第二章 第三十一話 子供たちの防壁
夜明けを越えても、白環治療院へ飛来する矢は完全には止まらなかった。昨夜のような激しい一斉射こそ減ったものの、向かいの倉庫から一本、しばらく間を置いて鐘楼から二本、さらに南側から屋根を叩く音が続く。弓兵が何を基準に射撃を継続しているのか、白環側にはまだ分からない。日が昇っても高所の武装員は撤収せず、治安局から届いた「制止措置」という説明も撤回されていなかった。外壁には薄い灰色の羽根を持つ矢が何本も残り、薬草乾燥室の一部は昨夜の火矢で黒く焦げている。それでも正門は閉ざされず、負傷者の処置も朝の配薬も、できる限り平常の手順を保ったまま続けられていた。
昨夜から安全な石造りの部屋へ移されていた子供たちは、ほとんど眠れていなかった。厚い壁に囲まれ、外向きの窓もない部屋ではあるが、屋根や外壁へ矢が当たる音までは遮れない。硬い衝撃音が鳴るたび、小さな子供は肩を震わせ、隣にいる誰かの袖を掴んだ。年長の子供たちは泣かないよう努めていたものの、それが恐怖を感じていないことを意味しないのは、付き添っていた治療師にも分かっていた。
「また?」
八つほどの少女が尋ねると、治療師は落ち着いた声で答えた。
「今のは遠いところだよ」
「ここには来ない?」
「来ないとは言い切れない。でも、この部屋は白環の中でも壁が厚い。みんなをここへ移したのは、そのためだよ」
部屋の隅では、年長の少年が何度も扉へ目を向けていた。昨夜から水を運びたい、包帯を運びたい、怪我をした護衛を手伝いたいと何度も申し出ているが、治療師は一度も彼を危険な廊下へ出していない。
「大人はみんな働いてる」
「外じゃないよ。院内で働いてる」
「でも、矢が来るところでしょ」
「そうだね」
「だったら、僕たちだけここにいるのおかしいよ」
「おかしくない」
「でも、何もしてない」
その言葉を聞いていた別の少女が顔を上げた。
「私も手伝える。布なら畳めるよ」
「僕、水を持てる」
「私も」
次々に声が上がり始めても、治療師はすぐに叱らなかった。彼らが外へ出たがっている理由が、単なる好奇心ではないと理解していたからだ。壁の向こうでは大人が傷つきながら働いている。自分たちだけが守られているという事実が、子供たちなりの罪悪感へ変わり始めていた。
「少し待ってて。できることを考えてくるから」
治療師はそう言い残し、子供たちを残して部屋の外へ出た。
◇
中央回復室へ話が届くと、アイリはすぐに腰を上げようとした。
「行く」
レンが顔を上げる。
「どこへ」
「子供たちのところ」
「一人で?」
「一人じゃ行かない。治療師と一緒。戻る時間も決めるし、走らない。物も持たない。右肩も手首も今朝と変わってない」
あまりにも早い返答に、レンは続けようとしていた言葉を飲み込んだ。
「聞く前に全部言うようになったな」
「お兄ちゃんに言われたくない」
「俺も最近は言ってる」
「最近はね」
記録から顔を上げたミレナが、呆れたように二人を見る。
「二人とも、その話を始めると長いわよ」
ガリックは椅子へ腰掛けたまま、廊下の向こうから届く矢音を聞いていた。左脚は朝から僅かに強張っているものの、脇腹に新しい出血はない。昨夜から何度も弓音を聞き続けたことで疲労は濃くなっていたが、痛みも恐怖も隠さず周囲へ伝えていた。
「石室へ行く道は?」
アイリが尋ねると、ガリックはすぐ簡略図へ目を落とした。
「中央階段は使うな。二階から入った矢が一度通ってる。西側の石廊下から回れ。遠いが、外壁から二枚内側だ」
「矢が来ない?」
「来ないとは言わん。ただ、正面の廊下よりは入りにくい」
「それなら十分」
その返答を聞いたレンも身体を起こし、自分も同行すると告げた。
「俺も行く」
「お兄ちゃんは右腕が」
「歩いて行くとは言ってない」
院長はレンの意図を察し、傷の状態を改めて確認した。
「移動椅子を使うなら許可する。右腕は固定したまま、右脚にも余計な負担を掛けるな」
「分かった」
「アイリも子供と一緒になって荷物を持つなよ」
「持たない」
「絶対に?」
「みんな私のこと信用なさすぎない?」
エリリアが静かに答えた。
「実績がありますから」
「エリリアまで」
短いやり取りのあと、レンとアイリは治療師一人、護衛一人とともに石室へ向かった。エリリアは中央回復室へ残り、建物の構造と射撃の方向を照らし合わせる役を続ける。ガリックもそこから動かず、護衛たちへ安全な廊下の使い方を伝える。ミレナは昨夜からの時刻と負傷者、矢の飛来位置を整理し、東門副長は治安局へ送る新たな照会文を整えていた。五人が同じ場所に集まっていなくても、それぞれの役目が途切れることはなかった。
◇
石室へ入ると、子供たちの視線が一斉にレンとアイリへ集まった。
「お姉ちゃん」
先ほど外へ出たいと言っていた少女が、アイリを見て立ち上がる。
「怪我してるのに、来て大丈夫なの?」
「大丈夫。重い物は持てないし、右肩もまだ治りきってないけど、話すことならできるから」
「それで来たの?」
「うん。できることをしに来た」
何人かの子供はレンの移動椅子を不思議そうに見つめていた。
「お兄ちゃんは?」
「今日は座ってる方が強い」
「座ってる方が強いの?」
「無理して立って倒れたら、みんなの邪魔になるだろ。だから今日は、立たない方が役に立つ」
「じゃあ、座ってる方がいいんだ」
「そういうことだ」
何人かが納得したように頷いたが、年長の少年だけは笑わなかった。
「大人はみんな働いてる」
「ああ」
「怪我してる人も」
「いる」
「僕たちだけ、ここにいる」
アイリは少年の前へ立たず、目線が近くなるよう壁際の椅子へ腰を下ろした。
「何もしてないって思ってる?」
少年が頷く。
「水くらい運べる。僕、もう十二だよ」
「運べると思う。でも、今の廊下を通るなら別の話になる」
「大人は通ってる」
「必要な人だけね」
「だったら、僕も必要なことをすればいい」
「うん」
予想していなかった肯定に、少年が顔を上げた。
「いいの?」
「手伝うこと自体はいい。でも、一番危ない仕事を選ぶことが手伝うことじゃないよ」
「でも、大人ばっかり怪我してる」
「だから代わりに怪我したい?」
少年は答えなかった。その沈黙が何を意味するのか、アイリには痛いほど分かった。
「私もね、誰かを守ろうとすると、自分が傷つくことを忘れる時があるの」
「アイリ」
レンが僅かに表情を変える。
「お兄ちゃんにも聞いてほしいから言ってる」
「やっぱり俺も入ってるのか」
「入ってる」
子供たちの間から小さな笑いが起こった。
「守ることと、自分を捨てることは違うんだって、私も最近やっと分かってきた。まだ上手くできないけど」
「じゃあ、僕たちは何をすればいいの?」
「まず、ここにいる全員を一人にしない」
「それだけ?」
「それが簡単だと思う?」
ちょうどその時、遠くで矢が外壁へ当たり、幼い子供が泣き出した。隣にいた少女が反射的にその子の手を握る。
「今のもそうだよ。水を飲みたい子がいたら渡す。泣いてる子がいたら隣にいる。治療師が布を必要としたら、この部屋の中で畳む。誰かが怖くなって外へ飛び出しそうになったら止める。それから、大きな音がした時は全員の名前を呼んで確かめよう」
「名前?」
「誰もいなくなってないって分かるように」
レンはその言葉を聞き、五人で決めた約束を思い出していた。人を数字だけに戻さない。それを、アイリは子供たちにも分かる形へ変えようとしている。
「人数を数えるだけじゃ駄目なの?」
少女が尋ねる。
「人数も大事。でも、『十人いる』と『あなたがいる』は少し違うでしょう」
まだ完全には理解できない様子の子もいたが、一人の少年が試すように隣の子の名を呼ぶと、すぐに「いる」と返事が返った。さらに別の名前が続けば、少し離れた場所からも「いるよ」と声が上がる。そのやり取りを見つめていた年長の少年は、やがて小さく頷いた。
「それなら僕にもできる」
「うん。できることを選ぼう」
◇
最初に石室近くまで矢が届いたのは、それから半刻ほど後だった。廊下側で激しい破砕音が響き、石室にいた子供たちが一斉に身体を縮める。護衛が扉へ向かおうとした時、外からすぐ声が届いた。
「開けるな! 上の採光窓が割れた!」
扉は閉じたまま保たれ、しばらくして周囲の安全を確かめた護衛が中へ入った。矢そのものを子供たちへ見せることはせず、石室へ続く手前の廊下にある高い採光窓を一本が破り、石壁へ当たって落ちたことだけを説明する。人的被害はない。ただ、同じ場所へ次の矢が入れば、石室前の通路まで届く可能性があった。
「ここも絶対安全じゃないんだ」
年長の少年が言う。
「絶対はない」
レンが答えた。
「だから、安全を増やす」
中央回復室へ伝令が走り、簡略図を見たガリックからすぐ指示が返ってきた。
『扉の真正面へ板を置くな。石室の入口から二歩外へ出した位置で斜めに立てろ。採光窓から入った矢を受け止めるんじゃなく、横へ逸らす。板の後ろへ寝具を重ねろ』
「ガリックらしい」
アイリが言う。
「食べ物のことは書いてないね」
少女が不思議そうに尋ねると、レンが小さく笑った。
「今のところはな」
大人たちが古い扉板を一枚運び、石廊下へ斜めに立て始めた。重い板を子供たちに触らせることはしない。ただ、石室の中にある寝具を入口の手前まで運ぶ程度なら危険はなかった。
「毛布なら私たちも運べる」
「この部屋の中だけならね」
アイリが答えると、子供たちは折り畳んだ毛布や使っていない敷布を入口の手前まで運び、そこから先は護衛と治療師が受け取って扉板の後ろへ重ねていった。薄い寝具だけで矢を止めることはできなくても、板を抜けた矢の勢いを削ぐ助けにはなる。
「箱は?」
少年が空の薬箱を指した。
「使える?」
レンが護衛へ視線を向けると、護衛は箱の大きさと位置を確認してから答えた。
「板の土台にはできる。ただ、中が空なのを確かめてからだ」
中身がないことを確かめた薬箱は大人たちが運び、扉板を支える位置へ据えた。少年は少し不満そうにその様子を見ていた。
「僕たちが持てるのに」
「持てることと、そこまで出ていいことは別だ」
レンが答える。
「さっきお姉ちゃんと同じこと言った」
「俺の妹だからな」
「逆じゃない?」
アイリがすぐに返し、子供たちがまた少し笑った。
出来上がった防壁は、城壁と呼べるほど立派なものではなかった。古い扉板一枚、空の薬箱、折り畳んだ寝具、濡れ布。それでも採光窓から石室へ続く直線を遮り、侵入した矢がそのまま扉まで抜けない角度にはなっていた。
「これで大丈夫?」
少女が尋ねる。
「大丈夫とは言い切らない。でも、さっきよりは安全だ」
「それでいいの?」
「今は、それでいい」
レンの答えに少女は少し考えてから頷いた。安心するためだけに、分からないものを安全だと言い切らない。それもまた、彼らが少しずつ身につけ始めた考え方だった。
◇
中央回復室では、ミレナが石室周辺の防御変更も記録へ加えていた。
「子供たちが毛布を運んだそうだ」
ガリックが伝令の報告を聞く。
「石室の中だけよ」
「分かってる」
「不満そうね」
「俺なら板の位置を直接見たい」
「その左脚で?」
「言ってみただけだ」
「本当に?」
「……半分くらい」
「記録しておこうかしら」
「やめろ」
エリリアは簡略図を見ながら、矢が入った採光窓の位置を確認した。
「石室そのものは厚い壁に囲まれています。危険なのは入口へ続く直線です。ガリックの角度なら、少なくとも最初の勢いは逸らせます」
「同じ場所へ何度も当たったら?」
「板は壊れます。だから、絶対に安全とは言えません」
「なら一斉射の後ごとに護衛が状態を確認する。子供は確認へ出さない」
ミレナがそう言うと、ガリックがすぐ口を挟んだ。
「そこは大きく書け。子供は『見るだけ』って言えば出られると思うからな」
「経験者みたいな言い方ね」
「俺じゃない」
「あなたも昔ならやったでしょう」
「昔の俺なら板ごと窓へ行ってる」
「やっぱり経験者じゃない」
その時、東門副長が新しい文書を手に戻ってきた。
「内容を確認してくれ」
白環側から治安局へ送る正式な照会には、昨夜から続く射撃について四点が記されていた。治安局がいう「監査対象物の無断移動」が具体的に何を指すのか。患者のいる治療施設へ弓を用いた制止措置を行う法的根拠は何か。無断移動とされる行為が現在も継続していると判断する根拠は何か、また射撃を翌朝まで継続する必要性は何か。そして、火矢が使用された事実と、その必要性についてである。
「ロウ宛て?」
ガリックが尋ねる。
「治安局東地区監査担当宛てだ」
「名前を入れないのか」
「この射撃を誰が命じたのか確認できていない。現場担当がロウでも、それだけで発射命令者とは書けん」
ガリックはしばらく文書を見つめたあと、その判断を受け入れるように頷いた。
「それでいい」
六年前なら、名前を見た瞬間にすべてを結びつけていたかもしれない。今もロウを信用してはいないし、恐怖も怒りも消えていない。それでも、知らないものまで知っていることにはしない。
「送る」
東門副長はそう告げながら文書を折り、封をする準備に入った。
「返事がなければ?」
「返事がなかった時刻も残す」
ミレナが答えた。
◇
昼前になると、石室周辺へ再び矢が集中した。最初の一本が高い採光窓に残っていた木枠を破り、二本目は石壁へ当たって床へ落ちる。三本目は外側へ斜めに立てた扉板へ突き刺さり、鈍い衝撃音が厚い石壁を通して室内まで響いた。
幼い子供が泣き出すと、年長の少年がすぐ振り返った。
「名前、呼ぶぞ」
最初の名を呼ぶ。
「いる」
二人目。
「いるよ」
三人目。
「ここ」
声が順番に返ってくる。泣いていても構わない。震えていてもいい。返事ができなければ、隣にいる子が代わりに確かめる。さらに名前が続くたび、「いる」「いるよ」「ここにいる」と異なる声が重なり、アイリもその輪の中で一人ずつの返事を聞いた。レンも入口から十分離れた位置で椅子に座ったまま、誰の声も途切れていないことを確かめていた。
「全員いる」
年長の少年が最後に言った。
「うん。それが今の仕事」
「でも、矢は止めてない」
「止めなくていいよ」
少女は入口の向こうにある防壁を気にするように視線を向けた。
「じゃあ、防壁ってあの板?」
アイリはすぐには答えず、子供たちと扉の向こうを交互に見た。
「板も防壁。でも、それだけじゃないと思う」
その答えを最後まで言う前に、再び外で複数の弦音が重なった。レンの表情が変わる。
「伏せろ」
ほぼ同時に廊下から護衛の警告が届き、屋根、外壁、採光窓、石室に近い廊下へ激しい衝撃音が続いた。一本の矢が斜めの扉板へ突き刺さり、板全体が大きく揺れる。二本目は石へ弾かれ、三本目が最初の矢で傷ついた部分へ食い込むと、木が裂けて鏃が板を抜け、そのまま後ろに重ねていた毛布を貫き、折り畳んだ厚い寝具へ深く突き刺さった。子供たちから数歩しか離れておらず、黒い鏃の先だけが白い布の間から僅かに覗いている。
その鏃を見た瞬間、アイリの呼吸が止まった。目の前にあるのは一本の矢にすぎない。それなのに、血の匂い、床へ落ちた剣、兄へ向けられた刃、自分の手の中に残った感触が一度に蘇る。誰かを守るなら、自分が前へ出なければならない。動かなければならない。戦わなければならない――そんな古い衝動が、今いる場所を塗り潰しかけた。
「アイリ」
レンの声がしたが、聞こえているはずなのに身体が動かない。
「アイリ」
もう一度呼ばれ、今度は近くにいた少女も声を重ねた。
「お姉ちゃん」
二つの声に引かれるようにアイリの指が僅かに動いたのを見て、レンは急かさず、もう一度だけ現在へ繋ぎ止める言葉を送った。
「ここにいる」
その言葉で、ようやく息を吸えた。浅い呼吸を一度、二度、三度と繰り返し、アイリは震える声で自分の状態を口にした。
「……怖い。今、動けなくなった」
「分かった」
レンは急かさず、ただ現在へ戻るための問いを続けた。
「肩は?」
「痛くない。手首も変わらない。ただ、頭の中が昔に戻った」
「今はどこ?」
アイリは白い石の床、積まれた毛布、子供たち、厚い壁を順番に見た。
「白環治療院」
「誰がいる?」
「みんな」
その返事を聞いた年長の少年は、先ほど自分たちが繰り返したやり方を思い出したようにアイリへ尋ねた。
「名前を呼ぶ?」
アイリは少しだけ笑った。
「お願い」
少年が最初の名を呼び、すぐに「いる」と返事が来る。次の名前にも声が返り、その次にも「ここにいる」と答えが続いた。最後に少女がアイリの名を呼ぶ。
「アイリ」
「いる」
今度は迷わず答えられた。その返事を聞いた少女は自分も同じ場所にいることを確かめるように胸元へ手を置いた。
「私も怖い」
「うん」
「でも、ここにいていい?」
「もちろん。私もここにいる」
アイリはそう答えながら、まだ僅かに震えている手を膝の上へ戻し、逃げることも無理に動くこともせず、子供たちと同じ場所に留まった。
外では矢が飛び続け、斜めに立てた扉板には新しい傷が入り、寝具には一本の矢が深く刺さっていた。それでも子供たちは外へ出ようとはしない。泣いている子へ水を渡し、毛布を掛け、誰かの名前が呼ばれれば声を返す。怖さを隠す必要も、強いふりをする必要もなかった。ただ、一人で消えないよう互いの存在を確かめ続けた。
石室の外に組まれた板と寝具は、飛び込んでくる矢を止めるための防壁だった。その内側で子供たちを守っていたもう一つの防壁は、誰かが名前を呼ぶたびに必ず返ってくる、「ここにいる」という声だった。
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