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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第九話 血濡れの群れ

鉄芯を仕込まれた木剣が狼の頭部へ叩き込まれた瞬間、湿った森の中に、太い枝を岩へ打ちつけたような鈍い音が響いた。


 跳躍していた狼の頭が横へ弾かれ、その身体が空中で大きく崩れる。着地のために伸ばしかけていた前脚は地面を捉えられず、灰色の身体は肩から落ち葉へ叩きつけられ、そのまま二度、三度と転がった。最後には張り出した木の根へ脇腹をぶつけて止まり、脚が短く痙攣したあと動かなくなる。木剣を握るレンの右手には、刃物で肉を断った時とはまるで違う、硬いものを力任せに砕いた重い感触が残っていた。


 フィンの木剣は黒銀の剣と似た長さと握りになるよう削られ、その内部には細い鉄棒が通されている。黒銀の剣そのものと同じ重心ではない。それでも十年間繰り返してきた素振りや足運びを大きく崩さず扱える形をしており、刃を失った今のレンにとっては、それだけで十分すぎるほどの武器だった。


 左右から迫っていた残り六頭の動きが、そこで初めて僅かに乱れた。完全に止まったわけではない。だが、さっきまでほとんど間を置かず距離を詰めてきた群れの中に、明らかな遅れが生まれた。木剣で頭を砕かれた仲間へ視線を向ける個体があり、飛び込もうとしていた一頭が前脚を踏み直す。木の棒に見えた武器が予想以上の威力を持っていたのか、それとも単に目の前で仲間が倒れたことへ反応しただけなのか、レンには分からない。


 それでも、その一瞬で十分だった。


「今だ、アイリ!」


 レンの声と同時に、アイリが走った。


 目指すのは少し離れた木の根元。片耳の狼を貫き、その背後の幹へ切っ先を食い込ませたままの黒銀の剣だった。右肩は痛みでまともに上がらず、左の脹脛も牙が掠めた傷から血を滲ませている。短剣を握る指には、先ほど自分の手で狼を殺した時の震えがまだ残っていた。それでも、ここで足を止めれば黒銀の剣まで辿り着けない。


 後方にいた黒灰色の大狼が低く吠えた。その直後、六頭のうち二頭が進路を変える。大狼の声へ反応したのか、走り出したアイリを新しい標的と見ただけなのかは分からない。ただ二つの灰色の影がレンから離れ、黒銀の剣へ向かう彼女の左右へ回り込み始めた。


「行かせない!」


 最初の一頭が正面から低く飛び込んでくる。


 アイリは速度を落とさず、短剣を身体の近くへ引いた。大きく振れば痛めた右肩へ負担が掛かる。だから相手を倒そうとはせず、噛みつくために前脚を伸ばしてきた瞬間だけ身体を左へずらし、すれ違いざまに短剣を後脚の外側へ走らせた。


 刃が毛皮を割り、その下の筋肉へ入った。狼は着地した直後に後脚を崩したが、完全に腱を断たれたわけではないらしく、すぐに立ち直ろうとする。それでも傷ついた脚へ体重を掛けるたび身体が傾き、追う速度は明らかに落ちていた。アイリは振り返らず、そのまま黒銀の剣へ向かって走り続ける。


 もう一頭の足音が背後から急速に迫り、次の瞬間、強い衝撃が背中へ伝わった。


「っ……!」


 牙が身体そのものではなく、背負っていた背嚢の側面へ食い込んでいる。狼が頭を振るたび肩紐が身体へ食い込み、アイリは後ろへ引かれた。右肩へ鋭い痛みが突き抜け、足元の落ち葉が滑る。このまま力比べを続けても、体格の違う狼に勝てるはずがない。


 アイリは左肩の紐を外し、胸元の留め具も片手で外した。残った紐は痛めた右肩へ引っ掛かっており、腕を大きく動かして抜こうとすれば、それだけで動けなくなるほど痛む。だから腕を無理に通そうとはせず、背嚢そのものを狼の方へ残すように肩をすぼめ、身体を前へ捻りながら右腕を下へ滑らせた。


 紐が袖を擦りながら抜ける。


 突然抵抗を失った狼が背嚢ごと後ろへよろめき、アイリも勢い余って膝をついた。それでも倒れ切る前に左手を地面へついて身体を起こす。黒銀の剣までは、もう数歩しかない。


 しかし、その間へ黒灰色の大狼が入った。


 巨体が木々の間から回り込み、アイリと剣を結ぶ線を塞ぐように立つ。鼻先にはレンにつけられた浅い傷があり、胸毛や顎には兄の血が乾きかけていた。さきほどまでレンを押さえ込んでいた時と比べれば呼吸は荒くなっている。それでも、ほかの狼とは明らかに違う圧力があった。


 アイリは短剣を身体の前へ構えた。右肩が小さく震える。大狼の視線がその動きを追ったように見え、ゆっくりとアイリの右側へ位置を変えた。負傷した側を試しているのかもしれない。そう考えた瞬間、背筋へ冷たいものが走ったが、アイリは逃げなかった。


「わたしを弱いと思ってるなら……間違いだから」


 声は震えていた。


 大狼に言葉が通じるとは思っていない。それでも、自分自身が逃げないために声へ出した。


     ◇


 レンの前には四頭が残っていた。


 先ほどの一撃で一頭を倒したとはいえ、左腕はほとんど使えず、右脚には黒灰色の大狼につけられた噛み傷がある。右手一本で鉄芯入りの木剣を振るうたび、その重量は確実に肩と腰へ返ってきた。最初の一撃と同じ力を何度も出せる状態ではない。


 狼たちは一定の距離を取りながら四方へ広がり、一頭が近づけば別の一頭が背後へ回る。レンが身体を向ければ、今度は逆側から低く距離を詰めてきた。そこにどこまで意図があるのかは分からない。それでも結果として、レンは一頭だけへ集中することを許されなかった。


「だったら……振らされなきゃいい」


 木剣を肩へ担ぐように引き、むやみに追わないことを選ぶ。右側から一頭が近づき、左からも別の一頭が距離を詰めた。それでも振らない。正面の狼が口を開き、傷ついた右脚へ飛び込もうと身体を沈めた瞬間、レンは狼そのものではなく、自分の斜め前の地面へ木剣を突き立てた。


 硬い木剣の先端が柔らかな土へ入り、柄が斜めの柱のように立つ。突然進路へ現れた障害を避けようとした正面の狼が身体を捻り、その横から脚を狙っていた仲間と肩をぶつけた。二頭は互いの勢いを殺し切れず、そのまま絡み合って落ち葉へ転がる。


 レンは木剣を支点に跳び上がるような真似はしなかった。使えない左腕と傷ついた右脚でそんな動きをすれば、着地した瞬間に終わる。代わりに右手で柄を強く握り、木剣を杖のように利用して一歩だけ身体を前へ運ぶと、絡み合った二頭のうち先に頭を上げた狼の側頭部へ短い軌道で木剣を叩き込んだ。


 鈍い衝撃とともに狼の頭が地面へ落ちる。それでも一撃では止まらず、前脚を突いて起き上がろうとしたため、レンは今度は耳の後ろから首の付け根へ鉄芯の重さを落とした。灰色の身体が大きく震え、前脚を地面へ伸ばしたまま動かなくなる。三度目を振る必要はなかった。


 最初に倒した一頭に続いて、これで二頭目。しかし残る三頭が待ってくれるはずもなく、背後から迫った一頭の爪がレンの背嚢の肩紐へ引っ掛かった。革が強く引かれ、身体が後ろへ傾く。次の瞬間には紐が裂け、背嚢が地面へ落ちた。


 レンは荷物を見なかった。ここで落とした物へ意識を向ければ、その瞬間に喉を持っていかれる。


 別の一頭が右脚へ飛び込んだ。牙が裂けた長靴の上から脛へ当たり、さきほど黒灰色の大狼につけられた傷を押し潰すような痛みが走る。深く噛み込まれる前に、レンは脚を引くのではなく前へ踏み込んだ。狼の頭が身体のすぐ近くへ来たところで木剣を短く持ち替え、先端ではなく太い胴の部分を鼻梁から目の周囲へ叩きつける。


 乾いた音とともに狼の口が開き、牙が長靴から外れた。レンはさらに一歩退いて間合いを作り、二撃目を眼窩の外側へ落とす。眼球そのものへ木剣を突き入れるのではなく、硬い骨の縁へ鉄芯の重さをぶつけた。


 狼が甲高い悲鳴を上げ、顔を地面へ擦りつけながら後退する。


 その隙を逃さず、三頭目が横から飛び込んできた。前脚がレンの脇腹を掠め、外套とその下の服を裂く。皮膚にも三本の赤い線が走ったが、深く肉を抉られるほどではない。


「くっ……!」


 レンは身体を捻り、狼の肩へ木剣の柄近くをぶつけた。大きく振る余裕はない。ならば、相手の勢いを利用して押し流す。衝突してきた狼の身体を外へ逸らし、近くの木の幹へ向かわせる。狼は前脚で地面を掻いて止まろうとしたが間に合わず、肩から幹へ激突した。


 ここで立て直させれば、再び三方向から囲まれる。


 レンは右脚へ走る痛みに耐えながら追った。視界の端が僅かに暗くなり、血を失っていることを嫌でも思い知らされる。それでも木剣を右手一本で振り上げ、狼がこちらへ頭を向けた瞬間、斜め上から顎へ叩き込んだ。身体が崩れたところへ二撃目を首の付け根へ落とす。鉄芯の重さが骨へ伝わり、灰色の身体から力が抜けた。


 レンはそれ以上打たなかった。


 残った二頭も、すぐには飛び込んでこない。一頭は目の周囲を傷つけられ、もう一頭はまだ比較的動ける。それでも距離を取りながら低く唸り、レンの前から完全には退かなかった。


 レン自身にも追う余裕はない。木剣を地面へついて身体を支え、一度だけ深く息を吸うと、アイリの方へ視線を向けた。


     ◇


 アイリと黒灰色の大狼は、まだ互いに間合いを測っていた。


 大狼は真正面から飛び込まず、右へ回り、止まり、また少し距離を変える。アイリが短剣を向ければ、その外側へ頭をずらした。短剣一本でまともに打ち合って勝てる相手ではない。必要なのは大狼を倒すことではなく、ほんの数秒だけ黒銀の剣から引き離し、それを取り戻すための時間を作ることだった。


 アイリは視線を落とさないまま、足裏で地面の状態を確かめた。ここまでの戦いで落ち葉は何度も踏み荒らされ、湿った腐葉土がむき出しになっている。木の根の間には雨水を吸った柔らかな泥が溜まり、その中には細かな砂利や折れた樹皮が混じっていた。


 アイリは右へ逃げるように一歩下がった。肩の痛みに耐えられなくなったかのように身体を傾け、短剣の切っ先も僅かに落とす。


 黒灰色の大狼が距離を詰めた。


 もう一歩近づけば届く。


 その瞬間、アイリは左膝を折って低く沈み、左手を湿った地面へ滑らせた。泥と腐葉土、それに混じった細かな砂利を一緒に掬い、大狼の頭が迫ったところで一気に振り上げる。


 湿った泥が鼻先から両目の周囲へ散り、細かな砂が毛の間へ入り込んだ。黒灰色の大狼は反射的に頭を背け、前脚を止める。直後には激しく頭を振り、鼻を鳴らし始めた。どれほど視界を奪えたのかは分からない。効いているのも数秒だけかもしれない。


 それでよかった。


 アイリは短剣ではなく、黒銀の剣へ向かって走った。


 木の根元には片耳の狼が横たわり、その身体を斜めに貫いた刀身の先が幹へ食い込んでいる。後脚は地面へ落ちているが、胴の重みが剣へ掛かっていた。


「抜けて……!」


 アイリは左手で柄を掴み、痛む右手は位置を安定させるために添えるだけにした。力の大半を左側で受け、木の幹へ左足を押し当てながら身体を後ろへ引く。剣が僅かに動き、切っ先が幹から少しずつ抜けていく。右肩へ痛みが走って握力が途切れそうになったため、一度力を緩めて持ち直し、今度は腕だけではなく体重ごと後ろへ掛けた。


 刀身の先が木から外れた。


 支えを失った片耳の狼の身体が重く傾き、剣ごとアイリの方へ崩れかける。彼女は横へ半歩逃げ、狼の胴を左足で押した。死体は刃を滑り、そのまま地面へ重く落ちる。


 血に濡れた黒銀の剣だけが残った。


 だが、死体が外れたからといって軽くなったわけではない。レンが普段両手で扱う剣を、傷ついたアイリがまともに振るえるはずもなかった。左手だけで柄を握れば切っ先が下へ沈み、右手で支えようとすれば肩が鋭く痛む。


 背後で枝が鳴った。


 黒灰色の大狼が、何度も瞬きをしながらこちらへ向かって走り始めている。目の周囲にはまだ泥がこびりついていたが、動きを止めるほどではなかった。


 アイリは剣を振ることを諦めた。


 振れないなら、振らなければいい。


 左手で柄を胸元へ引き寄せ、右手は位置を安定させるためだけに添える。切っ先を前へ向け、自分から片膝をついた。重い剣を自分で加速させるのではなく、相手の勢いをそのまま利用する。


 黒灰色の大狼が迫り、灰黒い巨体が地面を蹴って跳んだ。


 アイリは目を閉じなかった。


 切っ先が大狼の胸へ入る。しかし身体の中心ではない。アイリの腕が完全には固定できなかったことに加え、大狼の身体も跳躍の途中で僅かに流れたため、刃は右胸の外側から肩に近い部分へ斜めに入り、背側へ抜けた。心臓までは届かない。それでも胸には深い傷が開き、大量の血が刀身を伝って流れ始める。


 それでも勢いまでは止めきれなかった。


「っ……!」


 アイリは剣ごと地面へ押し倒され、大狼の前脚が胸元へ落ちた。息が止まりかける。身体を貫かれてなお獣は動き、血に濡れた顎がゆっくりと下がってきた。


 牙が、アイリの喉へ近づく。


「お兄ちゃん……!」


     ◇


「アイリ!」


 レンは走り出した。


 残っていた二頭が、その進路へ割り込む。一頭はさきほど目の周囲を木剣で打たれた個体。もう一頭は、まだ大きな傷を負っていない。


 時間がない。


 先に飛び込んだ狼の頭を狙わず、レンは前脚の外側へ木剣を振った。鈍い音とともに脚が横へ折れ、狼が悲鳴を上げながら地面へ転がる。だが一撃を振り抜いた直後、もう一頭が横から迫ってきた。


 牙が脇腹へ届く前に木剣の柄を身体へ引き寄せる。獣の口が外套を噛み、布ごと強く引いた。牙の一本がその下の皮膚を浅く裂いたが、深く肉を食いちぎられる前にレンは右肘を狼の鼻先へ叩き込んだ。


 獣の顎が緩む。


 木剣を短く持ち替え、振りかぶらず下から顎へ突き上げる。狼の頭が跳ね上がったところへ、今度は胸の脇へ横から一撃を入れた。呼吸を詰まらせた狼が二歩下がる。


 レンは追わなかった。


 その一瞬だけでいい。


 前脚を折られた狼は地面へ倒れたまま牙を剥いたが立ち上がれず、もう一頭もすぐには飛び込まずに低く身を伏せた。その間を抜け、レンはアイリのもとへ向かう。


 黒銀の剣はまだ黒灰色の大狼の胸を貫いたまま。レンの手にあるのはフィンの木剣だけで、左手も使えない。


 右手一本で踏み込む。


「どけ!」


 鉄芯入りの木剣を横から振り抜いた。


 狙ったのは大狼の左目そのものではなく、その周囲を囲む硬い骨だった。木剣の先端が眼窩の縁へ激突し、鈍い破砕音とともに大狼の頭が跳ね上がる。左目の周囲が潰れ、血が流れた。


 レンは同じ場所へ二撃目を叩き込もうとしたが、大狼の前脚が先に動いた。爪が胸元を掠め、外套と服を裂く。皮膚へ浅い線が走り、レンの身体が横へ押し退けられた。


 それでも必要な隙は作れた。


 黒灰色の大狼はアイリから前脚を外し、痛む顔をレンへ向けた。


「剣を……抜け!」


 アイリは息を吸い込み、黒銀の剣の柄へ左手を掛けた。大狼の身体へ右足を当て、痛む右手は柄がずれないよう添える。左腕と脚を使って引くと、刃が血に濡れた傷口から少しずつ戻ってきた。


 大狼が身体を捻る。


 その動きも利用して、さらに引く。


 黒銀の剣が抜けた。


 傷口から新しい血が溢れ、アイリの黒いドレスへ赤い飛沫が散る。アイリは剣の重さに耐え切れず切っ先を下げたが、レンがすぐに駆け寄り、右手で柄を受け取った。


 普段なら左手を添えて重さを安定させられる。しかし今、その左腕はほとんど機能していない。レンは右手だけで柄を握り、傷ついた左腕を身体へ寄せたまま、腰と足の位置を変えることで剣先の重みを受けた。


 黒灰色の大狼も、まだ立っていた。


 片目の周囲は血に濡れ、右胸からも大量の血が流れている。呼吸は明らかに荒くなり、前脚を一歩出すだけでも身体が僅かに揺れた。それでも獣は牙を見せ、低い唸り声を喉の奥から押し出している。


 レンは黒銀の剣を構えた。


「……終わらせる」


 黒灰色の大狼が地面を蹴った。


 先ほどまでの速さではない。それでも傷だらけのレンにとっては十分に速く、真正面から受ければそのまま押し倒される。レンはアイリを背後へ下がらせ、自分は右へ一歩踏み込んだ。


 黒灰色の身体が横を通る。


 レンは右手一本で剣を振った。


 刃が大狼の首の側面へ入り、厚い毛皮を裂いて、その下の筋肉へ深く食い込む。しかし片腕だけでは最後まで振り抜けず、刃が硬い骨へ触れたところで勢いが止まった。


 大狼が苦鳴を上げ、身体を捻る。


 牙がレンへ向いた。


 剣を引き抜く時間はない。


「お兄ちゃん!」


 アイリが横から飛び込んだ。


 黒銀の剣の刃には触れない。彼女は左手でレンの右前腕を掴み、痛む右腕を無理のない範囲で伸ばして柄の後端へ添えた。肩が激しく震えたが、それでも手を離さない。


「一緒に!」


「ああ!」


 二人が同時に身体を沈める。


 レンが柄を引き、アイリがその腕を支えた。同時に、傷ついた黒灰色の大狼自身の前脚からも力が抜け、巨体が沈む。その重さによって首の角度が変わった瞬間、レンは腰を回し、黒銀の刃を横へ引き抜くように振り切った。


 刃が首の奥を走る。


 完全に首を落としたわけではない。だが太い血管と気道が深く断たれ、傷口から大量の血が噴き出した。


 黒灰色の大狼は二人から離れようと一歩だけ前へ出た。


 次の一歩は続かなかった。


 前脚が崩れ、重い身体が落ち葉へ倒れて地面を揺らす。喉から空気の漏れる音がしばらく続き、脚が何度か痙攣した。


 やがて、それも止まった。


 森に残ったのは、レンとアイリの荒い呼吸だけだった。


 だが、戦いが終わったとはまだ言えない。


 レンは大狼の死体から剣を離し、残った狼たちへ目を向けた。立っているのは三頭。一頭は後脚を斬られ、足を引きずっている。一頭はアイリの背嚢へ噛みついていた個体。そしてもう一頭は、レンに顎と胸を打たれている。さらに少し離れた場所では、前脚を折られた一頭が地面へ伏したまま低く唸っていた。


 三頭は黒灰色の大狼の死体を見たあと、レンたちへ視線を戻した。


 レンには、もうまともに戦えるだけの力が残っていない。右手の指は震え、左腕の感覚は鈍く、傷ついた右脚へ体重を掛ければ膝が崩れそうになる。


 それでも、剣だけは下ろさなかった。


「来い」


 掠れた声を押し出す。


 アイリが隣で短剣を探そうとしたが、レンは狼たちから視線を逸らさない。


「まだ……立ってるぞ」


 三頭のうち一頭が、ゆっくり前へ出た。


 レンは黒銀の剣を持ち上げる。刃先が小さく震えた。


 狼は数歩の距離まで来ると、地面に倒れた仲間の臭いを嗅ぎ、次に黒灰色の大狼へ鼻先を向けた。しばらくその場で動かなかったが、やがて耳が伏せられ、一歩だけ後ろへ下がる。


 もう一頭も距離を取った。


 最後の一頭は兄妹を見たまま低く唸っていたものの、やがて身体の向きを変えた。


 三つの灰色の影が、少しずつ木々の間へ消えていく。傷ついた後脚を引きずる個体も、それについていった。


 レンは追わなかった。


 狼たちの足音が完全に聞こえなくなっても、すぐには剣を下ろさない。再び回り込んでくる可能性がないとは言えず、木々の奥を見つめながら、葉の擦れる音一つ一つへ耳を澄ませた。


「お兄ちゃん……」


 アイリの声が震えていた。


「まだ動くな。戻ってくるかもしれない」


「違うの」


 レンが横を見る。


 アイリは血と泥の中へ座り込み、自分の両手を見ていた。指先から手首まで赤く汚れている。狼の胸へ短剣を押し込んだ時の血。黒銀の剣を大狼から引き抜いた時の血。何度拭っても、すぐには消えそうにない。


「わたし……殺した」


 戦っていた時よりも、ずっと小さな声だった。


 レンは答えようとして、言葉を失った。


 自分も殺した。一頭ではない。黒銀の剣で腹を裂き、木剣で頭と首を砕き、いま目の前には群れを率いていた黒灰色の大狼が血の中に倒れている。


 生きるためだった。アイリを守るためだった。それでも右手の奥には、まだ木剣越しに骨を打った感触が残っていた。


「……生きるためだった」


 ようやく出たのは、それだけだった。


「分かってる」


 アイリは両手を握った。


「分かってるけど……怖かった。あの狼、短剣が刺さってもずっと動いてて、お兄ちゃんのところへ行かなきゃって思って……もっと押したら、動かなくなって……」


 声が途中で切れた。


 戦いの最中には押し込めていたものが、危険が去ったことで一気に戻ってきたのだろう。アイリの肩が震え始める。


 レンは彼女のそばへ行こうと一歩踏み出したが、右脚へ力を掛けた瞬間に膝が折れた。


「お兄ちゃん!」


 アイリも立とうとして、左脚の痛みに顔を歪める。


「動くな」


「でも……」


「アイリもだ」


 二人はほんの数歩しか離れていないのに、その距離すらすぐには埋められなかった。


 レンは一度地面へ座り、荒い息を整えた。左腕には黒灰色の大狼の牙が残した深い傷があり、右脚には二度の噛み跡が重なっている。ただし後の一撃は傷を大きく抉り直したというより、すでに裂けていた場所を強く圧迫し、その周囲を浅く傷つけた程度で済んでいた。脇腹と胸元には爪や牙が服を裂いた浅い傷があり、全身の打撲もひどい。


 アイリも右肩を強く痛め、左の脹脛、頬、脇腹、腕へ傷を負っている。


 血の臭いが濃かった。


 周囲には七頭の狼の死体がある。戦いの前半までに倒れた三頭。レンが木剣へ持ち替えてから倒した三頭。そして黒灰色の大狼。そのほかに一頭、前脚を折られた狼がまだ生きていた。


 低い鳴き声が聞こえ、アイリが顔を上げる。


 少し離れた場所で、その狼が折れた前脚を地面へ引きずりながら逃げようとしていた。脚は身体を支えられず、数十センチ進むだけで力尽きる。口からも血が垂れていた。


「まだ生きてる」


「ああ」


 アイリは狼を見つめた。


「……助けられない?」


 レンも目を向けた。


 折れた前脚だけなら、もし人間の治療院で固定できれば助かる可能性はあるかもしれない。しかし相手は野生の狼で、身体にはほかにも傷があり、口から流れる血を見る限り内側にも損傷がありそうだった。何より、近づけば最後の力で噛みつかれる可能性もある。


「たぶん……無理だ」


「でも」


「ここに置いたら、長く苦しむ」


 アイリは何も言わなかった。


 レンは黒銀の剣を手にした。


 立ち上がろうとすると右脚が震えたため、近くに落ちていたフィンの木剣を左脇へ抱え込むようにして地面へつき、一本の杖のように使いながらゆっくり狼へ近づいた。


 狼はレンを見て牙を剥こうとしたが、顎にもほとんど力が残っていない。弱い唸り声だけが喉から漏れる。


 レンは黒銀の剣を構えた。


 右手が震えた。


 戦っている間は、迷う余裕などなかった。襲われたから斬った。アイリが危なかったから殺した。けれど今、目の前の狼は襲いかかってこない。逃げることすらできず、地面の上でただ息をしている。


 その首へ自分から刃を向けることの方が、戦いの最中に何度も剣を振った時よりも重かった。


「お兄ちゃん」


 後ろからアイリが呼ぶ。


「わたしがやろうか?」


 レンは首を振った。


「いや」


「一人で全部やらなくてもいいんだよ」


 その言葉に、レンは少しだけ目を閉じた。


 ラウナを出る前にも、似たことを言われた。守るということと、全部を一人で背負うことは違う。


「……分かってる」


「じゃあ」


「これは俺がやる」


「どうして?」


 レンは答えを探した。


 見つからなかった。


「分からない。でも……俺がやる」


 狼の目を見る。そこに人間と同じ感情があるのかは分からない。ただ身体は震え、それでも逃げようとしていた。少なくとも痛みはある。恐怖もあるように見えた。


「……ごめん」


 レンは一度だけ剣を振った。


 黒銀の刃が首へ入り、狼の身体が短く震えた。それ以上は動かなかった。


 レンはすぐには剣を上げられなかった。


 生き残るための戦いが終わったあとに、自分の意思で一つの命を終わらせた。その感触は、さっきまでとはまるで違う形で胸の奥へ残った。


 しばらくしてアイリのもとへ戻る。


「傷を見せて」


 レンが言うと、アイリは即座に首を振った。


「お兄ちゃんが先」


「アイリは頭も打ってる」


「お兄ちゃんは腕を深く噛まれてるし、脚も血が出てる」


「どっちが先か言い合ってる場合じゃないな」


「だから腕」


「アイリ」


「今は治療する側の言うことを聞いて」


 声は弱いのに、目だけは拒否を許していなかった。


 レンは諦めてその場へ座った。


 幸い、アイリの小さな薬袋は腰についたまま残っている。彼女は水筒の水を少しずつレンの左腕へ流し、傷口に入り込んだ泥や毛、狼の唾液を丁寧に洗い流していった。


「痛いよ」


 アイリが言う。


「分かってる」


「かなり痛いと思う」


「早くやれ」


 アイリはセラから渡された洗浄液の瓶を開けた。


「じゃあ三つ数えるね。一、二――」


 薬液が傷口へ流れ込んだ。


「っ……!」


 焼けた鉄を傷の奥へ押し込まれたような痛みが左腕を走り、レンは反射的に身体を引いた。


「二でやっただろ!」


「三でやるって分かったら、絶対に腕へ力入れるでしょ」


「じゃあ数える意味がない」


「痛いのに『少し』って言う人への特別な方法」


「覚えてろよ」


「帰ったらね」


 アイリは少しだけ笑った。その顔にはまだ乾きかけた狼の血が残っている。それでも、さっきまで震えていた彼女が笑ったことで、レンも僅かに呼吸を緩めることができた。


 傷へ止血用の薬草を当て、清潔な布を何重にも巻いていく。指先の感覚を確認すると、薬指と小指は鈍いながらも僅かに動いた。腫れはひどいが、今この場でできることはもう多くない。


 次に右脚の傷を洗った。長靴は裂けているものの、二度目の噛みつきは最初の傷を完全に深く抉ったわけではなく、その周囲を押し潰しながら浅く裂いた程度だった。血は多いが、骨へ達するほどではない。


 レンもアイリの傷を確かめた。脹脛は牙が皮膚を掠めた裂傷で、脇腹と腕の爪痕も深くない。問題は右肩だった。


「少しだけ動かせるか」


「痛いけど……やってみる」


 アイリはゆっくり腕を上げようとしたが、肩の高さまでは到底届かず、途中で顔を歪めて止めた。


「骨の形は変じゃない。たぶん折れてはいないと思う」


「たぶん?」


「今はそれ以上分からない」


「朝、薬草に『たぶん大丈夫』で触るなって言ったの、お兄ちゃんだったよね」


「今は仕方ないだろ」


「ずるい」


「医者じゃないんだから許せ」


「わたしも医者じゃないよ」


「さっき治療する側って言っただろ」


「今だけ」


 レンが脹脛へ洗浄液を流すと、アイリは「大丈夫」と言った直後、左手で兄の肩を強く掴んだ。


「痛くないんじゃなかったのか」


「少しだけ痛い」


「俺と同じだな」


「わたしはちゃんと少しって言った」


「涙出てるぞ」


「狼の毛が目に入ったの」


「さっきからずっと?」


「……そういう日もあるの」


「無理があるな」


 二人は小さく笑った。


 笑えば傷が痛む。それでも声を出して笑えたことが、戦っていた時には感じられなかったほど大きなことに思えた。


 最低限の処置を終えると、二人は散らばった荷物を回収した。


 アイリの背嚢は黒銀の剣から少し離れた場所に転がっており、表面には狼の牙痕が残っていたものの、中身までは破られていない。レンの背嚢も道の端で見つかった。片方の肩紐は狼の爪で裂けていたため、その場で予備の細紐を使って応急的に結び直す。


 そして、アイリが途中で捨てた灰色の外套も木の根元近くに残っていた。


「ひどいね、これ」


 拾い上げた外套は泥と血に濡れ、裾には牙の跡が残っていた。


「着るのは無理そうだな」


「寒くなったら困る」


「全部は捨てない」


 レンは比較的汚れの少ない内側の裾を短剣で細長く切り取った。アイリの右腕を無理に動かさないよう胸元へ寄せ、その布を身体へ回して簡単な固定帯にする。


「きついか?」


「少しだけ」


「本当に?」


「これは本当に少し」


「信用がないな」


「お兄ちゃんにだけは言われたくない」


 残った外套そのものも捨てず、畳んで背嚢へ固定した。使える部分があるなら、夜の寒さを防ぐためにも残しておいた方がいい。


 黒銀の剣についた血は布で拭った。鍔の溝へ入り込んだ赤黒い汚れまでは落ちない。フィンの木剣にも歯形と細かな亀裂が走り、先端の一部がささくれていた。


「壊れた?」


 アイリが尋ねる。


 レンは木剣を軽く地面へ当て、歪みを確かめた。


「まだ使える」


「フィン、怒るかな」


「狼の頭を砕いたって言ったら喜ぶだろ」


「絶対『俺もその場にいたかった』って言うよ」


「言うな」


 二人の口元へ、また僅かな笑みが浮かんだ。


 だが、ここに長く留まることはできない。血の臭いがあまりにも濃く、狼だけでなく別の獣や魔物を呼び寄せる可能性がある。太陽も木々の向こうへ傾き始めていた。


「歩ける?」


 レンが聞く。


「ゆっくりなら。お兄ちゃんは?」


「同じだ」


「本当に?」


「今度は本当だ」


 レンは黒銀の剣を鞘へ戻し、フィンの木剣を右手に持って地面へついた。今度は戦うためではなく、傷ついた右脚を支える杖として使う。


 アイリも左脚を庇いながら立ち上がった。


 二人で荷物を分け直し、片方だけへ重さが偏らないよう調整してから歩き始める。


 速くは進めない。レンは右脚を引きずり、アイリは左脚と固定した右肩を庇っているため、二人の歩調はひどく不格好だった。一人なら何度も転んでいたかもしれない。けれど片方の身体が揺れるたび、もう片方が残った腕や肩で支えた。


 血に染まった場所が、少しずつ後ろへ遠ざかっていく。


 しばらくすると、一羽の鳥が枝へ戻った。


 短く鳴く。


 さらに別の方角から、それへ応える声が返ってきた。


 戦いのあいだ消えていた森の音が、少しずつ戻り始める。


「お兄ちゃん」


「何だ」


「怖かった」


 レンは隣を見た。


 アイリは前を向いたままだった。


「俺もだ」


「死ぬと思った」


「ああ。俺も」


「でも……生きてるね」


「ああ」


「二人とも」


 レンは少しだけ間を置いた。


「二人とも生きてる」


 その言葉を口にして初めて、本当に戦いが終わったような気がした。


 日が完全に沈む前に、二人は道から少し離れた場所で小さな岩棚を見つけた。背後は岩壁になっており、少なくとも後ろから突然襲われる心配は少ない。近くには細い水の流れもあり、一晩身体を休める場所としては十分だった。


 荷物を下ろした瞬間、アイリはその場へ座り込んだ。レンも木剣を岩壁へ立て掛け、その横へ腰を下ろす。二人とも、もう遠くまで歩ける状態ではなかった。


 それでも、夜の冷気が強くなる前に火だけは必要だった。


 近くから乾いた枝と枯れた苔を集め、岩棚の奥で火打石を打つ。レンの右手はまだ細かく震えており、一度目は火花が苔へ届かなかった。二度目も同じだった。


 三度目にして、小さな火花が乾いた苔へ落ちた。


 レンが慎重に息を吹きかけると、細い煙の中から橙色の炎が生まれる。


 アイリの身体が一瞬だけ強張った。


 レンも同じだった。


 十年前、故郷を飲み込んだ炎。母を奪い、家を焼き、二人の人生をあの夜の前と後へ分けた色。


 けれど今、目の前にある火は何も奪っていない。


 二人は逃げなかった。


 アイリが細い枝を一本差し出し、レンがそれを受け取って炎へ重ねる。少しずつ火が安定し、冷え始めた岩棚へ弱い熱が広がっていった。


 小さな焚き火は、エイレンを焼いた炎とは違う。


 傷だらけの兄妹を照らし、濡れた服と冷えた身体を温め、二人が生き延びた最初の夜を迎えるための火だった。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


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皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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