


 ガリックの顔に一瞬だけ苛立ちが浮かんだものの、すぐに抑え込んだ。


「ロウを見たか?」


「今日?」


「ああ」


「朝、遠くから似た人を見た気はする。でも話してない。本当に本人だったかも分からない」


「なら、それ以上には使えない」


 ガリックは自分から線を引いた。


「似ていた。それだけだ」


 ミレナも、その通りに記録へ残していく。


「監査対象、射撃命令者、破城命令者はいずれも不明。ロウらしき人物を遠方から見た可能性はあるが本人確認なし。ここから先は重ねない」


 ラウルは不思議そうに彼らを見回した。


「お前たち、ずっとそんなことをしてるのか」


「何を?」


「何でも『分からない』って言う」


「分からないことが多いからよ」


「それで戦えるのか」


「今のところ生きてる」


 ガリックが答えた。


「昔は、分からないところへ勝手な答えを入れて失敗した。今は、その方がまだましだ」


 その時、外から再び大きな音が響いた。ただし破城槌が門へ打ち込まれた音ではなく、割れた正門の前で盾を並べ直しているらしい鉄の縁と石床の擦れる音だった。ラウルの身体が反射的に僅かに強張る。


「仲間?」


 アイリが尋ねた。


「……たぶん」


「戻りたい?」


 ラウルはすぐには答えなかった。


「分からない」


「それでいいよ」


 アイリは静かに答えた。


「分からないなら、今すぐ決めなくてもいい」


 ラウルが怪訝そうに彼女を見る。


「お前、俺が何をしたか知らないだろ」


「知らない」


「門を押した」


「見てた」


「白環へ入ろうとした」


「うん」


「それでも治した」


「私は治してない。先生たちが治した」


「そういう話じゃない」


「でも、あなたが屋根から矢を射ったかは知らない。火矢を射ったかも知らない。誰かを傷つけたかもしれないし、傷つけていないかもしれない。分からないことを勝手に決めないって、私たちは約束したから」


 ラウルは、それ以上何も言わなかった。


 ◇


 外側の動きが一時的に止まったのは、ラウルを救助してから四半刻ほど後だった。破城槌は割れた正門の前へ残されたままだが、再び打ち込まれる様子はなく、裂け目の向こうでは盾兵が隊列を組み直している。高所の弓兵も撤収していない。白環側はその静けさを攻撃終了とは判断せず、第一板と第二板の縄、梁、樽、鉄枠を改めて確認し、患者搬送用の通路も維持した。


 その最中、治安局側から新たな封書が差し出された。盾の陰から一人が割れた門へ近づき、床へ置いた封書を長い棒で白環側へ押し込むと、名乗ることなくすぐに盾の後ろへ戻っていった。


「正規印です」


 東門副長が確認する。


「開ける」


 院長、東門副長、ミレナの立ち会いで封が切られ、短い文面が読み上げられた。


『監査執行中に所在を離れた治安局員一名について、直ちに治安局側へ身柄を引き渡すこと。当該局員の武装解除および院内留置は監査妨害に該当する可能性がある。』


 院長は読み終えた文書を机へ置き、険しい顔をした。


「救助した負傷者を『所在を離れた』と書くのか」


「白環が無理に引き込んだとまでは書いていない」


 ミレナが文言を確認しながら答える。


「そこは区別する。ただ、『院内留置』という表現は事実と違う。ラウルは骨折治療中で、医療上の理由から移動させていない」


「武器を返していないのは事実だ」


 東門副長が言う。


「院内安全のためだ。そこも理由を明記する」


 ラウルは寝台の上で文書の内容を聞いていた。先ほどより顔色が悪くなっている。


「返すのか」


 院長が彼を見る。


「今の足で歩けると思うか?」


「無理だ」


「なら返さない」


「治安局がそう言ってる」


「治安局は、お前の骨を診ていない」


「俺が戻るって言ったら?」


「今は止める」


「俺の意思でも?」


「骨折した足で割れた門の向こうへ戻ろうとする患者を、治療師が止める。それを白環では拘束とは呼ばない」


 ラウルは唇を噛んだ。


「向こうは、そう思わない」


「なら、向こうがそう主張したことまで残す」


 ミレナは新しい記録紙を引き寄せた。


「返答は簡潔でいいわ。『ラウル・エステンは右足首骨折のため現在移動不適。本人の生命および身体保護上、治療完了前の移送は認められない。武器は本人救助時に院外側へ残され、白環が奪取した事実なし』」


 ラウルが顔を上げる。


「剣は向こうに置いてきた」


「それを見た人間がいるし、記録もある」


「戻った時になくなってるかもしれない」


「それは、今の私たちには分からない」


 ミレナは迷わず答えた。


 ◇


 白環からの返答が割れた正門越しに渡される頃には、外の空は夕焼けから深い青へ変わり始めていた。灯りを増やせば外から人の位置が分かりやすくなるため、玄関広間では必要最低限の明かりだけを石壁の陰へ置き、第一板と第二板の状態は伝令と護衛が手で触れながら確認している。


 その向こうでは、治安局の盾兵たちが再び列を作っていた。大きな盾が一枚、また一枚と並び、割れた正門の先を濃紺と鉄の壁で覆っていく。その重い音を処置室から聞いたラウルは、僅かに顔を横へ向けた。


「見たい?」


 アイリが尋ねる。


「いや」


 答えは早かった。


「さっきまで、あそこにいた」


「うん」


「こっちから聞くと、音が違うな」


「どう違うの?」


「……怖い」


 ラウルは短く答え、自分でもその言葉が意外だったのか、僅かに息を吐いた。


「向こうにいた時は、盾が並ぶ音を聞くと安心した。前に壁ができるから。でも、こっちから聞くと何人いるのかも、誰が来るのかも見えない。ただ鉄の壁が近づいてくる音に聞こえる」


 アイリはすぐには答えなかった。自分たちも同じだった。大盾が並べば、その奥にいる者の顔は見えなくなる。名前も分からない。矢を射った者と射っていない者、門を壊したい者と命令に従っているだけの者、その区別は一枚の盾に隠され、簡単に「治安局」という一つの形へ塗り潰されてしまう。


「ラウル」


「何だ」


「向こうにいる人の名前、知ってる?」


「何人かは」


「全部じゃなくていい」


 ラウルはしばらく考えた。


「俺の後ろにいたのは、ベイル。ベイル・オルセン。左側にいたのは……たぶんダイン。今朝、一緒に回された」


「その人たちが次に入ってくるかは?」


「分からない」


「そっか」


 アイリはそれ以上聞かなかった。


 少し離れた場所で会話を聞いていたミレナも、その二人の名前をすぐ公的な記録へ書き加えることはしなかった。ラウル自身が「たぶん」としか言えない名前まで、確定した情報として扱う必要はない。ただ、大盾の向こう側にも一人ずつ名前を持った人間がいる。その事実だけは、もう忘れようがなかった。


 玄関広間の確認を終えたエリリアも中央回復室へ戻っていた。風は一度も使っていない。それでも二枚の防壁は正門が破られた後も残り、侵入を遅らせただけではなく、一人の人間を押し潰さず救い出すために、その構造を活かすことができた。


「第一板は?」


 レンが尋ねる。


「少しずれましたが、まだ使えます。右下の支えも直しました。第二板に異常はありません」


「風なしで?」


 アイリが僅かに笑いながら聞くと、エリリアも小さく笑った。


「今日それを何度聞くつもりですか」


「確認」


「使っていません」


「使いたかった?」


「何度も」


「でも使わなかった」


「ええ」


 エリリアは割れた正門の方角から流れ込んでくる僅かな風を頬に感じながら、静かに続けた。


「大盾の向こうが見えないからといって、風で全部を探ればいいわけでもありません。見えないなら聞いて、確かめて、分からないところは分からないまま残す。それでも、助けられる人はいました」


「一人だけどな」


 レンがラウルの寝台へ視線を向けると、ミレナが静かに答えた。


「一人だからでしょう。『治安局兵一名』なら数字に戻せる。でも、ラウル・エステンなら、そう簡単にはいかない」


 その時、外で大盾が一斉に石床へ置かれる重い音が響いた。ラウルの身体が反射的に僅かに強張り、今度は彼自身がその音を大盾のこちら側から聞いていた。


 白環治療院にとって、大盾の向こう側にいる者たちが依然として危険な存在であることは変わらない。矢を放った者がいる。門を破った者もいる。次の命令一つで再び前へ進んでくる者もいるだろう。それでも、その全員を一つの顔へ塗り潰すことはしない。


 大盾の向こうにも、一人ずつ名前がある。そして今、その意味を誰より強く感じている一人の治安局員が、白環の寝台から、自分がつい先ほどまで立っていた盾の列の音を聞いていた。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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