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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第二話 灰の中に残された誓い

燃え落ちた家の前で、レンは動けずにいた。つい先ほどまで家だった場所からは炎が噴き上がり、崩れた柱の間で赤く焼けた木材が軋みながら沈んでいく。黒煙は夜空を覆い、風に巻き上げられた無数の火の粉が、星とは違う不吉な光となって村の上を漂っていた。見慣れていた道も、毎朝声を掛けてくれた隣人の家も、アイリと走り回った空き地も、もう元の形を留めていない。どこかで誰かが助けを求め、別の場所からは家族の名を呼ぶ声が聞こえる。それらは剣戟や建物の崩れる轟音に呑まれ、やがて一つずつ消えていった。


 レンは妹の手を握ったまま、炎の向こうを睨んでいた。そこには二つの影がある。一人は、母と家を炎の中へ呑み込んだ赤髪の男。もう一人は深いフードで顔を隠し、胸元に九本の黒い刃を円環状に並べた紋章を持つ人物だった。


 なぜ自分たちが狙われているのか。先ほど赤髪の男が口にした「星脈の子供」という言葉が何を意味するのか。なぜ母は見知らぬ少女の写真を隠していたのか。黒銀の剣は何なのか。何一つ分からない。それでも、たった一つだけ理解していることがある。この男が村を焼き、母を炎の中へ残したのだ。


 レンの膝は震えていた。喉は煙で焼け、まともに息を吸うことさえ苦しい。それでも、背後で自分の服を掴んでいるアイリの震えを感じた瞬間、レンは一歩前へ出た。その足元、焼け焦げた土の上には一本の剣が落ちている。爆発の際にエレナの手を離れ、瓦礫の外へ弾き飛ばされた黒銀の剣だった。


「……母さんの……」


 レンは握っていた鞘を地面へ置き、震える手で剣の柄を掴んだ。重い。これまで振り回してきた木の枝とは何もかもが違い、刃そのものが幼い身体を地面へ引きずり込もうとしているようだった。片手ではまともに持ち上げることさえできず、レンは両手でどうにか剣を持ち上げ、母から託された鞘へ刃を納めた。それだけの動作で腕は痛み、肩まで震え始める。それでもレンは手放さず、黒銀の剣を胸の前へ抱えてアイリを背後へ庇った。


「アイリには、触るな」


 掠れた声だった。自分でも情けなくなるほど震えていたが、それでも男には聞こえたらしい。赤髪の男は僅かに眉を上げ、珍しいものでも見るように幼いレンを見つめた。


「母親と同じ目をする」


 炎を纏った剣を下げたまま、男が一歩近づく。


「何も知らず、何もできず、それでも誰かを守ろうとする目だ」


「その剣を持つことすらできない子供が、私に何をする?」


 男がさらに一歩を踏み出すと、足元の土が赤く焼け、熱によって周囲の空気が歪んだ。押し寄せる熱気にレンは思わず息を止め、背中にはアイリが強くしがみつく。「レンお兄ちゃん」と震える声で呼ばれた瞬間、逃げなければならないことは分かっていた。母も言った。南の森へ走れ。振り返るな。どんな声が聞こえても戻ってくるな。それでもレンの足は動かなかった。炎の中には母がいる。瓦礫の下で、もしかしたらまだ――そんな考えをどうしても捨て切れなかった。


 その時、崩れた家の奥から、焼けた木材と石が擦れ合う音がした。


「……レン……アイリ……」


 かすかな声だった。それでも二人にはすぐに分かった。


「母さん……?」


 レンが目を見開く。


「お母さん!」


 炎の向こうで瓦礫が動いた。崩れた梁の隙間から血に濡れた手が伸び、やがてエレナが身体を引きずるようにして姿を現す。生きていた。しかし左肩から脇腹まで服はほとんど赤く染まり、額から流れた血が片目を塞いでいる。長い栗色の髪の一部は炎で焦げ、呼吸をするたび胸が浅く上下し、一歩踏み出すだけで身体が大きく揺れた。それでもエレナは折れた木片へ片手をつき、震える脚を無理やり伸ばして立ち上がった。


「お母さん!」


 アイリが兄の手を振りほどこうとし、レンも母へ駆け寄りかける。


「来ないで!」


 エレナの叫びに、二人の足が止まった。母は子供たちを見た。泣きながら自分へ駆け寄ろうとする娘と、黒銀の剣を抱えたまま立ち尽くしている息子。その顔にはほんの一瞬、母親として二人を抱き締めたいという耐え難い苦しみが浮かんだ。それでもエレナは近づかなかった。立っていることさえ奇跡に思える身体で、ただ子供たちと赤髪の男の間へ立った。


「しぶといな、エレナ」


 赤髪の男は剣を下げたまま彼女を眺める。


「あれだけ血を失って、まだ立つか」


「この子たちは……渡さない」


「お前に選択権はない。最初からなかった」


 エレナは返事の代わりに腰へ手を伸ばし、小さなナイフを取り出した。レンも知っている。母が薬草を切る時に使っていたものだ。剣士へ向けるような武器ではなく、まして男の炎を受け止められるような代物ではない。それでもエレナは両手で柄を握り、その切っ先を赤髪の男へ向けた。


「なら、私がここで終わらせる」


「母さん、もういいよ!」


 レンの喉から悲鳴に近い声が飛び出した。


「一緒に逃げよう! もう戦わなくていいから!」


 エレナの肩が僅かに震えた。だが、振り返らない。


「レン」


「嫌だ……」


「アイリの手を握って」


「嫌だ!」


「レン」


 今度の声は静かだった。その静けさが、怒鳴られるよりも苦しかった。エレナがゆっくりと振り返り、血と煤に汚れた頬を一本の涙が伝う。


「アイリの手を握って」


 レンは首を横へ振った。けれど母の瞳を見た瞬間、理解してしまった。逃げようとしないのではない。もう、逃げられないのだ。母の身体には、自分たちと一緒に森まで走れるだけの力が残っていない。だからここに残る。二人が逃げるための時間を作るために。


「レン。約束して」


「何を……」


「アイリを守って」


 エレナの声は震えていた。


「あなた一人で、全部を背負わなくていい。怖い時は怖いと言っていい。泣きたい時は泣いていい。逃げなければ生きられない時は、逃げてもいい」


 レンは何も言えなかった。


「でも、この子の手だけは離さないで」


 その言葉を聞き、レンは背後のアイリへ手を伸ばした。触れた小さな指は冷たく、震えていたが、やがて強く絡みついてきた。


「お母さんも来てよ……」


 アイリは泣いていた。


「わたし、もうわがまま言わないから……朝もちゃんと起きるから……野菜だって残さないから……だから、一緒に来てよ……」


 エレナの表情が崩れかけた。今すぐ娘のところへ駆け寄り、抱き締めたい。そう願っていることは、子供であるレンにも分かった。それでも母は戻らなかった。


「アイリ」


 エレナは震える唇で、それでも優しく笑った。


「あなたは、そのままでいいの」


「嫌だよ……」


「泣いて、笑って、怒って。好きなものを好きだと言って生きなさい」


 そしてエレナは一度だけレンへ視線を向けた。


「それから、お兄ちゃんを支えてあげて。レンは強がるから、きっと一人で苦しもうとするわ」


「お母さん……」


「ごめんね」


 赤髪の男が小さく息を吐いた。


「別れは済んだか?」


 炎を纏った剣がゆっくりと持ち上がる。エレナは小さなナイフを構えた。脚は震え、肩からは絶え間なく血が落ち、呼吸さえ満足にできていない。それでも彼女は一歩を踏み出し、そのまま残された力の全てで地面を蹴った。速くはない。剣士と呼べるような動きでもない。ただの母親が、子供たちを守るために最後の力を使って前へ出ただけだった。


 ナイフの切っ先が赤髪の男の胸へ向かう。男は避けなかった。刃が黒い外套へ届く寸前、男の身体から炎が爆発するように膨れ上がる。


「――っ!」


 エレナの腕が弾かれ、ナイフが宙を舞った。それでも彼女は止まらない。武器を失ったまま男へ飛び込み、その外套へ両手で掴みかかった。


「今よ!」


 エレナが叫ぶ。


「走って!」


 レンは動けなかった。母の服が焼け、髪から煙が上がっている。それでもエレナは男を離さず、その必死さを前にして、初めて赤髪の男の顔から笑みが消えた。男はエレナの髪を掴み、力任せに顔を上げさせる。


「子供たちに、無駄な希望を与えるな」


 エレナは苦痛に顔を歪めながら、それでも男を睨み返した。


「希望を決めるのは……あなたじゃない」


 炎が揺れた。


 次の瞬間、赤髪の男の剣がエレナの身体を貫いた。


「――母さん?」


 炎を纏った刃が腹部から入り、背中へ抜ける。エレナの身体が大きく震え、血が唇から溢れた。刃を伝う赤よりも早く、傷口の周囲が凄まじい熱によって焼かれていく。


「お母さん――!」


 アイリの悲鳴が夜空を裂いた。レンは何もできなかった。炎の音も、剣の音も、遠くで続いていた悲鳴も、その瞬間だけ全てが消えたように感じられた。目の前にあるのは、母の身体を貫いている一本の剣だけだった。


「お母さん!」


 アイリが走り出そうとし、レンは反射的に妹の身体を抱き止めた。


「離して!」


「駄目だ!」


「お母さんが! お母さんが死んじゃう!」


 アイリは兄の腕の中で暴れ、胸を叩き、爪を立てる。


「助けないと!」


「駄目だ!」


「どうして!」


「俺たちじゃ……」


 言葉が喉につかえた。言いたくなかった。認めたくなかった。それでもレンは妹を離さなかった。


「俺たちじゃ、助けられない!」


 口にした瞬間、胸の中で何かが壊れた。自分は剣を持てなかった。母を守れなかった。騎士でもなければ英雄でもない。あれほど毎日のように剣の真似事をしていたのに、本物の剣と本物の殺意を前にした自分は、ただ震えることしかできない子供だった。それでも、アイリまで失うわけにはいかなかった。


 赤髪の男が剣を引き抜くと、エレナの身体から力が抜け、膝から灰の上へ崩れ落ちた。


「母さん!」


 倒れながらも、エレナは二人へ顔を向けた。既に焦点の合わなくなり始めた瞳が、それでも息子を探している。血に濡れた唇が動いたが、その声は届かなかった。けれどレンには分かった。


 ――走って。


 エレナの手が灰の上へ落ちた。指先が僅かに動き、最後にもう一度だけ二人へ触れようとしているように見えた。けれど、その距離が縮まることはない。やがて指の動きも止まった。


「母さん……?」


 返事はなかった。アイリが声を枯らして泣いている。レンは歯を食いしばり、唇の内側が切れるほど力を込めたが、それでも涙を止めることはできなかった。


 その時、赤髪の男の背後からフードを被った人物が静かに歩み出た。胸元に刻まれた九本刃の紋章が炎を受け、闇の中へ不気味に浮かび上がる。


「子供を確保する」


 低い声だった。男とも女とも判別しにくく、すぐ近くから聞こえているはずなのに、遠い場所から幾重にも反響して届くような不自然さがある。フードの奥が僅かに動いた。


「少女もだ」


 赤髪の男は剣についた血を炎で焼き払い、レンとアイリへ向き直った。


「聞こえただろう」


 一歩、距離が縮まる。


「逃げても無駄だ」


 さらに一歩。


「お前たちは、我々が長く探していた者だ」


 レンはアイリを抱いたまま後ずさった。その時、不意に胸元が熱を帯びた。


「……っ?」


 銀のロケット。エレナから受け取ったばかりのそれが、服越しにも分かるほどの熱を持っている。レンが反射的に取り出した瞬間、閉じられていた蓋がひとりでに開いた。中にあるのは古い写真――長い黒髪と、青みを帯びた琥珀色の瞳を持つ、名前も知らない少女。その顔を見た途端、レンの胸の奥で何かが脈打った。心臓とは違う。もっと深い場所、自分の身体ではなく、自分という存在のさらに奥にある何かへ、見えない糸を引っ掛けられたような奇妙な感覚だった。


「なに……これ……」


 同時に、抱えていた黒銀の剣が微かに震えた。金属同士が触れ合うものとは違う低い音が、まるで遠い地の底から響いてくるかのように伝わり、鍔に刻まれた星と炎の紋様が一瞬だけ淡い光を宿す。レンが息を呑んだ次の瞬間、視界の端が白く染まった。


 白い塔。長く伸びる橋。夜空に浮かぶ巨大な光の輪。


 ほんの一瞬、先ほど見たはずの知らない街の断片が再び脳裏へ差し込み、すぐに消えた。


「うっ……!」


 激しい眩暈に襲われ、レンは片膝をついた。鼻から温かいものが流れ、手の甲で拭えば赤い血が付く。


「レンお兄ちゃん!」


 アイリが慌てて身体を支える。レン自身には、何が起きたのか分からなかった。力を使った感覚などない。何かをしようとしたわけでもない。ただ、ロケットと剣が、自分の知らない何かへ勝手に応えた。それだけだった。


 だが、赤髪の男たちの反応は違った。先ほどまで浮かべていた男の笑みは消え、背後に立つフードの人物も、初めて明確に動きを止めている。


「……今のは」


 フードの奥から低い声が漏れた。


「もう反応するのか」


 赤髪の男が僅かに目を細める。


「まだ早いはずだ」


 何が早いのか。何に反応したというのか。レンには何一つ意味が分からない。


「黙れ……」


 レンは震える手でロケットを握り締めた。怖かった。身体は痛み、眩暈で視界もまだ揺れている。それでも灰の上に横たわる母を見た瞬間、恐怖とは別の熱が胸の奥から込み上げた。


「母さんを返せ」


 赤髪の男は何も答えない。


「返せよ……母さんを返せよ!」


 叫びに応じるように、黒銀の剣がもう一度だけ低く震えた。その瞬間、周囲の炎が不自然に左右へ傾いた。風など吹いていない。それなのに炎はレンから逃れるように揺れ、すぐに何事もなかったかのような形へ戻っていく。敵を吹き飛ばすほどの光が生まれたわけでも、地面が割れたわけでもない。レン自身にも、同じ現象をもう一度起こす方法など分からなかった。


 しかし、その不可解な現象へ赤髪の男とフードの人物の注意が向いた、ほんの僅かな間――燃え続けていた家から大きな軋みが響いた。焼けた梁が耐え切れずに崩れ落ち、轟音とともに火の粉が噴き上がる。燃える木材がレンたちと二人の間へ落下した。


「アイリ……走るぞ」


「でも、お母さんが……」


「母さんが、逃げろって言った」


 アイリは振り返った。灰の上に横たわる母を見つめたまま肩を震わせ、涙を次々と頬へ流していく。レンも同じ場所を見た。戻りたい。母のそばへ行きたい。何度呼んでも返事がなくても、まだ抱き締めれば温かいかもしれない。それでも最後まで母が望んだことは、ただ一つだった。二人が生きること。


「俺が、絶対に守るから」


 アイリが泣きながら兄を見る。


「お母さんみたいに、いなくならない?」


 レンは息を詰まらせた。そんな約束を本当に守れるのかは分からない。つい先ほどまで何一つできなかった自分が、この先ずっと妹を守り抜ける保証などどこにもなかった。それでもレンは小さな手を強く握った。


「いなくならない」


「本当に?」


「何があっても、俺がアイリのそばにいる」


 絡んだ指へ力を込める。


「絶対に、手を離さない」


 アイリは涙を流したまま、小さく頷いた。


 二人は走った。崩れ落ちた梁と炎が追手を遮っている間に燃える家々の間へ飛び込み、レンは一度も振り返らなかった。自分の身体に何が起きたのかも、あの二人が何を知っているのかも、今は考えない。ただ母から託された妹の手だけを離さないように、必死で足を動かし続けた。


 背後から赤髪の男の声が響き、直後には炎が地面を這うように追ってくる。


「右!」


 レンはアイリの腕を引き、倒れた荷車を回り込んだ。炎が先ほどまで二人のいた道を焼き、猛烈な熱風が背中を押す。続いてフードの人物が片手を上げると、前方の空気が黒く歪んだ。何もない場所に透明な壁でも生まれたように道の景色が揺らいだが、レンは足を止めない。


「こっち!」


 壁へぶつかる寸前で横道へ飛び込む。そこは昼間まで市場だった場所だった。今では屋台が崩れ、果物や野菜が泥と血の中へ踏み潰されている。毎朝大人たちが値段を言い合い、子供たちがその隙間を走り回っていた面影など、もうほとんど残っていなかった。


 曲がり角から一人の襲撃者が現れ、兄妹の姿を見るや否や剣を抜いた。


「止まれ!」


 レンはアイリを背後へ押し、黒銀の剣を両手で持ち上げた。鞘から抜いている時間はない。男の剣が容赦なく振り下ろされ、レンは黒銀の剣を鞘ごと掲げて受け止める。


「ぐっ……!」


 凄まじい衝撃が腕を突き抜けた。肩が外れたのではないかと思うほどの痛みが走り、足が土へ沈み、膝が折れかける。それでもレンは剣を離さなかった。


「子供が……!」


 男は剣を押し込みながら、レンの背後へ視線を走らせた。


「動くな。銀髪の少女は殺すな。生かして連れてこいと言われている」


 その言葉に、レンの表情が変わった。


「……アイリを?」


「お前も大人しくしていろ!」


 その瞬間、レンの背後からアイリが飛び出した。地面へ落ちていた焼けた石を両手で拾い上げ、そのまま男の顔へ叩きつける。石の角が鼻へ直撃し、鈍い音とともに男が悲鳴を上げて後退した。レンは反射的に黒銀の剣を鞘ごと振り上げ、重い鞘を男の顎へ叩き込む。


「走れ!」


 アイリが兄の服を掴み、二人は再び走り出した。


「ごめんなさい……」


 走りながら、アイリが震える声で言った。


「何が?」


「あの人を……石で叩いた」


「謝らなくていい」


「でも……」


「俺を助けてくれたんだ」


 アイリは走りながら自分の手を見つめた。


「手が震える……」


 レンも黒銀の剣を握る自分の指を見た。同じように震えている。


「俺もだ」


 二人はそれ以上、何も言わなかった。


 南の出口へ近づくにつれ、生き残った村人たちの姿が増えていった。子供を抱えた者、負傷者へ肩を貸す者、血まみれになった家族を引きずるようにして逃げる者。しかし出口の前には十人を超える襲撃者が待ち構えていた。村の鍛冶師が大槌を振り回して一人を地面へ叩き倒すが、直後に別の男の槍がその背中を貫く。老人が孫を庇って倒れ、腕を斬られた女性が自分の傷を押さえることさえせず、子供だけを森へ押し出していた。


 正面から抜けることはできない。レンは立ち止まり、必死に周囲を見回した。背後からは追手が迫り、右には燃え始めた倉庫、左には家畜小屋がある。その奥を見た瞬間、昼間の記憶が蘇った。


「……あそこ」


 羊たちを森側の草地へ移す時だけ使う細い道がある。普段は木柵で閉じられ、大人では通りにくいほど狭い。しかし自分たちなら抜けられる。


「アイリ、こっちだ!」


 二人は家畜小屋へ走った。中では煙に怯えた羊や山羊が狂ったように鳴き、互いの身体を押し合いながら柵へぶつかっている。レンは剣を地面へ置き、出口を塞ぐ太い横木へ両手を掛けた。


「動け……!」


 持ち上がらない。熱で木が歪み、固く噛み合っていた。


「わたしも!」


 アイリが隣へ並び、二人で横木を押し上げる。木が軋み、腕が震える。


「もう少し……!」


 最後に二人が同時に力を込めると、横木が外れ、柵が勢いよく開いた。閉じ込められていた羊と山羊が一斉に外へ飛び出す。


「うわっ!」


 南門を塞いでいた襲撃者たちが振り返った時には遅かった。家畜の群れがそのまま男たちへ雪崩れ込み、隊列を一気に崩していく。角を持った山羊が一人の腹へ突進し、別の男は倒れた仲間へ足を取られて転んだ。


「今だ!」


 レンは黒銀の剣を拾い、アイリの手を掴んだ。二人は暴れる家畜たちへ紛れ、そのまま南の出口を駆け抜ける。背後から放たれた矢の一本が木の幹へ突き刺さり、もう一本はレンの耳元を掠めて黒髪を数本切り飛ばした。


「止まるな!」


「うん!」


 二人は森へ飛び込んだ。伸びた枝が顔を打ち、地面から浮き出た根が足へ絡み、暗闇の中では道さえまともに見えない。それでも走った。背後の炎から少しでも遠くへ。母が命を使って作ってくれた距離を、決して無駄にしないために。


 どれほど走ったのか、レンには分からなかった。やがて肺は焼けるように痛み始め、黒銀の剣を抱えていた腕からも感覚が失われていく。石を踏むたび足の裏へ鋭い痛みが走り、隣を走るアイリの呼吸も次第に乱れていった。


「はっ……はっ……」


「アイリ?」


「だい……じょうぶ……」


 言葉とは裏腹に、その足取りは明らかに遅くなっていた。次の瞬間、小さな根に足を取られる。


「あっ……!」


 アイリが地面へ倒れた。


「アイリ!」


 レンはすぐに戻った。妹の膝は破れて血が滲み、顔は煤と涙で汚れている。銀白色の髪には灰と枯れ葉が絡みついていた。


「もう……走れない……」


 レン自身も限界だった。それでも妹を置いていくという選択だけは、最初から存在しなかった。黒銀の剣を一度地面へ置き、アイリの前へ背を向ける。


「乗って」


「でも、お兄ちゃんも疲れてる」


「大丈夫だ」


「嘘」


 アイリは兄の震える手を見た。


「手も震えてる」


 レンは答えに詰まり、それから小さく息を吐いた。


「母さんと約束したから」


 アイリはしばらく兄の背中を見つめていたが、やがて何も言わず、その首へそっと両腕を回した。レンは妹を背負い、片手で黒銀の剣を引きずりながら、一歩ずつ森の奥へ進んでいく。もう走れない。それでも止まることだけはしなかった。


 木々の隙間から見える背後の空は、真夜中とは思えないほど赤かった。エイレンが燃えている。村全体が巨大な松明のように空を焦がし、その炎の中には母がいる。友人もいる。昨日まで笑っていた隣人たちもいる。振り返らないと決めたはずなのに、木々の隙間から漏れる赤い光は、目を逸らしても瞼の裏へ焼きついて消えてくれなかった。


 やがて二人は、小さな沢へ辿り着いた。月明かりを映した水が、暗い森の中を静かに流れている。レンは岩のそばへアイリを下ろすと、自分もその場へ膝をついた。腕も脚も既に限界で、剣を握っていた指は固まり、開こうとしてもうまく動かない。喉は渇き切っていたが、水へ顔を近づけた途端に吐き気が込み上げた。煙と、焼けた肉と、血の臭いが鼻の奥へこびりついて離れない。目を閉じれば、母の身体を貫いた剣が浮かんだ。


 隣でアイリが沢へ手を伸ばした。顔を洗おうとしたのだろう。けれど水へ入れる直前、その手が止まる。


「……落ちない」


「何が?」


「お母さんの血……」


 アイリは手の甲に残った赤を見つめた。


「洗っても……落ちない……」


 その顔が歪み、とうとう堪え切れなくなったように声を上げて泣き始めた。レンは妹の隣へ座り、自分の手にも残っている母の血を見た。沢の水へゆっくりと指先を沈める。夜の水は痛いほど冷たく、赤い色がその中へ薄く広がっていく。爪の間を何度擦っても完全には消えなかった。


 その時、レンは急に怖くなった。血が消えてしまえば、母との最後の繋がりまでなくなってしまうような気がした。けれど血が残っていれば、あの瞬間を忘れることもできない。何を望めばいいのかさえ分からず、レンはただ冷たい水の中へ手を沈めたまま動かなかった。


「レンお兄ちゃん」


「うん」


「お母さん……もう帰ってこないの?」


 レンはすぐに答えられなかった。死が何なのかは子供である自分にも分かっている。母はもう朝食を作ってくれない。寝癖を直してくれない。アイリを起こしに行き、なかなか起きない妹を見て笑うこともない。怪我をした時に薬を塗ってくれることも、眠れない夜に二人を抱き締めてくれることも、もう二度とない。分かっている。それでも口にしてしまえば、その瞬間に母が本当に世界からいなくなってしまうような気がした。


 レンは長い間、水面を見つめた。


「……帰ってこない」


 アイリが俯き、その小さな肩が震えた。レンは妹を抱き寄せ、自分も泣いた。兄だから泣いてはいけないと思っていた。強くならなければならないと思っていた。けれど母は、泣いてもいいと言った。怖い時には怖いと言っていいと言った。だからその夜だけは、二人とも何一つ我慢しなかった。互いへしがみつき、声を抑えることさえできないまま泣いた。沢の水音と、遠くで燃え続ける故郷の音だけが、兄妹の嗚咽を包んでいた。


「わたし……怖いよ」


「俺も怖い」


「これから、どうするの?」


「分からない」


「誰のところへ行くの?」


「……分からない」


「お兄ちゃんまでいなくなったら、わたし……」


「いなくならない」


 今度だけは、レンはすぐに答えた。アイリの肩へ両手を置き、泣き腫らした青い瞳をまっすぐ見つめる。


「俺はアイリのそばにいる」


「ずっと?」


「ああ」


 レンは頷いた。


「強くなる。ちゃんと、この剣を持てるようになる」


 傍らに置かれた黒銀の剣へ視線を落とす。


「今度は何もできないままじゃなくて……誰が来ても、アイリを守れるくらい強くなる」


「お母さんを殺した人も?」


 炎の中に立つ赤髪の男の姿が、脳裏へ鮮明に蘇った。赤い髪。穏やかな笑み。そして母の身体を貫いた炎の剣。思い出すだけで身体の奥から恐怖が蘇ったが、それでもレンは頷いた。


「いつか、あいつを見つける」


「殺すの?」


 レンは答えられなかった。殺す――その言葉は恐ろしかった。けれど母を殺した男を許せるとも思えない。幼い胸の中に生まれた怒りは、まだ復讐とも憎悪とも呼べるほど明確な形を持っておらず、ただ消えることのない熱として残っていた。


「分からない」


 レンは正直に答えた。


「でも、理由を聞く」


「理由?」


「どうして村を焼いたのか。どうして俺たちを探してたのか。母さんが何を隠してたのか」


 レンは胸元へ手を伸ばした。


「全部、確かめる」


 取り出した銀のロケットは表面を煤で汚していたが、それでも壊れてはいなかった。蓋を開けば、中には小さな古い写真がある。長い黒髪と、青みを帯びた琥珀色の瞳を持つ、名前も知らない少女。アイリも涙を拭いながら、その写真を覗き込んだ。


「この人……誰なんだろう」


「分からない」


「お母さん、知ってたんだよね?」


「ああ」


 レンは写真の中の少女を見つめた。


「忘れるなって言ってた」


「わたしたち、この人に会ったことあるのかな」


 その言葉を聞いた瞬間、レンの胸の奥で、先ほどの奇妙な感覚が僅かに動いた。知らないはずなのに、どうしてか知らないと言い切ることもできない。


「……分からない」


 レンはロケットを閉じた。


「でも、探す」


「この人も?」


「うん。この人が誰なのかも、母さんが隠してたことも。全部」


 アイリはしばらく兄を見つめたあと、自分の小さな指をレンの指へ絡めた。


「じゃあ、わたしも一緒に探す」


「危ないかもしれない」


「お兄ちゃんだけで行くほうが危ないもん」


「どうしてだよ」


「お兄ちゃん、すぐ無茶するから」


 泣き腫らした顔のまま、アイリはほんの少しだけ笑った。レンも何か言い返そうとしたが、言葉が出るより先に、胸の奥へ張りついていた冷たいものが僅かに和らいだ。


 村を失った。母を失った。昨日まで当然だったもののほとんどを、一晩で失ってしまった。それでもアイリはここにいる。自分の隣で息をし、小さな手で自分の手を握っている。今のレンにとって、それだけが崩れ落ちた世界の中で掴むことのできる、唯一確かなものだった。


 二人は沢のそばで身を寄せ合い、夜明けを待った。森の奥から獣の鳴き声が聞こえるたび、レンは傍らの黒銀の剣へ手を伸ばす。抜くことなどできない。まともに振るうことさえできない。それでも剣を自分とアイリの間へ置き、もし何かが現れたなら自分が先に立つつもりだった。


 やがてアイリは泣き疲れ、兄の肩へ頭を預けたまま眠った。レンは眠れなかった。目を閉じれば炎が見え、母が見える。そして耳の奥では、最後に託された言葉が何度も繰り返されていた。


 ――アイリを守って。


 夜明け前、森の奥から馬の蹄の音が聞こえた。レンは反射的に身体を起こし、黒銀の剣を両手で抱える。眠っていたアイリも身じろぎし、やがて木々の間から数人の男たちが姿を現した。


 レンの身体が硬くなった。襲撃者かもしれない。もう服装だけでは誰も信用できない。誰が敵で、誰が味方なのか、幼いレンには判断する術がなかった。


 男たちも、剣を抱えて怯えるレンに気づいた。そのうちの一人が馬から降りたが、すぐには近づいてこない。まず腰の武器を外して地面へ置き、他の者たちも同じように剣や槍を下ろした。


「大丈夫だ」


 男は両手を見える位置へ上げたまま、静かに言った。


「南の集落から来た。火が見えて、救助に向かったんだ」


 レンは黒銀の剣を離さなかった。


「エイレンへは近づけなかった。森へ逃げた人を探してる」


 男はそれ以上進まず、幼い兄妹を見つめた。


「もう戦わなくていい」


 その言葉を聞いた瞬間、レンの身体から突然力が抜けた。黒銀の剣が手を離れて地面へ落ち、レン自身もその場へ膝をつく。


「レンお兄ちゃん!」


 目を覚ましたアイリが兄へしがみついた。男の一人がゆっくりと近づき、倒れかけたレンの身体を支える。二人は毛布へ包まれ、水を渡され、穏やかな声を掛けられた。それでもすぐに安心することはできなかった。森の向こう、エイレンがあった方角には、まだ赤黒い煙が昇っている。夜が終わろうとしている空へ、一本の黒い柱のように。


 救助に来た男の一人がしばらく迷ったあと、声を落として尋ねた。


「ほかに、生き残った人はいるか?」


 レンは口を開いた。けれど言葉が出なかった。母が死んだ――その一言さえ、まだ声にすることができない。ただ首を横へ振ると、男はレンの顔をしばらく見つめたあと、静かに目を伏せた。それ以上は何も聞かなかった。


 朝日が森の木々を照らし始める頃、生き残った村人たちが少しずつ集まってきた。十数人。昨日まで百人を超える人々が暮らしていた村から、森へ逃げ延びたのはそれだけだった。家族を失った者、傷を負った者、灰と煤と血にまみれ、泣く力さえ残っていない者。誰も昨日までと同じ顔をしていなかった。


 救助に来た者たちは負傷者を荷車へ乗せ、歩ける者たちを支えながら、南の集落へ向かう準備を始めた。レンとアイリも、その列へ加わることになった。黒銀の剣は救助者から借りた丈夫な布を使い、幼いレンでも背負えるよう身体へ固定してもらった。片手には、母が遺した銀のロケット。そしてもう片方の手には、アイリの手がある。


 二人は歩き始めた。一歩、また一歩と足を前へ運ぶたび、何度も止まりそうになる。振り返れば遠くに煙が見えた。その向こうには母のいる場所があり、生まれ育った家があり、昨日まで自分たちにとって世界の全てだった場所がある。それが歩くたび、少しずつ遠ざかっていった。


「レンお兄ちゃん」


 隣から小さな声がした。


「何?」


 アイリは前を向いたまま言った。


「手、離さないでね」


 レンは妹の指を握り直した。


「離さない」


 朝の風が森を抜け、レンの黒髪とアイリの銀白色の髪を揺らした。兄妹の肩へ積もっていた灰の一部が風にさらわれ、少しだけ空へ舞い上がっていく。それでも風にはまだ煙の臭いが残り、レンの涙も止まってはいなかった。胸の奥には整理することのできない悲しみも、恐怖も、怒りも残っている。


 それでもレンは前を向き、歩いた。


 母が命をかけて繋いだ、その先へ。


 アイリとともに。


 この日、幼いレンは故郷と母を失った。そして灰の中で、一つの約束を胸へ刻んだ。何があっても妹の手を離さないこと。そしていつか、あの炎の夜に奪われた全ての答えを、自分の手で見つけること。


 その約束が何をもたらすのか。赤髪の男が残した言葉が何を意味していたのか。母が遺した黒銀の剣と銀のロケットが、これから兄妹をどこへ導くのか。


 まだ何も知らないまま、灰を含んだ朝の風の中を、二人は歩き続けた。

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― 新着の感想 ―
あのような出来事を目の当たりにするのは決して簡単なことではありませんし、本当に胸が痛みます。 悲しくて切ない展開ではありますが、それでも物語を楽しんでいます。
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