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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第八話 群れを支配するもの

黒灰色の大狼の牙が、レンの左腕へさらに深く沈んだ。


 革の腕当てはすでに裂け、厚い外套の下まで牙が達している。肘から肩へ突き抜ける熱い痛みに視界が白く明滅し、身体の上へ乗せられた大狼の前脚が胸郭を押し潰すたび、肺から空気が少しずつ追い出されていった。背中の下には硬い根と石が食い込み、息を吸おうとすれば胸と背中の両側から痛みが返ってくる。右手にはまだ黒銀の剣があったが、腕を大きく振るうだけの間合いがなく、刃先は大狼の身体から外れた地面を向いていた。喉を守るために差し出した左腕は、いま完全に獣の顎の中へ捕らえられている。


 周囲では何頭もの狼が低く身を伏せていた。一頭はすでにレンの剣で命を断たれ、片耳の狼をはじめ複数の個体が傷を負っている。それでも群れは崩れない。死んだ若い狼の腹から流れた血が落ち葉を濡らし、その向こうでは脚を傷つけられた個体が低く唸っている。普通なら血の臭いと仲間の悲鳴だけでも混乱しておかしくないはずなのに、残った狼たちは一定の距離を保ち、大狼と兄妹の動きを見ながら包囲を狭め続けていた。


「……離せ」


 レンは詰まった息の奥から声を押し出した。


 大狼が低く喉を鳴らし、噛みついたまま頭を捻る。傷口が強く引かれ、反射的に腕を引き抜こうとした瞬間、レンはその動きを止めた。


 引いてはいけない。


 ここで力任せに引けば、自分から肉を裂くことになる。まず必要なのは、噛みついたまま頭を振らせないことだった。レンは左腕を無理に奥へ押し込むのではなく、残った腕当ての硬い部分を大狼の奥歯へ押し当てるように角度を変えた。牙が肉へ食い込んだままなのは変わらない。それでも、顎を完全に閉じて腕を引き千切るための位置が僅かにずれ、大狼の頭の動きが一瞬だけ止まる。


 それで十分だった。


 レンは右手の剣を振り上げようとはせず、鍔と柄を短く持ち上げ、大狼の前脚の付け根へぶつけた。一度では動かない。二度目を同じ場所へ叩き込みながら右膝を大狼の胸の下へ差し込むと、獣の前脚が僅かに浮き、胸へ掛かっていた重さが緩んだ。レンはその瞬間に右肩を地面へ押しつけ、腰を捻る。自分の力だけで巨大な狼を持ち上げるのではなく、噛みついたまま首を振ろうとする大狼自身の力と、浮いた前脚によって崩れた重心を利用した。


 二つの身体が横へ転がり、大狼の肩が地面へ叩きつけられる。その衝撃で牙がようやく左腕から抜けた。


「っ、は……!」


 レンは転がる勢いのまま距離を取り、傷ついた左腕が地面へ触れた瞬間に焼けた鉄を押しつけられたような痛みを覚えながらも、右手をついて立ち上がった。大狼もほとんど遅れず四肢を立てる。その顎の周囲にはレンの血がべっとりと付着し、対するレンの左腕からも血が止めどなく流れていた。指を動かそうとしてみるが、薬指と小指はほとんど反応しない。


 その時、アイリの声が森を切り裂いた。


「お兄ちゃん!」


 数歩離れた場所では、アイリが片膝をついたまま片耳の狼と向き合っていた。先ほど弾き飛ばされた際に痛めた右肩はまともに上がらず、頬には枝で切った細い傷が走っている。短剣は彼女から数歩離れた落ち葉の上へ転がり、その間へ片耳の狼が入り込んでいた。背中には短剣を突き立てられた傷が残り、そこから血を流しながら牙を剥いている。さらにもう一頭が左側から回り込み、アイリが短剣へ向かう道を狭めていた。


 片耳の狼だけを見ていれば、もう一頭に横から襲われる。短剣へ飛びつけば背中を見せることになる。アイリは一度だけレンを見たが、大狼の周囲にはまだ別の狼が残っていた。助けを待てる状況ではない。


「……自分で、やる」


 自分自身へ言い聞かせるように呟くと、アイリは足元の小石を拾い、片耳の狼へ投げた。石は鼻先の横を掠めただけだったが、黄色い瞳がほんの一瞬そちらを追う。その隙にアイリは短剣とは逆方向へ走り出した。片耳の狼は一瞬だけ短剣の位置へ視線を戻したものの、すぐに彼女を追い、もう一頭も続く。武器を捨てて逃げたと思ったのか、それとも単純に動く獲物を追っただけなのかは分からない。だがアイリにとって重要なのは、二頭を短剣から引き離せたという事実だけだった。


 痛む右肩を庇いながら森の道を駆ける。湿った落ち葉が靴の下で滑り、右、左と足を運ぶたびに身体が僅かに傾いたが、背後から迫る二つの足音は一向に遠ざからない。片方はすぐ近く、片耳の狼。もう片方は少し右へ外れ、こちらを挟む位置へ回ろうとしているようにも聞こえた。


 前方に細い木が一本立っていた。その根元には苔に覆われた大きな石があり、太い根が幾本も地面へ浮き上がっている。アイリはそこへ向かい、背後の足音が一段大きくなった瞬間、木の直前で速度を落とした。左足を根の外側へ置き、幹へ左手をつき、走ってきた勢いを完全には殺さず身体を横へ逃がす。直後、片耳ではない方の狼が背後から飛び込んできた。灰色の身体がアイリの肩を掠め、着地点を変えられないまま前脚を苔むした石へ乗せる。足場が滑り、狼は勢いのまま身体を崩して肩から木の根元へ激突した。


 アイリ自身も完全には止まり切れず片膝をつき、右肩へ鋭い痛みが走った。それでも立ち上がろうとした彼女に対し、片耳の狼は仲間のように一直線には飛び込まなかった。逃げた先へ回り込むように低く進路を変え、アイリが姿勢を整える前に左脚へ牙を向けてくる。


 アイリは外套の裾を掴んで身体ごと後ろへ引いたが、わずかに遅かった。片耳の狼の前脚が外套を踏み、首元が後ろへ引かれて呼吸が詰まる。次の瞬間、アイリは留め具へ指を掛けて外し、身体だけを前へ滑らせた。灰色の外套が狼の前脚の下へ残り、彼女自身はそこから抜け出す。牙が脹脛を掠め、黒い靴下を裂いて皮膚へ細い傷を残したが、噛みつかれることだけは避けられた。


 目的は逃げることではない。落とした短剣を取り戻すことだ。


 アイリは歯を食いしばって再び走った。後ろでは片耳の狼が外套を踏み捨てるように方向を変え、木へぶつかったもう一頭もふらつきながら起き上がっている。木漏れ日の下、落ち葉の上で短剣が小さく銀色に光っていた。あと数歩。しかし片耳の狼の足音は急速に近づいてきており、そのままでは間に合わない。


 前方に浮き出た太い根と、その脇に足一つ分ほど沈んだ地面を見つけたアイリは、そこへ踏み込むと同時にわざと重心を落とした。低くなった背中へ片耳の狼が噛みつこうとする。アイリは痛めた右肩を使わず、左手を根へついて身体を横へ倒した。灰色の顎が髪のすぐ上を通り過ぎる。その一瞬に左脚を短く蹴り上げ、踵を狼の下顎へ当てた。倒せるほどの威力ではなかったが、噛みつく軌道をずらすには十分だった。


 片耳の狼が横へ流れた隙に、アイリは地面へ手をついたまま短剣へ身を伸ばした。指先が柄へ届き、握り込む。しかし、その瞬間にはもう一頭が右側から飛びかかっていた。立ち上がる時間はない。アイリは片膝をついた姿勢のまま短剣を両手で支え、刃先を斜め上へ向けた。


 狼が迫る。開いた口の奥に濡れた牙が並び、唾液が糸を引き、黄色い瞳が自分だけを捉えている。怖かった。今すぐ背を向けて逃げたかった。それでも、ここで逃げれば必ず追いつかれることだけは分かっていた。


 最後の瞬間、アイリは上半身を左へずらした。正面から狼を受け止めず、身体だけをその突進の線から外す。しかし短剣の切っ先は残した。狼自身の速度と重量が刃へ乗り、胸毛を裂いた切っ先が硬い肋骨へ当たり、その隙間へ滑り込んでいく。


「――っ!」


 両手へ重い衝撃が伝わった。狼の身体がアイリへぶつかり、そのまま彼女を地面へ押し倒す。短剣は肉の中へさらに沈み、温かい血が頬や額へ散った。それでも狼は死なない。アイリの上で激しく暴れ、前脚が黒いドレスを引き裂き、爪が脇腹と腕へ焼けるような痛みを残した。耳元では牙が何度も鳴っている。


「いや……!」


 アイリは両手で短剣を押さえ続けた。抜けば噛まれる。手を離せば押し潰される。だから、怖くても、震えていても、押すしかない。


「離れて……!」


 さらに刃を押し込むと、狼の身体が大きく痙攣した。肉と骨を通して伝わる生々しい感触が両手から消えない。アイリは泣きそうになるのを堪えながら刃を僅かに捻った。荒い呼吸が一度、二度、三度と続き、やがて止まる。全身から力が抜け、重い頭がアイリの肩の横へ落ちた。


「……え……」


 死んだ。


 自分が殺した。


 その事実を理解するより早く、力を失った狼の体重が胸と腹へまともに圧し掛かってきた。息が苦しく、傷めた右肩はほとんど使えない。左手で死体を押してみても、まるで動かなかった。


「お兄ちゃん……!」


 意識する前に助けを求める声が出た。


 片耳の狼が立ち上がっている。下顎から血を流し、背中にも先ほどアイリが短剣を突き立てた傷が残っている。それでも獣は退かず、地面へ押さえ込まれて逃げられない彼女へ向かい、ゆっくりと距離を詰めてきた。


     ◇


 アイリの叫びは、レンにもはっきり聞こえていた。


 だが、すぐにそちらへ向くことはできない。黒灰色の大狼が距離を取り、その左右ではまだ何頭もの狼が動いている。一頭を失い、複数が傷を負ってなお包囲は続いていた。大狼は前へ飛び込まず、少し後ろへ下がった位置から群れ全体を見渡すように頭を動かしている。一頭が右へ移れば、その直後に左側の個体も位置を変える。大狼自身が何を考えているのかは分からない。だが、ほかの狼たちがこの個体の動きへ何度も反応している。それだけは、これまでの攻防から見ても偶然とは思えなかった。


「ただの群れじゃ……ないな」


 左腕から滴った血が黒銀の剣の柄へ落ちる。剣を握っているのは右手だけで、左手は添えることさえ難しい。正面に二頭、右に一頭、左の茂みにも気配があり、大狼はさらにその後ろにいる。正面の狼が短く吠えた直後、左で枝が折れる音がした。


 反射的にそちらを見かけ、レンは寸前で止めた。音を出して注意を向け、反対側から襲う。これまで何度も見た動きだ。しかし、同じ手だけを繰り返すとは限らない。レンは大狼の位置も意識しながら半歩右へ移った。


「……左か」


 直後、左の茂みから狼が飛び出し、牙がさっきまでレンの脚があった場所を噛んだ。レンは右手だけで黒銀の剣を斜めに振り上げる。左手を使えないため、いつもの軌道より遅く、深い斬撃にはならない。それでも刃は前脚の内側を裂き、狼が悲鳴を上げて後退した。


 そこへ正面の二頭が同時に走り出す。一頭は高く跳ぶ姿勢、もう一頭は地面を這うように低い。レンは低い方へ斬り下ろすように剣を動かし、途中で刃先を地面近くへ落とした。湿った落ち葉と土を掬って振り上げると、二頭の顔へ泥が散る。反射的に目を閉じた一頭へ踏み込み、上から来た狼の顎へ柄頭を叩き込む。もう一頭は視界を失ったまま噛みついてきたが、レンは大振りせず、狼の口の前へ刃を横向きに差し出した。


 牙が金属へ当たり、甲高い音が響く。狼が反射的に顎を閉じた瞬間、レンは右手だけで柄を捻った。刃が口角を裂き、血を飛ばした獣が悲鳴を上げて離れる。


 その瞬間、黒灰色の大狼が動いた。


 正面ではなく、太い根を蹴って斜めからレンへ飛び込んでくる。狙いが右肩なのか首なのか判断する時間はない。左腕は使えず、ここで剣を振り切れば防御が間に合わない。レンは刃を横に寝かせ、右手で柄を握ったまま身体の前へ押し出した。動かない左前腕の外側だけを柄尻近くへ添え、剣そのものを盾のように使う。


 大狼の胸が刃の腹へ衝突し、レンの靴が土の上を滑った。傷ついた左腕へ再び激痛が走り、狼の重さが剣を押し下げ、牙が目前へ迫る。それでもレンは力任せに押し返さなかった。そのまま後ろへ倒れながら右足の裏を大狼の胸へ当て、狼が前へ来る勢いと自分が倒れる勢いを同じ方向へ流す。大狼の身体はレンの上を越えて横へ転がった。投げ飛ばしたのではない。ただ突進の方向を変えただけだったが、それでも必要な距離は開いた。


 レンはすぐに起き上がった。右脚へ鈍い痛みが残り、左腕からは血が止まらず、息も乱れている。


 そこへ、もう一度アイリの声が届いた。


「お兄ちゃん!」


 今度は明らかに切迫している。


 レンが振り向くと、二十歩ほど先でアイリが狼の死体に押さえ込まれ、そのすぐ前まで片耳の狼が迫っていた。


「アイリ!」


 考えるより先に身体が動いた。


 しかし大狼から視線を外した、その瞬間だった。横から灰色の影が低く走り込み、牙がレンの右脚へ噛みつく。長靴を貫いた牙が脛の外側へ食い込み、完全に深くは入らなかったものの、大狼が頭を横へ振ったことでレンの身体が崩れ、片膝をついた。


 アイリまではまだ遠い。片耳の狼はすでに死体の上へ前脚を掛けている。


「どけ!」


 レンは噛まれた脚を乱暴に引き抜かなかった。右膝を大狼の下顎近くへ押しつけ、同時に剣の柄を鼻先へ短く打ち込む。獣が一瞬口を緩めたところで脚を抜くと、長靴の内側へ温かい血が広がった。レンは右手だけで鼻先へ浅く一閃を走らせ、大狼が顔を背けた隙に走り出す。


 右脚を踏むたび傷が痛み、左腕は揺らすことさえ難しい。それでも足を止めなかった。二十歩あった距離が十五歩へ縮まり、その間にも左右から狼が追ってくる。左から飛び込んできた一頭には、噛みつく直前で身体を低くし、右肩をぶつけるようにして進路を外した。狼の胸と肩が当たり、レン自身も横へよろめいたが、どうにか転倒は免れる。


 十歩を切ったところで、今度は右側から別の足音が迫ってきた。振り向いて斬る時間はない。レンは音だけで距離を測り、跳躍の気配を感じた瞬間に身体を半分だけ捻って黒銀の剣を後ろへ向けた。狼自身が刃先へ突っ込み、切っ先が口の脇から頬へ入り込む。深く刺さる前に獣の顔が大きく逸れ、レンはすぐに剣を引いて走り続けた。


 八歩。七歩。片耳の狼が、逃げられないアイリへ首を伸ばしている。彼女の短剣は上に倒れた狼の胸へ食い込んだままで、まだ抜けていない。


「アイリ、顔を伏せろ!」


 アイリが反射的に顔を横へ向けた。


 レンは走りながら黒銀の剣を右肩の近くへ引く。左手は使えず、両手で狙いを安定させることもできない。そもそも剣は投擲するための武器ではなかった。それでも、今の距離から間に合わせられる方法はほかにない。


 片耳の狼まで、あと五歩ほど。


 レンは柄から手を離した。


 黒銀の剣が空を切る。完璧な一直線ではなく、重い刀身の切っ先が僅かに揺れた。それでも距離は短い。レンの動きに気づいた片耳の狼が顔を上げた瞬間、切っ先が肩口から胸を斜めに貫き、背側へ抜けた勢いのまま、すぐ後ろの幹へ食い込んだ。


 狼の身体が木へ叩きつけられ、木と剣の間へ押しつけられるように崩れる。後脚だけが何度か地面を掻き、口から血が落ちた。身体が激しく痙攣したあと、やがて力が抜け、剣にもたれかかるように動かなくなった。


「アイリ!」


 レンはそのまま妹のもとへ駆け寄った。死んだ狼の身体が彼女の胸から腹へ乗り、完全に押さえ込んでいる。


「動けるか?」


「重くて……!」


「分かった」


 左腕は使えない。レンは狼の胴へ右肩を押しつけ、右手で前脚を掴んだ。膝を地面へつき、腕だけではなく肩と腰を一緒に押し込むようにして死体を横へ転がそうとする。最初はほとんど動かなかった。


「アイリ、身体を横へ!」


「うん……!」


 アイリも残った力で地面を蹴る。レンがもう一度肩を入れると、狼の死体が僅かに傾き、その隙間からアイリが身体を滑らせた。二人が離れた直後、死体が重い音を立てて元の位置へ転がる。


 アイリは息を荒げながら地面へ手をついた。


「短剣」


「刺さったまま」


「抜けるか?」


「やる」


 狼の胸へ残った柄を両手で掴む。痛めた右肩が震えた。レンが手伝うことも考えたが、左腕は使えず、右手まで塞げば周囲へ対応できなくなる。アイリは狼の脇腹へ靴底を押し当て、一度強く引いた。動かない。もう一度、歯を食いしばって全身で引く。


「……っ!」


 ようやく刃が抜け、黒い血が傷口から流れて地面へ染み込んだ。


 アイリは短剣を握ったまま立ち上がり、ほんの一瞬だけ自分が殺した狼を見下ろした。手が震えている。


「アイリ」


「……大丈夫」


 声も震えていた。


「今は、大丈夫」


 それ以上は言わなかった。今ここで、自分が何を感じているのか整理する必要はない。生き残らなければ、後で泣くことすらできないのだから。


 二人は再び背中を合わせた。


 レンの左腕は袖の先まで血に濡れ、右脚にも噛み傷がある。アイリは外套を失い、黒いドレスは泥と血で汚れ、右肩の動きも鈍い。左の脹脛には牙が掠めた傷があり、頬と脇腹にも赤い線が走っている。朝、ラウナを出た時の姿は、もうどこにも残っていなかった。


 それでも、二人ともまだ立っていた。


 周囲には三頭の狼の死体がある。一頭はレンが黒銀の剣で斬り殺した若い狼。一頭はアイリの短剣に胸を貫かれた狼。そして少し離れた木の根元では、片耳の狼が黒銀の剣に貫かれたまま動かなくなっていた。さらに何頭かが深い傷を負い、前線から下がっている。それでも群れは逃げず、まだ七頭前後が周囲に残っていた。正確な数を数えている余裕はない。


 黒灰色の大狼が、木の幹へ食い込んだ黒銀の剣を見た。次にレン、そしてアイリへ視線を移す。それだけで何を考えたのかは分からない。ただ、残った狼たちが再び少しずつ距離を詰め始めたことだけは確かだった。


「剣……取りに行ける?」


 アイリが小声で尋ねた。


 レンは木を見る。片耳の狼の胸を通り、幹へ食い込んだ黒銀の剣。距離があるうえ、狼たちはその周囲を空けているように見せながら、いつでも割り込める位置へ散っている。


「今は無理だ」


「わたしが行く?」


「まだ」


 レンは腰の後ろへ右手を伸ばした。指先に、もう一つの柄が触れる。


 木の感触。馴染んだ太さ。


 フィンが旅立ちの朝に押しつけてきた、鉄芯入りの木剣だった。


 レンはそれを引き抜いた。長さは黒銀の剣とほぼ同じだが、当然ながら刃はなく、狼の肉を斬ることもできない。しかし内部には細い鉄棒が通されており、普通の訓練用木剣とは重さが違う。フィンと何度も打ち合った時に感じた、手へ返ってくる独特の重み。旅の荷物としては邪魔になることを承知で持ってきたその一本に、いま初めて別の意味が生まれていた。


「フィンに感謝しないとな」


 レンが呟くと、アイリは荒い息の合間にほんの僅かだけ笑った。


「帰ったら、ちゃんと言ってあげて」


「帰ったらな」


「帰るよ」


 アイリは短剣についた血を、足元に横たわる狼の毛へ一度滑らせた。完全には落ちないが、柄へ流れてくる分だけを拭い、握り直す。


「二人で帰るって約束したから」


「ああ」


 レンも木剣を構えた。左手の指はまともに動かないため、無理に握り込まず、柄へ掌を軽く添える程度に留める。ほとんどの重さは右手一本で支えるしかなかった。


 黒灰色の大狼が、それまでとは少し違う低く短い声で吠えた。


 残った狼たちの動きが一度止まり、次いで配置が変わる。傷の深い個体は後ろへ下がり、まだ十分に走れるものが前へ出た。左に三頭、右に三頭、正面に一頭。黒灰色の大狼だけは、さらにその後方へ位置を取る。自ら飛び込むよりも、群れ全体を見渡せる場所を選んだようにも見えた。


「また形、変えた」


 アイリが言った。


「ああ」


「大きいのは来ないの?」


「分からない。でも、今すぐ自分で飛び込むつもりはなさそうだ」


「七頭、一緒に来たら?」


「来るだろうな」


「その木剣で?」


「やるしかない」


 レンは握りを確かめた。木剣を見た狼たちの反応が本当に変わったのか、それとも単に黒銀の剣を失った自分を弱った獲物と判断しただけなのかは分からない。しかし確かなことが一つだけある。木だから軽いわけではなく、斬れないから殺傷力がないわけでもない。頭、顎、脚、肋骨。狙う場所を選べば、この鉄芯の重さは十分に武器になる。


「アイリ」


「うん」


「次は、俺が言うまで大きく動くな」


「でも七頭来るんでしょ?」


「ああ」


「一人で受ける気?」


「最初の一頭だけだ」


 レンは黒灰色の大狼を見た。


「最初の一撃で、あいつらの動きが変わるか確かめる。一瞬でも止まれば、その間に黒銀の剣を取り戻す」


「誰が?」


「アイリ」


 返事はすぐには返らなかった。


「お兄ちゃんは?」


「ここに残る」


「駄目」


「数呼吸でいい」


「その腕で?」


「右手は動く」


「脚も噛まれてる」


「ああ」


「それで七頭相手にするの?」


「七頭全部を倒す必要はない。お前が剣を取るまで止める」


「嫌だ」


 アイリの声が低くなった。


「一人だけ残すの、約束と違う」


「置いていくんじゃない。二人で生き残るために、少しだけ役割を分ける」


「……倒れない?」


「倒れない」


「本当に?」


 レンは一瞬迷った。


「……絶対に?」


 アイリが重ねる。


 昔なら、簡単に「大丈夫だ」と答えただろう。自分でも信じていない言葉で相手を安心させ、それを守ることだと思い込んでいた。だがラウナを出る前に、何度も言われた。隠すことと守ることは同じではない。


「怖い」


 レンは言った。


 アイリが目を見開く。


「痛いし、かなりきつい」


「お兄ちゃん……」


「でも倒れない。お前が戻るまでは絶対に立ってる」


 アイリは数秒だけ彼を見つめ、やがて唇を噛んで頷いた。


「じゃあ信じる」


「ああ」


「嘘だったら帰ったあと怒るからね」


「帰れたら好きなだけ怒れ」


「帰るの」


 アイリはすぐに言い直した。


「帰れたら、じゃない。帰ったら」


 レンの口元が僅かに動いた。


「ああ。帰ったら」


 狼たちが一斉に姿勢を低くした。


 左右の六頭がゆっくり距離を詰め、正面の一頭も牙を剥く。黒灰色の大狼だけは後方から動かない。森はいつの間にか異様なほど静まり返り、遠くへ退いた商隊の生存者たちの声ももう完全に聞こえなくなっていた。残っているのはレンとアイリの荒い呼吸、葉の擦れる音、血の臭い、そして近づいてくる七頭分の足音だけだった。


 レンは右手で木剣を肩の高さまで持ち上げる。それは朝、ラウナの庭で何百回、何千回と繰り返した構えだった。黒銀の剣より僅かに軽い。それでも普通の木剣より遥かに重い。フィンがレンの手へ合わせて削った柄が、血と汗に濡れた掌へ馴染んだ。


 黒灰色の大狼が鼻先を僅かに下げる。


 それが本当に合図だったのかどうか、レンには分からない。


 だが、その直後に七頭が動いた。


 正面から一頭、左右から六頭。今度は距離を測るためでも、注意を逸らすためだけでもない。傷だらけの兄妹を一気に押し潰そうとするように、残った狼たちが同時に加速した。


「お兄ちゃん……!」


「まだ」


 正面の狼との距離が十歩を切り、七歩、五歩と急速に縮まる。レンは動かなかった。黒灰色の大狼への意識を切り、目の前の一頭だけを見る。あと三歩まで迫ったところで狼が地面を蹴り、大きく開いた口をレンの喉へ向けて身体を宙へ浮かせた。


「来い」


 レンは逃げなかった。


 むしろ半歩だけ前へ出て、狼が見込んでいたより早く間合いを潰す。


 そして、木剣を振り下ろした。


 十年間、何度も、何度も繰り返してきた軌道だった。腕だけで振らない。地面を踏んだ脚の力を腰へ通し、腰の回転を肩へ、肩から肘へ、肘から手首へと繋いでいく。身体全体の力を、たった一つの点へ集める。


 刃はない。


 代わりに、硬い木と、その内部を走る鉄の重量がある。


 木剣が狼の頭部へ叩き込まれた。


 森の中に――太い枝が折れたような音が響いた。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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