第一章 第六話 森へ続く最初の一歩
夜明けの鐘がラウナの空へ三度響いたとき、レンとアイリは家を出て数歩のところで足を止め、十年間暮らした場所を振り返っていた。
東の山並みから昇り始めた朝日はまだ淡く、屋根や畑を覆う薄い霧を柔らかな金色へ染めている。石壁に囲まれた小さな庭では、アイリが育ててきた薬草の葉に朝露が残り、裏手の薪置き場では木材の隙間から一匹の野鼠が顔を覗かせていた。何度も開け閉めした古い木の扉はもう閉ざされ、その鍵はレンの右手に握られている。雨の日になると水が染み込んだ窓枠。冬には冷たい風が忍び込んだ屋根の隙間。二人で夕食を囲んだ小さな机。アイリが薬草を乾かした棚。レンが訓練から戻るたび、泥だらけの靴を脱いだ石段。昨日までなら目を留めることさえなかったものが、旅立ちの日を迎えた途端、どれも二度とは同じ形で見られないもののように思えた。
ここは燃えていない。
誰かに追われているわけでもない。
帰ろうと思えば、いつか自分たちの足で帰ってこられる。
十年前のエイレンとは何もかもが違う。それでも、自分たちの意思で故郷を離れるということには、逃げるしかなかったあの夜とは別の痛みがあった。
レンは黒い旅装の上からガルドに作ってもらった新しい剣帯を巻き、母から受け継いだ黒銀の剣を背負っている。腰には水筒と火打石、小さな革袋。背嚢には食料、毛布、雨具、鍋、縄、予備の衣服。アイリも黒いドレスの上から旅用の灰色の外套を羽織り、腰へ短剣と薬袋を取りつけていた。薬袋の内側には母の銀の髪飾りが油布に包まれて縫いつけられ、背嚢の中にはマルタから贈られた銀髪の羊毛人形が収められている。
「忘れ物、本当にないよね」
アイリは閉ざされた扉を見つめたまま尋ねた。
「昨日三回、今朝も確認した。食料、薬、衣服、火打石、油、縄、針、糸、鍋、水筒、地図。全部ある」
「干し林檎は?」
「ある」
「どこ?」
「俺の背嚢の一番下」
アイリがようやく家から視線を外した。
「どうして一番下なの?」
「歩き始めてすぐ全部食べるからだ」
「全部なんて食べないよ。少しずつ大事に食べる」
「昨日、半袋を大事に食べた結果、空になってただろ」
「あれは旅立ち前の品質確認」
「昨日まで何度も食べてる」
「旅に持っていく林檎は味が違うかもしれないでしょ」
「違わない」
アイリは頬を膨らませた。
それでも家へ戻ろうとはしなかった。
くだらない言い合いを続けていなければ泣いてしまいそうなのだと、レンには分かっていた。自分も似たようなものだった。
「行こう」
鍵を握り直す。
「うん」
アイリが小さく頷いた。
二人が家の前の道へ向き直ると、少し離れたところに人影が並んでいた。
ハインとマルタ。
鍛冶屋のガルドとフィン。
パン屋のミア。
薬師のセラ。
そのほかにも、幼い頃から二人を知る何人かの村人がいた。
村全体で見送りに来れば、かえって旅立ちづらくなると考えたのだろう。それでも、十年間もっとも近くで兄妹を支えてきた人々の顔が並んでいるのを見た瞬間、アイリの青い瞳に涙が浮かんだ。
「誰にも言わずに出るつもりじゃなかったでしょうね」
マルタが腕を組む。
「そんなつもりはない」
「どうだかな」
フィンが鼻を鳴らした。
「俺たちが来なかったら、そのまま商隊に飛び乗って逃げてた顔だ」
「旅立つことを逃げるって言うな」
「昨日の夜、遅くまで家の灯りが点いてた。どうせ眠れなくて外を見てたんだろ」
「お前こそ、どうして知ってる」
「俺も眠れなかったからだよ」
フィンは気まずそうに視線を逸らし、肩へ担いでいた細長い布包みをレンへ押しつけた。
中から現れたのは一本の木剣だった。
子供の頃に使っていた普通の訓練剣とは違う。長さも柄の太さも黒銀の剣へ近づけられており、内部には細い鉄棒が通されている。刃はなくとも十分な重量があり、振れば軽い武器より遥かに強い打撃を与えられる作りだった。
「旅に出るのに木剣まで持っていけって?」
「本物を抜けない場所もあるだろ。町の中で練習するとか。それに、次に会うまで腕を落とされたら困る」
「荷物が増える」
「俺が徹夜で作った」
「鍛冶屋の息子が木剣で徹夜するな」
「いらないなら返せ」
フィンが手を引こうとすると、レンはすぐに木剣を掴んだ。布越しでも、握りが自分の手へ合わせて何度も削られたことが分かる。
「……ありがとう」
「帰ってきたら、それで勝負だ」
「本物の剣を使えるようになってるのに?」
「本物でやったら親父に二人まとめて殴られる」
後ろでガルドが低い声を落とした。
「二人では済まん。止めなかったフィンも含めて三人だ」
「俺もかよ」
「当然だ」
小さな笑いが起きた。
フィンはまだ不満そうな顔をしていたが、最後にはレンの肩を一度だけ強く叩いた。
「次は決着つけるからな」
「ああ」
それだけだった。
長い別れの言葉は要らなかった。
何年一緒にいても口喧嘩の絶えなかった二人には、その方が似合っていた。
次にミアが大きな布袋をアイリへ差し出した。焼きたての柔らかなパン、乳酪を挟んだもの、蜂蜜を塗った薄い焼き菓子まで入っている。
「柔らかいのは今日中に食べてね。残したら硬くなるから」
「こんなに?」
「レンと半分ずつ」
「お兄ちゃん、考え事すると食べないから、ちゃんと渡す」
「俺は子供じゃない」
「子供じゃない人は朝ご飯を忘れないよ」
言い返せずにいるレンを見て、ミアが笑った。
しかしアイリを抱き締めた瞬間、その笑みは少しだけ崩れた。
「王都のお菓子、買って帰るから」
「お菓子じゃなくて、アイリが帰ってきて」
「うん」
「絶対ね」
「約束する」
ミアはそれ以上言わなかった。
アイリも泣きながら何度も頷き、ようやく身体を離した。
セラは旅立ち直前だというのに、アイリの薬袋を開いて中身を確認した。止血草、解熱根、毒抜きの黒葉、痛みを鈍らせる月桂粉、傷を洗う青い薬液、縫合針、清潔な布。緊急時に使う物を外側へ、補充用を奥へ移し、最後に袋の口が確実に閉じることまで確かめる。
「止血用はここ。毒抜きは隣。暗い場所でも間違えるんじゃないよ」
「はい」
「知らない薬草を見つけても、いきなり素手で触るな」
「手袋を使います」
「それならいい」
セラは今度はレンの右手を取った。
掌に残る古い硬皮と、数日前に裂けた傷を見る。
「剣を振るなとは言わん。ただ、手が壊れたら誰も守れない。旅先で意地を張るなよ」
「分かってる」
「アイリ」
「はい」
「こいつが『大丈夫だ』と言ったら?」
「本当に大丈夫か確認する」
「よし」
「なんで俺だけ信用がないんだ」
「十年間の実績だよ」
セラが淡々と言い、アイリが横で笑った。
最後にハインが古い地図を開いた。
ラウナから南東へ伸びる道。
麦畑を抜け、その先の森を横断し、さらに先で王都へ続く主要街道へ合流する経路。二人が同行する商隊も、その道を使う予定だった。
「今日は商隊から離れるな」
ハインの太い指が森の中をなぞる。
「この辺りは普段なら大きな魔物は少ないが、森の奥は別だ。水場も獣道も、地図どおりとは限らん」
「ああ」
「途中で道が二つへ分かれる。左は近いが斜面が崩れやすい。護衛長も知っているはずだが、雨のあとなら右へ行け」
「分かった」
「遺跡らしい石を見つけても勝手に降りるな」
レンが黙った。
ハインの眉が動いた。
「返事は?」
「……商隊へ話してから確認する」
「見に行かないとは言わんのだな」
「手掛かりかもしれない」
「なら一人で決めるな。それだけ覚えておけ」
レンは頷いた。
「分かった」
ハインは地図を畳むと、レンから家の鍵を受け取った。
「家はそのままにしておく。窓も時々開ける。冬になれば炉にも火を入れる」
「ありがとう」
「礼は帰ってから聞く」
短く言い、レンの肩を叩く。
その隣では、マルタがもうアイリを抱き締めていた。
「ちゃんと食べるんだよ。濡れた服はそのまま着ない。夜は靴の中も確認する。知らない人から飲み物をもらわない。それから――」
「全部覚えられないよ」
「大事なことだけ覚えればいい」
「どれが大事?」
「全部」
アイリは泣きながら笑い、マルタへ強く抱きついた。
「行ってきます」
「行っておいで」
やがてマルタはレンにも腕を回した。
今度のレンは戸惑わなかった。
素直にその背へ腕を回す。
幼い頃には大きく感じた身体が、今ではずっと小さい。
自分が成長したのだ。
当たり前の事実が、胸の奥を強く締めつけた。
「レン」
「何?」
「帰ってきたら、また食事を作るからね」
「ああ」
「だから、帰ってきなさい」
「……うん」
それだけで十分だった。
二人は別れを終え、村の門へ向かった。
道の両側では、見送りへ来なかった村人たちも仕事の手を止め、遠くから手を振っている。畑の中の農夫。屋根を直していた大工。井戸で水を汲む女性。家畜を追う子供たち。アイリは何度も振り返って手を振り、そのたびに目元を拭った。
門の外には、既に王都方面へ向かう小さな商隊が待っていた。
二台の幌馬車。
先頭の車には布地や陶器、保存食の木箱が積まれ、後ろの一台には王都へ運ぶ農産物と革製品が載せられている。それぞれ二頭の馬が繋がれ、荷台の側面には雨除けの厚い布が垂れていた。
先頭の御者台には、日に焼けた中年の男が座っている。
その横には短槍を持った護衛長。
ガルドの古い知り合いだという男で、レンは数日前に同行の話をつけていた。
「ようやく来たか」
護衛長が言う。
「待たせた」
「旅立ちの日くらい待つさ。荷物は後ろの車へ少し積めるぞ」
「自分たちで持つ」
「最初から意地張ると二日目に泣くぞ」
「お兄ちゃんのことですか?」
「二人ともだ」
アイリが笑う。
御者も振り返り、白い歯を見せた。
「初旅なら馬車の横を歩け。森へ入れば道が悪くなる。疲れたら荷台へ乗せてやる」
「ありがとうございます」
「ただし乗車賃は別だぞ」
「え?」
「冗談だ」
男は豪快に笑った。
商隊が動き始める。
馬の蹄が土を叩き、車輪がゆっくり回った。
レンとアイリは先頭車の右側を歩きながら村の門を越えた。
石敷きの道は次第に細い土道へ変わり、左右には麦畑が広がっている。朝の風が黄金色の穂を波のように揺らし、遠くでは羊の群れが丘を移動していた。
背後にはまだラウナの屋根が見える。
鐘楼も。
煙突から昇る煙も。
門を少し離れただけなのに、世界の広さが突然現実味を持ったように感じた。
道は南東へ伸び、その先で森の入口へ吸い込まれている。
そこからさらに先へ続く道は、これまで地図と旅人の話でしか知らなかった世界へ繋がっていた。
「お兄ちゃん」
「どうした」
「もう帰りたいかも」
アイリが震える声で言った。
レンが隣を見ると、彼女は泣きながら笑っている。
「まだ村の屋根が見えてるぞ」
「見えてるから帰りたくなるの」
「戻ってもいい」
「お兄ちゃんは?」
「俺は行く」
「じゃあ、わたしも行く」
「無理に合わせなくていい」
「合わせてるんじゃないよ」
アイリはもう一度背後を見る。
「帰りたいけど、進みたいの」
レンは少し考えたあと、頷いた。
「俺も同じだ」
「お兄ちゃんも帰りたい?」
「ああ」
「言わないと思ってた」
「隠すなって何人にも言われたからな」
アイリが小さく笑い、レンの外套の袖を掴む。
「一人だけじゃないなら、たぶん大丈夫」
「たぶんか」
「絶対って言ったら嘘になるから」
「正直だな」
「お兄ちゃんも見習って」
やがて畑が途切れ、道の両側に低い雑木が増え始めた。地面には細かな枝や枯れ葉が落ち、空気へ土と苔の匂いが混ざる。
森の入口には、猟師たちが目印として積んだ石塔が二つ立っていた。
雨風に晒された赤い魔除け紐が、それぞれの石へ結ばれている。
護衛長が手を上げた。
「ここからは隊列を崩すな。荷車の前へ出すぎるなよ」
「分かった」
「聞いてるか、銀髪のお嬢ちゃんも」
「聞いてます」
「薬草見つけても森へ走るなよ」
アイリが驚いた顔をする。
「どうして分かったんですか?」
「ガルドから聞いた」
「何を話してるんだ、あの人……」
レンが小さく呟いた。
二台の馬車が石塔の間を抜け、森へ入っていく。
頭上では高い枝が幾重にも重なり、朝日を細かな光の筋へ変えていた。外から見れば黒い壁のようだった森も、中へ入れば淡い緑と深い青、湿った褐色が複雑に重なり合う別世界だった。太い幹には濃い苔が張りつき、根元には白や紫の小さな花が咲いている。枝から垂れた蔓が揺れ、遠くで何種類もの鳥が鳴いていた。
馬車の車輪が落ち葉を押し潰す。
馬の鼻息。
革具が擦れる音。
時折、荷箱同士がぶつかる鈍い音。
森の中では、それらすべてがやけに大きく響いた。
ラウナから聞こえていた鐘や人々の声は、数十歩も進まないうちに届かなくなった。
「思ってたより明るいね」
アイリが頭上を見る。
「入口だからな。奥へ行けば木がもっと密集する」
「怖がらせようとしてる?」
「事実を言ってる」
「お兄ちゃん、森へ入ってからずっと剣の柄に触ってるよ」
「すぐ抜けるようにしてるだけだ」
「そのままだと腕が疲れるよ」
「これくらいで――」
レンは途中で言葉を止めた。
アイリがじっと見ている。
「……まだ疲れてない」
「言い直した」
「嘘は言ってない」
「成長したね」
「何でお前が褒めるんだ」
商隊の御者が前から笑った。
「仲のいい兄妹だな」
「普通です」
二人が同時に答えたせいで、今度は護衛長まで笑った。
森へ入ってしばらくすると、前方の道へ太い枝が落ちているのが見えた。
護衛長が馬車を止め、男たちで道を塞いでいた枝を脇へ移す。
その間、アイリは道端に群生する青緑色の細い葉へ目を留めた。
「お兄ちゃん」
「離れるなよ」
「まだ何も言ってない」
「顔に書いてある」
「誰かさんみたいだね」
アイリは腰袋から薄い革手袋を取り出し、道の端へ数歩だけ近づいた。レンも一緒についていく。
「水傷草に似てる。でも葉脈が違う」
「触って大丈夫なのか」
「直接は触らない」
アイリは手袋をした指で葉の裏側を返し、茎の色を確かめ、顔を近づけすぎないよう気をつけながら匂いを調べた。
「違う。少し刺激臭がある。たぶん、皮膚につくとかぶれる種類」
「採るのか?」
「やめておく」
アイリは植物を傷つけず、小さな手帳を取り出して葉の形と色を書き留めた。
「分からない物を持ち歩く方が危ないから」
「セラ先生に褒められそうだな」
「帰ったら報告する」
その言葉を聞き、レンは少しだけ笑った。
帰ったら。
もう自然に使える言葉になり始めていた。
アイリが記録を終えるまで周囲を見ていたレンの視界の端で、少し離れた低い枝が揺れた。
風はほとんどない。
灰色の何かが木の陰へ滑り込んだようにも見えた。
「どうしたの?」
「何かいた」
「鹿?」
「分からない」
「見に行く?」
「行かない」
即答したレンに、アイリが目を丸くした。
「珍しい」
「隊列から離れるなって言われたばかりだろ」
「ちゃんと聞いてたんだ」
「俺を何だと思ってる」
道が開き、護衛長から声が掛かった。
二人はすぐ商隊へ戻った。
午前の間、道は緩やかな上り下りを繰り返した。
馬車が急な坂を上る時には全員が降り、荷車の後ろを押すこともあった。レンも肩を貸し、アイリは落ちそうになった小箱を支えた。
しばらく歩くと、アイリの歩幅が僅かに短くなった。
レンは気づいて速度を落とした。
「わざとゆっくり歩いてる?」
「馬車に合わせてる」
「わたしにも合わせてるでしょ」
「両方だ」
「普通に歩いていいよ」
「最初の日から無理する必要はない」
「それはお兄ちゃんも同じ」
「ああ」
アイリが目を瞬く。
「今日は素直だね」
「村中に同じこと言われたからな」
「じゃあ疲れてる?」
「少し背嚢が重い」
正直に答えると、アイリは満足そうに笑った。
「わたしも少し重い」
「荷物を減らすか」
「干し林檎以外なら」
「最初にそれを減らす」
「駄目」
二人の声を聞きながら、先頭の御者が楽しそうに笑っていた。
昼前、商隊は小さな沢へ着いた。
透明な水が石の間を流れ、岸辺には細い白樺が並んでいる。ハインの地図にも記されていた最初の休憩地点だった。
護衛長は馬を水場から少し離れた場所へ止め、まず周囲を確認する。
レンも自然と地面へ目を向けた。
鹿。
兎。
猪。
いくつもの足跡が湿った土に残っている。
その中に、犬に似た一つの跡を見つけた。
「……狼か」
しゃがみ込む。
アイリも隣へ来た。
「大きいね」
レンの掌より少し小さい。
野犬より明らかに幅があり、爪跡は深い。
土の縁もそれほど崩れていない。
「新しい」
護衛長が後ろから覗き込んだ。
「この森なら珍しくない。群れが人間の匂いを嫌って離れてくれればいいが」
「朝、灰色の影を見た」
「一頭か?」
「姿までははっきり見てない」
護衛長は周囲を一度見回した。
「念のため、休憩は短めにする。馬も飲ませたら出るぞ」
御者が革袋へ水を汲みながら肩をすくめる。
「狼まで旅の見送りに来たか。ラウナは親切な村だな」
「そんな見送りはいらないよ」
アイリが返す。
「俺もそう思う」
御者は笑った。
それが、レンが男の笑い声を聞いた最後になった。
短い昼食を取った。
ミアの柔らかなパンを半分ずつ分け、アイリは約束どおり干し林檎を二枚だけ食べた。
「二枚半じゃなかったのか?」
「お兄ちゃんが切ってくれないから」
「本気だったのかよ」
「当然」
森の中で食べるパンには、まだラウナの窯の匂いが残っていた。
ほんの半日前までいた場所が、既に遠く感じる。
「王都に着いたら最初に何する?」
アイリが尋ねた。
「宿を探す」
「そうじゃなくて、見たいもの」
「王城」
「入れないと思うよ」
「外から見るだけだ。国の中心がどんな場所なのか知りたい」
「わたしは大きな薬屋。ラウナにはない薬草とか、本も見たい」
「全部買えると思うなよ」
「見るだけなら無料」
「店による」
「それからお菓子屋」
「結局それか」
「ミアに持って帰る約束したから」
「自分が食べたいだけだろ」
「両方」
アイリは悪びれずに答えた。
母の死やロケットの謎だけではない。
知らない土地を見たい。
知らないものを知りたい。
そんな普通の好奇心も二人の中にはあった。
旅とは、本来そういうものなのかもしれない。
レンはこの時、ほんの少しだけそう思った。
休憩を終え、商隊は再び森の奥へ進んだ。
午後になるにつれて木々は密集し、頭上を覆う枝が陽光を遮り始めた。空気は冷たく、湿り気を増し、数十歩先さえ緑と影の中へ溶けていく。
やがてアイリが顔を上げた。
「……お兄ちゃん」
「何だ」
「さっきから、同じ鳥の声がする」
「鳥なら何度も鳴くだろ」
「そうじゃなくて、間隔が同じなの」
レンも耳を澄ませた。
右側の森から、短い声が三度。
少し間を置く。
今度は左側の遠くから、同じように三度。
「別の鳥じゃないのか」
「似すぎてる」
先を歩いていた護衛長も立ち止まった。
「どうした?」
レンが説明すると、男も耳を澄ませる。
もう一度。
右。
三度。
沈黙。
次に左。
三度。
今度は、前方の御者も振り返った。
「鳥じゃないのか?」
「見えない」
アイリが木々の上を探す。
さっきまで枝から枝へ飛び交っていた小鳥の姿が、いつの間にか消えている。
虫の音はする。
風が葉を擦る。
車輪も軋む。
それなのに、鳥だけがいない。
護衛長の表情が変わった。
「全員、少し速度を上げる。だが馬を走らせるな」
二台の荷馬車が歩調を速めた。
レンは剣の柄へ手を添え、アイリは腰の短剣を確認する。
道の右側で低木が揺れた。
灰色の影。
一瞬だけ。
今度ははっきり見えた。
狼だ。
だが飛びかかってはこない。
木の陰へ消える。
数十歩進む。
今度は後方で枝が折れた。
護衛の一人が振り返る。
「ついてきてる」
「何頭だ?」
「見えん」
レンは地面へ視線を落とした。
湿った土。
新しい足跡。
一つ。
二つ。
三つ。
それぞれ違う方向から道へ近づき、また森へ戻っている。
先ほどの沢で見た一頭だけではない。
「群れだ」
レンが低く言った。
「何頭くらい?」
アイリが尋ねる。
「分からない。でも、道を追ってるんじゃない」
「じゃあ?」
レンは足跡の向きを確かめた。
左右から何度も道へ近づいている。
前へ進んでいるのではない。
馬車と人間の速度へ合わせるように、森の中を並行して移動している。
「俺たちを見てる」
アイリの顔から笑みが消えた。
護衛長もその意味を理解したらしい。
「荷車を寄せろ。前後の距離を縮める」
二台の馬車が近づく。
「旅人二人は中央へ入れ」
「俺も戦える」
「知ってる。だから中央から周りを見ろ。勝手に森へ入るな」
レンは反論せず従った。
先頭と二台目の荷車の間へ移動する。
アイリも隣へ。
狼たちは姿を見せない。
だが気配は増えていった。
右。
左。
後ろ。
時には前方。
低い唸り声が一つ。
少し遅れて、反対側から答えるような唸り。
偶然に獲物を見つけ、腹を空かせてついてきている群れとは思えなかった。
位置を変えている。
互いに距離を取っている。
こちらの人数と動きを確かめている。
「普通の狼って、こんなことする?」
アイリが小声で尋ねる。
「群れで狩ることはある」
「鳥の声みたいなのも?」
「聞いたことない」
レンは周囲から目を離さなかった。
前方の道が少し狭くなっている。
右側は緩い斜面。
左には太い樹木と低木。
少し先には、古い倒木が道の半分を塞いでいるのが見えた。
嫌な場所だった。
馬車が並んで通れる幅がない。
「止めた方がいい」
レンが言った。
護衛長も同じ判断をしたらしい。
「前の車、待て!」
御者が手綱を引いた。
その瞬間。
左側の茂みから、一頭の狼が飛び出した。
大きい。
灰色の身体。
だが狙いは人間ではなかった。
狼は前を走る馬の鼻先へ飛び込み、牙を剥いて吠えた。
「うわっ!」
馬が悲鳴を上げ、前脚を高く上げる。
御者が必死に手綱を引く。
「落ち着け! 止まれ!」
護衛長が槍を構えた。
レンも剣へ手を伸ばす。
全員の視線が前へ向いた。
――そのためだった。
「後ろ!」
アイリが叫んだ。
右側の低木から二頭目が低く飛び出し、先頭馬車を引くもう一頭の馬の後脚へ噛みついた。牙が肉へ食い込み、馬が絶叫する。血が飛び、手綱が激しく跳ね、二頭の馬が別々の方向へ逃げようとしたことで車体が大きく傾いた。
「手綱を――!」
御者が立ち上がった。
その背後。
斜面の上から、三頭目の灰色の影が飛んだ。
「上だ!」
レンの声は間に合わなかった。
狼は御者台へ直接飛び乗った。
男が腕で顔を庇う。
牙がその腕へ食い込んだ。
「ぐああっ!」
御者が手綱を離した。
護衛長が槍を突き出すが、荷馬車が激しく揺れ、穂先は狼の脇を掠める。
狼は御者の腕を離した。
次の瞬間、その牙が男の首筋へ食い込んだ。
湿った音がした。
男の身体が大きく痙攣する。
狼が頭を振った瞬間、首元から赤い血が勢いよく噴き出し、御者台と幌布へ散った。
声すら上げられなかった。
男の身体が御者台から落ちる。
片足だけが一瞬車体へ引っかかり、それもすぐに外れ、地面へ叩きつけられた。
「止まれ!」
護衛長が叫ぶ。
だが、手綱を失った馬たちは既に恐慌状態だった。狼に噛まれた馬が狂ったように跳ね、もう一頭が前へ走る。先頭の馬車は道の端へ逸れ、右車輪が太い根へ乗り上げた。
車体が大きく跳ねる。
荷箱が崩れる。
次の瞬間、左車輪が地面へ深く沈み、車軸から乾いた破裂音が響いた。
折れた。
馬車が横転する。
「アイリ!」
レンは妹の腕を掴んで前へ飛んだ。
背後で巨大な木の塊が倒れる音が響く。木箱が砕け、陶器が割れ、荷台から放り出された布地が宙へ広がった。傷ついた馬が横倒しになり、壊れた車体へ繋がれたまま悲鳴を上げる。
先頭の道が、一瞬で塞がれた。
「前へ!」
護衛長の怒声が飛ぶ。
だが同時に、後方からも馬の激しい嘶きが響いた。
四頭目。
五頭目。
さらに別の影。
狼たちは二台目の荷車を半円状に取り囲み、一頭が馬の前へ飛び出して進路を逸らし、別の一頭が横から脚へ噛みついた。
「手綱を締めろ!」
後方の御者が叫ぶ。
だが二頭の馬は、左右から迫る牙と唸り声に完全に怯えていた。
一頭が後脚を跳ね上げる。
もう一頭が急に道脇へ向きを変えた。
車体が横へ振られる。
「木だ!」
護衛の叫び。
避ける余裕はなかった。
二台目の幌馬車が、道脇に立つ太い樹木へ側面から激突した。
轟音とともに車体が大きく歪み、外側の車輪が外れて森の中へ跳ね飛ぶ。積み上げられていた革製品と農産物の箱が荷台から崩れ落ち、斜面を転がった。
御者は衝撃で地面へ投げ出されたものの、護衛の一人がすぐに引き起こす。
「立てるか!」
「脚が……!」
男は右脚を押さえ、まともに体重を掛けられない。
さらに別の商人が荷台から転落し、肩を押さえながら呻いている。
狼たちはそこで人間へ一斉に飛びかからなかった。
逃げ道を塞ぐ位置へ回り込む。
壊れた二台目の馬車。
負傷者。
怯えた馬。
そして先頭車との間を塞ぐ狼の群れ。
護衛たちは選択を迫られた。
「負傷者を後ろへ!」
後方にいた男が叫んだ。
「道を戻るぞ! このままじゃ全員挟まれる!」
護衛の二人が怪我をした御者を肩で支え、別の一人が負傷した商人を引き起こす。残った者が槍を振り、狼を牽制しながらゆっくりと来た道へ下がり始めた。
追えば殺せる。
それなのに狼たちは深追いしない。
後退する者たちを一定の距離から追い立てるだけだった。
まるで、自分たちが望む方向へ人間を動かしているように。
「こいつら……!」
レンはそこでようやく理解した。
最初から、一人ずつ襲うつもりではなかった。
移動手段を潰す。
隊列を分断する。
負傷者を作る。
集団を後方へ追い返す。
そして、前方へ取り残された獲物を孤立させる。
そのために何時間も森の中から商隊を観察していたのだ。
「レン!」
横転した先頭馬車の向こうから、護衛長の声がした。
壊れた車体と暴れる馬の隙間に男の姿が見える。そのさらに後ろでは、二台目の生存者たちが負傷者を支えながら後退していた。
「こっちは塞がれた! 前へ行け!」
「でも御者が――」
レンは地面に倒れた男を見る。
首元から流れた血が落ち葉の間へ広がっている。
目は開いていた。
動かない。
助からない。
「レン!」
アイリが腕を掴んだ。
左側から唸り声。
振り向く。
黄色い目が三対。
自分たちと横転した馬車の間へ、狼たちが入り込んでいる。
戻れば挟まれる。
護衛長もそれを見た。
「前へ行け! 倒木の先で足場を取れ! こっちは生き残った連中を後ろへ戻す!」
「……分かった!」
レンは歯を食いしばった。
死んだ御者から目を離す。
まだ名前さえ聞いていなかった。
半日前。
乗車賃は別だ、と笑っていた男。
それが、もう動かない。
胸の奥へ怒りと恐怖が同時に込み上げた。
「アイリ、前だ!」
「うん!」
二人は走らなかった。
走れば狼の追跡本能を刺激する。
だが歩みは速める。
倒木まで距離を詰める。
背後では折れた車体の軋む音、負傷した馬の悲鳴、生存者たちの怒声、護衛の槍へ牙がぶつかる音が重なっている。
それなのに、自分たちの周囲だけが妙に静かだった。
狼たちはすぐには飛びかかってこない。
左右の木々の間を移動しながら、兄妹の速度へ合わせている。
「……ついてきてる」
アイリが囁いた。
「ああ」
レンは周囲を確認する。
右側には密集した低木。
左側には緩やかな斜面。
正面には道の半分を塞ぐ倒木。
背後には横転した先頭馬車。
そのさらに向こうでは二台目も樹木へ衝突し、車輪を失って完全に走行不能になっている。
商隊は、もう存在しないに等しかった。
二台の荷車はどちらも動かせない。
先頭の御者は死んだ。
後方の生存者たちは負傷した仲間を抱え、狼に追い立てられるように来た道へ退いている。
そしてレンとアイリだけが、横転した先頭車と群れによって、その反対側へ切り離されていた。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「右の木の根元」
レンは視線だけを動かした。
太い木の根元に、灰色の毛が数本引っかかっている。
その下。
湿った土に狼の足跡。
さらに先にも。
一つではない。
二つ。
三つ。
左右から道へ近づき、また森へ戻っている。
まるで二人の歩調を測っているように。
「さっきの馬車だけが狙いじゃなかったんだね」
「ああ」
「最初から……わたしたちも?」
「たぶん」
低い唸り声が左の森から聞こえた。
すぐに右側から別の声が返る。
木々の間で黄色い光が一瞬浮かび、消える。
一頭が姿を見せる。
レンたちの注意がそちらへ向くと、その間に反対側の茂みが僅かに動く。
偶然ではない。
互いの位置を理解している。
囮を使っている。
何時間もかけて商隊の構成を見極め、まず馬を襲い、御者を殺し、二台の車両を壊し、生き残った者たちを後方へ追い返した。
普通の狼の狩りではなかった。
少なくとも、レンが知っている狼の動きではない。
倒木まで、あと十数歩。
そこへ背を預ければ後方から来る数を多少は減らせる。
しかし、狼たちがそれさえ読んでいる可能性がある。
「倒木まで行く」
「そこで戦う?」
「襲われたらな」
「後ろの人たちは?」
レンは一瞬だけ振り返った。
横転した馬車の向こうで護衛長の槍が見える。
さらに遠くでは、生き残った者たちの声が少しずつ小さくなっている。
「今戻ったら、俺たちも向こうも余計に動けなくなる」
「……うん」
「まずこっちをどうにかする」
アイリは短剣へ手を添えた。
顔は青ざめている。
それでも足は止まっていない。
「絶対に離れるな」
「お兄ちゃんもね」
レンは黒銀の剣の柄を握った。
左右。
前。
後ろ。
少なくとも数頭。
さらに森の奥にも気配がある。
狼たちはすぐに襲ってこない。
こちらがどう動くのかを見ている。
恐怖で走り出すのか。
背中を見せるのか。
倒木へ逃げ込むのか。
まるで答えを待っているようだった。
レンは息をゆっくり吐いた。
御者の血が頭から離れない。
それでも怒りのまま飛び込めば、同じように殺される。
アイリを守るなら、まず考えなければならない。
地形を見る。
数を見る。
相手の癖を見る。
生き残るために使えるものを、一つずつ拾う。
黒銀の剣をゆっくり鞘から抜いた。
黒い刃の中央を走る銀線が、薄暗い森の光を受けて冷たく輝く。
その音を合図にしたように、木々の間から複数の唸り声が重なった。
倒木まで、あとわずか。
背後では、壊された商隊の向こうから生存者たちの気配が遠ざかっていく。
前方では、黄色い瞳が一つ、また一つと暗がりへ浮かんでいく。
二人の初めての旅は、森へ入って半日も経たないうちに、血と牙によって最初の道を断ち切られた。
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