第一章 第七話 牙の包囲網
黒銀の剣が鞘から抜けきった瞬間、薄暗い森の空気がさらに張り詰めた。
刃の中央を走る銀色の線が木漏れ日を細く反射し、その冷たい輝きが木々の間へ潜む何対もの黄色い瞳を一瞬だけ浮かび上がらせる。だが狼たちは怯まなかった。空腹に耐えかねて飛びかかることも、鋼の匂いを嫌って距離を取ることもない。低木の奥へ身体を伏せ、太い幹の陰から半身だけを覗かせながら、レンの剣先、アイリの立ち位置、兄妹がどちらへ体重を掛けているかまで観察しているようだった。
背後では、横転した先頭馬車の向こうからまだ微かに人の声が届いていた。負傷者を連れて後退した商隊の生存者たちだろう。だが、その声は少しずつ、二人が来た道の方へ遠ざかっている。二台の荷車はどちらも壊れ、先頭の御者は既に死んだ。壊れた車体と狼の群れが道を塞いだ今、助けが戻ってくることを期待して立ち止まっていれば、その前に包囲をさらに狭められる。
左側から短い唸り声が一つ聞こえた。
数呼吸遅れて右側の奥から似た音が返り、さらに後方で落ち葉が擦れる。
合図を送り合っている。
レンは倒木まで残り十歩ほどの距離を測りながら、剣を身体の前へ斜めに構えた。柄を握る右手には汗が滲み、朝に巻き直した布の下で掌の古い傷が熱を持ち始めている。アイリは彼の右斜め後ろに位置し、腰を低くしたまま周囲へ視線を走らせていた。短剣はまだ抜いていない。二人ともできるだけ呼吸を乱さないようにしていたが、胸の内側では心臓が激しく打ち続け、その鼓動さえ獣たちへ聞かれてしまうのではないかと思えるほどだった。
「前の倒木まで、あと少し」
レンは唇をほとんど動かさずに言った。
「走らない?」
「駄目だ。背中を見せた瞬間に来る。歩幅を変えるな」
「後ろに二頭いる」
「見えたのか?」
「姿は見えない。でも足音が違う。片方は少し重い」
声には震えが残っていたが、アイリの観察は冷静だった。
レンは前方から目を離さないまま、その情報を頭の中へ加える。正面に少なくとも三頭。左に二頭以上。右に三頭。後方に二頭。確認できるものだけでも十頭近い。さらに森の奥へ回り込んでいる個体がいる可能性もある。
これほど統率の取れた動きが偶然でないのなら、どこかに群れ全体の動きを決めている個体がいるはずだった。
だが、それがどれなのかは分からない。
最も大きな狼が群れを率いているとは限らない。自分から姿を見せず、離れた場所から他の個体を動かしている可能性さえある。
兄妹が倒木へ近づくにつれ、右側の茂みから一頭がゆっくり姿を現した。
灰色の毛並みは背中に沿って黒く濃くなり、片方の耳が古い傷で裂けている。肩の高さはレンの腰近くまであり、口を開くたび鋭い牙の間から白い息が漏れた。
狼は道へ出ても襲わなかった。
一定の距離を保ったまま、兄妹と平行に歩き始める。
視線はレンの黒銀の剣へ向けられ、ときどきアイリへ移った。
「こっち見てる」
「ずっと目を合わせるな」
「でも、見ないと動きが分からない」
「視界の端で追え。正面も捨てるな」
「分かった」
アイリが小さく頷いた、その直後だった。
左側の茂みが激しく揺れる。
レンが反射的にそちらへ剣先を向けた。
その瞬間、右側にいた片耳の狼が地面を蹴った。
「右!」
アイリの声。
灰色の身体が低く伸びる。
狙いはレンではない。
剣を左へ向けたことで生まれた隙を抜け、その後ろにいるアイリへ飛びかかろうとしている。
レンは腰を捻った。剣を大きく振り回している時間はない。柄を身体へ引き寄せ、黒銀の刃を縦に立てる。
開かれた狼の口がアイリへ届く寸前、刃の腹が鼻先へ激突した。
骨と金属がぶつかる鈍い音。
狼の頭が横へ弾かれる。
だが倒れない。
着地した前脚で土を抉り、身体を回転させるようにして再び噛みつこうとする。
「お兄ちゃん、左!」
今度は、本当に左側から二頭目が飛び出した。
二頭を同時に相手へすれば、どちらかへ背中を見せる。
レンが判断したのとほぼ同時に、アイリが短剣を抜いた。
銀色の刃が鞘を擦る。
彼女はレンの背後から一歩踏み出し、左から襲いかかる狼の正面ではなく、その進路へ斜めに身体を入れた。噛みつく直前まで引きつけると、短剣を持っていない左腕の厚い外套を突き出す。
牙が布へ食い込んだ。
「っ……!」
凄まじい衝撃でアイリの身体が後ろへ引かれる。
「アイリ!」
「今!」
彼女は噛みつかれた腕を無理に引き抜こうとはせず、外套ごと横へ引いた。狼の頭が僅かに流れ、首から肩へかけての部分が露出する。
レンは片耳の狼を剣の鍔で押し退け、そのまま身体を半回転させて左へ踏み込んだ。
黒銀の刃が低い軌道を描く。
肩口へ食い込む。
肉を断つ重い感触が両手へ伝わり、灰色の毛が一気に赤く染まった。
狼は甲高い悲鳴を上げ、アイリの外套を離して地面へ転がる。血が落ち葉へ散り、湿った土と苔の匂いに生臭さが混じった。
しかし、一頭へ傷を負わせたことを喜んでいる暇はなかった。
右から片耳の狼が再び飛び込んでくる。
レンは剣を振り切った直後だった。
刃を戻せない。
避ければ、そのままアイリへ届く。
レンは左腕を身体の前へ出した。
外套。
革の腕当て。
その上から牙が噛みつく。
「ぐっ……!」
衝撃で肩が後ろへ持っていかれた。
革が軋み、牙の一部が布の下の皮膚へ達する。
鋭い痛みが肘から肩へ走った。
「離れろ!」
レンは右手で剣を支えたまま、柄頭を狼の側頭部へ叩きつけた。
一度。
離れない。
二度目を耳の付け根へ打ち込む。
それでも牙が食い込んだまま。
三度目。
狼がようやく口を開き、数歩後退した。
アイリがすぐに横から短剣を突き出すが、片耳の狼は頭を低くして刃を避け、さらに距離を取る。鼻先から血を流しているものの、足取りはまだ崩れていない。
「腕を見せて!」
「あとだ」
「血、出てる!」
「深くはない。前を見ろ!」
レンの声に、アイリは反射的に正面へ向き直った。
倒木の向こう側。
そこへ新たな三頭が姿を現していた。
一頭は細身で、まだ若い。
もう一頭は胸元だけ毛が白く、左前脚を僅かに引きずっている。
そして中央。
他より一回り大きな黒灰色の狼。
右目の周囲には古い爪痕。
耳は両方とも無傷。
大狼は口を閉じたまま、じっと兄妹を見つめていた。
唸り声すら上げない。
その静けさが、牙を剥き続けるほかの個体よりも不気味だった。
「真ん中のが……群れの長?」
「まだ分からない」
レンは答えながら周囲を見る。
「でも、見ろ」
片耳の狼が一度だけ黒灰色の大狼へ視線を送った。
左側にいた別の個体も同じだった。
大狼が頭を僅かに下げる。
それだけで、倒木の左右にいた狼たちがゆっくり広がり始めた。
正面を塞ぐためではない。
倒木の両端へ回り込み、兄妹が背を預けようとしていた場所そのものを包囲へ利用しようとしている。
「……あいつが動くと、他の狼も動いてる」
アイリが言った。
「ああ」
レンの中で、先ほどまで仮説にすぎなかったものが少しずつ形を持ち始める。
「少なくとも、あいつの動きを見てる」
「倒木まで行かない方がいいね」
「ああ。俺たちをあそこへ追い込むつもりだ」
「じゃあ、どこで戦う?」
レンは周囲を素早く確認した。
後方の道は細く、低木に囲まれている。
左右は太い木々と根が多く、足場が悪い。
正面は倒木によって道幅が狭くなり、その向こうに三頭。
最も広いのは、今いる道の中央だった。
背中を完全に守れる場所ではない。
だが全方向を見渡せる。
倒木へ追い込まれ、左右と上から同時に攻撃されるよりはましだった。
「ここで止まる」
「囲まれるよ」
「もう囲まれてる。狭い場所へ入るよりいい」
レンはアイリの左側へ移り、互いの肩が触れそうなほど距離を詰めた。
「背中合わせになる。俺が前と右を見る。アイリは左と後ろ」
「分かった」
「遠くの狼を追うな。飛び込んできた一頭だけを見る。傷を負わせても深追いするな。追った瞬間に別のやつが来る」
「お兄ちゃんもね」
「ああ」
「腕、本当に動く?」
レンは左手を一度握り、開いた。
噛まれた部分から血が滲み、指先まで鈍い痺れがある。腕当てが受けたおかげで牙は深く入り切っていない。骨が折れている感覚もなかった。
ただ、剣を握る左手の力が少し弱い。
「動く」
「嘘じゃない?」
「今回は本当だ」
「今回は、って自分で言うんだ」
「今はそこじゃないだろ」
アイリは完全には納得していない顔をした。
だが、それ以上確認する時間は与えられなかった。
周囲の狼たちが一斉に身体を低くしたからだ。
片耳の狼は右側。
肩を切られた個体は左の茂みへ退き、その代わりに無傷の狼が前へ出てくる。
負傷した個体を下げ、別の個体と交代している。
兄妹に休む時間を与えないまま、自分たちだけ戦力を入れ替えているのだ。
「……本当に嫌なやつらだね」
アイリが呟いた。
「俺も同じこと思ってた」
黒灰色の大狼が短く鼻を鳴らす。
後方から一頭が飛び出した。
「後ろ!」
アイリは足音へ意識を集中させながら振り返る。
狼が跳ぶ。
彼女は左足を軸に身体を半分だけ回し、短剣を横へ構えた。
だが獣はアイリへ届く直前で方向を変えた。
本当の狙いはレンの脚。
アイリを振り向かせ、兄妹の間に隙間を作るための囮だった。
「下だ!」
レンは剣を振り下ろす。
狼は地面を蹴り、横へ跳んだ。
黒銀の刃が湿った土へ深く食い込む。
その瞬間。
右側から片耳の狼が飛びかかった。
狙いはレンの剣を握る腕。
刃は地面へ刺さったまま。
引き抜く暇はない。
「お兄ちゃん、低く!」
レンが反射的に身を沈める。
アイリは彼の背を踏み台にして高く跳ぶのではなく、左手を兄の肩へ添えて身体の位置を素早く入れ替えた。低くなったレンの背後から斜め右へ滑り出し、飛び込んできた片耳の狼の真正面を外す。
狼の牙が空を噛んだ。
灰色の身体が彼女の横を通過する。
その一瞬。
伸びきった肩が露出した。
アイリは身体を深く沈めたまま、逆手に持ち替えた短剣を肩甲骨の後ろへ突き込んだ。
刃が浅く肉へ入る。
狼が怒りに満ちた声を上げ、激しく身体を振った。
アイリは無理に刃を残さず、すぐ抜いて距離を取る。
足を滑らせかけたものの、片手を地面へついて姿勢を立て直した。
「アイリ!」
「大丈夫!」
彼女は片膝をついた姿勢からすぐ立ち上がり、短剣を構え直す。
着地した片耳の狼は背中から血を流していた。
だが戦意は失っていない。
むしろ怒りに目を血走らせ、低い唸りを強めている。
レンは地面から剣を引き抜いた。
土のついた刃を払う暇もなく、正面から若い狼が突進してくる。
レンは正面で受け止めず、一歩だけ左へずれて進路を外した。
狼の顎が横を通り過ぎる瞬間、剣の平を首筋へ叩き込み、その勢いを利用して身体を地面へ流す。
若い狼は前脚をもつれさせて転倒した。
レンは追わない。
「倒したのに?」
「行くな」
アイリの問いへ短く答える。
「わざと隙を見せてるかもしれない」
予想どおりだった。
右側の茂みから別の一頭が飛び出し、転んだ若い狼を守るようにレンとの間へ入る。
左側にも二頭。
低い姿勢で機会を待っていた。
あの一頭へ追撃していれば、剣を振り下ろした瞬間に横から噛みつかれていただろう。
若い狼はすぐに起き上がり、仲間とともに距離を取った。
群れは再び攻撃を止めた。
狼たちは兄妹を中心に緩い円を描きながら歩き、一定の距離を保っている。足音はほとんどなく、落ち葉が僅かに擦れるだけ。
負傷した個体は後方。
新しい個体が前へ。
レンは呼吸を整えようとしたが、すでに腕と肩へ疲労が溜まり始めていた。
剣を振った回数自体は多くない。
しかし、どの方向から来るか分からない攻撃へ備え続ける緊張が、必要以上に筋肉を硬くしている。
左腕の傷も脈打つように痛み始めた。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「このままだと、わたしたちが先に疲れる」
「ああ」
「逃げる?」
「背中を見せたら追いつかれる」
「木に登る?」
「登ってる途中を狙われる。それに登れても、下で待たれるだけだ」
「火は?」
「火打石を出して火を起こしてる余裕がない。油を使えば追い払えるかもしれないけど、この森で火を広げたくない」
「じゃあ……どうする?」
レンは黒灰色の大狼へ目を向けた。
一度も直接攻撃へ加わっていない。
兄妹の戦い方を観察しながら、周囲の狼の動きへ合わせて頭や身体の向きを僅かに変えている。そして、それに呼応するように別の個体が位置を変える。
偶然に見える回数ではなかった。
「やっぱり、あいつだと思う」
「真ん中の?」
「あいつが向きを変えるたび、他の狼が動く」
「倒せば止まる?」
「分からない。でも、群れが乱れる可能性はある」
「遠いよ」
「ああ」
黒灰色の大狼は、自分から危険な距離へ入ろうとはしていない。
他の狼へ攻撃させ、二人の体力が削られるのを待っているように見える。
「なら、向こうから来させる」
アイリがレンを見る。
「どうやって?」
レンは足元へ視線を落とした。
道を横切る太い根。
その横の小さな窪み。
右側へ張り出した低木。
使える地形はそれほど多くない。
だが、狼たちは明らかに自分よりアイリへ攻撃を集中させようとしている。
身体が小さい。
武器も短い。
こちらの方が弱い獲物だと判断しているように見えた。
なら、その判断を利用する。
「アイリ。次に大きく動いたら、わざと足をもつれさせろ」
「転ぶの?」
「完全に倒れるな。片膝をついて、すぐ動けないように見せる」
「お兄ちゃんは?」
「俺は助けようとして、お前との間を少し開ける」
「群れに、分かれたって思わせる?」
「ああ」
「危なくない?」
「危ない」
アイリが一瞬だけ目を丸くしたあと、緊張した顔のまま小さく笑った。
「正直だね」
「嘘をつくなって言われたからな」
「それで、大きい狼も来る?」
「来ないかもしれない」
レンはそこも誤魔化さなかった。
「でも仕留める好機だと思えば、周りの狼は必ず距離を詰める。あいつまで動けば一番いい」
「その時、全部に囲まれるよ」
「だから最初の一頭を確実に殺す」
アイリの表情から笑みが消える。
「殺すんだね」
「ああ」
傷をつけるだけでは退かない。
既にそれは分かっている。
「近づけば死ぬって、群れに思わせる」
レンは剣を低く構え直した。
アイリも短剣を身体の陰へ隠すように下げる。
狼たちは二人の会話を理解してはいないだろう。
だが、姿勢が変わったことには気づいた。
黒灰色の大狼が頭を上げる。
鼻を鳴らす。
右側の片耳の狼が地面を蹴った。
同時に左側から二頭。
後方から一頭。
「来る!」
レンは右へ剣を向けた。
片耳の狼が距離を詰める。
だが飛びかかる直前で止まった。
囮。
左の二頭も同じ。
近づくだけで跳ばない。
本命は後方。
アイリが振り返る。
狼が迫る。
彼女は短剣を構えようとして――足元の太い根へ靴を引っかけたように身体を崩した。
計画どおり。
だが狼たちから見れば、本当に足を取られたように見えたはずだった。
アイリは片膝を地面へつき、短剣を落としたふりをして手を伸ばす。
「アイリ!」
レンは声を上げ、彼女を助けようとするように身体を向けた。
兄妹の距離が開く。
その瞬間。
群れ全体が動いた。
前方の若い狼。
左の二頭。
右の片耳。
後方からもう一頭。
そして。
黒灰色の大狼が、初めて地面を蹴った。
レンの背中を冷たいものが走る。
来た。
大狼の足音は、他の個体より明らかに重い。
一直線。
迷いがない。
残り六歩。
五歩。
四歩。
「まだ」
レンが小さく言う。
アイリは地面へ片膝をついたまま、落とした短剣へ手を伸ばす。
三歩。
右から片耳の狼。
左の二頭がアイリの脚。
正面から若い狼がレンの背中へ飛びかかる。
「今!」
レンは叫ぶと同時に身体を深く沈めた。
背中へ迫っていた若い狼が頭上を通過する。
その腹の下。
レンは黒銀の剣を滑り込ませた。
腕だけではない。
脚。
腰。
背中。
十年間繰り返してきた動きを一つへ繋ぐ。
斬り上げた。
肉が裂ける重い感触。
刃は狼の腹部を下から深く切り開いた。
灰色の毛が赤く染まり、温かな血がレンの手と顔へ飛ぶ。
狼は空中で身体を捻りながら地面へ落ちた。
裂けた腹から暗い色の臓物が零れ、湿った落ち葉の上へ濡れた音を立てる。
脚が何度か痙攣する。
やがて止まった。
黒銀の剣で、生き物の命を断った。その感触を、レンは初めて知った。
だが、恐怖も吐き気も後からだった。
今は止まれない。
同時にアイリが短剣を拾い、片膝をついた姿勢のまま身体を回した。
左から迫る一頭の前脚。
短剣を横へ走らせる。
深くはない。
だが腱の近くへ刃が入り、狼の前脚が崩れた。
獣は着地に失敗し、前のめりに転倒する。
もう一頭がアイリの肩へ噛みつこうとする。
彼女は無理に迎え撃たず、そのまま地面へ身体を伏せた。
牙が頭上を通過する。
「アイリ、そのまま!」
レンは死んだ狼から剣を引き抜く。
刃へ絡みついた血が散る。
勢いを止めずに横へ薙いだ。
二頭目の狼の脇腹へ浅く刃が入り、赤い線が毛並みの上を走った。
だが。
黒灰色の大狼だけは止まらない。
仲間の死体を飛び越える。
レンの予想より遥かに速い。
黒い影が視界を覆った。
大きく開かれた口。
長い牙。
赤い舌。
狙いは喉。
レンは剣を横へ振り切っている。
正面へ戻す時間がない。
避ければ、地面へ伏せたアイリとの間へ狼を通す。
身体が判断した。
レンは傷ついた左腕を上げた。
大狼の牙が腕当てへ食い込む。
革が裂けた。
今度は先ほどとは違う。
牙が肉へ深く沈んだ。
「――ぐっ!」
激痛。
衝撃で身体が後ろへ倒れる。
背中が地面へ叩きつけられ、肺の空気が一気に抜けた。
大狼は前脚をレンの胸へ置き、体重を掛ける。
息ができない。
噛みついたまま頭を振る。
左腕の肉を引き裂こうとしている。
「ぁ……ぐっ……!」
痛みが肘から肩へ突き抜けた。
視界が白く明滅する。
左手の指から力が抜け、剣を支えられなくなりかける。
「お兄ちゃん!」
アイリが起き上がった。
短剣を握る。
大狼の首へ向かって駆ける。
「来るな!」
レンが叫んだ。
だが遅い。
横から片耳の狼が飛び込んだ。
アイリは牙を避けようと身を捻る。
しかし獣の肩が脇腹へ激突した。
「っ!」
小さな身体が横へ弾かれる。
地面へ落ちる。
一度転がり、二度目で肩を強く打つ。
短剣が手から離れ、落ち葉の向こうへ滑っていった。
「アイリ!」
起き上がろうとした彼女の前へ、片耳の狼が立つ。
低い唸り。
黄色い瞳。
そのさらに後ろから別の狼が距離を詰めてくる。
レンも動こうとした。
だが胸の上には大狼の前脚。
左腕には牙。
大狼がもう一度、強く頭を振る。
肉が裂ける。
血が外套を伝い、落ち葉の上へ落ちた。
痛みで視界が霞む。
それでもレンは右手を伸ばした。
黒銀の剣。
指先が柄へ届く。
握る。
左手はほとんど使えない。
それでも右手だけで、どうにか剣を離さなかった。
周囲の狼たちが向きを変える。
今まで距離を測っていた個体も、傷を負って後方へ下がっていた個体も、倒れたレンとアイリを見て少しずつ円を縮め始める。
まるで群れは、ずっとこの瞬間を待っていたかのようだった。二人の動きが崩れ、疲労で判断が鈍り、傷が増え、互いを守ろうとした結果として一方が倒れる――そこまで見越していたのではないかと錯覚するほど、狼たちの包囲には迷いがなかった。
そして今、レンは大狼に押さえつけられ、左腕を深く噛まれている。アイリは短剣を失い、片耳の狼に進路を塞がれていた。背後の商隊から聞こえていた声も、もうほとんど届かない。
薄暗い森の中。
血の匂いだけが濃くなっていく。
黒灰色の大狼が、牙をさらに深く沈めた。
レンは歯を食いしばり、右手一本で黒銀の剣の柄を握り直す。
周囲では、一頭、また一頭と狼たちが身を低くした。
すべての牙が。
二人へ向いた。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
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皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
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