第二章 第三十話 矢雨の白環治療院
日が落ちた王都の屋根に弦を張った弓が並んでから、最初の矢が放たれるまでには、誰もが予想していたより長い時間があった。向かいの倉庫、古い鐘楼、香料店の屋上、さらに南側の宿屋。白環治療院から確認できる高所だけでも複数の弓兵が残っていたが、誰も矢を番えず、白環へ向けて弓を構える様子もない。正門も開いたままで、通りから人影が完全に消えたわけではなかった。ただ、夜が深まるにつれて一般の往来は目に見えて減り、濃紺の外套を着た治安局員だけが街灯と街灯の間を一定の間隔で動き続けていた。
白環側も、弓が張られたという事実だけで治療を止めることはしなかった。外向きの窓から患者を離し、鎧戸の状態を確かめ、乾燥室と屋根裏へ続く階段の内側には水桶と濡れ布を置く。それでも、すべての部屋を封鎖したり、正門へ家具を積み上げたりはしない。まだ矢は一本も飛んでいない。恐怖だけを理由に自分たちで治療院を閉ざせば、外から何をされるより先に、白環自身が白環であることをやめてしまう。
中央回復室では、ミレナが夕方までの記録の続きを書き、東門副長が白環へ射線を取れる位置へ武装員を置く必要性について、治安局へ送る問い合わせ文を整えていた。ガリックは左脚へ負担を掛けないよう椅子へ深く腰掛け、窓から離れた位置で外の音だけを聞いている。
「返事はまだ?」
アイリが尋ねる。
「ない。夜間配置の目的と、白環へ弓を向けられる位置へ立つ必要があるのかを問い合わせた。届いているなら、返答は向こう次第だ」
「弓兵がこっちを狙ってないなら、今夜はこのままなのかな」
「そうかもしれません。ただ、弓をすぐ使える状態へしたこと自体は昨日までと違います。警戒は必要です」
エリリアが答えると、アイリは今度はガリックへ目を向けた。
「怖い?」
「ああ。弦が張られてから、ずっと嫌な感じがしてる」
「六年前と同じ?」
「そう言い切るのは違う。同じなのは、俺が弓の音を嫌いだってことだけだ」
ガリックは右肩を一度動かし、そこに痛みがないことを確かめた。
「背中の古傷は痛んでない。左脚も脇腹も朝から変わらん。ただ、何かの音を待ってる身体になってる」
「何の音?」
レンが尋ねる。
「矢を番える時の音だ」
その言葉が終わった直後、外で短く乾いた弦音が鳴った。全員の顔が上がり、続いて鋭い風切り音が一つだけ夜気を裂く。矢は窓へ飛び込んではこなかった。正門の上に掲げられた白環治療院の木製看板から少し外れた石壁へ鏃が当たり、硬い音を残して地面へ落ちた。中央回復室にいた誰もが一瞬だけ動きを止めたが、ミレナはすぐに炭筆を握り直した。
「一本」
「どこから?」
レンが尋ねる。
「向かいの倉庫だ」
東門副長は窓へ近づかず、廊下奥の確認場所から届いた職員の報告を聞いて答えた。
「白環を狙ったの?」
アイリが尋ねる。
「建物には当たった。だが、最初から白環の壁を狙ったのか、通りへ向けたものが逸れたのかまでは分からん」
ミレナは時刻を書き、射手の位置と人的被害がないことだけを記録した。
「警告かな」
レンが言った。
「そうかもしれない。でも、今はそこまで書かない」
半刻も経たないうちに二本目が来た。今度は鐘楼側から飛び、白環の二階窓ではなく、外壁に掛けられた雨除けの木枠へ刺さった。三本目は倉庫側から放たれ、正門脇の木柱へ深く突き立つ。その三本を確認したところで、院長は患者の安全を優先し、配置を一段階変えることを決めた。
「外向きの病室から、動かせる患者を内側へ移す」
「全部?」
レンが尋ねる。
「射線が通る部屋だけだ。動かす方が危険な患者はそのままにして、窓との間へ板を置く。治療は止めない」
「護衛は屋根へ?」
「上げない。弓兵から見える場所へ人を出す理由がない」
「正門は?」
「まだ閉めない。ただし、外へ出る者には今起きていることを必ず説明する」
院長の指示はすぐ各病棟へ回された。治療師と助手は走らず、患者を一人ずつ内側の部屋へ移していく。洗濯場から厚手の布が運ばれ、厨房からは水桶が追加される。護衛も外へ飛び出さず、窓へ近づかなければ通れない廊下だけ古い扉や木板を斜めに立て、矢が奥まで真っ直ぐ抜けないようにした。その間にも四本目が屋根瓦を一枚割り、五本目は西側の鎧戸へ当たって木の表面へ浅く食い込んだ。
六本目が来た時、ガリックは目を閉じた。
「今のは倉庫じゃない」
「分かるの?」
アイリが尋ねる。
「距離が違う。鐘楼の方が音が遅い」
「無理して聞かなくてもいいよ」
「聞いてる方がましだ。どこから来るか分からない方が怖い」
ガリックは意識して深く呼吸した。
「怖さは七くらいだ。でも話せる。左脚が少し固まってる。脇腹は変わらん」
「なら、そのまま座ってて」
「言われなくても立たん」
「本当に?」
「今日は本当だ」
その会話の最中、外で複数の弦音がほとんど重なった。ガリックの顔色が変わる。
「伏せろ」
声は大きくなかったが、中央回復室にいた全員が反応した。
直後、夜の空気が一斉に裂けた。一本ずつなら細い風切り音にすぎない。それが幾つも重なると、巨大な布を力任せに引き裂いたような響きへ変わる。矢は白環の屋根、窓、正門周辺へ散り、瓦を割り、外壁へ跳ね返り、鎧戸へ突き刺さった。二階の廊下で何かが砕け、別の病棟から悲鳴が上がる。
「一斉射! 全員、窓から離れろ! 廊下の中央へ飛び出すな!」
東門副長の声が響いた。
中央回復室の鎧戸にも一本が当たり、大きく震えた。別の矢は窓枠の木を欠けさせたが、室内へは入らない。レンは右腕を身体へ寄せながら椅子を壁側へ引こうとしたものの、左手だけではうまく動かせなかった。
「アイリ、手首を使うな」
「でも、もう少し離れた方がいいよ」
「俺はいい。助手を呼ぶ」
その時、ガリックが反射的に立とうとした。
「ガリック」
アイリの声が飛ぶ。
「分かってる。立たん」
彼はすぐ椅子へ戻り、近くの助手へ声を掛けた。
「レンの椅子を壁側へ半歩。窓の正面へ身体を出すな」
助手が低い姿勢のまま椅子を動かす。
「次が来るまでどれくらい?」
レンが尋ねる。
「分からん。同じ合図で揃えるなら少しは間がある。ただ、次も同じだと決めるな」
「お前からその言葉が出るとは」
「今それ言うか」
ガリックが睨んだ直後、東側から第二の射撃が来た。今度は一斉ではなく、数本ずつが間を置いて飛来し、屋根や外壁へ当たり続ける。明確に一点へ狙いが集中しているわけではなかったが、治療院という建物全体へ矢が届くことだけは十分に分かった。
◇
最初の負傷者が中央処置室へ運ばれてきたのは、その数分後だった。白環の護衛の一人で、外へ出たわけではない。二階西廊下で患者を内側の病室へ移していた際、鎧戸の隙間から飛び込んだ矢が左上腕を掠め、皮膚から筋肉の表面まで大きく裂いていた。
「寝台へ。矢は残っていない。洗浄して縫合する。指は動くか」
「動きます」
「痺れは?」
「ありません」
院長と治療師が処置へ入る横で、ミレナは負傷した時刻と場所を書き留めた。
「名前は?」
護衛が答えると、その名も記録へ加える。
「人数だけじゃないの?」
アイリが尋ねる。
「怪我をした人には名前があるでしょう」
その言葉に、レンは五人で決めた約束を思い出した。人を数字だけに戻さない。それはもう、五人だけが覚えていればいい言葉ではなくなり始めていた。
「矢そのものも残す」
東門副長が、廊下から回収された一本を布に包んで運んできた。
「鏃も矢柄も、そのまま保管する。素手では触るな」
ガリックが顔を上げる。
「見せろ」
「近づけるだけだ。触るなよ」
「分かってる」
副長が数歩離れた位置で布を開いた。矢柄は暗い色の木で、羽根は薄い灰色。鏃は細身だった。
「六年前と同じ?」
アイリが尋ねる。
ガリックはしばらく観察してから首を横へ振った。
「似てる。寸法も軍用に近い。でも、ここから同じとは言えん。六年前の矢は作り手の印が削られてた。これは鏃の根元まで調べないと分からない」
「じゃあ、後で調べる」
「ああ。今はそれでいい」
ミレナは記録へ、『回収矢一本。六年前のものとの類似あり。ただし同一確認なし』と書き加えた。
◇
矢が降り始めても、白環治療院で最も忙しい場所が武器庫へ変わることはなかった。最も人が動いていたのは、変わらず治療室だった。
窓から離した患者の寝台を並べ直し、狭くなった病室でも処置を続ける。怪我をしていない患者のうち動ける者は、治療師の指示を受けて水差しや包帯を運んだ。洗濯場の職員は厚手の布を何枚も裂き、窓の内側へ重ねて吊るす。厨房では水桶と砂袋を廊下の角へ移しながら、同時に夕食の準備も止めなかった。
「火を全部消さなくていいのか」
レンが尋ねる。
「治療用の湯までなくしたら困る。厨房の大火は落とすが、小さな炉は残す」
院長が答えると、ガリックがすぐに口を挟んだ。
「食事は?」
「作る」
「全員分?」
「作ると言ってるだろう」
「子供と重傷者から先に」
「分かってる!」
廊下の向こうから料理長の声が飛んできた。
「今度また同じこと聞いたら、あんたの分だけ最後にするよ!」
「それは治療に悪い!」
「腹の減り方だけは健康だね!」
近くで包帯を畳んでいた患者が思わず笑い、緊張で泣きそうになっていた子供も小さく口元を緩めた。ガリックは不満そうだったが、それ以上は口を挟まない。その束の間の笑いも、次の射撃が始まるとすぐに消え、室内の意識は再び矢音へ向いた。
エリリアは窓へ近づかず、外から聞こえる弦音と矢が当たる方向だけを聞き分けていた。風を使えばもっと正確に分かるかもしれない。それでも今は使わない。
「東から三本。少し遅れて鐘楼側」
「交互に射ってる?」
レンが尋ねる。
「まだ規則と呼べるほどではありません。ただ、一度に全部を射つより、場所をずらしているようには聞こえます」
ガリックが頷いた。
「射手同士が勝手に合わせてる可能性もある。指揮の合図があるかは分からん」
「なら、矢が飛んだ位置だけ使う。意味までは決めない」
「そうですね」
白環の護衛たちは、その情報を患者の移動に利用した。矢が西側へ集中した直後は東の内廊下を使い、東側へ音が移れば西の石壁沿いを通る。ただし、次の矢が来ないと考えて身体を晒すことはなく、古い扉や厚い板を必ず外側へ置いた。
レンたちは直接誰かを運ぶことができない。それでも、何もできないわけではなかった。レンは各病室から届く報告を一つの卓へ集め、患者の移動が重ならないよう順番を整理する。アイリは伝令に来た助手や患者へ、誰がどの部屋へ移ったのかを繰り返し確認し、名前の抜けを防ぐ。エリリアは音と建物の構造から、窓際を避けて通れる道を考える。ガリックは街道警備隊だった頃の知識を使い、矢が通りやすい直線の廊下と、石壁の陰へ逃れられる場所を伝える。ミレナは射撃の時刻、負傷者、届いた通知、外から聞こえた声の有無まで、確認できたことだけを書き続けた。
五人の誰も、今は剣を振って外へ出ることができない。それでも五人が黙れば、白環の中から一つずつ判断材料が消えていく。
◇
夜がさらに深くなった頃、初めて火の付いた矢が飛んだ。大規模な一斉射ではなく、一本だけだった。赤い光が夜空を横切り、薬草乾燥室の外側へ落ちる。乾いた木枠へ炎が移り、すぐに細い煙が立ち上った。
「火!」
二階から声が響いた。
昼間に準備した水桶と濡れ布がすぐ運ばれた。厨房係と洗濯場の職員、白環の護衛は屋根へ出ることなく、乾燥室の内側から燃えた部分の周囲へ水を掛ける。外壁側の火へ直接近づくことはできないため、中央棟へ燃え移らないよう防火扉を閉め、内側の木材を先に濡らした。
「乾燥薬草は?」
老薬師が尋ねる。
「不足分と高価なものは昼のうちに移しました」
「残りは?」
「煙が入る前に運べる分だけ」
「全部を取りに行くな」
院長が強く言った。
「薬より人が先だ」
老薬師は一瞬だけ悔しそうな顔をしたものの、反論しなかった。職員たちは口元へ濡れ布を当て、扉近くに残っていた薬草箱だけを内側へ引き寄せ、それ以上は火の状態を見て諦めた。数分後には炎も消え、薬草乾燥室の外壁は一部黒く焦げたものの、中央棟まで燃え移ることはなかった。
「昼に準備してなかったら?」
アイリが尋ねる。
「もう少し燃えていただろう」
院長が答える。
「準備してよかったね」
「まだ次が来るかもしれん。水は補充する」
ガリックが言った。
「食事用の水を全部使うなよ」
「そこまで心配するのか」
「する」
院長は疲れたように額を押さえた。
◇
深夜近く、治安局から一通の文書が届いた。白環の職員が正門で受け取り、届けに来た治安局員は院内へ入らなかった。
文面は短い。東地区において監査対象物の無断移動を疑わせる行為が確認されたため、高所配置員による制止措置を実施した。一般住民を対象とした攻撃ではなく、今後も監査への協力を求める――そう記されていた。
「無断移動?」
レンが紙を見る。
「誰が何を動かした」
「書いてない」
東門副長が答える。
「今日、白環から外へ出たのは退院者と職員、それから通常の荷だけだ」
「剣は動いてない」
アイリが言う。
「四つの封印もそのままです」
エリリアが続けた。
「ロケットもレンが身につけたまま」
「六年前の資料も動かしていない」
ガリックも加える。
ミレナは文書を読み返した。
「なら、少なくとも私たちが把握している範囲では、矢を射つ直前に『無断移動』と呼べる新しい行動は起きていない」
「向こうが嘘をついてる?」
「そう決める前に、何を無断移動と呼んでいるのか確認する。でも、時間の順番は残せる」
「矢が飛んだ時刻も?」
「全部」
ミレナは新しい紙へ文書が届いた時刻と、その前に起きていた出来事を書き写した。
「後から変えられないように?」
「一枚だけなら変えられるかもしれない」
東門副長が言う。
「だから複数残す。白環の記録、俺の控え、院長の医療記録。負傷者の処置記録にも、矢傷が発生した時刻が残る」
「一つの紙が消えても、全部は消えない」
ガリックが低く言った。
「六年前にできなかったことだな」
「だから今度はやる」
ミレナが答えた。
◇
矢は夜半を過ぎても断続的に飛び続けた。最初の一斉射ほど多くはない。数本が屋根へ飛び、しばらくして一、二本が窓枠や外壁へ突き刺さる。射撃の意味も目的も完全には分からない。それでも白環の人々は、矢が飛ぶたびに悲鳴を上げて立ち止まるだけではなくなっていた。
護衛は木板を持って廊下の角へ立ち、治療師は患者の傷を診る。厨房係は水と湯を分け、洗濯場の職員は濡れ布と包帯を運ぶ。歩ける患者は外へ出ず、院内の荷運びを手伝った。子供たちは安全な石造りの部屋から出されなかったが、年長の子が小さな子へ水を渡し、泣いている子の隣で手を握っていた。白環治療院では、誰か一人だけが守る側になることはなかった。
一本の矢が廊下奥の古い窓を破ると、護衛がすぐ木板を立てた。別の部屋で患者が泣いているという報告が届けば、アイリはまず名前を尋ねる。
「怖いって言ってるなら、誰か一人ついてて」
「治療師を?」
「手が空いてないなら、歩ける患者でもいい。一人にしないで」
「分かった」
レンは卓へ届いた報告へ目を通した。
「西棟の移動はいったん止めよう。今は東側より西の方が矢が多い」
「次も西とは限らん」
ガリックが言う。
「だから止めるだけ。東へ移すとは言ってない」
「それならいい」
エリリアは耳を澄ませた。
「今は少し静かです」
「どれくらい?」
ミレナが尋ねる。
「前の射撃から、それほど経っていません。正確な時間はあなたの方が分かるでしょう」
「まだ半刻には遠い」
「なら、この間に薬を運ぶ」
院長が決めた。
誰かが判断を口にすれば、別の誰かが理由を尋ねる。危険を隠して無理をしようとすれば止める。一人だけで決めようとすれば、隣から声が飛ぶ。五人の間で始まった約束は、いつの間にか白環の中へ少しずつ形を変えながら広がっていた。
◇
夜明け前、空が僅かに青み始めた頃、再び複数の弓弦が重なって鳴った。これまでで最も大きな一斉射だった。
「伏せろ!」
ガリックと東門副長の声が重なる。
矢が屋根へ、正門へ、外向きの窓へ、薬草乾燥室の焦げた壁へ降り注いだ。一本が二階の鎧戸を貫き、内側の木板へ深く突き刺さる。別の一本は空になった寝台へ落ち、白い敷布を貫いた。その寝台には、ほんの一刻前まで患者がいた。
アイリが息を呑む。
「移してなかったら……」
「移したから、いない」
レンが静かに言った。
アイリは刺さった矢を見つめ、ゆっくり頷く。
「うん」
中央回復室にも矢音が響き続ける。レンは右腕を十分に使えず、アイリの手首と右肩もまだ完全ではない。エリリアは風を使わず、ガリックは左脚を庇って椅子に座り、ミレナの手にあるのは武器ではなく炭筆と記録だけだった。それでも五人の周囲では、白環の人々が止まらずに動いていた。治療師が負傷者を呼び、厨房係が水桶を運び、護衛が木板を支える。洗濯場の職員が濡れ布を渡し、患者が別の患者へ肩を貸し、子供の泣き声には誰かが名前を呼んで答える。
矢は止まらない。外壁には何本もの矢が突き刺さり、瓦は割れ、鎧戸にも新しい傷が増えていた。それでも正門は破られていない。誰も外へ飛び出して矢を撃ち返そうとはせず、治療院の中でできることを、できる者が拾い続けていた。
ミレナは机の陰へ身体を寄せながらも、炭筆を離さなかった。
「何してる」
レンが尋ねる。
「残してる」
「今も?」
「今だからよ」
紙には、最初の一本が飛んだ時刻、最初の一斉射、最初の負傷者、火矢、治安局から届いた「制止措置」の文書、そして今の射撃までが順番に残されていた。
「後で何て書かれても?」
アイリが尋ねる。
「少なくとも、私たちが見たものは残る」
ガリックは窓の向こうから響く弓音を聞いた。
「六年前は、人が消えて、紙も変わった」
外壁へ新たな矢が突き刺さる音を聞きながら、レンはガリックを見る。
「今度は?」
ガリックは椅子の肘掛けへ手を置いたが、強く握り込まなかった。
「人も残す。紙も残す」
その直後、廊下の向こうから子供の泣き声が届き、アイリがすぐ伝令へ顔を向けた。
「誰?」
「石室の子です。怪我はありません。音が怖いだけです」
「名前を呼んであげて。誰かがここにいるって分かるように」
「はい」
伝令はすぐに石室へ向かい、レンはその背中を見送った。矢を撃ち返せないことは、何もできないことではない。外の弓兵を倒せないことも、負けたことではない。白環の中にいる一人一人が、自分の目と声と手と記憶を使い、次の誰かが生き残るための僅かな場所を作っている。
外で再び弦が鳴ると、護衛は窓の前へ木板を立て、治療師は患者へ伏せるよう声を掛け、厨房から水桶が回された。ガリックは矢の飛んだ方向を聞き、エリリアは安全な廊下を選び、アイリは名前を確認し、ミレナは時刻を書き、レンは届いた報告を一つずつ繋いでいった。
そして、白環治療院の上へ再び矢が降った。屋根も壁も傷つき、中にいる者たちも誰一人として恐怖を失ってはいない。それでも、その朝まで白環を支えていたのは武器でも魔法でもなかった。治療師、護衛、厨房係、洗濯場の職員、患者、そして安全な石室で互いの手を握る子供たちまで、治療院に残ったすべての人間が、それぞれにできることを手放さなかった。
矢雨の中で、白環治療院そのものが一つの防衛線になっていた。
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