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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第一話 炎に沈む故郷

その夜、エイレンの村には、まだ夕餉の温かな匂いが残っていた。深い森と緩やかな丘陵に囲まれた小さな辺境の村では、石造りの家々の煙突から細い煙が夕暮れの空へ昇り、焼いた川魚の香ばしさと、鍋の中で柔らかく煮込まれた根菜の甘い香りが、晩秋の冷え始めた風へ静かに溶けている。村の中央を横切る土の道では、一日の仕事を終えた男たちが薪束を肩から下ろし、畑帰りの女たちが籠を抱えたまま立ち話をしていた。その足元を、まだ家へ帰るには早いと言わんばかりの子供たちが笑いながら駆け抜けていく。東の畑では羊を柵へ追い込む声が聞こえ、古びた風車の羽根が軋みを立てながら、ゆっくりと回っていた。


 王国全体から見れば、エイレンは地図の片隅に名が記されるだけの小さな村にすぎない。王都から届く知らせはいつも何日も遅れ、旅商人が持ち込む噂話の方がよほど早かった。けれど、ここで生まれ、ここで季節を重ねてきた者たちにとって、遠い王都の高い城壁も、物語のように語られる黄金の宮殿も、自分たちが毎朝目を覚ますこの場所より大切なものではなかった。


 村の鐘楼へ夕陽が斜めに差し込む頃、その近くの空き地では、まだ幼いレンが一本の木の枝を両手で握り、同じ動きを何度も繰り返していた。汗で黒髪が額へ張りつき、琥珀色の瞳は本人なりの真剣さに細められている。右足を半歩引き、腰を落とし、枝を肩の高さまで引きつけてから一気に振り下ろす。村を訪れる旅人や、時折街道を通る騎士たちを遠目に見て覚えただけの稚拙な型だったが、レンにとっては立派な剣術だった。


 いつか本物の剣を持ち、王都の騎士たちと肩を並べる。大人たちは子供らしい夢だと笑ったが、レン自身は一度もそれを疑ったことがない。枝の先が空気を切り、乾いた音が鳴るたび、彼の頭の中では想像上の敵が一人ずつ倒れていった。


「レンお兄ちゃん、またやってるの?」


 聞き慣れた声に、レンは枝を振り切った姿勢のまま顔を向けた。


 少し離れた道の上に、銀白色の髪を夕風へ揺らす幼い少女――妹のアイリが立っていた。両腕で抱えた布袋からは、焼き上がったばかりのパンの匂いが漂っている。母に頼まれ、村の共同窯まで受け取りに行っていたのだろう。澄んだ青い瞳は兄を呆れたように見つめているものの、その口元には隠し切れない笑みがあった。黒を基調とした簡素な服の裾には、小さな白い刺繍がいくつも並んでいる。母が夜ごと少しずつ縫ってくれたものだった。


「またじゃない。毎日やってるんだ。騎士になるなら、休んでる暇なんてないからな」


 レンが枝を肩へ担いで胸を張ると、アイリはすぐに首を傾げた。


「でも昨日は、雨だからって休んでたよ」


「雨の日は地面が滑るだろ。怪我をしないように休むのだって修行なんだ」


「一昨日は、お腹が痛いって言ってた」


「あれは本当に痛かったんだよ」


「お菓子を三つ食べたあとだったけど?」


 間髪を入れず返され、レンは口を開いたまま言葉を失った。やがて何事もなかったように横を向いて枝を担ぎ直すと、その反応が面白かったのか、アイリは小さく笑いながら兄の隣まで歩いてきた。


 遠くでは夕陽が木々の向こうへ沈み始め、二人の影が土の道へ細長く伸びていた。家々の間から赤子の泣き声が聞こえ、そのすぐ後には誰かが鍋の蓋を落とす大きな音と、家族らしい笑い声が続く。穏やかな村の一日は、いつもと何一つ変わらない形で終わろうとしていた。


 昨日もそうだった。その前の日も、さらにその前の日もそうだった。朝になれば母が食事を作り、アイリは眠そうな顔で起こされ、レンは仕事へ向かう村人たちの横で木の枝を振り回して「また騎士ごっこか」と笑われる。冬が来れば雪を掻き、春になれば畑の土が柔らかくなる。いつか村を出て王都へ行くことを夢見ることはあっても、帰ってくる場所そのものが失われる可能性など、幼いレンは一度も考えたことがなかった。


「帰ろう。母さんが待ってる」


 レンが枝を近くの柵へ立てかけると、アイリは布袋を抱え直しながら少し意地悪そうに笑った。


「レンお兄ちゃんが遅いから、もう怒ってるかも」


「どうして俺だけなんだよ。アイリだって一緒にいるだろ」


「わたしは、お兄ちゃんを呼びに来たんだから悪くないもん」


「ずるいぞ、それ」


「母さんにもそう言う」


「言うなよ」


 アイリが楽しそうに笑った。その笑い声が不意に途切れたのは、村の北側から乾いた破裂音が響いた時だった。


 二人は同時に顔を上げた。遠くで大きな木でも倒れたのかと思うような音だったが、数秒後、鐘楼の鐘が一度だけ不自然に鳴る。夕刻を知らせるいつもの澄んだ響きとは違い、誰かが鐘そのものへ身体をぶつけたような、鈍く歪んだ一音だった。


 道にいた村人たちも次々と会話を止め、北へ顔を向けた。柵の中の羊が落ち着きを失って鳴き始め、繋がれていた馬の一頭が突然鼻を鳴らす。やがて家々の屋根の向こうから一本の黒煙が立ち昇った。夕餉の火から出る煙とは明らかに違う。濃く、重く、油でも燃やしたような黒が夕暮れの空へゆっくり広がっていく。


 誰かが「あれは何だ」と呟いた直後、二度目の轟音が村を揺らした。


 北側の一軒が赤い閃光に包まれ、屋根の半分が吹き飛んだ。爆風に乗った燃えた木片が空高く舞い、少し遅れて人間の悲鳴が聞こえる。それを境に、それまで村を包んでいた平穏は跡形もなく崩れ去った。


 驚いた馬たちが嘶きながら縄を引き千切ろうと暴れ、北側の道から人々が雪崩れ込むように逃げてくる。腕から血を流した男が走り、火のついた上着を脱ぎ捨てながら女が転びそうになり、幼子を胸へ抱いた母親が何度も背後を振り返っていた。その向こうでは炎が家から家へ移り、乾いた屋根を次々と呑み込んでいく。


 ただ、そのすべてが風に従って燃えているわけではなかった。


 一部の炎だけが、風向きとは無関係に身を捩るように進路を変えた。燃えている屋根から一度低く沈み込み、路地を越え、まだ火の届いていなかった家へ向かって赤い舌を伸ばす。別の場所では、強い風に煽られたはずの炎が一瞬だけ逆方向へ揺れ、その直後、狙いを定めたように建物の壁を這い上がった。


 その奇妙な動きは、幼いレンの目にも映っていた。


 けれど、逃げ惑う人々と次々に上がる悲鳴を前に、それが何を意味するのか考える余裕などなかった。


「逃げろ! 森から武装した連中が来た!」


「井戸へ行け! 火を消せ!」


「駄目だ、北側はもう無理だ! 子供を南へ逃がせ!」


 怒号が四方から飛び交う。誰も全体の状況を把握していない。家族を探して逆走する者と、村の外へ逃げようとする者が道の上でぶつかり、泣き声と怒鳴り声が混ざり合う。ほんの少し前まで、同じ道で夕餉の話をしていた人々だった。


 レンは何が起きているのか理解できないまま、隣にいたアイリの手を掴んだ。小さな指は驚くほど冷たく震えている。近くへ火のついた木片が落ち、道端に積んであった干し草へ燃え移った。急激に膨らんだ熱気が頬を撫で、煙が喉へ入り込み、アイリが激しく咳き込む。その拍子に抱えていた布袋が腕から滑り落ち、中から丸いパンがいくつも土の上へ転がった。ついさっきまで三人の食卓へ持ち帰るはずだったパンの一つへ火の粉が落ち、小さな黒い焦げ跡を残した。


「母さんのところへ行くぞ!」


 レンが叫ぶと、アイリは涙を浮かべた目で兄を見た。


「でも、みんな南に逃げろって……」


「母さんを置いていけない!」


 迷う時間などなかった。レンは妹の手を引き、自分たちの家がある村の中央へ向かって走り出した。


 周囲の人間は皆、反対方向へ逃げてくる。何度も肩をぶつけられ、そのたびにアイリの身体がよろめくが、レンは手を離さない。足を負傷した老人を若い男が肩で支えながら走り、顔から血を流した少女が母親の名を叫んでいた。


 道端には、見慣れた村人が斧を握ったまま倒れていた。胸には一本の黒い矢が深々と突き刺さり、その周囲の土が血で濡れている。毎朝、畑へ向かう途中で「今日も騎士の修行か」と笑いながら声を掛けてくれた男だった。昨日も会った。明日も当然会うと思っていた。それなのに、開いたままの瞳はもう何も見ていなかった。


「レンお兄ちゃん……」


 アイリが小さな悲鳴を漏らす。


 レンは止まりかけた足を無理に動かし、妹の視線を遮るように前へ出て、その手を強く握り直した。自分自身も見たくなかった。


「見るな。走るぞ」


 二人は再び走った。


 村の中心へ近づくほど炎は激しくなり、崩れた家の柱や屋根が道を塞いでいた。煙によって視界は狭くなり、目が焼けるように痛む。その向こうに、見知らぬ武装した男たちの姿が見えた。黒と灰色を基調とした装備で身を固め、顔の下半分を布で覆い、それぞれ剣や槍を手にしている。


 最初は盗賊なのかと思った。だが彼らは家の中へ入って金目の物を漁ろうとはせず、家畜にも食料にも、道へ置き去りにされた荷物にも目を向けない。ただ逃げる村人を追い、抵抗する者を殺し、家々へ火を放っていた。


 村人の一人が木槌を握りしめ、家族を守ろうと襲撃者へ飛びかかった。男は僅かに身体を横へ流すだけで振り下ろされた木槌を避け、そのまま一歩踏み込んで剣を村人の腹へ深く突き刺した。血に濡れた刃先が背中から突き出し、村人の口から声にならない息が漏れる。握っていた木槌が土へ落ちた。襲撃者は何の感情も見せないまま剣を引き抜き、倒れた身体を避けると次の道へ向かっていった。


 レンは咄嗟にアイリを引き、横倒しになった荷車の陰へ身を隠した。妹を自分の背後へ押し込み、口元へ指を当てる。


「声を出すな。俺の後ろにいろ」


「レンお兄ちゃん……怖い……」


 アイリの声は震えていた。


「大丈夫だ。母さんを見つけたら、三人で逃げる。絶対に大丈夫だから」


 そう口にしながら、レン自身もその言葉を信じ切れてはいなかった。それでも言わなければならないと思った。自分まで怖いと口にすれば、アイリの手から力が抜けてしまうような気がしたからだ。母を見つける。それから三人で逃げる。ただそれだけを考え続けなければ、身体が恐怖に呑まれて動かなくなりそうだった。


 荷車の向こうを襲撃者たちが通り過ぎる。足音が遠ざかるのを待ち、レンは妹の手を引いて再び走った。普段ならほんの数分で着く自宅までの道が、今夜に限っては果てしなく長く感じられた。


 瓦礫を避け、崩れた塀を越え、燃える家の前を走り抜ける。アイリが何度も足を取られ、そのたびにレンが腕を引いて起こした。背後から悲鳴が聞こえ、不自然なほど突然途切れる。道の向こうで燃え上がっていた家が大きな音を立てて崩れ、炎を纏った梁が二人の目前へ落下した。


 レンは反射的に妹を抱き寄せて横へ飛び、自分の背中を火の粉へ向けた。


「大丈夫か?」


「う、うん……」


 アイリは泣きながら頷いた。


 ほんの少し前まで、レンは木の枝を振り回し、自分が騎士になった姿を思い描いていた。強い敵が現れれば勇敢に剣を構え、誰かを守る。それが戦うことなのだと思っていた。けれど目の前にある現実には、物語のような格好良さなど何一つない。人は悲鳴を上げ、血を流し、転んだ者は置き去りにされ、剣を持つ者が持たない者を一方的に殺している。自分が憧れてきた「剣」というものが、人を守るためだけの道具ではないことを、レンは初めて知った。


 やがて煙の向こうに二人の家が見えた。屋根の端には既に炎が移り、窓から黒煙が吐き出されている。玄関の扉は大きく開いたままで、その前には水桶が横倒しになっていた。


「母さん!」


 レンは妹の手を引いたまま家へ飛び込んだ。


 室内には煙が満ち、倒れた家具と割れた食器が床へ散乱していた。夕食を作っていた鍋は炉のそばでひっくり返り、煮込まれていた野菜と肉が床へ広がっている。ついさっきまで三人で囲むはずだった夕食だった。


「母さん!」


 奥から激しい咳が聞こえ、レンは声の方へ駆け込んだ。


 母エレナは、崩れかけた棚の前で膝をついていた。長い栗色の髪は乱れ、額から頬を伝って血が流れている。左肩には深い傷があり、白かった服の大部分が赤く染まっていた。それでも彼女は震える手で床板の一部を外し、その下へ隠されていた細長い包みと、小さな銀色のロケットを取り出そうとしていた。


 エレナが顔を上げ、二人の姿を見つけた瞬間、その表情へ安堵が浮かんだ。しかしそれはほんの一瞬で、すぐにそれ以上の恐怖が母親の顔を覆った。


「どうして戻ってきたの! 南の森へ逃げなさい!」


「母さんを置いていけない!」


「レン、今は言うことを聞いて! アイリを連れて逃げるの!」


「母さんも一緒に行くんだ!」


 レンは母の前へ駆け寄った。


 エレナは傷ついた身体を無理に起こし、息子の肩を掴んだ。その指先は弱々しく震えていたが、瞳の強さだけは失われていない。アイリは泣きながら母の身体へ抱きつき、エレナは痛みに顔を歪めながらも娘の銀白色の髪を優しく撫でた。


「二人とも、よく聞いて」


 その声には、普段叱る時とも何かを教える時とも違う響きがあった。これから先、二人が生きていくために、どうしても言葉を残さなければならない者の声だった。


「あの人たちは、ただ村を襲いに来たんじゃない。あなたたちを探している」


「俺たちを……?」


 レンは意味が分からず、母を見つめた。


「どうして俺たちを?」


「理由を説明している時間がないの。レン、これを持って」


 エレナは答えず、銀色のロケットを息子の手へ押し込んだ。


 古びた銀で作られた楕円形のロケットだった。表面にはレンが一度も見たことのない、星と炎を重ね合わせたような奇妙な紋様が刻まれている。長い年月を経たものなのか、細かな傷が無数に残されていた。それでも紋様の中央を走る一本の線だけは妙に鮮明で、炎と煙に暗く染まった室内でも僅かな光を宿しているように見えた。


 レンは震える指で蓋を開いた。中には小さな古い写真が収められ、そこには長い黒髪と青みを帯びた琥珀色の瞳を持つ、一人の少女が写っていた。レンより年上に見える少女は、穏やかで、それでいてどこか寂しげな表情を浮かべている。


 知らない顔だった。少なくとも、レンの記憶の中にはいない。それなのに少女を見た瞬間、胸の奥を強く掴まれたような感覚がした。悲しいとも懐かしいとも言い切れない。ずっと昔から知っている誰かを、自分だけが長い間忘れていたような奇妙な感覚だった。あと少し手を伸ばせば何かを思い出せそうなのに、その輪郭へ触れようとするたび、曖昧な記憶は霧の向こうへ遠ざかっていく。


「この女の子は誰?」


 レンは写真から母へ視線を移した。


 エレナは答えなかった。いや、答えようとはしたのだろう。僅かに唇が動き、その瞳に深い迷いと悲しみが浮かぶ。しかし言葉になるより先に家の外で轟音が鳴り響き、建物全体が激しく揺れた。天井から灰と燃えた木片が降り注ぎ、窓の向こうを赤い光が横切る。向かいの家が炎に包まれた。


 エレナは息子の手を両手で包み込み、ロケットの蓋を閉じさせた。


「絶対に失くさないで」


 母の指が、レンの指を強く握る。


「この子を忘れないで。たとえ誰も覚えていなくても、あなたまで忘れてはいけない」


「母さんは、この子を知ってるの?」


「いつか、あなた自身が答えを見つける。そのときまで、誰にも渡しては駄目」


「でも――」


「約束して」


 レンは母の瞳を見つめた。この少女が誰なのかも、なぜ自分が守らなければならないのかも分からない。それでも今、この約束だけは絶対に破ってはいけないと感じた。


「……約束する」


「ありがとう」


 エレナはほんの僅かに微笑んだ。


 それから床板の下から取り出したもう一つの物――細長い包みを引き寄せ、巻かれていた布を解いた。中から現れたのは、黒い刃の中央を細い銀色の線が走る一振りの剣だった。幼いレンの身体にはあまりにも大きく、まともに振るうことなど到底できそうにない。鍔にはロケットと同じ、星と炎を重ねたような紋様が刻まれていた。


 剣を見た瞬間、レンは掌の中でロケットが微かに震えたように感じ、反射的に握り直した。


「これは、あなたのお父さんのものじゃない」


 エレナは剣の柄へ手を置いた。


「私が預かっていたものよ。今は持てなくてもいい。でも、いつか必要になる」


「母さん……何を言ってるの?」


 銀のロケットに収められた知らない少女。見たことのない黒銀の剣。村を襲う武装した者たち。そして、自分たちが狙われているという母の言葉。そのすべてが一度に押し寄せ、レンの頭では理解が追いつかなかった。


 そんな息子を見つめながら、エレナは静かに言った。


「レン。アイリを守って」


 その言葉が、レンの胸へ重く沈んだ。


 これまでにも何度も言われてきた。市場へ行く時、川へ遊びに行く時、森の近くまで行く時、母はいつも「お兄ちゃんなんだから、アイリから目を離さないでね」と笑っていた。しかし今の言葉には、その頃とはまるで違う重さがあった。明日も母がいることを前提にしたお願いではない。その意味を、レンは理解してしまった。


「嫌だ」


 レンは首を横へ振った。


「そんな言い方するなよ。母さんも一緒に来るんだ」


「レンお兄ちゃんの言うとおりだよ」


 アイリも涙で濡れた顔を上げ、母の服を握った。


「三人で逃げよう。わたし、ちゃんと走れるから……」


 エレナは二人を見つめ、悲しそうに微笑んだ。その表情を見た瞬間、レンはさらに深く理解した。母は、自分がここから出られないことを知っている。


 傷は肩だけではなかった。服の脇腹も大きく裂け、その下から流れ続ける血が、既に彼女の膝の周囲まで床を赤く染めていた。ここまで身体を起こしていること自体が、無理を重ねた結果なのだと分かった。


「嫌だ……」


 レンはもう一度言った。今度は声まで震えていた。


「嫌だよ、母さん」


 その時、家の外から足音が聞こえた。


 ゆっくりとした、少しも急ぐ様子のない歩みだった。逃げる者を急いで追わなくても、どうせ逃げ切れないと知っている者のような足音が、一歩ずつ近づいてくる。


 エレナの表情が一瞬で変わった。


「二人とも、奥へ」


 彼女はレンとアイリを壁際へ押しやった。立ち上がろうとして一度膝をついたものの、それでも黒銀の剣の鞘を掴み、支えにして身体を起こす。


「裏口から出て、南の森へ走りなさい。振り返っては駄目。どんな声が聞こえても戻ってきては駄目」


「できない!」


「レン!」


 これほど強く名前を呼ばれたことはなく、母の声だけでレンの身体が震えた。


 エレナはすぐに表情を和らげ、血に濡れた手で息子の頬へ触れた。


「あなたは優しい子。だからこそ、今は逃げなければいけない」


 指先が頬をゆっくり撫でる。


「戦うことだけが、誰かを守ることじゃない。生きて。アイリの手を離さないで」


「でも……母さんが……」


「私は、あなたたちの母親になれて幸せだった」


「お母さん!」


 アイリが泣きながら母へ抱きついた。


 エレナは痛みを堪えながら娘の身体を抱き返し、その銀白色の髪へ何度も口づけた。レンはその光景を見つめることしかできない。頬にも掌にも母の血が付いていた。まだ温かいはずなのに、レンにはそれがひどく冷たいもののように感じられた。


 正面の扉が激しい音を立てて蹴り破られた。


 炎と煙の向こうから、一人の男がゆっくりと家へ入ってきた。


 鮮やかな赤い髪。黒い外套。燃え続ける家の中とは不釣り合いなほど穏やかな笑み。その手には炎を纏った剣が握られている。


 男の少し後ろには、深くフードを被った別の人物が立っていた。黒い外套に全身を包み、フードの奥は闇へ沈んでいて、顔も年齢も、男なのか女なのかさえ分からない。ただ胸元には、円環の内側へ九本の黒い刃が並んだ紋章だけが見えていた。


「やはり、ここにいたか」


 赤髪の男が静かに言った。


 その声を聞いた瞬間、エレナの顔から血の気が引いた。


 名を呼ぶことも、問い返すこともしなかった。


 ただ、男を見つめるエレナの目に浮かんだものを見て、レンにも分かった。


 母は、この男を知っている。


「久しいな、エレナ」


 赤髪の男は、燃え続ける家の中へ一歩足を踏み入れた。


 炎が彼を避けたわけではない。


 けれど、男が足を進めるたび、床を這っていた炎が僅かに形を変えた。赤い火が彼の外套へ届く寸前で揺らぎ、まるで別の場所へ道を譲るように左右へ流れていく。男自身はその異常を気に留める様子もなく、熱など存在しないかのように歩いていた。


「十年近く隠れ続けた努力には敬意を表する。だが、お前は隠す場所を間違えた。この村は小さすぎる」


 穏やかな笑みは変わらない。


「人間は秘密を守るには、互いを信じすぎる」


「この子たちには触れさせない」


 エレナは黒銀の剣を握り、子供たちを背に庇った。


「それを決めるのは、お前ではない」


 赤髪の男が握る剣の炎が揺れた。


 その瞬間、近くの壁を這っていた炎まで、呼応するように大きく波打った。


 レンは足を動かすことができなかった。つい先ほどまで木の枝を剣に見立て、自分が騎士になった姿を夢見ていた自分が、今ではあまりにも幼く思える。目の前の男へ木の枝で立ち向かう姿など、想像することさえできない。


 男の周囲では空気そのものが熱で歪んでいた。


 それだけではない。


 炎が、男の動きに合わせている。


 そう見えた。


 けれど幼いレンには、それが炎の勢いによる偶然なのか、それとも本当に男が何かをしているのか判断できなかった。ただ、人間と向かい合っているというより、火災そのものがこちらを見ているような恐怖だけが胸の奥へ残った。


 エレナが黒銀の剣を抜いた。鞘から現れた黒い刃の中央を走る銀線が、周囲の炎を受けて淡く輝く。


 それを見た赤髪の男の笑みが僅かに深くなった。


「その剣をまだ持っていたとはな」


 男の視線が剣からエレナへ戻る。


「ならば、あの都市の痕跡も、お前が抱えているのだろう」


「あの都市……?」


 レンが思わず呟く。


 エレナは答えなかった。


 ただ、赤髪の男だけを見据えている。


「あなたたちには渡さない」


「もう渡している」


 男はゆっくりと視線を動かし、レンとアイリを見た。


「自分の子供たちにな」


 意味は分からなかった。


 それでも、その視線を向けられただけで身体の奥が冷える。


 背後に立っていた外套の人物が、ほんの僅かに顔を上げた。フードの奥は依然として見えない。それなのにレンは、そこにある何かと目が合ったような気がした。


 その直後、頭の奥へ冷たい針を差し込まれたような痛みが走った。


「――っ!」


 レンの膝が折れ、視界が大きく歪んだ。


 燃える家も、母も、赤髪の男も掻き消え、その代わりに見たこともない街が現れる。


 夜空へ届きそうな巨大な白い塔が並び、その間を地上から遥か高い位置で長大な橋が繋いでいた。空には月とも星とも違う巨大な光の輪が浮かび、その淡い輝きを受けて無数の建物が青白く光っている。道には多くの人影が行き交っていたが、顔は見えず、声も聞こえない。音を失った世界の中へ、レンだけが取り残されていた。


 訪れたことのない、何一つ知らない場所のはずだった。


 それなのに胸が締めつけられるほど懐かしい。


 街の中央で、一人の少女が振り返った。


 長い黒髪。


 青みを帯びた琥珀色の瞳。


 銀のロケットに収められていた写真の少女だった。


 彼女の唇が動き、誰かの名を呼んだように見える。


 けれど、その声だけはどれほど耳を澄ませても届かなかった。


「レン!」


 母の声が世界を引き裂いた。


 視界が一気に戻り、炎と煙に満ちた崩れかけの家がレンを取り囲んだ。床へ膝をついたまま激しく息を吐く。胸元では銀のロケットが熱を持ち、内部で何かが脈打っているように感じられた。


「今の……」


 言葉を続ける暇はなかった。


 外套の人物が一歩前へ出ようとした瞬間、エレナが黒銀の剣を横薙ぎに振るう。


 銀の閃光が暗い室内を走り、赤髪の男が炎を纏った剣を上げた。二つの刃が激突すると、爆発に似た轟音が家の中へ響き渡り、衝撃で壁が震え、天井から灰と木屑が降り注いだ。


 刃と刃の間から弾けた炎が左右へ飛ぶ。


 その炎は床へ落ちた直後、無秩序に広がるのではなく、一瞬だけ男の足元へ集まるように揺れ、それから左右へ走った。


 エレナは歯を食いしばり、傷ついた身体で剣を押し込んだ。


 しかし赤髪の男は、その一撃を片手だけで受け止めていた。


「まだ、それほどの力を残していたか」


 男の声には、驚きよりも愉悦があった。


「レン!」


 エレナが叫ぶ。


「アイリを連れて逃げて!」


「母さん!」


「行きなさい!」


 黒銀の刃と炎の剣が激しく擦れ合う。


 レンの身体は母の方へ戻ろうとしていた。


 逃げたくない。


 ここに残りたい。


 母を置いていくなどできるはずがない。


 それでも同時に、先ほど告げられた言葉が耳の奥へ残っている。


 生きて。


 アイリの手を離さないで。


 レンは唇を噛み、血が滲むほど歯を食いしばった。床へ置かれていた黒銀の剣の鞘を拾う。幼い身体にはあまりにも重かったが、それでも手放さず、銀のロケットを服の中へ押し込んで、泣き続ける妹の手を強く掴んだ。


「行くぞ!」


「嫌! お母さんも一緒じゃないと嫌!」


「行くんだ、アイリ!」


「離して! お母さん! お母さん!」


 アイリは泣き叫びながら、何度も母へ手を伸ばした。


 エレナは赤髪の男の剣を受けながら、一度だけ振り返った。


 娘へ。


 そして息子へ。


 血と煤で汚れた顔に、母親としての優しい笑みを浮かべる。


「二人とも、愛しているわ」


 その言葉の直後だった。


 赤髪の男の剣を包んでいた炎が、一気に膨れ上がった。


 それとほとんど同時に、部屋の壁や床を這っていた炎まで同じ方向へ傾いた。


 視界が赤で埋まる。


 猛烈な熱風がレンとアイリの身体を背後から打ち、二人は裏口を突き破るようにして外へ投げ出された。土の上を激しく転がり、レンの腕から黒銀の剣の鞘が離れかける。それでも必死に掴み直した。耳鳴りが頭の中を満たし、世界から音だけが抜け落ちたように感じる。


 レンは震える腕で上半身を起こした。


 自分たちの家が燃えていた。


 窓から炎が吹き出し、屋根全体が赤に包まれている。黒煙が夜空へ立ち昇り、無数の火の粉が風へ散っていった。


 隣ではアイリが母の名を何度も叫んでいる。しかしレンには、その声さえ水の底から聞こえてくるように遠かった。


「母さん……!」


 レンは立ち上がり、家へ向かって足を踏み出した。


 戻らなければならない。


 母を助けなければならない。


 その思いだけで身体を前へ動かそうとした瞬間、燃えた屋根が大きな音を立てて崩れ落ちた。


 火柱が上がり、炎の向こうへ家の形が消えていく。三人で囲んだ食卓も、母が眠る部屋も、アイリと喧嘩した場所も、冬の日に三人で毛布へ包まった夜も、その中にあった。叱られたことも、笑ったことも、何でもない毎日のすべてが、目の前で一つずつ炎へ呑み込まれていく。


 レンは黒銀の剣の鞘と銀のロケットを胸へ抱えたまま動けなくなった。顔が焼けるほど熱いのに、身体の奥だけが氷を詰め込まれたように冷たい。アイリが後ろから兄の服を掴み、その場へ崩れ落ちた。


「お母さん……」


 レンには、大丈夫だとも、きっと生きているとも言えなかった。


 ただ妹の手だけを握った。


 母から最後に託された言葉を守るように。


 やがて炎の向こうで何かが動き、レンは顔を上げた。


 崩れ落ちた家の中から、二つの影が現れる。


 一人は、あの赤髪の男だった。


 まるで何事もなかったかのように燃える瓦礫の中からゆっくり歩いてくる。黒い外套の端は僅かに焦げ、口元には血が残っていたが、その足取りに乱れはない。


 その隣には、あのフードの人物がいた。


 二人の背後ではエイレン村全体が燃えていた。家々を呑み込んだ炎が夜空を赤く染め、黒煙の中を無数の火の粉が星のように舞い上がっている。遠くではまだ悲鳴が聞こえ、どこかで建物が崩れ落ちる音がした。


 赤髪の男は炎を挟んで立つ幼いレンを見つめ、その口元へ再び穏やかな笑みを浮かべた。


「見つけたぞ」


 レンは男を睨み返した。


 怖かった。


 今すぐ逃げ出したくなるほど身体は震えている。


 男が誰なのか、レンは知らない。


 なぜ母を知っていたのかも、自分たちを探していた理由も分からない。


 名前さえ知らなかった。


 それでも、この顔だけは忘れてはいけないと思った。


 赤髪の男は燃え盛る炎の向こうで、ゆっくりと言葉を続けた。


「星脈の子供」


 その言葉の意味を、レンは知らなかった。


 なぜ自分がそう呼ばれたのか。


 母が何を隠していたのか。


 銀のロケットに収められた少女が誰なのか。


 先ほど見えた見知らぬ街が何なのか。


 何一つ分からない。


 それでも、この夜に心へ刻み込まれたものだけはあった。


 母を炎の向こうへ残すことになった、名前も知らない赤髪の男の顔。


 故郷を呑み込んだ炎の色。


 風に逆らい、意思を持つように進んでいた炎の動き。


 そして胸元で微かに震え続ける、銀色のロケットの感触。


 炎が消え、村が灰になり、どれほど長い年月が過ぎても、この夜だけは決して忘れない。


 やがてエイレンを焼く炎は夜空を覆い、その赤い光の中で、少年と少女が知っていた世界は静かに終わった。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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― 新着の感想 ―
もう序盤から悲劇的で、しかもこんなに幼い頃に……。二人とも本当にかわいそうです。
感想一覧
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