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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第三話 朝焼けに振るう剣

十年後の朝、黒銀の剣が夜明け前の冷たい空気を鋭く切り裂いた。


 まだ太陽は東の山並みから姿を現しておらず、夜の濃紺を残した空が、東の端からゆっくりと灰青色へ変わり始めていた。ラウナの集落は深い眠りの中にあり、家々の煙突から朝餉の煙すら上がっていない。村外れに設けられた訓練場を囲む低い木柵には朝露が細かな光を宿し、湿った土には長い年月の中で刻まれてきた無数の踏み込み跡が残っている。その中央で、額へ黒髪を張りつかせたレンは一人、両手に黒銀の剣を握っていた。


 振り下ろした刃を地面すれすれで静止させ、レンは荒くなった呼吸をゆっくりと整えた。幼い頃には鞘へ納めるだけでも両腕を震わせていた黒銀の剣は、十年という歳月を経て、ようやく彼の身体へ馴染み始めている。もっとも、剣そのものが軽くなったわけではない。一般的な長剣よりも重いうえに重心の位置も独特で、力任せに振れば姿勢を崩し、手首や肩へ必要以上の負担が掛かる。そのためレンは、腕だけではなく、足の踏み込みから腰、背中、肩、呼吸に至るまでを一つの流れとして刃へ伝えることを身体へ叩き込んできた。幼い頃には何度も転び、掌を裂き、木剣すら持ち上げられなくなるまで訓練を続けたこともある。ラウナの大人たちから休めと叱られても、その頑固さだけは昔から変わらなかった。


 剣を振っている間だけは、余計なことを考えずに済んだからだ。


 眠れば、今でも炎の夜が戻ってくる。赤く染まったエイレン。崩れ落ちる家。炎を纏った剣を持つ赤髪の男。そして最後まで自分とアイリの前に立ち、逃げるための時間を作ってくれた母の背中。十年という歳月が過ぎても、それらの記憶は薄れるどころか、レンが成長するほど別の痛みを伴って鮮明になっていった。幼かった自分にはどうすることもできなかった。その事実を理解できる年齢になったからこそ、あの夜の無力さは以前より重く胸へ残っている。


「九百九十八」


 レンは小さく数えると、一歩踏み込んだ。腰を鋭く回転させ、その力を肩から腕へ送り、黒銀の剣を横薙ぎに走らせる。刃が訓練用の太い木杭の表面を深く削り取り、乾いた木片が朝露の残る地面へ飛び散った。


「九百九十九」


 振り切った勢いを殺さないまま軸足を入れ替え、身体を返す。今度は反対側から斜め上へ刃を走らせると、長年の傷が重なった杭が低い音を立てて大きく軋んだ。


「千」


 最後の一撃は真上からだった。レンは深く息を吸い、吐き出すと同時に地面を蹴った。脚から生まれた力を腰へ、腰から背中へ、そして肩と腕を通して刃へ乗せる。黒銀の剣が既に深く傷ついていた木杭へ食い込み、鈍い破砕音とともに木が中央から裂けた。上半分が一瞬遅れて傾き、重い音を響かせながら地面へ倒れる。


 レンは剣を振り切った姿勢のまま数秒静止し、それからゆっくりと身体を起こした。長く息を吐き、汗を腕で拭う。剣を握り続けてきた掌には古い硬皮が幾重にも重なり、その一部が擦れて新しい血が僅かに滲んでいた。千度も剣を振れば、どれほど身体を鍛えていても腕は重くなり、肩や背中の筋肉には焼けるような熱が残る。それでも、この疲労をレンは嫌いではなかった。身体が限界へ近づくほど、頭の中を埋め尽くす記憶や疑問が遠ざかってくれる。


「朝っぱらから、また杭を殺したの?」


 背後から聞き慣れた呆れ声が届き、レンは剣を下ろしたまま答えた。


「杭は生きてない」


「じゃあ何本壊しても罪悪感なし?」


「訓練用だろ」


「村長さん、昨日言ってたよ。『次に壊したらもう自分で作らせる』って」


 そこでようやくレンは振り返った。


 木柵の向こうに、銀白色の長い髪を朝風へ揺らすアイリが立っていた。澄んだ青い瞳にはまだ眠気が残り、片手で小さな欠伸を隠している。幼い頃から好んでいた黒を基調とする服装も変わってはいない。ただし、今身につけているのは子供用の簡素な服ではなく、身体の動きを妨げないよう仕立てられた黒いドレスだった。幾重にも重ねられた裾が足元で静かに揺れ、胸元と袖口には控えめな銀糸の刺繍が施されている。腰には薬草や治療道具を収めるための革袋と、細身の短剣が吊られていた。辺境の小さな集落では少し目立つ装いだったが、本人は昔から気にしたことがない。


 黒い服が似合うと、母が昔言ってくれた。


 その記憶は十年経った今もアイリの中に残っており、彼女が好んで黒を選び続ける理由の一つになっていた。


「それより、こんな時間にどうして起きてるんだ?」


「お兄ちゃんがいなかったから」


「ここは家から結構離れてるぞ。剣の音は聞こえないだろ」


「音で起きたんじゃないよ。目を覚ましたら、お兄ちゃんの寝床が空だったから。またここだろうなって思っただけ」


 アイリは木柵を軽く越えながら、さも当然のように言った。


「夢を見た後はいつも来てるでしょ」


「毎回じゃない」


「そういうことにしておいてあげる」


 倒れた杭のところまで来たアイリは、真っ二つになった木を見下ろして小さく溜息をついた。それから視線をレンの両手へ移し、剣を握る指の間に新しい血が滲んでいることへすぐ気づく。


「また切れてる」


「これくらいなら放っておけば治る」


「そう言って放っておくから治るのが遅いんでしょ。手、出して」


「あとで水で洗う」


「手、出して」


 声そのものは穏やかだったが、拒否を受け入れるつもりがないことだけは明白だった。レンは僅かに眉を寄せたものの、長年の経験から抵抗しても無駄だと理解している。結局、黒銀の剣を地面へ置いて右手を差し出した。


 アイリは満足そうに頷くと、腰の革袋から清潔な布と小さな薬入れを取り出した。水を含ませた布で傷へ入り込んだ細かな木屑と血を丁寧に拭き取り、薬草を練り込んだ軟膏を薄く塗っていく。冷たい薬が裂けた皮膚へ触れた瞬間、レンの指が僅かに動いた。


「痛い?」


「別に」


「今、動いたよ」


「薬が冷たかっただけだ」


「そういうところ、子供の頃から本当に変わらないね。痛いなら痛いって言えばいいのに」


「人の言うことを聞かないところはアイリも変わってないだろ」


「お兄ちゃんにだけは言われたくない」


 即座に返され、レンは口を閉ざした。アイリは勝ったと言わんばかりに小さく笑い、そのまま慣れた手つきで傷口へ布を巻いていく。


 十年前、エイレンを逃れて南方へ保護された後、アイリは世話になった年老いた薬師から簡単な治療を教わり始めた。最初の理由は単純で、訓練するたびに傷を増やして帰ってくる兄をどうにかしたかったからだ。しかし薬草へ触れるうちに、傷の処置だけではなく、植物それぞれの効能や毒性、人の身体の仕組みにまで興味を持つようになり、今ではラウナの治療師を手伝えるほどの知識と経験を身につけている。


 もっとも、治療だけを学んできたわけではない。腰に下げた細身の短剣は飾りではなく、力で劣る分、小柄な身体と足の速さを活かして危険から身を守るための術も覚えていた。レン自身、何度か訓練相手を務めたことがあるため、妹の腕が見せかけではないことは知っている。それでも彼の中では、十八歳になった今もアイリは十年前に守れと託された妹であり、その認識だけは簡単に変えられなかった。


 布を結び終えたアイリはレンの手を放し、今度は何気ない調子で尋ねた。


「今朝も夢、見た?」


 その一言で、レンの表情が僅かに固まった。


「どうしてそう思う?」


「夢を見た朝は、いつもより剣を振る回数が増えるから。今日は千回だったし」


「数えてたのか?」


「お兄ちゃんのことなら、大体分かるよ」


 レンは返事をせず、足元に置かれた黒銀の剣へ目を落とした。夜明けの色を映す黒い刃には、自分の顔が僅かに歪んで映っている。


 十年前から繰り返し見る夢の内容は、ほとんど変わらない。燃え盛るエイレン、最後まで自分たちの前に立っていた母の背中、炎の向こうに浮かぶ赤髪の男の姿、泣き叫ぶ幼いアイリ。そして最後には必ず、灰の上で動かなくなった母の手が現れる。順序が変わることはあっても、目を覚ました時に胸へ残る痛みだけは同じだった。


 ただ、ごく稀に、その記憶とはまるで繋がらない奇妙な光景が夢へ紛れ込むことがある。この十年間で何度見たのか数えられる程度しかない。白い霞の向こうへ聳える巨大な建造物。遥か高所を横切る長大な橋のような影。地面を流れているのか、空中を漂っているのかさえ分からない淡い光。そして、遥か遠くから自分を呼んでいるように感じられる声。ところが目覚めた瞬間から記憶は急速に崩れ、場所の形も、聞こえたはずの声が何を告げていたのかも思い出せなくなる。最後に残るのは、自分自身の記憶とは思えないほど奇妙な懐かしさと、大切な何かを失ったような理由のない喪失感だけだった。


 その夢について、レンはまだアイリへ詳しく話していない。何一つ確かなことがなく、自分自身ですら説明できない以上、今は余計な不安を妹へ背負わせる必要はないと考えていた。


「いつものやつだ」


「お母さんの?」


「ああ」


 アイリは少し迷ってから続けた。


「……あの赤髪の男もいた?」


「いた」


 その男のことが口にされた瞬間、それまで穏やかだった早朝の空気が僅かに重くなった。


 十年が過ぎても、炎の向こうに立っていた男の姿だけは鮮明だった。目を引く赤い髪と炎を纏う剣を持ち、エイレンを焼き、二人の母エレナを殺した男。名前も、出身も、所属も分からない。それでもレンとアイリはこの十年間、覚えている特徴を頼りに、その正体について可能な限り調べ続けてきたが、得られた情報は驚くほど少なかった。そんな人物は知らないと首を横に振る者が大半で、何か知っているように見えた者ほど口を閉ざした。以前ラウナへ立ち寄った旅商人の一人は、赤髪で炎を操る剣士について尋ねた瞬間に顔色を変え、翌朝には何も告げず集落を発っていた。また、旅の傭兵から赤髪の炎使いについて僅かな反応を引き出せたこともあったが、最後まで詳しい話を聞くことはできなかった。


 まるで、あの男の正体へ近づくことそのものを誰かが拒んでいるようだった。


 王国の公開記録を調べても、赤髪の剣士や炎を操る男として、あの夜の人物へ繋がる足跡はほとんど見つからない。盗賊として手配されている者の中にも、騎士や軍人として名が残されている者の中にも、確実に同一人物だと判断できる者はいなかった。それほど記録の中から姿を掴めないにもかかわらず、十年前、エイレンを焼き尽くした炎だけはレンとアイリの記憶の中に紛れもない現実として残っている。レンにとってあの赤髪の男は、人間でありながら世界の記録の外側に立っているような、不気味な存在だった。


「もうすぐ出発するから、夢までお兄ちゃんを引き止めようとしてるのかもね」


 重くなった空気を変えるようにアイリが言う。


「夢を剣で斬れるなら、十年前にやってる」


「お兄ちゃんの剣なら、そのうち本当に夢まで斬りそう」


「その前に村長から杭代を請求されそうだ」


「そっちは確実だね」


 二人の間に小さな笑いが生まれ、それだけで張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。


 やがて東の山並みから朝日が顔を覗かせ、訓練場へ橙色の光が差し込み始めた。集落の家々でも一軒、また一軒と煙突から薄い煙が上がり、遠くから鶏の鳴き声や牛の低い声が聞こえてくる。


 レンとアイリが十年間暮らしてきたラウナは、エイレンから南へ二日ほど進んだ場所にある小さな集落だった。三十軒ほどの石造りの家を囲むように小麦畑と牧草地が広がり、北には深い森が連なっている。南へ伸びる街道を辿れば、やがて王都へ続く大きな道へ合流する。十年前、森の中で救助された兄妹は身寄りを失ったままここへ運ばれ、村長夫婦をはじめとしたラウナの住民たちによって育てられた。


 もちろん、この場所がエイレンの代わりになったわけではない。失った母や故郷が戻ってきたわけでもなかった。それでも、何も持たなくなった幼い二人を家族のように迎え、名前を呼び、食事を与え、成長を見守ってくれた人々がこの村にはいる。だからこそ、いつか答えを求めて外へ出ると決めていながら、レンは長い間ラウナを離れることができなかった。


 あの赤髪の男を探し、その正体を突き止めること。母から託された黒銀の剣と銀のロケットの正体を知ること。そして、なぜエイレンが襲われ、自分たちが狙われたのかを突き止めること。それらを忘れた日は一度もない。それでも剣を鍛え、情報を集め、旅に必要な金を貯めている間に年月は流れた。ラウナにいれば、少なくとも生活はできる。レンは狩りや警備を手伝い、アイリは治療師を補佐する。帰る家があり、食卓があり、自分たちを心配してくれる人々がいる。そんな日常から自分の意思で踏み出すには、覚悟だけでなく、実際に追うべき手掛かりが必要だった。


 その手掛かりが現れたのは、数か月前のことだ。


 王都方面からやって来た一人の行商人が、旅の途中で耳にした話として、北方の森で発見された古い遺跡について語った。由来も築かれた年代も不明で、今では崩れた石壁が僅かに残っているだけの場所だという。普段ならレンもそれだけで強い興味を抱くことはなかっただろう。


 しかし、行商人は石壁へ奇妙な紋様が刻まれていたと話した。


 星と炎を重ね合わせたような印。


 その場で曖昧な記憶を頼りに描かれた形を目にした時、レンは息を呑んだ。黒銀の剣と、エレナから託された銀のロケット。その両方に刻まれている紋様と酷似していたからだ。完全に同一のものなのかは分からないし、行商人が細部を記憶違いしている可能性もある。それでも、十年間ほとんど何の手掛かりも得られなかった兄妹にとって、見過ごせる話ではなかった。


「本当に今日、村長さんへ話すの?」


 アイリの声に、レンは思考を現在へ戻した。


「朝飯のあとに話す」


「昨日は『明日話す』って言ってなかった?」


「だから今日だろ」


「……わたし、出発する日までは聞いてないんだけど」


「今から言う」


「そういうのって普通、決めた時点で一緒に相談するものじゃない?」


「昨日言ったら、お前が夜中まで荷物を確認して眠らないと思った」


「聞いてなくても、お兄ちゃんが朝から千回も剣を振ってるせいで目が覚めたけど」


 少し頬を膨らませたアイリから、レンは気まずそうに視線を逸らした。


「それで?」


「何だよ」


「いつ出るの?」


「三日後」


「三日後!?」


「王都へ向かう商隊が近くの街道を通る。その護衛長に話をつけてあるから、少なくとも森を抜けるまでは一緒に行ける」


「それも初耳なんだけど」


「今言った」


「お兄ちゃん、本気でそれで説明したつもり?」


「必要なことは話しただろ」


「全然足りないよ」


 アイリは呆れたように息を吐くと、一本ずつ指を折りながら確認を始めた。


「食料は? 薬。替えの服。水袋。王都までの地図。泊まる場所。旅費。それから、その商隊が本当に信用できるのかも確認した?」


「食料は干し肉と硬パン。金は狩りと警備の報酬を貯めてある。地図はノア爺さんから借りた。宿は王都に着いてから探す。商隊の護衛長はガルドさんの古い知り合いだ」


 淀みなく返した兄を、アイリは細めた目で見つめた。


「……そこまで準備してたのに、わたしには黙ってたんだ?」


「反対すると思った」


「反対しないよ」


 予想外の返答にレンが目を向ける。


「そうなのか?」


「うん」


 アイリは当然のことのように続けた。


「わたしも行くから」


 レンの眉が即座に寄った。


「駄目だ」


「どうして?」


「危険だからに決まってる」


「それ、十年前にも似たこと言ってなかった?」


「十年前?」


「ロケットに写ってる女の人のことも、エイレンが焼かれた理由も、一緒に探すって約束したでしょ」


「その時とは違う。外には盗賊も魔物もいる。あの赤髪の男や、あの夜一緒にいた連中が今も俺たちを探してる可能性だってある」


「だから一人で行くの?」


「ああ。その方が安全だ」


 アイリは少しだけ間を置いた。


「誰にとって?」


 その問いだけで、レンは言葉に詰まった。アイリの顔から先ほどまでの眠たげな軽さは消え、青い瞳が真っ直ぐ兄を見つめている。


「わたしにとっては、安全じゃないよ。お兄ちゃんが一人で村を出て、どこにいるのかも分からなくなって、帰ってくるかどうかも分からないまま、ここでずっと待つんでしょ?」


「必ず帰る」


「お母さんだって、わたしたちを置いて死ぬつもりであの夜を迎えたわけじゃないよ」


 レンの口が閉じた。


 アイリは声を荒らげていなかった。責めるような口調ですらない。だからこそ、その言葉は強くレンの胸へ突き刺さった。


「お母さんは、わたしたちを守るために一人で残った。お兄ちゃんも同じことをしようとしてる」


「同じじゃない」


「何が違うの?」


「俺は死ぬつもりなんてない」


「お母さんだって、死ぬつもりだったわけじゃないよ」


 返す言葉はなかった。


 レンは十年間、妹を危険から遠ざけることこそ、母との約束を守ることだと思って生きてきた。アイリを守る。その言葉を一度として忘れたことはない。しかしアイリにとって、兄が一人で危険へ向かうことは、十年前と同じように大切な人間の背中を見送り、二度と帰ってこないかもしれない時間の中で待ち続けることを意味している。レンは自分が守る側だとばかり考え、その恐怖を今まで深く考えたことがなかった。


「わたしはもう、あの夜の子供じゃないよ」


 アイリは腰の短剣へ手を添えた。


「薬草を見分けられる。傷の手当てもできるし、食べられる植物と危険な植物も分かる。簡単な毒なら判別できるし、短剣だって、お兄ちゃんが思ってるより使える」


「訓練と実戦は違う」


「それ、お兄ちゃんにも言えるんじゃない?」


「狩りの途中で魔物と戦ったことはある」


「猪に追いかけられて木の上から三時間降りてこなかったのを、戦ったって数えるならね」


「あれはただの猪じゃない。角が異常にでかかったんだ」


「下から見てるだけでも分かったよ。お兄ちゃん、すごく怯えてたし」


「下で待ってたお前も泣いてただろ」


「あれは笑いすぎただけ」


「絶対に違う」


 険しくなりかけていた空気へ昔の出来事が割り込み、アイリの口元へ小さな笑みが戻った。レンも反論しかけたが、それ以上は続けなかった。分かっている。こうなった時のアイリは、昔から簡単には曲がらない。


「それでも、危険なのは変わらないぞ」


「分かってる」


「死ぬかもしれない」


「それも分かってる」


「俺がお前を守れないことだってある」


「だったら、その時はわたしがお兄ちゃんを守る」


 アイリは一歩近づくと、レンの胸元へそっと手を置いた。服の下には、十年前にエレナから託されて以来、一度も手放したことのない銀のロケットが下げられている。


「お母さんは、お兄ちゃんに『わたしを守って』って言ったよね」


「ああ」


「でも、わたしには『お兄ちゃんを支えて』って言った」


 レンは何も言わず妹を見た。


「お兄ちゃんだけが約束を守るんじゃないよ。わたしにも、お母さんとした約束がある」


 その青い瞳に恐怖がないわけではなかった。村の外に何が待っているのか分からない。母を殺した者たちへ自分から近づくことになるかもしれない。旅に出れば、二度とラウナへ戻れない可能性さえある。それでもアイリは危険を知らないから同行を望んでいるのではない。恐ろしさを理解したうえで、兄の後ろではなく、その隣へ立つことを選んでいた。


 レンはしばらく黙ったあと、長く息を吐いた。


「村長に怒られるぞ」


「お兄ちゃんが勝手に連れていくことにして」


「勝手についてくるって言ってるのはお前だろ」


「妹のわがままを聞くのも、お兄ちゃんの役目だよ」


「都合のいい時だけ妹になるな」


「普段から妹です」


 アイリが胸を張る。レンは困ったように眉を寄せたが、やがて諦めたように僅かに笑った。


「三日後だ」


「うん」


「自分の荷物は自分で用意しろよ」


「もう半分くらい終わってる」


 レンの笑みが消えた。


「……いつから?」


「お兄ちゃんが商隊の護衛長と話してるのを見た日から」


 レンはしばらく言葉を失い、満足そうに微笑む妹を見つめた。


「最初から気づいてたのか?」


「お兄ちゃん、隠し事してる時だけ妙に優しくなるから」


「そんなことない」


「三日前、蜂蜜菓子買ってくれた」


「たまには妹に菓子くらい買う」


「普段は『高い』って絶対買ってくれないのに?」


「……あの日は少し安かった」


「嘘が下手だね」


 村の方角から短い鐘の音が響いた。朝食の時間を告げる鐘だ。訓練場の向こうではラウナの人々が次々と家から姿を現し始め、畑へ向かう者、井戸から水を汲む者、家畜を柵から出す者の姿が見える。山並みを越えた朝日が石造りの家々を柔らかな橙色へ染め、少し前まで眠りに包まれていた集落へ生活の音が戻り始めていた。


 三日後には、この場所を離れる。十年間、自分たちを育ててくれた家も、畑も、森も、この訓練場も、毎朝聞いてきた鐘の音も、すべてが旅立った後には遠い場所になる。いつか外へ出ることを長い間望み続けてきたはずなのに、いざその日が現実のものとして迫ると、レンの胸には想像していた以上の寂しさがあった。


「行くぞ。村長に話す」


「その前に朝ご飯」


「話してからだ」


「空腹のまま大事な話したら、絶対に機嫌悪くなるよ」


「誰が?」


「お兄ちゃん」


「俺は腹が減ってても変わらない」


「昨日、最後のパンをわたしが食べたら、夕方までほとんど口利いてくれなかったよね?」


「あれは楽しみにしてたんだ。半分残すって言っただろ」


「おいしかったから仕方ないよ」


「仕方なくない」


 兄妹はいつものように言い合いながら訓練場を出た。


 朝日は既に山の稜線を越え、ラウナ全体を暖かな光で包み込んでいる。道の向こうでは鍛冶屋のガルドが店の扉を開けながら二人へ手を振り、パン屋の老女が焼き上がったばかりのパンを窓辺へ並べていた。眠そうな顔をした子供たちは家の手伝いを始め、その脇を犬が元気よく駆け抜けていく。


 ここには、十年前に失ったものとよく似た日常があった。けれど、それはエイレンの代わりとして与えられた偽物の故郷ではない。この十年間に出会った人々と新しく積み重ねてきた、レンとアイリにとってもう一つの大切な日常だった。


 歩きながら、レンはふと村の北へ広がる森へ目を向けた。そのさらに向こう、今では深い木々と荒れ果てた道によって隔てられた場所に、かつてエイレンと呼ばれていた村の跡がある。あの夜から十年間、レンは一度もそこへ戻っていない。戻りたいと願ったことは何度もあったが、襲撃後には周辺で魔物の目撃が増え、街道を外れた旅人が行方不明になるという話も聞かれるようになった。エイレンへ続いていた道は少しずつ森に呑み込まれ、幼かった兄妹をラウナの大人たちが近づけようとしなかったこともあり、結局今日まで足を踏み入れることはなかった。


 それでも、いつか必ず戻るつもりだった。母が眠っている場所へ。あの炎の夜に置き去りにしたものへ。


 そう考えた、その時だった。


 胸元に、ごく微かな熱が生まれた。


 レンは足を止め、服の上から銀のロケットへ触れた。


「どうしたの?」


 数歩先まで進んでいたアイリが振り返る。


「……いや」


 熱はすぐに消えた。訓練を終えたばかりで身体が火照っているせいかもしれない。そう考えながら「何でもない」と答え、レンはもう一度北の森へ目を向けた。


 次の瞬間、白い光が頭の奥へ差し込んだ。


 実際の視界が白く染まったのではない。目の前には確かに朝のラウナがある。それでも、別の場所の光景が記憶へ直接流れ込んできたかのように、ほんの一瞬だけ現実へ重なった。


 白く聳える巨大な何か。空の遥か高みを横切る長大な影。暗闇とも昼とも判別できない空間を流れていく淡い光。そのさらに遠くに、一人の人影が立っていた。


 人影が、こちらへ振り返る。


 そう見えた瞬間、すべてが消えた。


 レンは立ち尽くしたまま、無意識に息を止めていた。顔も分からない。性別も分からない。どこにある場所なのかさえ知らないはずなのに、胸の奥には懐かしさが残っている。それと同時に、大切な何かを遥か昔に置き去りにしてきたような、理由のない喪失感が込み上げ、心臓の奥を強く掴まれたような感覚が残った。


「レンお兄ちゃん?」


 アイリの声で意識が現実へ引き戻される。目の前には変わらず朝のラウナがあり、道を行き交う村人たちの声も聞こえていた。


「本当に大丈夫?」


「ああ。少し疲れただけだ」


「だから朝から千回も剣を振るなって言ってるの」


「次から九百九十九回にする」


「一本しか減ってないよ」


 呆れたように言いながらアイリは再び歩き始め、レンもその後へ続いた。しかし、胸元のロケットからすぐに手を離すことはできなかった。


 ロケットの中に残された、名前も知らない黒髪の少女。ごく稀に夢へ紛れ込む、見たことのない白い場所。母から託された黒銀の剣。そして遠い森の遺跡へ刻まれているという、星と炎を重ねた紋様。それぞれを個別に見れば偶然と片づけることもできる。だが、すべてが自分たちの過去の周囲へ集まり始めていることを、レンはもう偶然だけでは説明できない気がしていた。


 三日後。


 レンとアイリは、十年間暮らしてきたラウナを旅立つ。


 二人が目指しているのは、今のところ王都へ続く街道と、その先にある一つの手掛かりにすぎない。だが、その小さな旅立ちが、やがて十二の国と三つの大陸を巡り、世界から消された歴史と、あの炎の夜に奪われた真実へ繋がっていくことを、この時の二人はまだ知らなかった。


 すべてへ続く最初の一歩は、もう目の前まで迫っていた。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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