↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
5/111

第一章 第五話 旅立ちの朝

旅立ちを翌日に控えた夕暮れ、ラウナの中央広場へ一台の古い荷馬車が入ってきた。朝市の名残をわずかに残す石畳の上で、泥に汚れた車輪が軋みながら止まり、荷車を引いてきた二頭の栗毛は長旅に疲れ切った様子で、冷え始めた空気へ白い息を吐いている。御者台に座る旅商人も同様だった。胸元まで伸びた灰色の髭には細かな砂埃が絡み、日に焼けた外套の肩では、王都の商業組合が発行する青銅の留め具が夕陽を鈍く反射していた。


 荷台には大小十数個の木箱が積まれ、その上を厚い雨除け布が覆っている。太い縄で幾重にも固定されていたものの、長旅で結び目が緩んだのか、夕方の風を受けて布の端が僅かに捲れ上がった。その隙間から、荷台の奥に積まれた一つの黒ずんだ木箱が姿を見せる。


 家の窓辺にいたレンが目を留めたのは、箱そのものではなかった。側面へ黒い墨で描かれた紋様――星を思わせる輪郭と、その中心から細い炎が立ち上がっているようにも見える奇妙な形。それは胸元の銀のロケットと、母エレナから受け継いだ黒銀の剣へ刻まれている印に、見間違えるほどよく似ていた。


「……何だ、あれ」


 考えるより先に身体が動いた。レンは窓辺を離れ、荷造りのため床へ広げてあった縄を危うく踏みかけながら玄関へ向かう。椅子の背へ掛けていた外套を片手で掴み、そのまま扉を開けた。


「お兄ちゃん? どこ行くの?」


 背後からアイリの声がしたが、レンは足を止めなかった。家の石段を駆け下り、中央広場へ続く道へ出る。走りながら無意識に服の上からロケットへ触れたが、銀の器は冷たいままで、何の反応も示さない。それでも広場へ近づくにつれ、胸の鼓動だけが速くなっていった。


 十年前、エイレンの炎の中でエレナから託された銀のロケット。レオニスが「あの都市の痕跡」と口にした黒銀の剣。北方で発見されたという古い遺跡に残る、よく似た印。そして、ごく稀に夢や意識の狭間へ差し込んでくる、白い塔や空中を横切る橋の断片。どれも意味は分からず、本当に同じものを指しているのかさえ確かではない。それでも十年間ほとんど掴めなかった手掛かりの一つが、旅立ちの前日になって自分たちの暮らす村へ運び込まれてきた。その事実を、ただの偶然だと片づけるには出来すぎていた。


「お兄ちゃん、待って!」


 後ろから足音が迫り、アイリが追いついてレンの外套の裾を掴んだ。慌てて家を出てきたのだろう。銀白色の髪はいつものように整えられておらず、黒いドレスの上へ薄い肩掛けを羽織っただけだった。


「急に走らないでよ。何が――」


 息を整えながら顔を上げ、その視線が荷馬車へ向かう。言葉が途切れた。


「……あれ?」


「ああ」


 レンが頷くと、アイリの表情からもすぐに軽さが消えた。


「ロケットの印に……すごく似てる」


「剣にもな」


「北の遺跡から運ばれてきた物なのかな」


「分からない。荷馬車は王都方面から来た。少なくとも、ここへ来る直前まで北の遺跡にあったわけじゃない」


「だったら、どこから王都へ運ばれたのか聞かないと」


 二人は人の集まり始めた広場へ入った。旅商人は倉庫番と荷物の受け渡しについて話しているところで、珍しい荷馬車を見に来た子供たちが荷台の周囲を走り回り、馬へ近づこうとして御者に叱られている。村人たちは明日の仕事に使う道具や王都から届いた品物へばかり注意を向け、奥に積まれた黒い箱を特別気にする者はいなかった。


「すまない」


 レンが旅商人へ声を掛ける。


「その荷物について聞きたい」


 商人は話を中断してゆっくり振り返り、黒銀の剣を背負ったレンを一度見たあと、その隣のアイリへ目を移した。


「どれだ?」


「あの黒い箱だ。星と炎みたいな印が描いてある」


 レンが示すと、商人の目が僅かに細くなる。彼はすぐに荷台へまとわりついていた子供たちへ声を上げた。


「おい、お前ら。荷物に触るな。壊したら親父さんに請求するぞ」


 笑いながら逃げていく子供たちを見送ったあと、商人は二人を荷台の側面へ招いた。


「この印を知ってるのか?」


「似たものを見たことがある」


「どこで?」


 レンは一瞬だけ迷った。ロケットを見せる気はない。十年前、エレナは中の写真を誰にも渡すなと言った。黒銀の剣についても、自分たちはほとんど何も知らない。レオニスたちが今も自分とアイリを探している可能性が残っている以上、見知らぬ相手へ自分たちの手掛かりをすべて晒す理由はなかった。


「古い本の挿絵で見た」


 咄嗟に答えると、商人は疑わしそうに眉を上げた。


「何て本だ?」


「題名は覚えてない。昔見ただけだ」


「そうか」


 納得したようには見えなかったが、それ以上追及はしなかった。


「なら、俺より学者に聞いた方がいい。俺はこの印の意味なんぞ知らん。この箱は王都の外れにある保管所で預かっただけだ。明日の朝、北東へ向かう別の運送隊に引き渡すことになってる」


「中身は?」


「知らん」


「確認してないのか?」


「開けるなと言われている物を、運び屋が勝手に開けると思うか?」


 もっともな返答だった。


「誰から預かった?」


「王都の役人だよ。少なくとも、そう名乗った」


 商人は顎髭を撫でながら続ける。


「役所の制服は着ていた。依頼書もあった。ただ、本当にその役所の人間だったかと聞かれたら、保証はできん。俺は役人の顔を全部覚えてるわけじゃないからな」


「役所の名前は?」


「王都古物管理局」


 レンはアイリを見た。アイリも僅かに首を振る。二人とも聞いたことがなかった。王国に遺跡や古代の品を調べる者たちがいることくらいは知っている。しかし辺境で暮らしてきた二人が、王都に存在するすべての行政機関を把握しているはずもない。実在する組織なのか、それとももっともらしい名称を使っているだけなのか、この場で判断することはできなかった。


「この箱はどこへ?」


 アイリが尋ねる。


 商人は荷台の脇へ括りつけられた木札を持ち上げ、刻まれた文字を確かめた。


「ラグナス砦の北にある採掘所。最近、山中で古い地下道が見つかったらしい。調査隊が入ってるそうだ。この箱も、そっちへ送る荷物に混ぜて届ける」


「調査道具?」


「さあな。持った感じでは妙に軽い。金属や石が詰まってる重さじゃないが、中身までは知らんよ」


 レンは箱へ視線を戻した。箱自体は古くない。黒ずんで見えるのは木材の色であり、金具や縄も比較的新しい。側面の紋様も、長い年月を経て残った刻印ではなく、近年になって墨で描かれたものに見える。もしこの印が本当にロケットや剣と関係しているのだとすれば、それを知る誰かが現在の王都に存在し、その人物は北東の採掘所、あるいは山中で発見された地下道へ何らかの関心を持っていることになる。


「少し近くで見てもいいか?」


「見るだけならな。触るなよ」


 商人は箱の上部を指した。


「封がある。壊れたら、疑われるのは俺だ」


 二人は箱へ一歩近づいた。太い縄の結び目には赤黒い蝋が落とされ、その中央へ小さな印章が押されている。


 円環の内側へ向かう、九本の細い形。


 刃のようにも見えた。


 簡略化されているうえ、十年前に見たものを正確に覚えている自信もない。それでもレンの呼吸は一瞬だけ止まった。炎に包まれたエイレン。黒い外套。顔の見えない人物。その胸元へ浮かんでいた、円環の中に並ぶ九本の黒い刃。目の前の封印は、あの記憶を否応なく呼び起こすほど酷似していた。


 実際には存在しないはずの焦げ臭さが鼻の奥へ蘇る。母の血。焼ける家。泣き叫ぶアイリ。


「お兄ちゃん」


 静かな声が、レンを記憶から引き戻した。


 隣を見ると、アイリの顔からも血の気が引いている。彼女も同じものを思い出したのだろう。


 レンは商人へ気づかれないよう外套の内側で拳を握り、努めて声を落ち着かせた。


「この封をした役人の顔、覚えてるか?」


「まあな。特徴があったから」


「どんな?」


「細身。四十くらい。灰色の髪。右目の横に古い傷があった。喋り方だけはやたら丁寧だったな」


「名前は?」


「聞いてない」


「一人だった?」


「いや。護衛らしい男が二人」


 商人は記憶を探るように目を細めた。


「黒い外套を着ていた。揃いだったから何かの私兵かと思ったが、王国兵じゃない。……何だ、お前ら、本当に知らんのか?」


「知らない」


 レンが短く答えたところで、倉庫番が商人を呼んだ。


「悪いな。まだ荷を下ろさないといかん」


「ありがとう」


 礼を言い、レンとアイリは荷馬車から離れた。広場の端にある古井戸まで移動し、夕暮れの影に紛れるように並んで立つ。村人たちは何も知らず荷下ろしを手伝い、子供たちは少し離れた場所から栗毛の馬へ干し草を差し出している。


 目の前にあるのは、いつものラウナの夕暮れだった。


 だからこそ、その中へ置かれた黒い箱だけがひどく異質に見えた。


「九本だったね」


 アイリが声を落とす。


「ああ」


「あの夜の印に似てる」


「似てる。けど、同じだと決めるのはまだ早い」


「王都古物管理局も?」


「本当にある役所かもしれない。役所そのものは本物で、その中に関係者がいる可能性もあるし、全部偽物かもしれない」


「何も分からないね」


「今のところはな」


 アイリはしばらく考えたあと、黒い箱へ視線を戻した。


「……開ける?」


 レンはすぐには答えなかった。


 以前の自分なら、迷わなかったかもしれない。十年間探し続けてきた手掛かりが目の前にあり、明日の朝には別の運送隊へ引き渡されて北東へ運ばれてしまう。自分たちは同じ頃、王都へ向かって南東の街道へ出る予定だ。このまま見送れば、二度と同じ箱を見ることはないかもしれない。


 それでもレンは首を横へ振った。


「開けない」


 アイリが目を瞬く。


「……珍しい」


「どういう意味だ」


「絶対、夜中に忍び込んで開けるって言うと思った」


「俺を何だと思ってる」


「答えを探すためなら、鍵くらい剣で壊す人」


「そんなことしたことないだろ」


「今後しそう」


 レンは小さく息を吐いた。


「封を破れば、責任を取らされるのは商人だ。それに中身が危険な物だったら、ここで開けるべきじゃない」


「じゃあ何もしない?」


「荷札の内容は覚えた。王都へ着いたら、古物管理局が本当に存在するか調べる。ラグナス砦と北の採掘所もだ」


「箱はそのまま?」


「……むしろ、触らない方がいい」


「どうして?」


「出来すぎてるからだ」


 レンは荷馬車へ目を向けた。


「明日、俺たちが村を出る。その直前に、剣やロケットとよく似た印を描いた箱が来た。しかも封には、十年前の印に似たものまである」


「罠だと思う?」


「分からない」


 そこだけは、はっきりと言った。


「偶然かもしれない。俺たちとは何の関係もない箱かもしれない。でも、もし誰かが俺たちへ見せるために用意したなら、飛びついた時点で相手の思うとおりだ」


 アイリはしばらく黙って考えたあと、静かに頷いた。


「分かった。じゃあ今夜、交代で見張る」


「明日は出発だ。寝ておけ」


「お兄ちゃんが一人で朝まで見張るつもりでしょ」


「そんなこと言ってない」


「顔に書いてある」


「どこに」


「ここ」


 アイリは指を伸ばし、レンの眉間を軽く押した。


「隠し事すると、すぐここに皺ができる」


「お前が勝手に決めつけてるだけだ」


「じゃあ今夜、ちゃんと寝る?」


「……努力はする」


「ほら」


 呆れたように笑うアイリに、レンは返す言葉を失った。


 二人は広場を離れた。家へ戻る途中、レンは何度か後ろを振り返ったが、夕闇が濃くなるにつれて荷馬車の輪郭は薄れ、最後には黒い箱へ描かれた印さえ見えなくなった。それでも、九本の刃に似た封印だけは瞼の裏へ残り続けていた。


 家へ戻ると、居間の机には夕食が用意されていた。村長ハインの妻マルタが置いていったらしい。鶏肉と根菜を煮込んだ濃いスープに、黒パン、塩漬けの豆。そして小さな蜂蜜菓子が二つ。皿の横には、翌朝は出発前に村長宅へ顔を出し、必ず朝食を食べていくこと、と大きな字で書かれた紙まで置かれている。


 二人は外套を脱ぎ、明日の荷物の横へ置いた。


「冷める前に食べよう」


 アイリに促され、レンも椅子へ腰を下ろす。


 器へ注いだスープから、懐かしい香草の匂いが立ち上った。ラウナへ来たばかりの頃、何も口にしようとしなかったレンへ、マルタが何度も作ってくれた味だった。彼女は無理に食べろとは言わなかった。ただ毎晩、温かな料理を机へ置いていった。


 最初に食べ始めたのはアイリだった。妹が美味しそうに食べている姿を見て、レンも一口だけ飲んだ。それが二口になり、少しずつ食事を取れるようになった。十年が経った今でも、このスープを口へ運べば、あの頃の小さな家と、何も聞かずそばにいてくれた人々を思い出す。


「ねえ」


 アイリが匙を止めた。


「旅立ち、一日延ばす?」


「箱のために?」


「うん。北東へ運ばれるなら、運送隊を追うこともできる」


「北東へ行けば、王都から離れる」


「でも、大事な手掛かりかもしれないよ」


「だから追わない」


「だから?」


 レンは一度スープから目を離した。


「簡単に見つかりすぎた。俺たちが出る前日にあれが来た。もし罠なら、追いかけてほしいと思ってるってことだ」


 アイリの表情が引き締まった。


「誰かが、明日わたしたちが出るって知ってる?」


「ラウナではもう全員知ってる。旅商人に話が漏れてもおかしくない」


「でも、もしあの人たちが十年間ずっと探してたなら……どうして今まで来なかったの?」


「分からない」


 レンは曖昧に誤魔化さなかった。


「居場所を知らなかったのかもしれない。俺たちが成長するのを待ってたのかもしれない。そもそも、もう俺たちを探してない可能性もある」


「箱も、本当に偶然かもしれない」


「ああ」


「……お兄ちゃん、考え始めると最後に一人で危険なことするから心配」


「しない」


「本当に?」


「今夜は家から出ない」


「窓からも?」


「出ない」


「屋根からも?」


「出ない」


「床下に秘密の抜け道が――」


「ない」


 思わず強く返すと、アイリが笑った。その笑いにつられるように、レンの肩からも少しだけ力が抜けた。


 食事のあとは、なるべく箱と関係のない話をした。王都へ着いたら何を見るか。どの辺りの宿が安いのか。商隊へ払う護衛料。旅費をどこまで節約するか。アイリは王都の菓子を食べたいと言い、レンは最初に宿を決めろと返した。フィンとの最後の木剣試合がまだ残っていることを思い出し、アイリには旅立ちの前日に怪我をするなと釘を刺された。


 それでも会話が途切れるたび、二人の視線は自然と窓の外へ向かった。日常のすぐ向こう側へ、十年前の過去が音もなく戻ってきたようだった。


 食事を終えた頃、玄関の扉が三度叩かれた。


 レンが警戒しながら開けると、そこに立っていたのはハインとマルタだった。


「何て顔してるんだい」


 マルタはレンを見るなり眉を寄せる。


「まず聞くけど、夕食は全部食べたでしょうね?」


「食べた」


「アイリに自分の分を押しつけてない?」


「してない」


「少しパンもらったよ」


 後ろからアイリが正直に答えた。


 次の瞬間、マルタの指がレンの脇腹を軽くつねる。


「痛っ」


「昔からそうやって、自分の分をすぐ妹へ渡すんだから。旅先では自分も食べるんだよ」


「分かってる」


「その返事を十年聞いてきたけど、一度も信用したことないね」


 マルタは家へ入ると、抱えていた大きな布包みを机の上へ置いた。厚手の靴下、予備の手袋、縫い針、乾燥香草。その奥から、小さな羊毛の人形が二つ出てくる。一つは黒い糸の髪。もう一つは銀白色。顔は簡単な刺繍で、身体の形も少し歪んでいたが、誰を作ったものなのかは一目で分かった。


「これ……わたしたち?」


 アイリが銀髪の方を持ち上げる。


 マルタは少し気まずそうに顔を逸らした。


「旅のお守りだよ。あんたたちがここへ来た頃に作り始めたんだけど、途中でしまい込んでたのを思い出してね」


「どうして途中でやめたの?」


「レンの髪を縫ってたら黒い糸が絡まりまくって、腹が立って箱へ放り込んだ」


「俺のせいなのか?」


「髪が頑固なのは昔からだからね」


 アイリが声を上げて笑った。


 レンは黒髪の人形を受け取り、不揃いな縫い目を指先でなぞった。十年前から存在していたもの。自分たちがこの村へ来たばかりの頃、マルタが作ろうとしていたもの。掌に乗るほど小さいのに、不思議なほど重く感じた。


「……ありがとう」


「礼は帰ってきてから聞くよ」


 マルタの声が僅かに震えた。すぐにいつもの顔へ戻したものの、目元は少し赤い。


 ハインは黙ったまま椅子へ座り、しばらく家の中を眺めていた。レンとアイリが最初にここへ来た頃、レンは大人とほとんど目を合わせず、アイリは兄の服を離さず、眠る時でさえ手を掴んでいた。夜中にどちらかが悲鳴を上げれば、もう一人も起きた。炉に小さな火を入れただけで二人とも身体を固くし、煙の匂いを嗅げば食事を取れなくなることもあった。


 それから十年。


 あの小さな兄妹が、自分の意思で外の世界へ出ようとしている。


「広場の箱を見たそうだな」


 ハインが静かに言った。


 レンは顔を上げる。


「もう聞いたのか」


「倉庫番からな。お前が旅商人を質問攻めにしたと」


「質問攻めにはしてない」


「お前の『少し聞いただけ』は、普通の人間には質問攻めなんだよ」


 アイリが横から口を挟んだ。


「星と炎に似た印があった」


 レンは話を戻す。


「ロケットの印と同じなのか?」


「……かなり似てる。でも、同じだとはまだ言えない」


 ハインが僅かに頷いた。


 ロケットの存在を知る者は、ラウナでも多くない。十年前、保護された直後にハイン、マルタ、セラへだけ見せたことがある。エレナから託された物だと説明すると、三人は他言しないことを約束してくれた。


「それだけじゃない」


 レンは続ける。


「封蝋に九本の刃みたいな印があった。エイレンで見たものに似てる」


 ハインの目が鋭くなった。


「箱を追うのか」


「追わない。明日の朝、予定どおり王都へ行く」


「それでいい」


 返答は早かった。


「お前たちが見つけることを見越して運び込まれた可能性を忘れるな。手掛かりを見つけた時ほど急ぐな。追う側が焦れば、待っている側は楽になる」


「村長も罠だと思う?」


 アイリが尋ねる。


「分からん。分からんから警戒する」


 ハインは白くなり始めた顎髭へ触れた。


「偶然なら、それでいい。だが十年前、村一つを焼いた連中と本当に繋がっているなら、こちらの考えより先を読んでいると思った方がいい」


 レンはしばらく黙っていた。


 そして、ずっと胸の奥へ押し込めていた問いを口にする。


「俺たちが出たあと、ラウナが狙われる可能性は?」


 室内の空気が僅かに変わった。


「もし俺たちの居場所を知られてるなら……エイレンみたいに、この村まで――」


「北と東の見張りは増やしてある」


 ハインが答えた。


「近隣を巡回している王国兵にも話を通した」


「それなら、俺たちがここに残った方が――」


「違う」


 強い声で遮られ、レンが顔を上げる。


「お前がここへ残れば村が安全になるという保証はない。相手の目的がお前たちなら、なおさらだ」


「でも俺たちのせいで――」


「そこが違うと言ってるんだ」


 ハインは机へ両手を置き、レンを真っ直ぐ見た。


「ラウナは、お前たちを十年間置いてやった場所じゃない。お前たち自身がここで働き、笑い、誰かを助け、村を守ってきた。ここはもう、お前たちの故郷だ。故郷が家族を守るのは、当たり前だろう」


 レンは何も言えなかった。


「レン。誰かを守ることと、起きたこと全部を自分の責任にすることは違う。エイレンを焼いたのはお前じゃない。母親を殺したのも、お前じゃない。もし敵がここへ来たとしても、それはお前が旅立ったからじゃない。襲うことを選んだ者の責任だ」


「分かってる」


「頭ではな」


 ハインは小さく息を吐いた。


「心では、まだ自分を責めてる」


 レンは視線を落とした。


 十年前、母を助けられなかった。倒れていく村人たちを置いて逃げた。アイリの手を離さないためだったと理解している。母がそれを望んだことも分かっている。それでも、「もっと強ければ」という考えは十年間、一度も完全には消えなかった。


 剣を振ってきた理由のすべてが後悔だったわけではない。けれど、過去の自分を許せない気持ちがその一部にあったことも、否定できなかった。


「旅へ出たら、答えより先に生きることを考えろ」


 ハインは言った。


「敵を見つけても、勝てないなら逃げろ。恥じゃない。母親が繋いだ命を、復讐のためだけに捨てるな」


「復讐だけじゃない」


「なら、その言葉を自分で忘れるな」


 ハインは立ち上がり、レンの肩へ大きな手を置いた。


「真実を見つけてこい。それから、生きて帰ってこい。二人でな」


「うん」


 アイリが頷く。


 レンも少し遅れて答えた。


「ああ。必ず帰る」


 それから四人は、夜が深くなるまで旅について話した。ハインは若い頃、王都やその周辺を何度も旅した経験がある。古い地図を広げ、街道沿いで安全に水を得られる場所、雨のあとに濁る沢、夜行性の灰狼が多い森、赤い苔の生えた岩場に潜む毒虫について一つずつ印を付けていった。


 アイリは横から細かな注意を書き留め、レンは道そのものを頭へ入れるように地図を見つめる。


 役人を名乗る者へ安易にロケットを見せないこと。古物管理局という名だけを信用しないこと。宿では必ず逃げ道を確認すること。そして、夜間に別々で行動しないこと。


「最後のは、お兄ちゃんによく言っておいて」


「お前にもだ」


「わたしは勝手に外へ出ないもん」


「薬草を見つけたら絶対追うだろ」


「珍しい薬草ならね」


「同じじゃないか」


 話が終わり、二人が帰ろうとした時、マルタはまずアイリを強く抱き締めた。


「寒かったらちゃんと外套を着るんだよ。食事は抜かない。知らない男に簡単についていかない。それからレンが無茶を始めたら――」


「頭を叩く」


「そう。それは遠慮しなくていい」


「任せて」


「おい」


 レンが口を挟んでも、二人とも聞いていなかった。


 やがてマルタはアイリを離し、今度はレンへ腕を伸ばす。抱き締められたレンは、その場で僅かに身体を固くした。


「何してるの」


「……いや」


「ちゃんと抱き返しなさい」


「もう子供じゃない」


「私にとっては同じだよ」


 観念し、レンもマルタの背へ腕を回した。


 その身体が、記憶よりずっと小さく感じた。


 マルタが縮んだわけではない。


 自分が大きくなったのだ。


 それに気づいた瞬間、胸の奥が痛んだ。


「行ってきます」


「行っておいで」


 マルタの手が、幼い頃と同じようにレンの黒髪を撫でた。


「帰ってくる場所は、ここにあるから」


 ハインとマルタが帰ったあと、家は急に静かになった。窓の外には星が出始め、遠くの広場から旅商人たちの低い話し声が聞こえてくる。例の荷馬車は倉庫脇へ移され、近くには見張り用の小さな焚き火が灯されていた。


 レンは何度か窓辺へ立った。それでも、アイリへ約束したとおり外へは出なかった。


 アイリは寝室へ戻る前に、母の銀の髪飾りを包んだ袋と、マルタからもらった羊毛の人形を背嚢へしまった。レンも黒髪の人形を荷物の奥へ入れようとして、少し考え直す。最後には、すぐ取り出せる内側の小袋へ収めた。


「大事にしてるね」


「失くしにくい場所に入れただけだ」


「そういうことにしておく」


 アイリは笑いながら居間の炉へ薪を一本足した。小さな炎が揺れ、壁へ二人の影を映す。


 十年前なら、その音だけでアイリの身体は硬くなっていた。レンも炎へ背を向けることができず、一晩中火を見張るようにして眠れないことがあった。今も恐怖が消えたわけではない。大きな炎や、急に鼻を突く焦げ臭さ、燃える木材が崩れる音に、身体が先に反応することはある。


 それでも二人は、十年かけて火を再び日常へ戻してきた。


 料理をする。


 冬に暖を取る。


 夜の暗闇を照らす。


 炎は、あの夜だけのものではない。そのことを少しずつ身体へ教えながら、ここまで生きてきた。


「眠れそう?」


 アイリが炉の前へ座る。


「分からない」


「箱のこと?」


「それもある」


「ほかは?」


 レンは少し迷ったあと、正直に答えた。


「明日、この家を出ること」


 アイリも膝を抱え、炎を見る。


「わたしも。ずっと出たいと思ってたのに、明日になったら急に怖くなった」


「やめてもいいぞ」


「お兄ちゃんは?」


「行く」


「じゃあ、わたしも行く」


「俺が行くからって無理に――」


「違うよ」


 アイリは兄を見る。


「ついていくだけじゃない。わたしも知りたい。お母さんがどうしてわたしたちを隠してたのか。ロケットの写真の人が誰なのか。どうしてわたしたちが狙われたのか」


 青い瞳には恐怖があった。


「怖いけど、自分で決めたの」


 レンは何も言わず妹を見た。


 十年前、炎の中で手を握った小さな少女。守らなければならない。自分が前へ立たなければならない。ずっとそう思ってきた。


 けれどアイリはもう、何も知らず後ろをついてくるだけの子供ではない。自分で学び、自分で考え、危険を理解したうえで、それでも進むことを選んでいる。


 守るという言葉を理由に、その意志まで奪うことはできない。


「危険になったら、俺の指示を聞け」


「内容による」


「最初から聞く気ないだろ」


「お兄ちゃんが『俺を置いて逃げろ』って言ったら聞かないよ」


「必要なら言う」


「じゃあ聞かない」


「アイリ」


「お兄ちゃんも同じでしょ。わたしが『置いて逃げて』って言っても、絶対に残る」


 反論できなかった。


「だから、その話は禁止」


 アイリは右手を差し出した。


「二人で行って、二人で帰る。どっちか一人だけ助かろうとしない。危ない時は、一緒に考える」


 レンは差し出された手を見る。


 十年前とは違う。


 薬草を刻む中でついた細かな傷。


 短剣を握ることで生まれた硬皮。


 幼かった妹の手にも、十年間が刻まれている。


 しばらく黙ったあと、レンはその手を握った。


「分かった」


 指を強く絡める。


「二人で帰る」


「約束だよ」


「ああ」


 それからも二人はしばらく炉の前で話した。王都へ着いたら高い塔を見たいというアイリへ、レンはまず宿を確保しろと返す。王都の菓子屋を回ると言えば、旅費を使い切るなと注意する。そんな何でもない会話を重ねるうちに夜は深まり、アイリは何度も「ちゃんと寝てね」と念を押してから寝室へ戻った。


 一人になったレンは炉の火を弱め、机の上へ黒銀の剣を置いた。鞘から刃をほんの少しだけ抜くと、黒い金属の中央を走る銀線が炉火を受けて細く揺れる。


 鍔の紋様へ指を触れたあと、胸元から銀のロケットを引き出した。


 蓋を開けば、中には一枚の古い写真。


 長い黒髪。


 青みを帯びた琥珀色の瞳。


 名前を知らない少女は、十年前から変わらない表情でこちらを見ている。


「……お前は誰なんだ」


 答えなど返らない。


「母さんは、どうしてお前を忘れるなって言った」


 十年間、何度繰り返したか分からない問いだった。


 知らないはずの顔。


 それでも写真を見るたび、胸の奥へ説明できないものが残る。懐かしいと断言することはできない。母の最後の言葉を何度も思い返してきたせいで、そう感じているだけなのかもしれない。あるいは、自分がまだ理解していない記憶のどこかに理由があるのかもしれない。


 どちらなのか、レンには判断できなかった。


「明日、探しに行く」


 写真へ向けて、静かに告げる。


「何年かかっても、全部見つける」


 その時、掌の中のロケットがほんの僅かに熱を帯びた。


「……?」


 変化はすぐに消えた。


 気のせいだと言われれば、それまでのものだった。


 だが、レンがロケットへ意識を向けた直後、遠くの広場から低い軋みが聞こえた。木が重さに耐えかねて歪んだような音。


 反射的に窓辺へ向かう。


 倉庫の隣では、見張りの焚き火がまだ燃えている。荷馬車もある。


 そして、その黒い箱の上に人影が立っていた。


 頭から深い外套を被り、月明かりを受けても顔は見えない。背丈や体格からさえ、男なのか女なのか判別できなかった。ただ、その人物がこちらを向いていることだけは分かった。


 かなりの距離がある。


 それでもレンは、視線が重なったと確信した。


 身体が先に動き、机の黒銀の剣を掴む。


 次の瞬間、人影は箱の向こうへ音もなく降りるように消えた。


 レンは玄関へ向かいかけた。


 そこで足が止まる。


 ――二人で考える。


 つい先ほど交わした約束が脳裏へ戻った。


 一人で出るな。


 まずアイリを起こす。


 見張りにも知らせる。


「アイリ」


 寝室の扉を開けると、彼女は既に起きていた。片手には短剣。もう片方の手で窓を僅かに開け、外の音を探っている。


「見た?」


「ああ」


「わたしも。外套の人」


「夢じゃない」


「うん」


 二人はすぐに装備を整えた。


 今度は単独で飛び出さない。


 村の見張りへ声を掛け、ハインも起こし、数人で倉庫へ向かった。


 だが、到着した時には人影などどこにもなかった。荷馬車は元の場所にあり、黒い箱もそのまま。旅商人は焚き火の陰で深く眠っており、肩を揺すってもすぐには目を覚まさなかった。ようやく起きたあとも、夜中に誰かが荷馬車へ近づいた覚えはないと言う。


「こんなに深く眠るつもりじゃなかったんだが……酒も飲んでないぞ」


 商人は頭を押さえながら辺りを見回した。


「封は?」


 レンが確認する。


 九本刃に似た印の押された封蝋は壊れておらず、縄にも切断された跡はない。箱を開けた形跡もなかった。


 ただ一つ。


 夕方には存在しなかったものが増えていた。


「……これ」


 アイリが側面を指差した。


 星と炎に似た紋様の真下。


 木の表面を細い刃物で削ったらしい文字が、一行だけ刻まれている。露出した新しい木肌が、月明かりの下へ白く浮かんでいた。


 ――星が目覚めれば、灰は道を開く。


 誰も意味を理解できなかった。


 ハインは何度か読み返し、旅商人は顔を青くしたまま「俺は知らん」と繰り返した。


 レンにも分からない。


 星とは何なのか。


 灰とは何を指すのか。


 道がどこへ続くのか。


 そもそも、自分たちへ向けられた言葉なのかさえ確かではなかった。


 レンは確かめようとするように、刻まれた文字へ指先を近づけた。


「待って」


 アイリが腕を掴む。


「危ないかもしれない」


「分かってる」


「本当に?」


「……触るだけだ」


「それが危ないって言ってるの」


 もっともだった。


 レンは一度手を止める。


 ハインが箱の周囲を確認し、外側に罠らしいものがないことを確かめた。


「一瞬だけだ。異常があればすぐ離れろ」


 レンは頷き、文字の端へ指先を触れた。


 冷たい木の感触。


 何も起きない。


 そう思った直後だった。


 箱の内側から、低い音が一度だけ響いた。


 どくん。


 心臓の鼓動に酷似した、生々しい音。


 その場にいた全員が動きを止める。


 アイリの指がレンの腕へ食い込み、旅商人の顔から完全に血の気が引いた。


「……今の、何?」


 誰も答えられなかった。


 二度目の音は鳴らない。


 箱は何事もなかったかのように、ただ静かにそこへ置かれている。


 レンは指を離した。


 胸元のロケットにも反応はない。


 黒銀の剣も震えていない。


 ただ一度だけ。


 箱の中にある何かが、外にいる者たちの存在を確かめるように脈打った。


 それだけだった。


 夜明けまで、結局誰も箱を開けなかった。ハインは見張りを増やし、旅商人も別の場所で休ませることになった。レンとアイリも残ると言ったが、翌日の旅を考えたハインに家へ戻るよう強く命じられた。


 眠れた時間は、ほんの僅かだった。


 それでも夜は終わった。


 東の山々の向こうが淡い青へ変わり始め、やがてラウナの鐘楼から夜明けの鐘が響く。


 レンは目を開けた。


 十年間待ち続けた日が、ついに来た。


 旅装へ着替え、新しい剣帯へ黒銀の剣を固定する。背嚢の中身をもう一度確かめ、銀のロケットを服の内側へ収めた。


 隣の部屋からアイリが出てくる。


 黒い旅装。


 肩には外套。


 腰には短剣と薬袋。


 背嚢の内側には母の髪飾りと、マルタから受け取った羊毛の人形。


「準備できた?」


「ああ」


「忘れ物は?」


「ない」


「本当に?」


「昨日、三回確認した」


「お兄ちゃんだから四回目が必要かも」


「お前の荷物の方が心配だ」


「わたしも三回確認したよ」


「干し林檎は?」


「一番最初に入れた」


「なら大丈夫そうだな」


「何、その判断」


 二人は小さく笑った。


 ほんの僅かな笑いだった。


 それでも、その笑いがあったから玄関へ向かえた。


 レンは扉の前で一度立ち止まった。


 十年間暮らした家。


 食卓。


 炉。


 何度も剣の手入れをした机。


 アイリとくだらないことで喧嘩した居間。


 帰ってくる。


 昨日までなら、ただそう思っていた。


 今朝は違う。


 必ず帰らなければならない。


 ミアと約束した。


 ハインと約束した。


 マルタには「帰る場所はここにある」と言われた。


 そしてアイリとは、二人で帰ると約束した。


「行こう」


 アイリが言った。


 レンは頷く。


「ああ」


 二人で扉を開ける。


 冷たい朝の風が家の中へ流れ込み、黒髪と銀白色の髪を揺らした。


 村の門の向こうには、深い森へ続く一本の道が伸びている。


 その先に何があるのか、二人はまだ知らない。


 王都。


 北方の遺跡。


 星と炎によく似た紋様。


 九本の刃。


 黒い箱。


 夜の外套。


 そして、名前も知らない古い写真の少女。


 答えは一つもない。


 昨夜の不可解な鼓動さえ、何を意味するのか分からなかった。


 だからこそ、確かめに行く。


 母が命をかけて残したものを。


 炎の夜に奪われた真実を。


 レンは胸元のロケットへ一度だけ触れ、それから隣にいるアイリを見る。


「離れるなよ」


「お兄ちゃんこそ」


 二人は並んで歩き出した。


 夜明けの鐘が、もう一度ラウナの空へ響いた。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。