第一章 第四話 旅立ち前の一日
ラウナの朝市は、村の中央に立つ古い鐘楼が三度鳴ると同時に始まった。
普段なら荷車が二台すれ違うだけでも窮屈に感じられる石敷きの通りへ、夜明け前から運び込まれていた木箱や布張りの台が一斉に広げられ、焼きたての丸パン、干した山菜、薬草、燻製肉、乳酪、木工品、織物、狩人たちが持ち込んだ獣皮まで、色も匂いも異なる品々が所狭しと並んでいく。王都の大市場と比べれば、数本の通りだけで収まってしまう小さなものにすぎない。それでも近隣の農家や山間の集落からも人が集まるため、月に二度開かれるこの朝市は、ラウナで最も賑やかな催しの一つだった。
焼き窯から運ばれてきたパンの香ばしい匂いに、香辛料を擦り込んだ肉の煙、煮詰めた果実の甘い香りが混ざり合う。色とりどりの天幕の下では店主たちが客を呼び込み、籠から逃げ出した鶏を子供たちが追い回し、通りの端では旅芸人が古びた弦楽器を掻き鳴らしていた。その近くでは、まだ酒を口にしている様子もない老人が妙に陽気な歌を歌っており、隣の店主から朝からうるさいと怒鳴られている。
何度も見てきた光景だった。
だからこそ、あと三日でこの村を離れるのだと思うと、レンにはその一つ一つがいつもより鮮明に見えた。毎日のように歩いた石畳。聞き慣れた鐘の音。店先から漂ってくる匂い。通りすがりに交わされる何気ない挨拶。失うわけではない。旅を終えれば帰ってくるつもりだ。それでも、いつでもここにあると思っていた日常から自分の意思で離れるのだと考えると、胸の奥には説明しにくい寂しさが静かに積もっていった。
「お兄ちゃん、そこで立ち止まってたら邪魔だよ」
少し先を歩いていたアイリが振り返った。両腕には大きな籠を抱え、黒いドレスの上から旅支度を兼ねた灰色の外套を羽織っている。腰には薬草や小物を入れるための革袋がいくつも下がっており、朝の冷たい風が銀白色の髪を揺らすたび、行き交う人々の視線が自然と彼女へ集まった。当の本人は昔からそうした視線に慣れているのか、まるで気にした様子もない。
「分かってる」
レンがそう答えた直後、背後から野菜を満載した荷車が近づいてきた。
「おい、兄ちゃん! 止まるなら端に寄ってくれ!」
「悪い」
御者の老人に声を掛けられ、レンは慌てて道の脇へ避ける。しかし荷台には収まりきらないほど大量の野菜が積まれており、横へ張り出した長葱の束がレンの肩へまともにぶつかった。数本が弾かれ、石畳の上へ落ちる。
少し先で足を止めたアイリが、その光景をじっと見た。
「……何だよ」
「朝市でぼんやりしてると、長葱に負けるんだね」
「負けてない。ぶつかっただけだ」
「お兄ちゃんの戦歴に書いておこうかな。二十歳、朝市にて長葱の奇襲を受け敗北」
「書くな」
「これから狼とか魔物とか盗賊とかと戦うかもしれないのに、旅立つ前から野菜に負けて大丈夫?」
「だから負けてない」
アイリは堪えきれなくなったように笑い、地面へ落ちた長葱を拾って荷車へ戻した。
二人のやり取りを聞いていた御者の老人も豪快に笑い、「悪かったな」と言いながら荷台から形の悪い小さな人参を一本取り出し、アイリへ放った。彼女は片手で受け取ると、何を思ったのか人参を短剣のように構え、レンの胸元へその先を向けた。
「これで勝負する?」
「食べ物で遊ぶな」
「長葱よりは短いから、お兄ちゃんでも勝てると思うよ」
「それ以上言うなら、今日の昼飯から人参を抜くぞ」
「卑怯者」
アイリは真顔で言い、人参を籠へ放り込んだ。
「どうして俺が悪いんだ……」
レンが小さく息を吐きながら後を追うと、アイリは何事もなかったように次の店へ向かっていた。
今日中に揃えなければならない旅用品は多い。保存食、薬、包帯、火打石、替えの靴紐、雨具、携帯用の鍋、針と糸、蝋燭、灯油、塩、乾燥させた薬草。それに街道沿いの集落で物々交換が必要になった場合へ備え、邪魔にならない程度の小物も用意しておきたかった。
レン自身も事前に必要な物を書き出していたのだが、アイリに紙を見せた瞬間、半分以上の項目を書き足されてしまった。
原因は単純だった。
レンの一覧には『食料』『薬』『道具』『衣服』としか書かれていなかったのである。
「それを一覧って呼ぶの、無理があると思う」
「必要な分類は全部入ってるだろ」
「食料って、何を何日分?」
「必要なだけ」
「薬は?」
「必要なもの」
「道具は?」
「旅で使うもの」
「お兄ちゃん、自分で言ってて何も説明してないって分からない?」
結局、どの薬を何日分持つのか、雨が続いて火を起こせなかった場合はどうするのか、服が破れたらどう直すのか、夜間に負傷した場合に明かりをどう確保するのか――アイリが質問を重ねるたび、レンの一覧には新しい文字が増えていった。
「まず保存食ね。硬パンは十日分。干し肉は六日分くらいでいいと思う。途中で狩りができないことも考えて、豆と乾燥野菜も少し持っていく」
「商隊と一緒なら、足りなくなった時に分けてもらえるだろ」
「分けてもらえなかったら?」
「金を払う」
「商隊そのものの食料が足りなくなったら?」
「狩りをする」
「雨が何日も続いて、獲物が見つからなかったら?」
「……豆と乾燥野菜も買う」
「最初からそう言えばいいのに」
「買わないとは言ってないだろ」
「三回質問して、やっと認めたけどね」
満足そうに頷いたアイリは、そのまま乾物を扱う店の前で足を止めた。
店主はラウナで暮らす中年の女性、ネッサだった。大柄な身体に太い腕を持ち、笑うと目がほとんど見えなくなる。レンとアイリが幼かった頃から何かと世話を焼いてくれた人物であり、二人が店へ近づくなり、積み上げていた豆の袋から手を離して腰へ両手を当てた。
「聞いたよ。三日後に出るんだって?」
「村長から聞いたのか?」
レンが尋ねると、ネッサは呆れたように鼻を鳴らした。
「この村で村長に話したことが、昼まで秘密でいられると思ってるのかい? 朝食前には鍛冶屋が知ってて、朝食を食べ終わる頃にはパン屋も知ってたよ。今頃は羊まで知ってるさ」
「羊は知らないと思う」
「お兄ちゃんより村の事情に詳しい羊がいるかもしれないよ」
「どういう羊だ、それ」
ネッサは笑いながらアイリの籠を覗き込み、中がまだそれほど埋まっていないのを確認した。
「十日分の豆と乾燥野菜。それから塩漬けの茸も持っていきな。旅の途中で煮れば腹持ちがいい」
「いくらだ?」
「いらないよ」
「駄目だ。払う」
レンがすぐに銅貨を取り出そうとすると、ネッサの太い指が額へ飛んできた。
「痛っ」
「十年前、骨と皮みたいな身体でここへ運ばれてきた子供が、今じゃ代金の心配をするようになったか」
そう言いながらも、ネッサの声にはどこか懐かしむような響きが混じっていた。
「あんたたちが初めてうちへ来た日、アイリは豆の煮込みを三杯も食べたんだよ。レンは自分の分をほとんど食べず、妹の皿ばかり見てた」
「お兄ちゃん、自分の分をわたしにくれたんだよね」
「覚えてない」
「嘘。あの頃から、自分の食べ物をわたしにくれる時だけ妙に不自然だったもん」
「十年前の話だろ」
「十年経っても変わってないってことだね」
レンは反論しようとしたが、その間にネッサが豆の袋を籠へ押し込み、さらに塩、乾燥野菜、茸、最後には乾燥果実まで加えてしまった。
「待て、さすがに多い」
「旅先で腹を空かせるよりましだよ」
「だから代金を――」
「受け取らないよ。帰ってきた時に、王都で何を食べたか聞かせてくれればそれでいい」
そう言われてしまえば、それ以上強く断ることもできなかった。
「……ありがとう」
「最初から素直にそう言いな」
ネッサは満足そうに頷いた。
店を離れる頃には、アイリの籠は明らかに重くなっていた。それでも彼女は機嫌よく歩いている。
「村中からあれこれ貰ってたら、出発する前に荷物が持てなくなるぞ」
「お兄ちゃんが持てばいいよ」
「自分の荷物は自分で持つって言ったのは誰だ」
「これはネッサさんが、お兄ちゃんにもくれた分だから」
「半分以上、干した林檎じゃないか」
「長旅に甘いものは必要です」
「三日前、蜂蜜菓子のことで俺を笑ってたよな?」
「蜂蜜菓子は贅沢。干し林檎は旅の必需品」
「随分便利な区別だな」
「覚えておくといいよ」
「何の役にも立たないだろ」
二人が次に向かったのは、朝市の端に設けられた薬草売りの天幕だった。
内側には乾燥させた葉、根、花、樹皮が種類ごとに吊るされ、青臭い植物の匂いに苦い薬の香りが混ざっている。店主は周辺の山々を長年歩いてきた老薬師のセラ。白髪を後ろで一つに束ねた小柄な老女であり、アイリへ薬草の扱いを一から教えた師でもある。
二人が店先へ入ると、セラは挨拶より先に布包みをいくつか台の上へ置いた。
「止血草、解熱根、毒抜きの黒葉。それと、使わずに済むならその方がいいが、痛みを鈍らせる月桂粉」
「こんなに持っていっていいの?」
「旅へ出るなら必要になる。街道沿いで売られている薬草は、ここで買う三倍の値段がするくせに、半分は古い」
アイリは布包みを一つずつ開き、色や香り、乾燥具合を確認していく。その仕草には、もう教わり始めた頃の迷いはなかった。
「状態、すごくいい」
「当たり前だ。誰に教わったと思ってる」
セラは鼻を鳴らしながら、今度は細長い瓶を取り出した。内部には淡い青色の液体が満たされ、朝の光へ透かすと小さな銀色の粒がゆっくりと沈んでいく。
「これは?」
「深い傷へ使う洗浄液だ。腐り始めるのを遅らせる。ただし傷へ直接かけると、かなり痛む」
「お兄ちゃんにはちょうどいいかも」
アイリが真顔で言った。
「どういう意味だ」
「何をしても『痛くない』って嘘をつくから。本当に痛い薬なら少しは反省するかなって」
「薬は患者を罰するために使うものじゃない」
セラが淡々と告げたものの、その口元は僅かに緩んでいた。
その視線が、レンの右手へ巻かれた布へ落ちる。
「見せな」
「浅い傷だ」
「誰が説明しろと言った。見せろと言ったんだ」
「……はい」
レンが渋々差し出した手から布を解き、セラは掌を確かめた。朝の訓練で裂けた部分そのものは深くない。だが掌には長年の稽古による硬皮が重なり、その下にも大小の古い傷跡が残っている。
「剣を振るなとは言わない。だが、壊れた手では誰も守れないよ」
「分かってる」
「分かっている人間は、傷を放っておかない」
「ほら」
隣でアイリが得意げに笑う。
「わたしと同じこと言われてる」
「アイリ。お前も笑ってる場合じゃない。左手を出しな」
「……え?」
「指」
アイリの笑みが止まった。
不自然に視線を逸らした妹を見て、今度はレンが眉を寄せる。
「指がどうした?」
「何でもないよ」
「見せろ」
「お兄ちゃんにだけは言われたくない」
「俺は今見せただろ」
「セラ先生に怒られたから」
「いいから」
観念したアイリが左手を差し出すと、人差し指と中指の先には小さな切り傷がいくつか重なり、周囲が僅かに赤く腫れていた。
「昨日、旅用の薬を作ってた時についただけ」
「言えば手伝った」
「お兄ちゃんに薬草を刻ませると、全部同じ大きさにしようとして日が暮れるでしょ」
「煮出すなら大きさは揃えた方がいい」
「必要以上に細かいの。前に葉っぱ一枚刻むのに一刻近く使ったよね?」
「あれは初めてだったからだ」
「二枚目も同じくらいかかってたけど」
「……慣れる前だった」
セラは二人の言い争いを聞き流しながら、アイリの指先へ軟膏を塗り、薄い布を巻いた。
「旅へ出れば、互いの怪我を見ることになる。自分の傷を隠す癖は、二人ともここへ置いていきな」
老女の声が、それまでより少しだけ低くなる。
「守るというのは、相手に心配を掛けないよう全部隠すことじゃない。心配することまで含めて、分け合うことだよ」
レンもアイリも、すぐには答えなかった。
セラは二人がまだ幼かった頃から知っている。夜中に悪夢から目を覚ましたことも、母のことを思い出して食事を取れなくなった日も、互いに心配を掛けまいとして平気な顔を作っていたことも。レンは妹を守るため、弱さを見せてはいけないと思っていた。アイリもまた、兄を支えるため、自分まで泣いてはいけないと考えていた。
二人とも、相手を大切にするあまり、苦しみまで一人で抱えようとする。
「……覚えておく」
レンが答える。
アイリも静かに頷いた。
「うん。約束する」
「ならいい」
セラはそれ以上何も言わず、用意した薬草を籠へ入れた。
レンが代金を差し出そうとすると、老女はそれを見ようともしない。
「旅先で正しく使うことが支払いだ」
「でも――」
「まだ言うなら倍持たせるよ」
「それは困る」
「なら黙って受け取りな」
店を離れようとした時、セラはアイリだけを呼び止め、小さな革袋を渡した。
「これは?」
「夜、どうしても眠れない時に少し焚きな。強い薬じゃない。花と樹皮を混ぜただけだが、気持ちを落ち着かせるくらいにはなる」
アイリが袋を僅かに開くと、穏やかな花の香りが漂った。
「ありがとう、セラ先生」
「帰ってきたら、旅先で見つけた薬草を持ってきな。私の知らないものを一つでも見つけたら、その時はお前が先生だ」
「絶対に見つけてくる」
アイリの返事に、セラは満足そうに一度だけ頷いた。
朝市は時間が経つほど人が増えていった。
二人が通りを歩けば、何度も知り合いに呼び止められる。農夫からは乾燥させた芋を渡され、猟師からは丈夫な獣皮の手袋を押しつけられ、仕立屋からは雨を弾く外套をほとんど材料代だけで譲られた。
応援してくれる者もいた。
王都を見たら土産話を聞かせろと笑う者も。
危険なのだから考え直せと、最後まで説得しようとする者もいた。
レンはそのたび礼を言い、最後には必ず同じことを口にした。
「帰ってくるよ」
言葉にするたび、その約束の重さが胸へ積もっていく。
王都へ向かう街道にさえ、魔物や盗賊が出ると聞いている。そのさらに先で追うことになるのは、十年前、村一つを炎へ沈めた者たちだ。
鍛えてきた。
昔より遥かに強くなった。
少なくとも、子供だったあの夜のように何もできないまま立ち尽くすだけではない。
それでも、レオニスと再び向かい合った時に自分の剣が届くのかと問われれば、答えは出なかった。
「レン!」
人混みの向こうから名を呼ばれ、レンは顔を上げた。
店と店の間を縫うように、一人の青年が近づいてくる。短く切った茶色の髪。日に焼けた肌。肩には大きな麻袋を担ぎ、レンと比べても遜色のない頑丈な体格をしている。
鍛冶屋ガルドの息子、フィンだった。
レンと同い年で、幼い頃から共に育ち、狩りや剣の訓練を何度も一緒にしてきた友人でもある。
「朝から探してたんだぞ。親父がお前に渡したい物があるって」
「剣なら間に合ってる」
「分かってるよ。お前のあれを何度も見てる親父が、普通の剣を渡すと思うか?」
フィンが麻袋を地面へ下ろすと、中で金具同士が触れ合う硬い音がした。
袋の中から現れたのは、厚い黒革で作られた剣帯と、新しい鞘留めだった。
「これ……」
「お前の剣に合わせて作った」
一般的な剣より遥かに重い黒銀の剣を長時間携行しても、肩や腰の一部だけへ負担が集中しないよう、革は何層にも重ねられている。複数の留め具によって荷重を分散する構造になっており、金具には派手にならない程度の銀線が走っていた。
「ガルドさんが?」
「三晩くらい、ほとんど寝ずに作ってたぞ。寸法が合わなかったら出発までに直すって」
レンは剣帯を手に取り、指で革を押した。十分に油が染み込み、縫い目は一つ一つ丁寧に重ねられている。
金具の裏側。
ほとんど見えない位置へ、小さな印が打たれていた。
ラウナの鐘楼を模したものだった。
「……代金は?」
「それ、親父の前で聞くなよ。多分本気で殴られる」
「でも――」
「十年前、お前が初めて木剣を握った頃から、いつかこういう物を作るつもりだったらしい」
フィンは少しだけ笑った。
「受け取れよ」
レンはしばらく剣帯を見つめ、それから深く頷いた。
「ありがとう。ガルドさんにも伝えてくれ」
「自分で言え。まだ三日あるだろ」
「……そうだな」
「本当に三日後なんだな」
「ああ」
フィンの表情から、僅かに笑みが消えた。
レンがいつか旅へ出ることは知っていた。エイレンを焼いた者を探すことも、ロケットの少女や黒銀の剣について調べ続けていたことも。いつかラウナを離れ、答えを探しに行くのだろうと理解していた。
理解していることと、実際に友人がいなくなることは別だった。
「俺も一緒に行くって言ったら、止めるか?」
冗談ではなかった。
レンはフィンの顔を見て、ほとんど間を置かず答える。
「止める」
「即答かよ」
「鍛冶場はどうする。ガルドさん一人じゃ、王都から入る注文を全部捌けないだろ」
「それを言われると弱い」
「それに……これは俺たちが追わなきゃいけないことだ」
「十年一緒にいた俺たちには関係ないって?」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
フィンは大きく息を吐くと、レンの肩を軽く殴った。
「ただし、帰ってこなかったら許さないからな。俺はまだお前に勝ち逃げされたままなんだ」
「一度も負けてないだろ」
「木剣なら二十七勝二十九敗」
「俺の記録では三十四勝二十二敗だ」
「だから数え方がおかしいって言ってるんだ。途中で逃げた試合を負けに入れてないだろ」
「あれは母さんに呼ばれたんだ」
「呼ばれる前から逃げ始めてた」
「細かい男は嫌われるぞ」
「お前にだけは言われたくない」
横で聞いていたアイリが、心底呆れたような顔で二人を見る。
「二人とも、十年前から同じことで喧嘩してない?」
「勝敗は大事だ」
「俺の名誉に関わる」
「じゃあ、村を出る前にもう一回決着つけたら?」
アイリが何気なく提案すると、フィンの目が一気に明るくなった。
「明日の夕方は?」
「いいぞ」
「お兄ちゃん。明日は荷造り手伝うって言ったよね?」
「夕方までには終わる」
「終わらなかったら?」
「フィンが手伝う」
「勝手に決めるな」
三人が笑っているところへ、近くのパン屋から一人の少女が走ってきた。
栗色の髪を短く結び、両腕には紙で包んだ細長いパンを抱えている。パン屋を営む祖母を手伝っているミアだった。彼女もまた、レンとアイリがラウナへ来た頃から付き合いのある友人である。
「やっと見つけた! 二人とも朝ご飯まだでしょ?」
「どうして分かったの?」
アイリが尋ねると、ミアは迷うことなくレンを指差した。
「レンが朝市にいるのに、一度も食べ物の店を見てなかったから。考え事してると、ご飯忘れるでしょ」
「忘れてない。あとで食べるつもりだった」
「そう言って昼まで食べないやつだ」
「フィン、お前はどっちの味方だ」
「食事を忘れない人間の味方」
ミアは笑いながら紙包みを開いた。
細長く焼かれたパンの表面には粗塩と香草が散らされ、中には熱で柔らかく溶けた乳酪が挟まっている。
「はい」
一本ずつ手渡され、アイリはまだ温かなパンへすぐに齧りついた。
「おいしい!」
「旅用の硬パンも焼いておく。でも出発の日くらいは柔らかいのも持っていってね。最初の日からずっと硬い物だけだと、なんか悲しいから」
「ミアも聞いたのか?」
「朝起きたら、お祖母ちゃんが泣きながら生地捏ねてた」
「泣いてたの?」
アイリが驚く。
「村長さんの奥さんから聞いたみたい。本人に言ったら怒るから秘密ね」
ミアは笑った。
しかし、その目元も僅かに赤かった。
アイリは何も言わず、パンを持っていない方の手で彼女の手を握った。
「帰ってきたら、王都のお菓子買ってくる」
「王都だけじゃなくて、その先にも行くんでしょ?」
「たぶん」
「じゃあ、行った場所全部のお菓子」
「そんなに持てないよ」
「レンが持てばいいじゃない」
「どうして今日会う人間全員、俺に持たせる前提なんだ」
「お兄ちゃん、力だけはあるから」
アイリが答えた。
「だけって何だ」
笑い声が上がる。
レンも苦笑した。
けれど、ミアはすぐに真剣な表情へ戻った。
「……無理しないでね」
二人を見る。
「答えを見つけることより、生きて帰ってくることを大事にして。何も分からなくても、帰ってきていいんだから」
レンはすぐに返事をしなかった。
その言葉は、自分自身には一度も許してこなかった選択だった。
答えを見つけなければならない。
レオニスへ辿り着かなければならない。
母がなぜ殺され、エイレンがなぜ焼かれたのかを知らないままでは終われない。
何も掴めずに戻ることは、逃げることと同じなのだと、どこかで思っていた。
だがミアにとっては違う。
何一つ答えを持たずに帰ってくるレンとアイリでも、二度と帰らない二人より遥かにいい。
「……分かった」
レンは静かに答えた。
「必ず、生きて帰る」
「約束だからね」
「ああ」
朝市を一通り回り終えた頃には、二人が買った物と渡された物は、一つの籠では到底収まりきらない量になっていた。
帰り道ではレンが両肩へ袋を掛け、片手には鍋と毛布の包み。背中にはガルドが作った新しい剣帯で黒銀の剣を固定している。アイリも薬草や衣服を抱えていたものの、誰が見てもレンの方が明らかに多かった。
「これ、三日分の買い物じゃないだろ」
「十日分だよ」
「旅へ出る前に肩が壊れそうだ」
「いい訓練になるね」
「何の訓練だ」
「荷物を持ったまま魔物から逃げる訓練」
「魔物が出たら荷物は捨てる」
「干し林檎も?」
「最初に捨てる」
「絶対に守る」
アイリは干し林檎の袋を胸へ抱き締めた。
レンは呆れながらも、彼女の歩調が僅かに遅くなっていることに気づく。何も言わず、アイリが片手に持っていた薬草の包みを取り上げた。
「自分で持つって言ったのに」
「落とされたら困る」
「優しいね」
「薬草に対してな」
「はいはい」
二人が暮らす家は、村の西端にあった。
低い石壁と小さな薬草畑に囲まれた古い家で、十年前、村長夫婦が使っていなかった建物を修繕し、行き場のなかった兄妹へ住まわせてくれたものだ。寝室が二つと居間、台所、小さな物置。裏にはレンが薪を割るための狭い庭がある。
豪華ではない。
けれど十年間、二人が朝を迎え、食事をし、喧嘩をし、眠ってきた家だった。
扉を開けたレンは、数秒その場で固まった。
居間の床一面へ、衣服、布、瓶、縄、地図、木製の食器、針箱が広げられている。椅子の上には毛布が積まれ、机の半分も旅用品に占領されていた。
「……半分終わってるって言ってたよな?」
「必要な物を出すところまでは半分終わってる」
「詰めてないじゃないか」
「どこへ何を入れるか考えてたの」
「そのために床全部使う必要あるのか?」
「見やすいでしょ?」
「歩けない」
「踏まなければいいよ」
レンは足元の瓶を慎重に避けながら居間へ入り、朝市から持ち帰った荷物を壁際へ下ろした。
二人はそのまま荷造りを始めた。
アイリが籠の中身を食料、薬、道具、衣服へ分け、レンは保存食を布袋へ詰めていく。作業を始めると、性格の違いは見事なほど荷物のまとめ方へ現れた。
レンは大きさの近い品を隙間なく並べ、重い物を下、軽い物を上へ入れる。袋の結び目が僅かに気に入らないだけで一度解き、最初から結び直す。
アイリは薬や包帯など緊急時に必要な物を取り出しやすい位置へ配置する一方、衣服の扱いは大雑把で、少しでも入らなければ上から押し込んだ。
「それじゃ皺になる」
「着れば伸びるよ」
「薬瓶が割れるぞ」
「薬瓶は別袋」
「その上に鍋を置くな」
「鍋は丈夫だから大丈夫」
「床が傷つく」
「……お兄ちゃん、旅より荷造りの仕事の方が向いてるんじゃない?」
「お前が雑すぎるだけだ」
二人は昼近くまでそんな言い合いを続けながら荷物を整理した。
窓から差し込む光が少しずつ高くなり、外からは仕事へ向かう村人たちの声が聞こえてくる。
作業の途中。
アイリは居間の一番奥にある棚の前へ座り、小さな木箱を取り出した。
鍵のついていない古い箱だった。蓋の縁は何度も開閉したことで擦れ、木の色が薄くなっている。
彼女が静かに蓋を開く。
中には古い布。
焦げた木片。
炎の夜に二人が着ていた服の一部。
そして、半分が欠けた銀色の髪飾り。
エイレンから逃げた際に持ち出せた物や、その後、村の跡近くで見つけられた物を少しずつ集めた箱だった。
レンの手が止まる。
「それも持っていくのか?」
「髪飾りだけ」
「失くすかもしれない」
「だから置いていく?」
責めるような声音ではなかった。
アイリは焦げて一部が欠けた銀の髪飾りを掌へ載せる。
小さな花を模した飾り。
エレナが祭りの日に髪へ挿していたものだった。
「お母さんの物を全部持っていく必要はないと思う」
アイリは髪飾りを見つめたまま言う。
「でも、何も持っていかないのも嫌なの。お兄ちゃんには剣とロケットがあるでしょ。わたしには……これしかないから」
レンは答えず、彼女の掌を見た。
黒銀の剣は母が残したものだ。
銀のロケットも同じ。
ただし、その中に写る黒髪の少女が誰なのかは、今も分からない。
アイリが持つ髪飾りとは、意味が違う。
これは間違いなく、二人が知っている母自身の記憶だった。
「丈夫な袋に入れよう」
レンはやがて言った。
「水に濡れないよう、油布で包んでおいた方がいい」
「うん」
アイリの表情が少し和らいだ。
レンは物置から小さな油布を取り出し、髪飾りを丁寧に包む。それをアイリの薬袋の内側へ入れただけでは不安だったため、簡単には落ちないよう布へ直接縫い付けることにした。
慣れているとは言い難い手つきだったが、何度も縫い目を確かめながら針を進める。
「意外と上手」
「昔、破れた手袋を自分で直してたからな」
「わたしが直すって言ったのに、任せてくれなかったよね」
「お前が縫ったら左右で指の長さが変わるだろ」
「個性的でいいと思う」
「手袋に個性はいらない」
「ある方が愛着湧くよ」
「履き心地の方が大事だ」
「手袋は履かないよ」
「……着け心地だ」
アイリが小さく笑った。
髪飾りをしまい、木箱を元の棚へ戻す。
二人は再び荷造りへ戻ったが、先ほどまでの軽さは少しだけ薄れていた。
この旅は、新しい土地を見に行くためだけのものではない。
十年間、目を逸らしてきたわけではなくとも、簡単には近づくことのできなかった過去へ、自分たちの足で戻っていく旅だった。
手掛かりを追えば、母の死へ近づく。
エイレンを焼いた炎の意味へ近づく。
答えが必ず救いになるとは限らない。
知る前の方が幸せだったと思う真実が待っている可能性さえある。
それでも二人は、進むと決めた。
昼を過ぎる頃、ようやく荷物は二つの背嚢と一つの小さな肩掛け袋へ収まった。
レンは一つずつ持ち上げ、重さを確認する。
長距離を歩くことを考えれば、アイリの荷物は少し重い。
彼女が目を離した隙に、中から鍋と食料袋を取り出して自分の背嚢へ移そうとしたところで、すぐに手首を掴まれた。
「勝手に増やさないで」
「俺の方が持てる」
「わたしも持てるよ」
「長い距離を歩くんだ。最初に無理したら後半で動けなくなる」
「それはお兄ちゃんも同じ」
「俺は慣れてる」
「慣れてるからって、全部持っていい理由にはならないよ」
アイリはレンの背嚢から鍋と食料袋を取り返し、自分の荷物へ戻した。
「半分ずつじゃなくていい。でも、お兄ちゃんが全部背負うのは駄目」
紐を締め直しながら、彼女は続ける。
「荷物も。心配も。過去も」
レンは何も言えなくなった。
「セラ先生に言われたでしょ。心配は分け合うの」
「……聞いてたのか」
「隣にいたからね」
「忘れてると思った」
「お兄ちゃんと違って、ちゃんと覚えてます」
「俺も覚えてる」
「じゃあ実行してください」
レンは苦笑するしかなかった。
改めてアイリの背嚢を持ち上げ、危険なほどの重さではないことを確認する。最後に肩紐の長さを調整し、背中へ擦れそうな場所へ柔らかな布を挟んだ。
「痛くなったら言えよ」
「お兄ちゃんもね」
「ああ」
「本当に?」
「本当に」
「怪しい」
「約束する」
その言葉を聞いて、アイリはようやく納得したように頷いた。
窓の外では、朝市を終えた店々が片づけを始めている。色とりどりの天幕が畳まれ、売れ残った商品が木箱へ戻され、朝には人で埋まっていた通りが少しずつ普段の姿へ戻っていった。
三日後。
二人はここを離れる。
話しているだけの時にはまだ少し遠い未来に感じていたはずなのに、目の前へ完成した背嚢が二つ並ぶと、その日が急に現実味を帯びた。
アイリが荷物を見つめたまま、静かに息を吐く。
「本当に行くんだね」
「ああ」
「怖い?」
レンは少しだけ考えた。
以前なら、迷わず怖くないと答えていただろう。
アイリを不安にさせたくないから。
兄である自分が怯えていると知られたくないから。
けれど、それでは今日セラに言われたことを、早くも無視することになる。
「……怖い」
アイリがレンを見る。
「わたしも」
「それでも行く」
「うん」
二人は並んで窓の外を見た。
午後の日差しに照らされたラウナ。
十年前に失ったエイレンとは違う村。
それでも今では、ここもまた二人にとって間違いなく故郷だった。
鐘の音。
朝市の騒がしさ。
焼きたてのパンの匂い。
友人とのくだらない言い争い。
誰かに名を呼ばれれば振り返ることのできる日常。
それらを背に、二人は旅へ出る。
レンは胸元へ手を添えた。
服の下には銀のロケットがある。
その蓋の内側には、長い黒髪と青みを帯びた琥珀色の瞳を持つ、名前も知らない少女の古い写真。
母が最後まで守り、レンへ「忘れるな」と託した存在。
北方の遺跡に刻まれているという、剣やロケットによく似た紋様。
そして、ごく稀に夢や意識の狭間へ混じる、白い建造物と光の街の断片。
どれも意味は分からない。
どこから繋がっているのかも分からない。
それでも、十年間ほとんど動かなかった何かが、少しずつ自分たちの周囲で動き始めているように感じられた。
その日の夕方。
ラウナへ、一台の古い荷馬車が到着した。
王都方面から運ばれてきた荷物を積んだ車で、御者と村の男たちが荷台から木箱を一つずつ下ろしていく。
誰も気に留めなかった。
ただの荷物だったからだ。
少なくとも、その時までは。
積み上げられた木箱の一つ。
側面の目立たない場所へ、黒い墨で一つの印が描かれていた。
星と炎を重ね合わせたような紋様。
レンの黒銀の剣と。
銀のロケットと。
そして、遠い北方の遺跡へ刻まれているという印に、よく似た形だった。
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