第二章 第三十二話 凍りつく一瞬
石室の外へ斜めに組まれた扉板には、昼前の一斉射によって深い亀裂が走っていた。厚い木を貫いた一本の矢は、その後ろへ何重にも重ねた毛布と寝具の途中でようやく勢いを失い、黒い鏃の先だけを白い布の間から覗かせている。子供たちはもう入口へ近づこうとはせず、治療師の指示に従って厚い石壁の内側へ集まり、誰かが名前を呼べば必ず返事をするという役目を続けていた。矢が外壁や屋根へ当たるたびに肩を震わせる者もいれば、泣き疲れて毛布へ顔を伏せる者もいる。それでも、自分も危険な廊下へ出なければならないと言い張る者はいなかった。怖いまま安全な場所に留まり、隣にいる誰かを一人にしないこともまた人を守る行動なのだと、少なくとも今は受け入れようとしていた。
その輪から少し離れた壁際で、アイリは膝の上へ両手を置いていた。呼吸はすでに戻り、右肩にも包帯を巻いた手首にも新しい異常はない。自分が白環治療院にいることも、目の前にいる子供たちが危険から遠ざけられていることも分かっている。それでも、寝具の奥へ突き刺さった黒い鏃へ視線が向くたび、胸の奥では何かが冷たく縮んだ。ほんの少し前まで、その向こうに見えていたのは石室ではなく、血に濡れた遺跡の床だった。倒れた兄、盗賊の頭領、自分の手で押し込んだ黒銀の剣。あの時の熱も臭いも今ここには存在しないと頭では理解しているのに、身体だけが現在より先に過去を信じ、戦わなければならないという古い命令を残している。
「まだ怖い?」
近くにいた少女に尋ねられ、アイリは反射的に「大丈夫」と答えかけたが、口を開いたところでその言葉を止めた。以前なら、そのまま笑って誤魔化し、自分にも周囲にも平気だと思わせようとしていたかもしれない。
「まだ少し怖い。でも、さっきみたいに動けない感じはなくなったよ」
「じゃあ、大丈夫?」
「大丈夫になってきてる、かな。完全に平気とはまだ言えない」
少女は少し考え、自分の胸元へ小さな手を置いた。
「私も平気じゃない」
「うん」
「でも、ここにいる」
「私もいるよ」
それだけで少女は安心したらしく、他の子供たちのところへ戻っていった。その背中を見送ったアイリは、自分が教えた言葉を今度は自分が受け取っていることに気づき、僅かに目を伏せた。守る者と守られる者は、いつも一方向に分かれているわけではない。今まで自分は誰かを守ることばかり考え、誰かに支えられている瞬間を見落としていたのかもしれなかった。
レンは少し離れた位置で移動椅子に座り、妹の様子を急かさず見守っていた。傷の深い右上腕は動かさず、左手だけを膝へ置いている。石室までの移動で右脚には僅かな張りが出ていたものの、今は歩く必要もなく落ち着いていた。彼自身にも昨夜からの疲労が残っている。それでも妹の呼吸まで数えていそうな視線を向け続けていることに気づき、アイリは少しだけ眉を寄せた。
「そんなに見なくても大丈夫」
「さっき『完全に平気じゃない』って言ったばかりだろ」
「見ないでとは言ってない。そんな顔で見ないでって言ってるの」
「どんな顔だ」
「今にも私が倒れると思ってる顔」
「本当に倒れると思ってたら院長を呼んでる」
「じゃあ、その半分くらい心配してる顔をやめて」
「それは無理だな」
アイリは呆れたように息を吐いたが、それ以上は言い返さなかった。以前なら、心配されることに苛立ち、元気だと証明するために無理をしていたかもしれない。今は、誰かに心配させないためだけに自分の状態を偽る必要はないことくらいは分かっていた。
◇
石室前の防壁を交換する作業が始まったのは、その直後だった。昼前の一斉射で扉板には深い割れ目が入り、同じ箇所へさらに矢を受ければ、次は後ろへ重ねた寝具だけでは止められない可能性がある。護衛二人と治療院の職員が新しい厚板を運び、子供たちは石室の内側で使っていない毛布を畳み、危険な廊下へ出ない位置から入口手前まで渡していく。誰も自分だけで役目を増やさず、外へ出る必要のある仕事は大人が引き受ける。その作業が半分ほど進んだ時、石室から離れた南側の治療廊下で大きな破砕音が響き、続いて金属の盆が床へ落ちる甲高い音と、切迫した複数の声が重なった。
「圧迫して! 手を離さないで!」
「担架をこっちへ!」
「廊下を空けろ、矢を抜くな!」
その声を聞いた瞬間、アイリの肩が強張った。石室の子供たちにも異変は伝わったらしく、何人かが不安そうに入口へ顔を向ける。治療師はすぐに前へ出て、外を見ようと動きかけた子供たちを静かに制した。
「ここから出ないで。状況は大人が確認するから」
護衛の一人が廊下へ向かい、間もなく戻ってくる。
「南側の処置室です。採光窓を抜いた矢が一人に当たりました。治療師が処置しています」
「誰?」
年長の少年が尋ねた。
「名前は確認中だ。ここへは来ない」
子供たちはその説明で僅かに落ち着いたが、アイリの胸には別の重さが残った。誰かが傷ついた。その事実だけが、先ほど鏃を見た時とは違う形で身体の奥へ沈んでいく。
「アイリ」
レンが呼ぶ。
「聞こえてる」
「今は?」
「大丈夫。……たぶん」
「たぶんでいい」
レンはそれ以上問い詰めず、妹が自分で状態を確かめる時間を残した。
しかし数分後、負傷者を中央の処置室へ移すため担架が石廊下の向こうを通った瞬間、アイリの身体は再び止まった。
白い布が、血で濡れていた。
担架に乗せられていたのは白環の若い男性助手で、矢は左鎖骨の下を掠めるように傷つけていた。深く突き刺さったわけではないものの、流れた血は衣服と圧迫布を濃く染め、担架を支える職員の腕にも赤い筋を残している。治療師たちは走らず、それでも急ぎ足で彼を運びながら、呼吸、意識、指先の感覚を途切れなく確かめていた。
その声が、アイリの耳から遠ざかっていく。
視界に残ったのは赤い色だった。血の付いた床、黒銀の剣、倒れた兄、自分の両手。盗賊の頭領の首へ刃を押し込んだ時、掌から腕へ伝わった硬い感触と、その直後に噴き出した熱が一度に蘇る。助けなければならない。止めなければならない。そのためなら、自分が何をしても構わない――あの時の切迫した思考が、現在を押し退けるように浮かび上がった。
気づかないうちに、アイリの右手が腰の横へ動いていた。
そこに剣はない。それでも指は柄を探すように曲がり、存在しない黒銀の剣を掴もうとしていた。
「アイリ」
レンの声が届く。返事をしようとしても喉が動かず、担架の上にいるのは治療院の助手であって敵ではないことも、誰も自分へ襲いかかっていないことも理解しているのに、視界の端で誰かが動くたび、次の瞬間には刃が振り下ろされるような錯覚が消えなかった。
「アイリ、手を見ろ。剣はない」
レンの声が少し強くなる。その言葉に、柄を探していた指が僅かに止まった。
「黒銀剣は保管庫にある。四つの封印もそのままだ。お前の手には何もない。床を見ろ。遺跡じゃない。白環の石床だ」
現在の事実を、一つずつ置いていく声だった。アイリが恐る恐る目を下げると、そこにあるのは血溜まりではなく白灰色の石で、担架の車輪が残した細い水跡と治療師の靴跡が続いている。
「俺を見ろ」
ゆっくりと顔を上げれば、レンがいる。傷ついた右腕を庇い、左手を膝へ置き、琥珀色の瞳でこちらを見ている。あの遺跡で血に沈んだ兄ではない。今ここで呼吸し、自分の名前を呼んでいる兄だった。
「俺は生きてる」
「……うん」
「今運ばれていった人は?」
「治療院の人」
「敵か?」
「違う」
「お前が戦う相手か?」
「違う」
「じゃあ今、お前がすることは?」
アイリはすぐには答えられなかった。身体の奥にはまだ「何かをしなければ」という焦りが残っている。それをそのまま行動へ変えれば、また危険な場所へ飛び出すかもしれない。けれど、何もしなければ誰かが傷つくという恐怖も消えてはいない。
「……分からない」
ようやく出た答えに、レンは迷わず頷いた。
「それでいい。分からないなら、一人で決めない」
その言葉が、先ほどよりも深く胸へ届いた。
石室の中から、年長の少年が恐る恐る顔を覗かせた。
「アイリ。名前、呼ぶ?」
自分たちが何度も繰り返したやり方を、今度は子供の方から差し出してくる。アイリは喉を整え、小さく頷いた。
「お願い」
「アイリ」
「……いる」
それだけで十分だった。少年は安心したように石室へ戻り、アイリはゆっくり息を吐いた。震えはまだ残っている。しかし、存在しない剣を探していた右手の指はもう開いていた。
「今の痛みは?」
レンが尋ねる。
「右肩は変わらない。手首も同じ。胸が苦しいのは傷じゃなくて、怖い方」
「頭は?」
「ここに戻ってきた」
「なら院長にも伝える」
「そこまで?」
「二つ目の約束だろ」
アイリは一瞬だけ不満そうな顔をしたものの、すぐに反論を飲み込んだ。
「……分かった」
◇
中央回復室へ戻った頃には、負傷した助手の処置も進んでいた。矢は左鎖骨の下を浅く抉っていたものの、大きな血管には届いておらず、出血もすでに抑えられ始めている。指先の動きや感覚にも異常はなく、治療師たちは傷口を洗浄したうえで止血と固定を続けていた。その状態を確認してから、アイリは担架を見たことで再び動けなくなり、無意識に存在しない剣を探したことまで院長へ隠さず伝えた。
「どれくらい続いた?」
「長くはないと思う。お兄ちゃんの声は聞こえてた。でも最初は、言葉の意味が入ってこなかった」
「身体が勝手に動いた?」
「右手が剣を探した」
「そのあと危険な行動は?」
「してない」
「呼吸が戻ったあと、今いる場所と周囲の人間は分かった?」
「うん」
院長はしばらくアイリの目と呼吸を確認し、右肩と両手首にも変化がないことを確かめた。
「今日はもう、血の多い処置室には近づくな。怖さを克服するために無理して見続ける必要はない」
「逃げるみたいで嫌だけど」
「避けることと逃げることは違う。今のお前は傷を治しながら、身体に現在を覚え直させている途中だ。慣れればいいというものでもない」
アイリはすぐには答えなかった。少し離れた場所で話を聞いていたエリリアが、その沈黙へ静かに言葉を添える。
「できないことを認めるのは、何もしないことではありません」
エリリアは壁際の椅子に腰掛けていた。顔には疲労が残っているものの、新しい傷はなく、風の魔力も使っていない。昨夜から矢の方向や音を読み続けたことで、魔力とは別の疲れも濃くなっていた。
「私も今は、風を使わないように言われています。使えば何かできる場面があるかもしれません。それでも、使わないことを選ぶ時間が必要です」
「使いたくなる?」
アイリが尋ねる。
「なります」
「子供たちのところに矢が来た時も?」
「ええ」
「それでも使わなかった」
「私一人が風を使わなければ誰かが確実に死ぬ、という状況ではありませんでした。だから、今は使わない方を選びました」
「もし本当にそうなったら?」
エリリアはすぐに答えを作らず、僅かな間を置いた。
「その時は今の身体の状態を伝えて、できるだけ一人で決めないようにします。それでも、相談する時間が残されていないことはあるかもしれません」
「答えになってない」
「答えが決まっていないからです」
その返事に、アイリの口元が僅かに緩んだ。
「五つ目だね」
「ええ。分からないことを、都合のいい答えで埋めない」
会話を聞いていたミレナは、机へ広げた記録紙へ目を落としたまま口を開いた。
「怖い時ほど、綺麗な答えが欲しくなるものよ。誰が悪い、何をすれば助かる、どこまでやれば安全。全部決まっていれば考えなくて済むから」
「記録する人でも?」
「記録する人だからこそね。紙の上なら出来事を順番に並べられる。でも、並べられることと意味が分かることは別よ」
ミレナは負傷した助手の名前と処置開始時刻を確認し、その内容を記してから筆先を止めた。
「恐怖そのものを正確に紙へ書くのは難しい。でも、怖い中で誰が何をしたかは残せる。あなたが動けなくなったことも、レンが現在を確認させたことも、子供が名前を呼んだことも、必要なら事実として残せるわ」
「私が止まったことまで?」
「隠したい?」
アイリは少しだけ迷い、それから首を振った。
「隠したくない」
「なら、それでいい」
◇
治安局から白環の正式な照会に対する返答が届いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。矢が完全に止まったわけではないものの、午前中より射撃の間隔は長くなっている。使者は正門の敷地内へ入らず、外から封書だけを護衛へ渡した。封は治安局の正規印で閉じられており、受領した東門副長は外装、印、受領時刻、受渡人の特徴をその場で記録したうえで中央回復室へ運び込んだ。
院長、東門副長、ミレナ、ガリックが見守る中で封が開かれ、内容が読み上げられた。だが、その返答は白環側が求めた四つの問いへ正面から答えるものではなかった。「監査対象物の無断移動」については、現在進行中の監査に関わるため詳細を開示できないとされている。弓を用いた制止措置については、証拠保全および監査妨害防止のため必要な範囲で認められる緊急措置である、とだけ記されていた。射撃継続の理由についても、「監査対象に関連する人物または物品の所在変更が継続して確認されているため」とあるだけで、何が、いつ、どこからどこへ移されたのかは書かれていない。さらに、白環側が明確に回答を求めていた火矢の使用については、一文も触れられていなかった。
「答えてない」
ガリックが低く言うと、東門副長は文面から目を離さず訂正した。
「正確には、一部について回答を拒み、一部については抽象的な説明だけをしている」
「火矢は?」
「記載なし」
「忘れたとは思えんな」
「そう思うのは自由だが、記録には『回答なし』とする」
ガリックは苛立ったように鼻から息を吐いたものの、それ以上は言わなかった。ミレナは返答文の一節へ指を置き、昨日までの通知との違いを確認する。
「ここ。『監査対象に関連する人物または物品の所在変更』。昨日の『監査対象物』より範囲が広く見える」
「人も含めているな」
院長の顔が険しくなった。
「患者を病室から石室へ移したことまで言っているのか?」
「分からない」
東門副長は即座に答える。
「そう読める余地はある。だが、具体的な対象を開示していない以上、患者移動を指しているとは断定できない」
「なら確認する。治療上必要な院内移動まで制止対象へ含めるつもりなのか、明確に答えさせる。患者を矢から守るために寝台を移したことまで射撃の根拠にされるなら、治療そのものが成立しない」
「追加照会を出す」
「すぐに頼む」
レンは少し離れた位置からやり取りを聞きながら、首元の銀縁のロケットへ一度だけ触れた。即時保全審査で定められた条件は守られており、ロケットは彼の首から離れていない。黒銀剣も武器保管庫から動いておらず、四者の封印は今朝の確認以降も破られていなかった。
「俺たちが動かしたと確認できる監査対象物はない」
「こちらで把握できる範囲ではな」
東門副長が答える。
「黒銀剣は動いていない。ロケットも条件内だ。六年前の資料も保管場所から移していない。回収した矢は証拠として院内で移しているが、それを治安局が監査対象に指定したという通知はない」
「人なら?」
アイリが尋ねた。
「患者はずっと移してる」
院長が返答文を睨む。
「それを止めろというなら、治療そのものを止めろと言っているのと同じだ」
「まだそこまでは書かれていない」
ミレナが静かに言う。
「でも、書かれていないから安全だとも言えない。追加で確認するしかないわ」
ガリックは返答文を黙って見つめていた。その表情に気づいたレンが声を掛ける。
「どうした?」
「六年前も、最初は言葉だった。命令、規則、輸送の都合、守るべき積荷。俺が見たものより、紙に書いてある言葉の方が正しいと言われた。今も似た嫌な感じはする」
「同じだと思う?」
「そこまでは言わん」
答えに迷いはなかった。
「似ている。それだけだ。今の治安局が六年前と同じことをしている証拠にはならん」
レンはその区別を聞いて頷いた。
「怖い?」
「ああ」
「痛みは?」
「左脚が五。脇腹は三。背中の古傷は痛んでない」
「なら、そのまま座ってろ」
「お前に言われると腹が立つな」
「俺も座ってる」
「だから余計にな」
張り詰めていた空気が、ほんの僅かに緩んだ。
◇
午後に入る前、昨夜から保存されていた回収矢について、東門副長とガリックが改めて確認を行った。これまでは素手で触れず布へ包み、外観と大まかな形状だけを記録していたが、治安局への追加照会とともに現状を残すため、院長の許可を得て寸法と構造をより詳しく確認する。矢柄は暗い木材で、羽根は薄い灰色。鏃は細身で、深く刺さることを目的とした形に見える。ガリックは矢柄の長さと重心、羽根の取り付け方を順番に見ながら、六年前に森から撃ち込まれた矢の記憶と慎重に照らし合わせた。
「どう?」
ミレナが尋ねる。
「軍用に近い作りなのは変わらん。長さも、俺が覚えている六年前のものと大きくは違わない」
「同じ?」
「まだ言えない」
ガリックは鏃の付け根へ目を凝らした。
「六年前の矢は製作者の印が削られてた。今のも、ここをもっと詳しく見ないと分からん。削った跡があるようにも見えるが、木目や摩耗かもしれない」
「なら、そのまま残す」
ミレナは記録紙へ、
『回収矢一本。軍用に近い寸法。六年前に確認した矢との外形上の類似あり。鏃根元に加工痕らしき箇所を認めるが、刻印除去痕か否か未確認』
と記した。
「随分慎重だな」
「あなたが慎重だからよ」
「昔の俺なら、同じだと言ってた」
「今は?」
「言いたい」
「でも?」
「言わない」
ミレナはそれ以上何も言わず、記録を乾かすため紙を少しずらした。六年前の矢と、現在白環へ撃ち込まれている矢。形は似ており、使われ方にも不快な共通点がある。それでも、似ているものを一つの答えへ押し込めない。その習慣は彼ら全員にとって以前より難しく、同時に以前より重要になっていた。
◇
追加照会を書き終える頃には、白環の中で患者の移動方法そのものも見直され始めていた。治安局の返答が具体性を欠いたまま「人物の所在変更」を制止措置の理由へ含めた以上、治療上必要な移動を止めることはできなくても、その一つ一つを以前より明確に記録しておく必要がある。誰を、どの部屋から、どこへ、何の治療上の理由で、何時に移したのか。危険な窓から離したのか、処置室へ運んだのか、火災区域を避けたのか。記録が増えれば職員の負担も増えるが、後から「無断で動かした」と扱われた時、患者を守るために必要だった移動であることを示せるようにしておかなければならなかった。
「怪我した人を運ぶたびに紙を書くの?」
アイリが尋ねる。
「全部をその場で長々と書く必要はないわ」
ミレナが答えた。
「名前、出発した場所、移動先、理由、時刻。まず五つだけ残す。詳しいことはあとから補えばいい」
「人を助けるより記録が先にならない?」
「ならないように簡単な形にするの。処置より紙を優先したら意味がないでしょう」
院長も頷いた。
「動かした後でも構わん。ただし、誰か一人が必ず記録を残す」
「名前を呼ぶのと少し似てる」
アイリの言葉に、ミレナが小さく頷く。
「そうね。少し似てる」
子供たちの石室で始まったやり方が、今度は別の形で治療院全体へ広がっていく。人数だけではなく名前を残し、移動した事実だけではなく、その人がなぜそこへ行かなければならなかったのかを残す。人間を数字と移動記録だけへ戻さないために、紙そのものを防壁として使うやり方だった。
その説明を聞いているうちに、南側の処置室から先ほど負傷した助手の状態が安定したという報告が届いた。大きな血管への損傷はなく、出血も止まったという。その知らせを聞いたアイリは、胸の奥へ残っていた冷たさがほんの僅かに緩むのを感じた。
「会わなくていいの?」
レンが尋ねた。
「今はいい」
「怖いから?」
「うん。それもある。でも、生きてるって分かったから、今はそれでいい」
レンは妹の答えに何も足さなかった。アイリは逃げたのではない。今の自分が無理なく立てる距離を、自分で選んだだけだった。
◇
午後の鐘が一度鳴る頃、石室前の新しい防壁が完成したという報告が届いた。壊れた扉板は交換され、二枚目の板を少し離して斜めに置くことで、採光窓から侵入した矢が一直線に石室まで抜けにくい構造へ変えられている。寝具も一か所へ重ねすぎず、二つの板の間へ分散して置かれた。完全な安全ではない。それでも、午前中より危険は確実に減っていた。
アイリはもう一度だけ石室へ顔を出した。今度は治療師と護衛に同行してもらい、行き先と戻る時刻も先に伝えてある。子供たちは彼女を見ると、先ほど話していた少女を中心に一斉に顔を上げた。
「もう怖くない?」
「まだ怖いよ。でも、さっきよりは大丈夫」
「動ける?」
「動ける。でも、今日は血がいっぱいあるところには行かないように言われた」
「怒られた?」
「怒られてはいないと思う」
「じゃあ、休むの?」
「必要な時はね」
年長の少年が少し考え込んでから尋ねた。
「それも、できること?」
「たぶんね」
「たぶん?」
「まだ私も覚えてる途中だから」
子供たちから笑いが起こり、アイリも自然に笑い返した。その声を聞きながら、午前中に自分を凍らせた一瞬を思い返す。怖さそのものが消えたわけではない。血を見れば、また身体が止まるかもしれない。次は今日より長く動けなくなることだってある。それでも、止まった一瞬が永遠に続くわけではないと知った。誰かが名前を呼び、今いる場所を教え、一人で決めなくていいと言ってくれる。そして、自分もその声へ返事をすることができる。
石室を出る前、少女がもう一度だけアイリの名を呼んだ。
「アイリ」
「いるよ」
今度は、振り返るより先に返事ができた。
◇
中央回復室へ戻った時には、治安局への追加照会はすでに正門から送り出されていた。問いは一つに絞られている。
『治療上または生命保護上必要な院内での患者・負傷者の移動は、貴局がいう「監査対象に関連する人物の所在変更」に含まれるか。含まれる場合、その法的根拠と対象範囲を明示されたい。』
まだ返答はない。その間にも、白環治療院では人が動き続けていた。薬を必要とする者は処置室へ運ばれ、窓際が危険なら寝台を石壁側へ移し、負傷した護衛は治療を受け、子供たちは補強された石室へ留まる。誰かに「動くな」と言われたからといって、治療院が人を生かすために必要な動きまで止めることはできなかった。
外から一本の矢が飛び、遠い屋根へ突き刺さる鈍い音がした。その瞬間、アイリの身体は僅かに強張ったが、右手が存在しない剣を探すことはなかった。彼女は膝へ置いた自分の両手を確かめ、そのあと兄を見る。レンもこちらを見ていたが、すぐには何も言わず、妹が自分から現在を選ぶのを待っていた。
「怖い。でも、ここにいる」
アイリが自分から言うと、レンは小さく頷いた。
「俺もいる」
それだけでよかった。
白環治療院の外では、いまだ誰かが「動いた」ことを理由に矢を射ている。その一方で治療院の中では、傷ついた人間を運び、子供を守り、薬を届け、名前と理由を紙へ残すため、人々が絶えず動き続けていた。
凍りついたのは、ほんの一瞬だった。それを永遠にしないために、白環治療院にいる者たちは互いの名前を呼び、怖さを隠さず、それでも次の一歩を選び続けていた。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!




