第二章 第三十三話 風に頼らぬ防壁
午後へ入っても、白環治療院を囲む高所の武装員は撤収しなかった。午前中ほど頻繁ではないものの、忘れた頃に一本、さらに間を置いて二本と矢が飛来し、屋根や外壁へ鈍い衝撃音を残していく。石室前では昼前の一斉射で傷んだ防壁の交換が終わり、子供たちは補強された二枚の扉板と寝具の奥で過ごしていた。南側の処置室で矢傷を負った助手も容体を安定させ、院内では負傷者の処置、割れた窓の補修、患者移動の記録が途切れることなく続いている。治安局へ送った追加照会に対する返答だけはまだ届かず、正門の内側には受領時刻を書き込むための欄を空けた記録紙が置かれたままだった。
中央回復室では、エリリアが割れた鎧戸から入り込む午後の風を頬に受けていた。淡い銀髪の先が僅かに揺れ、頬へかかっていた一房が耳元へ流れていく。その動きが分かるからこそ、ほんの少し意識を向ければ風へ魔力を重ねられることも分かっていた。彼女の風は消えていない。長く続いた旅と戦闘、その後の消耗からまだ十分に回復しておらず、院長から使用を止められているだけだった。それでも外壁へ矢が当たるたび、身体の奥では反射的に魔力を動かそうとする感覚が生まれ、その都度エリリアは意識して力を留めていた。
「また使いたくなった?」
隣からアイリに尋ねられ、エリリアは窓ではなく自分の右手へ視線を落とした。指先に光はなく、風も集めていない。
「なりました。今の矢も、外壁へ当たる前に風を押せば少しは逸らせたかもしれません」
「でも、使わなかった」
「今は、それが決めたことですから」
アイリは少し安心したように頷いた。午前中のような強い動揺はもう見えないものの、遠くで矢音が響くたび身体が僅かに強張ることはある。それでも右手が存在しない剣を探すことはなくなり、怖い時には怖いと口にできるようになっていた。
「使わないの、怖くない?」
「怖いですよ。使えばできることがあると分かっているのに、それをしないで見ているのは好きではありません。でも、今の状態で一度使ったあと、次にも同じように使えるとは限らない。もっと消耗して、本当に必要な時に何もできなくなるかもしれない。それも事実です」
「じゃあ、今は残してる?」
「それだけでもありません」
エリリアは少し考え、椅子の背へ身体を預けた。
「風を使えなければ何もできないと、自分で思い始めるのが嫌なんです」
アイリはすぐには答えず、しばらくエリリアを見つめた。
「私も、剣がなかったら何もできないって思いかけた」
「知っています」
「昨日までは、そうじゃないって話してるだけでもよかった。でも今日は、本当に剣を使わないまま何かしないといけないんだね」
「そうですね」
二人がそれ以上続ける前に、廊下から速い足音が近づいた。東門副長が一枚の記録板を手に中央回復室へ入り、室内を見回してから正門前の変化を告げる。
「外の配置が変わった。高所の弓兵はほぼそのままだが、地上に治安局の盾を持った者が集まり始めている。今のところ確認できたのは十二。ほかに長い木材、太い縄、鉄帯、金槌や留め具らしい物も運び込まれている」
ガリックが椅子から顔を上げた。午後になっても左脚には強張りが残り、脇腹の傷もまだ治療途中であるため、杖はすぐ手の届く位置へ立てかけてある。
「何を組んでる」
「まだ形になっていない。長材を二本並べ、その横へ短い材を置いている。車輪らしい物も一対あるが、何に使うかまでは分からん」
「門を壊す道具にも見えるな」
そう口にした直後、ガリック自身が僅かに眉を寄せた。
「……いや、そこまでだ。長い木材と鉄具があるからって、破城用と決まったわけじゃない。道路を塞ぐ柵にも、盾の支えにも、別の設備にも使える」
「だから記録には用途不明とした」
東門副長が記録板を示す。そこには確認時刻、人数、運び込まれた物の特徴と位置だけが簡潔に記され、その目的についての推測は含まれていなかった。
「ただ、正門前の道だけは広く空け始めている。荷車も歩行者も、治安局側が南北へ迂回させている」
院長の表情が険しくなる。
「それは昨日までと違うな」
「ああ。門の正面だけ、何も置かないようにしている」
「破壊準備とはまだ言えないけれど、正面から何かを動かすための空間を作っているようには見えるわね」
ミレナは推測を事実と混ぜないよう言葉を選びながら、記録紙へ新しい時刻を書き加えた。
「目的は未確認。正門前の空間を確保。盾兵十二。長材、縄、鉄帯、工具を確認。残すのはここまで」
「外へ確認に出る必要はない」
院長が釘を刺すと、東門副長も迷わず頷いた。
「正門の内側から見える範囲だけで十分だ」
しばらく全員が黙り、ガリックが治療院の簡略図を自分の方へ引き寄せた。
「用途が何であれ、門へ強い力を掛けられる可能性は考えておくべきだ」
「患者を前へ出して支えさせる案なら却下だ」
「まだ何も言ってない」
「お前は壁が足りなくなったら、自分か誰かを壁にする」
「最近はしてない」
「しようとはするだろう」
「……そこは否定しにくい」
ガリックが不満そうに口を閉じたところで、簡略図を覗き込んでいたアイリが考えながら言った。
「人が立たなくてもいい形にすればいいんじゃない? 石室の防壁みたいに、板を誰かがずっと持たなくても、床や壁へ力を逃がせたでしょう」
「石室の板と正門では受ける力が違う」
ガリックは図の正門部分を指で叩いた。
「矢なら板へ角度をつければ逸らせる。重い物を真正面からぶつけられたら、固定が甘ければ板ごと持っていかれる」
「では、一枚で真正面から受けなければいいのではありませんか」
エリリアの言葉に、ガリックが顔を向ける。
「どういう意味だ」
「正面へ一枚の壁を作れば、押す力を全部その壁で受けることになります。門を抜けたあとも真っ直ぐ進める形なら、押す側に有利です。だから板を斜めに置いて、進む方向そのものを変えます」
エリリアは簡略図へ手を伸ばしかけ、途中でアイリへ視線を向けた。
「描いてもらえますか」
「もちろん」
アイリが炭筆を取り、図の正門部分へ身を寄せる。
「正門の内側には短い玄関広間がありますよね」
「ある。その先で中央廊下が少し狭くなる。右に受付室、左に古い診察室だ」
東門副長の説明を聞き、エリリアは図の上へ二つの角度を示した。
「玄関広間へ最初の板を、右側の柱から左前へ斜めに置きます。正面を完全に塞ぐのではなく、入ってきたものを左へ向ける角度です。二枚目は少し奥へ離し、今度は左側から右へ置く。真っ直ぐ進むには二度向きを変えなければならない形にします」
アイリが二本の斜線を描き終える。
「折れ道みたい」
「そうです。完全に閉じれば治療院側の移動まで止まりますから、中央には狭い通路を残します。ただし、外から大きな物を正面へ押し込んでも、そのまま通過できない幅にする」
「その板を誰が持つ」
「誰にも持たせません。柱と梁、それから床側の支えを使います」
エリリアは図の左右を順番に指した。
「上端は一本の縄へ頼らず、二本を別々の梁へ取ります。下端には横木を当て、その後ろへ満水の樽か砂袋を置く。一つの支えが外れても、全部が同時に倒れない形にします」
「縄を切られたら」
「片方は残ります」
「下から押されたら」
エリリアが考えるより先に、ガリックが図の下へ指を置いた。
「横木だけでは足りん。壊れて使えない寝台の鉄枠を横に寝かせろ。板の下端をそこへ噛ませて、その後ろに樽を置けば、板が滑る前に鉄枠が柱へ当たる」
「それなら床を掘らなくてもいいですね」
「ただし、仮に重い槌みたいな物を何度も当てられたら長くは持たん」
「長く持たせる必要はありません」
エリリアは迷わず答えた。
「患者と職員が安全な場所へ移る時間を作れればいいんです」
院長は図に描かれた二枚の板をしばらく見つめた。
「攻め返すための壁ではなく、患者を逃がす時間を作る遮蔽物か」
「はい」
「それなら治療院として準備する意味がある」
その判断を聞いたミレナは、新しい紙を取り出して目的そのものを記録し始めた。
「『正門付近の外部配置変化に伴う患者保護用遮蔽物の準備。攻撃用設備ではなく、院内への直線的侵入および飛来物による危険を減らし、安全な患者移動時間を確保することを目的とする』。これも残しておくわ」
「そこまで書くのか?」
「あとで『白環が治安局への攻撃準備を始めた』と書かれたくないでしょう」
「……書かれそうだな」
「だから、こちらが何を目的に何をしたのかを先に残す」
エリリアは完成しつつある図を見ながら、無意識に窓の方へ意識を向けた。風を使えば、玄関広間の奥行きや開口部から入り込む空気の流れを利用し、壁や柱との距離をもっと早く掴める。以前なら自分で現場へ立てば済んだことを、今は図面と他人の説明へ頼らなければならない。その事実に焦りがないわけではなかったが、右手は膝の上から動かなかった。
「現場を見に行きたい?」
レンが気づいて尋ねる。
「見たいです」
「風も使いたい?」
「使いたいです。でも、行かなくても測ってもらえます。使わなくても考えられます。玄関広間の幅、梁の高さ、柱同士の距離を正確に測ってもらえれば、私が直接行く必要はありません」
院長はその答えを聞き、改めてエリリアの状態を確認した。
「疲労は?」
「身体は五くらいです。魔力の消耗は数字にしにくいですが、まだ重い感覚があります」
「なら座ったまま続けろ。風の使用は禁止のままだ」
「分かりました」
エリリアは素直に受け入れた。悔しさを感じることと、その悔しさを理由に決めたことを破ることは別だった。
◇
正門から戻った測定結果をもとに、玄関広間の遮蔽物づくりが始まった。使われたのは、治療や防火に必要な扉ではなく、現在使っていない古い診察室から外した厚板二枚、損傷して廃棄予定だった寝台の鉄枠、満水にした樽四つ、砂袋、太い麻縄だった。作業は健康な護衛と職員が担当し、負傷者や患者を運搬へ加えない。厨房から来た二人が樽へ水を満たし、洗濯場の職員が麻縄の傷みを確認する。誰が何をどこから持ち出したのかは、ミレナと東門副長が並行して記録し、治療院の機能に必要な物まで防壁へ転用しないよう、一つずつ用途を確かめながら進められていた。
「大鍋は使わないの?」
アイリが図を見ながら尋ねると、ガリックの表情が僅かに明るくなった。
「今回は樽で足りる」
「嬉しそう」
「鍋を盾にするのは最後の手段だ」
「そこまで大事?」
「食事を作る道具だぞ」
「寝台は使ってるのに」
「壊れて廃棄予定のやつだけだ」
「扉は?」
「使ってない部屋の物だけ」
「ちゃんと考えてる」
「俺を何だと思ってる」
「大鍋を守る人」
ガリックが言い返すより先に、記録を続けていたミレナが小さく笑った。
「そこは間違ってないわね」
「お前まで乗るな」
短いやり取りの間にも、伝令は玄関広間と中央回復室を往復していた。第一の厚板を右柱から左前へ斜めに置き、上端を別々の梁へ二本の縄で固定する。下端には横向きに寝かせた鉄枠を噛ませ、その後ろへ満水の樽を二つ置く。第二の板は少し奥へ逆向きに配置し、同じように複数の支えへ力を分散させる。二枚の間には人一人が通れる程度の折れ道を残し、担架を運ぶ必要がある間は横木の一部を外して幅を確保できる構造にした。
「完全には塞がないの?」
アイリが尋ねる。
「塞いだら、治療院の方が困ります」
エリリアは図面上の残された通路へ指を置いた。
「外から何か来ることだけを考えて、こちら側の動きを止めてしまったら意味がありません。患者を運べることが最優先です」
「治安局の人が入ってきたら、その隙間を通れる」
「一人ずつなら人数の利点は減る」
ガリックが引き継いだ。
「ただし、こちらからその一人を殴りに行くな。遮蔽物の向こうへ留めることが目的だ」
「護衛の武器は?」
「持ったままだ。だが、こちらから先には使わない」
東門副長は白環側の方針を明確に確認するように続けた。
「仮に門へ実際の破壊行為が始まったとしても、まず警告と停止要求を出す。そのうえで院内へ入らせないために遮蔽物を使う。こちらから外へ出て戦うことはしない」
「それも残しておく」
ミレナが筆を走らせる。
「何をしたかだけじゃなく、こちらが何をしなかったかもね」
エリリアはその言葉を聞きながら、自分がしていることも少し似ているのだと思った。何をしたかだけではなく、風を使わなかったことにも意味がある。魔力を使わずに済む方法があるなら、今はそちらを選ぶ。それは何もしないこととは違う。
玄関広間の第一板が固定されたという報告が届いた頃、外から再び二本の矢が飛び、一つが正門上の石壁へ、もう一つが玄関脇の鎧戸へ当たった。その音にエリリアの指先が反射的に僅かに動いたものの、魔力へ繋げることなく止まる。
「今も使いたくなった?」
アイリが小声で尋ねる。
「ええ」
「我慢してる?」
エリリアは割れた鎧戸から入る風に揺れた自分の髪へ触れ、少し考えてから答えた。
「我慢しているだけではありません。使わない方を選んでいます」
◇
治安局から追加照会への返答が届いたのは、第二の厚板を固定している最中だった。今回も使者は正門の内側へ入らず、封書だけを外から護衛へ渡した。前回と同じ正規印が確認され、受領時刻と受渡人の特徴を記録したうえで、院長、東門副長、ミレナの立ち会いのもと開封された。
回答には、治療上必要な院内移動そのものを一律に禁じるものではない、と明記されていた。しかし、その直後には「監査対象に関連すると治安局が判断する人物または物品の所在変更については、緊急時を除き事前申告を要し、緊急時には事後速やかに報告するものとする」と続いている。さらに、制止措置の対象となるか否かは「個別状況に基づき現場担当者が判断する」とされていたものの、誰が監査対象に関連する人物なのか、何が監査対象物なのかについての一覧や判断基準は示されていない。白環側が二度にわたって回答を求めている火矢の使用についても、今回の文書には一切触れられていなかった。
「一律には止めない。でも、誰が対象なのかは教えない。そのうえで、対象だと判断したら止める」
院長は文面を読み返し、眉間へ深い皺を寄せた。
「患者を動かす前に、その患者が対象なのかどうかをこちらでは判断できんではないか」
「少なくとも、この文面だけではそうなる」
東門副長も表情を崩さない。
「緊急時なら事後報告でいいとは書いてある」
レンが指摘すると、ミレナはすぐに頷いた。
「そこは前より明確になったし、こちらに有利な点だから同じように残す。でも、対象者や対象物の判断基準が開示されていないことと、火矢について二度続けて回答がないことも残す。都合の悪い部分だけ拾う必要はないし、都合のいい部分だけ拾う必要もないわ」
「また照会する?」
アイリが尋ねると、院長は迷わず答えた。
「する。ただし、患者を動かす必要がある時に返答を待つつもりはない。命に関わるなら先に動かし、時刻と理由を残して事後報告する」
「それなら昨日からやっていることと大きくは変わらない」
レンが言う。
「違うのは、向こう自身が緊急時の事後報告を認めたことだな」
「そこは使える」
東門副長も同意した。
ガリックはしばらく返答文を見つめたあと、低く息を吐いた。
「嫌な文章だ」
「六年前と同じ?」
レンが尋ねると、ガリックは少し嫌そうに顔を向けた。
「またそれを聞くのか」
「区別できてるか確認してる」
「できてる。嫌なだけだ。同じだとは言わん」
「ならいい」
「お前、最近俺の監督みたいになってないか」
「ガリックも俺の怪我を監督してるだろ」
「それとこれは別だ」
「似てる」
「同じではない」
記録へ目を落としていたミレナが、堪えきれず僅かに笑った。
「その言葉、本当に便利になったわね」
◇
夕刻が近づくにつれ、正門前の配置はさらに変化した。高所の弓兵はそのまま残っている一方、地上の盾兵は正門正面と左右へ分かれ、中央の道路から人が退かされている。長い木材のうち一本には複数の鉄帯が巻かれ、両側へ太い縄が通されていた。少し離れた場所では木製の枠らしきものが組まれ、その下へ車輪が取り付けられ始めている。
鎧戸の隙間から確認して戻った東門副長は、今回も用途を確定させずに報告した。
「長材の先端側へ鉄帯が集中している。枠は正門と同じ方向へ向けられている。門を打つ道具に近い形にはなってきた」
「近い形、だな」
ガリックが念を押す。
「ああ。まだ門へ向けて動かしてはいない」
「完成しても、別の用途である可能性は残る」
「残る」
エリリアは図面から目を上げた。
「なら、こちらも『門を壊される』と決めて動く必要はありません。ただ、門へ強い力が掛かった場合にも使える形で、防壁を完成させておけばいい」
「第二板は固定済みです」
伝令が答えると、エリリアは一つずつ確認した。
「上の縄は?」
「二本ずつ、別の梁へ取っています」
「横木と鉄枠は?」
「追加固定しました」
「樽は?」
「四つとも満水です」
「火への備えは?」
「板の裏へ濡れ布。近くに水桶と砂があります。厨房からも追加できます」
「患者の通路は残ってる?」
アイリが尋ねる。
「担架一台なら通れます。二枚の板の間で一度向きを変える必要はありますが、二人で運べる幅です」
「なら、今はそのままで」
エリリアはそう答えながら、いつの間にか自分が誰より自然に状況を整理し続けていることへ気づいた。魔法は一度も使っていない。風で距離を測ることも、空気の震えから外の人数を読むこともしていない。その代わりに、東門副長の目、ガリックの経験、ミレナの記録、職員が測った寸法、アイリの描いた図を繋ぎ、不足している情報を一つずつ埋めながら防壁を形にしていた。
「どうした?」
レンに尋ねられ、エリリアはほんの少し間を置いた。
「……驚いただけです」
「何に」
「風を使わなくても、思っていたより忙しいことに」
その答えがおかしかったのか、アイリが柔らかく笑った。
「暇になると思ってた?」
「少しだけ」
「残念だったね」
「本当に」
エリリアの口元にも小さな笑みが浮かんだ。それは、風を使わなくても自分には価値があると突然信じられたからではない。そんな答えを一日で出せるほど簡単な話ではなかった。ただ、今ここで自分にできることが風だけではないという事実を、一つ見つけただけだった。それで十分だった。
◇
日が傾き始めた頃、正門前から今までとは違う重い音が響いた。矢が石へ当たる音でも、荷車が通る音でもない。太い木材を複数人で持ち上げ、地面へ下ろしたような低い衝撃が一度響き、中央回復室にいた者たちが反射的に正門方向へ顔を向ける。間を置かず二度目の音が続き、今度は鉄同士が擦れるような音まで僅かに混じった。
「何が起きた?」
院長の問いを受けて伝令が走る間、ガリックは杖へ手を伸ばしかけた。しかし途中で止まり、自分から身体の状態を確認して口にする。
「左脚が五。脇腹は三。背中の古傷は問題なし。俺はここにいる」
「聞く前に言うようになったね」
アイリが感心したように言うと、ガリックは不満そうに眉を寄せた。
「言わないと、お前たちが三人くらい同時に聞くだろ」
「四人かもしれないわよ」
ミレナが加える。
「増やすな」
やがて伝令が戻り、呼吸を整えてから報告した。
「外の長材を木枠へ載せました。正門から十数歩ほど前です。鉄帯を巻いた側が門の方を向いています。ただし、まだ門へ動かしてはいません」
その報告によって中央回復室の空気が僅かに張り詰め、アイリも正門の方へ視線を向けた。
「破城槌に見える?」
ガリックはすぐには答えず、報告された形を頭の中で組み直してから口を開いた。
「かなり近い」
「確定?」
「まだだ」
「でも、準備はする」
「もうできています」
エリリアが静かに答えた。
「第一板も第二板も固定されています。誰かがその前へ立って支える必要もない。患者を運ぶ通路も残してある。外が何をするつもりでも、今この時点で私たちにできる準備は終わっています」
割れた鎧戸から細い風が入り、淡い銀髪を頬から持ち上げた。その流れの向きも強さもエリリアには分かり、意識をほんの少し深く向ければ魔力を重ねて自分の力として動かせることも理解していた。それでも右手を上げることなく、完成した防壁の最後の確認へ意識を戻す。
「第一板の縄を、最後にもう一度だけ確認してください。二本とも別の梁へ取れているか、結び目だけではなく梁そのものに亀裂や傷みがないかも」
「伝えます」
伝令が再び玄関広間へ走っていく。外では木枠の位置を調整しているらしい軋みが続いていたが、まだ門は打たれていない。治安局が何をするつもりなのかも、正式には何一つ示されていない。それでも白環治療院の玄関広間には、誰かが身体で支えなくても立ち続ける二枚の防壁が完成していた。
風はエリリアの銀髪を静かに揺らし続けていた。彼女はその存在を確かに感じながら、最後まで魔力へ手を伸ばさなかった。今この場所で仲間を守っているのは呼び起こした風ではなく、風に頼らず選び取った角度と縄、そして一人では届かない情報を人から人へ繋いで形にした防壁だった。
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