第一章 第十話 火のそばの約束
岩棚の奥で生まれた小さな焚き火は、二人が拾い集めた細枝をゆっくりと呑み込みながら、頼りない橙色の光を揺らしていた。まだ太い薪を勢いよく燃やせるほど火は育っていない。それでも、夜の森から岩棚へ忍び込んでくる冷気を押し返し、血と泥と湿気を吸った服へ少しずつ熱を戻してくれている。レンは岩壁へ背を預け、傷ついた右脚を前へ伸ばして座っていた。左腕にはアイリが何重にも巻いた布があり、その内側では狼の牙に穿たれた傷が脈を打つたび熱を帯びて疼く。裂けた長靴の下にも噛み傷があり、脇腹や胸元の服には爪と牙によって裂かれた跡が残っていた。向かい側のアイリも決して軽傷ではない。痛めた右肩は、回収した灰色の外套から切り取った布を使って胸元へ寄せるように固定され、左の脹脛には包帯が巻かれている。頬には細い傷が走り、黒いドレスの脇腹にも爪で裂かれた痕が残っていた。
戦っている最中には、痛みを感じている余裕などなかった。止まれば噛まれる。倒れれば死ぬ。目の前の牙を避け、次に何をするべきか考え、互いがどこにいるのかだけを確かめ続けていた。その緊張が途切れた今になって、身体はようやく自分たちがどれほど傷ついているのかを思い出したらしい。焚き火の熱が頬へ届いているにもかかわらず、指先には冷たさが残り、ほんの少し力を抜けば全身の震えが表へ出てしまいそうだった。
火の向こうで、アイリが自分の両手を見つめていた。岩棚の近くを流れる細い水で何度か洗ったが、それでも爪の間には乾いた赤黒い汚れが残り、指の皺にも狼の血が入り込んでいる。短剣を握り続けた掌は赤く擦れ、指を曲げるたび皮膚が引きつった。少し離れたところには、その短剣がまだ鞘へ戻されず置かれている。刃についた血そのものは拭い取ったものの、鍔の隙間には落とし切れなかった赤が残っていた。
「手、まだ震えてるか?」
レンが尋ねると、アイリは自分の両手をゆっくり握った。
「……少し」
「寒いなら、もっと火の近くへ来い」
「寒いのもあるけど……それだけじゃない」
アイリの声は小さかった。薪の爆ぜる音や、岩棚の外から聞こえてくる夜の虫の声へ紛れれば、聞き逃してしまいそうなほどだった。レンは何も言わず、その続きを待った。
しばらく炎を見つめていたアイリは、やがてもう一度、自分の手へ視線を落とした。
「目を閉じると、まだ思い出すの。狼がわたしの上に乗ってて、短剣が刺さってるのに、それでも動いてて……もっと押さなきゃって思った。止まってくれないと、お兄ちゃんのところへ行けないって」
右肩を固定している布の上から、左手で自分の腕を掴む。
「それで、止まったとき……安心した」
レンは黙ったまま妹の言葉を聞いていた。
「それが一番怖いのかもしれない。殺したことも怖い。でも、動かなくなったのを見たとき、よかったって思った自分も怖い。助かったって思った。これでお兄ちゃんのところへ行けるって」
アイリが狼を殺した直後に震えていたことを、レンは覚えている。しかし、あの時はまだ戦いが終わっていなかった。自分が何をしたのか理解し始めても、それを受け止める余裕などなかったのだ。生き延びるためには立たなければならず、次の牙から逃れなければならなかった。
今になって初めて、その先の感情が追いついてきたのだろう。
「俺も同じだ」
レンはそう言いながら、焚き火へ細い枝を一本加えた。炎が僅かに高くなり、兄妹の間を照らす。
「何が?」
「狼が逃げ始めた時、最初に思ったのは安心だった。これでアイリが殺されないって。それより前だってそうだ。木剣で狼を倒した時も、黒銀の剣で斬った時も、その場じゃ相手のことなんて考えられなかった。次に何をすれば俺たちが生き残れるか、それしか頭になかった」
「……怖くなかった?」
「怖かった」
レンは右手を開いた。掌には木剣と黒銀の剣を握り続けた跡が残っている。鉄芯入りの木剣を狼へ叩き込んだ時の衝撃も、最後に黒灰色の大狼へ刃を走らせた時の抵抗も、まだ手の奥に残っているような気がした。それ以上に忘れられないのは、戦いが終わったあと、動けなくなった一頭の前へ自分から歩いていった時の感触だった。
「戦ってる間は、怖がる順番が来なかっただけだ」
「順番?」
「ああ。避ける。斬る。立つ。アイリを見る。それで頭がいっぱいだった。怖いとか、気持ち悪いとか、そういうのは全部あとから来た」
アイリが焚き火越しに兄を見る。
「わたしも……そうだったのかな」
「たぶんな」
「じゃあ、安心したことも?」
「安心していいだろ」
「でも、殺したのに」
「殺してよかったとは思わなくていい」
レンはそこで少し言葉を探した。
「俺だってよかったとは思わない。でも、あの時アイリが何もしなかったら、お前が死んでた。俺も死んでたかもしれない。俺は狼が死ぬことと、アイリが死ぬことを同じには考えられない。アイリには生きててほしい」
それは正しさについての答えではなかった。
ただ、レン自身が選ぶ答えだった。
アイリは唇を結び、火の中へ目を落とした。
「狼にも、仲間がいたよね」
「ああ」
「傷ついた狼の近くへ動いてたのもいたし、大きい狼が動いたあとに位置を変えてた。あれって……守ってたのかな」
「そう見えた場面はあった」
「じゃあ、向こうから見たら、わたしたちが悪いものだったのかもしれないね」
レンはすぐには答えなかった。狼たちが何を考えていたのかなど分からない。空腹だったのか、縄張りを守っていたのか、それとも兄妹を獲物としか見ていなかったのか。異様なほど統率された動きにも何らかの理由があったのかもしれないが、確かめる術はなかった。
「分からない」
やがてレンはそう答えた。
「俺たちには俺たちの理由があった。向こうにも何かあったのかもしれない。でも、あの場で話し合うことはできなかった」
「外の世界って、ずっとあんな感じなのかな」
「だったら誰も旅なんかしないだろ」
「まだラウナを出て一日目だよ?」
「初日が最悪だっただけだ」
「お兄ちゃんと旅すると、毎日初日みたいになったりして」
「俺のせいにするな」
「森に入って半日もしないうちに荷車が二台とも壊れて、御者さんが死んで、狼に囲まれてるんだよ?」
「俺が狼を呼んだみたいに言うな」
「でも薬草を見て気を取られてたのはわたしだから、半分ずつ?」
「何の責任を分けてるんだ」
アイリの口元へ、小さな笑みが浮かんだ。笑ったことで頬の傷が引きつったらしく、すぐに顔をしかめたものの、その表情を見たレンも僅かに肩の力を抜いた。
レンは背嚢を手元へ引き寄せた。狼に引き裂かれた肩紐は応急処置で結び直してある。その中から、ミアが持たせてくれたパンを取り出す。戦いの間に何度も地面へ転がったせいで形は潰れていたが、包みの内側までは血も泥も入り込んでいない。
レンは右手だけで包みを開き、パンを二つに裂こうとした。左手をまともに使えないせいで、見事に片方が大きくなった。
「大きい方、アイリ」
「お兄ちゃんが食べて」
「俺はいい」
「駄目」
「腹減ってない」
「朝からほとんど食べてないでしょ」
「アイリもだろ」
「だから半分ずつ」
二人はしばらく潰れたパンを挟んで押し問答を続けた末、アイリが大きい方から少しだけ千切り、もう片方へ乗せた。
「これで同じくらい」
「まだ俺の方が大きい」
「身体が大きいから、それくらいは食べて」
「最初からそう言え」
「最初からお兄ちゃんが素直に食べればいいの」
乳酪と香草が入った柔らかなパンだった。ラウナで食べていたなら、焼けた小麦の香りも塩気もよく分かっただろう。しかし今は口の中にまだ鉄のような味が残り、身体も疲れ切っているせいか、噛んでもほとんど味がしない。
それでも一口ずつ食べた。飲み込んで、水を飲み、また一口齧る。そんな当たり前の動作ができることそのものが、ひどく遠い出来事のように感じられた。
「ミアに怒られそう」
アイリが呟く。
「何で」
「せっかく作ってくれたのに、味がよく分からない」
「帰ったらまた作ってもらえばいい」
「今度は血のついてないパンがいい」
「当たり前だ」
「甘いやつも」
「王都に行くんだから、帰る頃には菓子に飽きてるかもしれないぞ」
「それとミアのパンは別」
食べ終えたアイリは包み紙を捨てず、丁寧に畳んで背嚢の小袋へしまった。レンは何も言わなかった。
ラウナから持ってきたものは、今朝までは単なる旅支度だった。パンも、包み紙も、木剣も、薬袋も。それがわずか一日で、帰る場所が本当に存在しているのだと確かめるためのものへ変わったような気がした。
◇
食事を終えると、アイリはレンの左腕へ視線を向けた。
「もう一回見る」
「さっき巻いたばかりだろ」
「さっきより腫れてるかもしれない」
「暗いぞ」
「火の近くなら見える」
反論しても無駄だと分かり、レンは左腕を差し出した。
アイリは包帯へ少量の水を含ませ、傷へ貼りついた部分をゆっくりと剥がしていった。乾き始めた布が動くたび、牙の跡から鈍い痛みが腕の奥へ走る。
「痛い?」
「少し」
アイリが手を止めた。
「本当に?」
「……かなり」
「最初から言って」
「言ったら手加減するだろ」
「するよ。傷を増やさないために」
「なるほど」
「感心しないで」
布が外れる。牙が入った箇所は赤く腫れ、深い部分にはまだ血が滲んでいた。アイリは傷へ顔を近づけ過ぎないよう注意しながら周囲を確認し、それからレンの指先へ視線を移した。
「薬指と小指、動かして」
レンはゆっくりと曲げた。
鈍い。
それでも動く。
「感覚は?」
「ある。弱いけど」
「今より急に指が動かなくなったり、変な色になったり、熱が出たりしたらすぐ言って」
「分かった」
「骨が見えるような傷じゃないけど、深いのは変わらないから。中まで本当に大丈夫なのかは、わたしには分からない」
その言葉は弱さではなく、アイリなりの慎重さだった。分からないことを分かったふりはしない。
水と洗浄液で傷の周囲をもう一度清め、持ってきた薬草を当て、新しい布を巻く。セラから学んだ手順を一つずつ思い出しながら作業する横顔は真剣だった。
「夜中にもう一度確認するね」
「その前に寝ろ」
「交代で見張るんでしょ?」
「ああ。最初は俺がやる」
「お兄ちゃんの方が血を出してるのに?」
「アイリもかなり消耗してる。眩暈や吐き気が出ないかは気をつけた方がいいけど、眠れる時に休んだ方がいい」
「じゃあ最初は二人とも起きてる?」
「交代の意味がないだろ」
アイリは包帯の端を結びながら、じっと兄の顔を見た。
「お兄ちゃん、最初の見張りって言って、そのまま朝まで起きてるつもりじゃないよね」
「時間になったら起こす」
「本当に?」
「ああ」
「絶対?」
「……ああ」
返事をしたレンを、アイリはまだ疑うように見つめていた。
「今日だって、わたしを黒銀の剣のところへ行かせて、自分だけ残った」
「あれは必要だった」
「必要かどうかの話じゃないよ」
「じゃあ何だ」
アイリの手が止まった。
「お兄ちゃん、自分が死ぬかもしれないことを、簡単に決めすぎる」
レンは何も言わなかった。
「剣を取りに行く前、お兄ちゃんは言ったよね。わたしが戻るまで立ってるって。わたし、それを信じて走った。でも……お兄ちゃんは、本当に自分が絶対に生きてると思ってた?」
答えられなかった。
あの時、レンが考えていたのは可能性だけだった。黒銀の剣を取り戻さなければ状況を変えられない。ならばアイリを走らせ、自分は残る。仮に自分が倒れても、彼女が剣を手にできれば生き残れる可能性は上がる。それはレンにとって合理的な選択だった。
だが、その合理性の中には、自分自身が生き残ることが最初から同じ重さでは置かれていなかった。
レンの沈黙を見て、アイリが小さく息を吐いた。
「やっぱり」
「二人とも死ぬよりは――」
「またそれ?」
普段より強い声だった。アイリの青い瞳に溜まっていたものが頬へ落ちる。
「十年前、お母さんも残った」
レンの胸が強く締めつけられた。
「自分が残れば、わたしたちが逃げられるって思ったんだと思う。あの時のお母さんが間違ってたなんて、わたしには言えない。本当に、それしかなかったのかもしれない」
アイリは涙を拭わず、そのまま続けた。
「でも、わたしはもう嫌なの。誰かがわたしを守るって言って、一人で後ろに残って、わたしだけ逃げるの」
「俺は母さんとは――」
「同じじゃない。でも、同じことをしようとしてる」
その言葉に、レンは口を閉ざした。
「お兄ちゃんは、わたしを守ることばっかり考えてる。でも、お兄ちゃんがいなくなったあとのわたしは?」
「……ラウナへ戻れば」
「一人で?」
答えられない。
「もし今日、お兄ちゃんが死んでたら、わたしはあそこにお兄ちゃんを置いて、一人で戻るの? ハインさんとマルタさんと、フィンとミアとセラ先生に、お兄ちゃんはわたしを守って死んだって言えばいいの?」
「アイリ」
「それで、守ってもらえてよかったって思えばいい?」
「そんなことは――」
「できないよ」
アイリの声が震えた。
「お母さんがいなくなって、お兄ちゃんまでいなくなって、それでわたしだけ生きても……わたし、自分が守られたなんて思えない」
レンは火の向こうにいる妹を見つめた。
十年前の森。焼けた故郷から逃げたあと。泣き疲れたアイリが、兄までいなくなったらどうすればいいのかと尋ねた夜。あの時、自分は絶対にいなくならないと言った。
なのに今日、レンはその約束よりも、アイリの命だけを優先しようとしていた。
彼女さえ生き残ればいい。
自分がどうなっても。
それこそが守ることなのだと、どこかで思い続けていた。
「……ごめん」
自然に言葉が出た。
アイリが僅かに目を見開く。
「俺は、アイリが生きることだけ考えてた。その後まで考えてなかった」
「うん」
「でも……あの状況で別の方法があったかって言われたら、今でも分からない」
「それは、わたしも分かってる」
「次にアイリが死にそうになった時、絶対に同じことをしないとも言えない。考える前に身体が動くかもしれない」
「わたしだって同じだよ」
そこでレンは、初めて少し考えた。
守るなという約束はできない。互いに危険へ飛び込むなという約束も、きっと守れない。
ならば、約束するものを変えるしかない。
「最初から、一人を捨てる形にしない」
「……うん?」
「危なくなったら、まず二人とも生きる方法を探す」
アイリが顔を上げる。
「俺だけが残ればいいとか、アイリだけ逃がせばいいとか、最初からそう考えない。どうすれば二人で抜けられるかを先に探す」
「それでも、本当に一人しか助からなかったら?」
「その時は……勝手に決めない」
「戦ってる最中に相談するの?」
「できる時はする」
「できない時は?」
レンは少し迷った。
「相手も、自分を助けようとしてることを忘れない」
「どういう意味?」
「俺が勝手に自分を捨てたら、アイリは俺を助けようとして無茶するだろ」
「する」
「即答か」
「するよ」
「なら、俺が自分一人を犠牲にすれば全部終わるって考えること自体が間違ってる。アイリも同じだ。お前が自分を捨てたら、俺は絶対に助けに行く」
「……うん」
アイリはしばらく黙ったあと、火のそばへ置かれていたレンの右手へ自分の左手を重ねた。
「最後まで、二人で生きる方法を探す」
「ああ」
「勝手に置いていかない」
「ああ」
「お兄ちゃんだけが盾にならない」
「アイリもな」
「分かった」
少しだけ沈黙が落ちる。
薪が小さく爆ぜた。
「それから怪我したら隠さない」
「急に増えたな」
「大事だから」
「アイリもだぞ」
「うん。それから、ご飯をちゃんと食べる」
「それも約束なのか?」
「お兄ちゃん、すぐ『腹減ってない』って言うから」
「本当に減ってない時もある」
「干し林檎は?」
「食べる」
「明日三枚」
「二枚」
「二枚半」
「半分をどう保管するんだ」
「お兄ちゃんが食べればいい」
「結局俺が食べるのか」
アイリが笑った。
今度は笑ったあと、自分で涙を拭った。
レンも重ねられたその手を振り払わなかった。
◇
少し時間が経つと、焚き火の勢いが弱くなった。レンが薪へ手を伸ばしかけたが、右脚を動かした瞬間に顔をしかめたのをアイリは見逃さなかった。
「動かないで」
「薪が足りない」
「わたしが取る」
「脚を怪我してるだろ」
「お兄ちゃんも」
「俺の方が――」
「さっき立つ時、膝が崩れたよね」
何も言えなくなった。
アイリは左脚を中心にゆっくり立ち上がり、岩棚の端へまとめてある薪まで数歩だけ移動した。右肩は固定されているため動きは不自由だったが、無理に抱え込もうとはせず、二本だけ持って戻ってくる。
「全部持ってくる必要はないからな」
「二本しか持ってないよ」
「転ぶかもしれない」
「お兄ちゃん、本当に心配性だね」
「今さらか」
薪を足すと、炎が少しだけ明るさを取り戻した。その光がレンの胸元から覗いていた銀の鎖へ反射する。
「ロケット、大丈夫?」
アイリに言われ、レンは服の内側から銀のロケットを取り出した。表面には泥がついていたが、歪んでも割れてもいない。
蓋を開く。
中に収められているのは、小さな古い写真。
長い黒髪と、青みを帯びた琥珀色の瞳を持つ、レンより年上に見える名前も知らない少女。十年前と何一つ変わらない表情で、写真の中からこちらを見つめている。
「壊れてない」
「よかった」
アイリは少し安堵したあと、岩壁へ立て掛けてある黒銀の剣へ視線を移した。
「剣も、あれだけ使ったのに平気そうだね」
「ああ」
レンは鞘から数センチだけ刃を抜いた。火の光を受け、黒い刀身の中央を走る銀色の線が静かに浮かぶ。狼の骨や牙と何度もぶつかり、最後には黒灰色の大狼へ深く斬り込んだ。それでも目立った刃こぼれはほとんど見当たらなかった。
「普通の剣じゃないのは、やっぱり間違いなさそうだな」
「お母さん、どこで手に入れたんだろう」
「分からない」
鞘へ戻す。
剣はそれ以上、何の反応も示さなかった。
ロケットも同じだった。
掌にあるのは、ただ冷たい銀の感触だけだ。
「昨日の箱も、この剣やロケットと似た印だったよね」
アイリが言う。
「ああ。似てた」
「箱の封印には、別の印もあった」
「九本の刃みたいなやつだな」
十年前、エイレンを襲った者たち。
炎を纏った剣を持つ赤髪の男。
顔を隠したもう一人の人物。
あの夜に見たものとよく似た、九本の刃。
母が残した剣とロケット。
北で発見されたという遺跡。
ラウナへ運ばれてきた不自然な箱。
そして箱に刻まれていた、意味の分からない一文。
旅立ってまだ一日も経っていない。それなのに十年前の夜は遠ざかるどころか、そこへ繋がっているかもしれないものが次々と増え始めている。
「誰か、わたしたちが旅に出るって知ってたのかな」
「分からない」
「狼も?」
レンが顔を上げる。
「狼?」
「誰かが使ったとか」
「……可能性の話か」
「うん」
アイリは膝を抱えようとしたが、右肩へ響いたらしく途中でやめた。
「昨日、あの箱に変な言葉が増えた。それで今日、村を出てすぐ狼に襲われた。あの狼たち、普通よりずっと変だったし……もしかしたら、誰かがわたしたちを見てるのかなって」
レンも戦いを思い返した。狼たちは確かに異様なほど連携していた。陽動を使うように見える動きもあり、負傷した個体が下がれば別の個体が前へ出た。黒灰色の大狼が動いた直後に配置を変える場面も何度もあった。
だが、それだけだ。
誰かに操られていた証拠はない。魔法の印も、首輪も、明確な異常も確認していない。
「不自然だったとは思う」
レンは言った。
「でも、それが誰かの仕業かどうかは別だ。昨日の箱と今日の狼を繋ぐものもない」
「偶然かもしれない?」
「ああ」
「偶然じゃないかもしれない?」
「それもある」
「全然安心できない答え」
「分からないのに決めつける方が危ない」
アイリは少し考えてから頷いた。
「そうだね」
「次に同じくらい妙なことが起きたら、その時はもっとよく見る」
「次がない方がいいよ」
「それは俺もそう思う」
レンは暗い森へ一度だけ目を向けた。焚き火の光が届くのは岩棚から僅かな範囲だけで、その先は何も見えない。
もし本当に誰かが見ているとしても、今の二人には確かめる術がない。
だからこそ、分からないものへ勝手に答えを与えるべきではなかった。
◇
夜が深くなるにつれて、冷気はさらに強くなった。
アイリの身体が小さく震えていることに気づき、レンは自分の毛布を少し広げた。
「寒いか?」
「ちょっとだけ」
「熱は?」
「ないと思う」
レンは右手の甲をアイリの額へ当てた。焚き火の近くにいたせいで温かいが、異常に熱いというほどではない。
「頭痛は?」
「少し」
「吐き気」
「ない」
「眩暈」
「立つと少しある」
「今日は何度か起こす」
「お兄ちゃんも起きるんだよ」
「分かってる」
二人は同じ岩壁へ背を預けた。毛布を重ねると、肩が触れる。
幼い頃は悪夢を見た夜に同じ寝台で眠ることもあった。エイレンを失った直後など、互いの姿が見えなくなるだけで不安になり、夜中に何度も名前を呼んだ。
成長してからは別々の部屋で眠ることが当たり前になった。
それでもこうして冷たい岩壁を背にしながら森の夜を二人で越えようとしていると、十年前の沢辺で過ごした夜が不意に近く感じられた。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「あの赤髪の男を見つけたら、どうする?」
レンの視線が僅かに止まった。
話題が変わったようでいて、きっと繋がっているのだろう。
今日、自分たちは生きるために命を奪った。
では、何年も正体を追い続けているあの男へ剣を向ける時、それは何のためなのか。
「分からない」
レンは正直に答えた。
「殺したいって思ったことは?」
「ある」
「……わたしも」
アイリは炎を見つめていた。
「お母さんのことを思い出すと、あの人も全部失えばいいって思う時がある。わたしたちと同じくらい苦しめばいいって。でも、そう思ってる自分が怖くなる」
「アイリだけじゃない」
「お兄ちゃんも?」
「ああ」
あの赤髪の男が炎を纏った剣を振るった瞬間を、レンは忘れていない。
母の身体。
血。
炎。
もし再びあの男を目の前にした時、長い年月の中で積み重ねてきた怒りを自分が抑えられるのか、レン自身にも分からなかった。
「復讐したら、お母さんは喜ぶかな」
「分からない」
それしか言えなかった。
「母さんは俺たちに生きろって言った。あの赤髪の男を殺せとは言わなかった」
「じゃあ、殺さない?」
「それも今は決められない」
アイリは黙って続きを待った。
「まず見つける」
レンは言った。
「あの赤髪の男を見つけて、何でエイレンを焼いたのか聞く。俺たちをどうしようとしてたのかも、あの剣やロケットを何で知ってたのかも。知れることを全部知る」
「それから?」
「それから決める」
「一人で?」
すぐに問われ、レンは少しだけ苦笑した。
「……二人で」
「うん」
「アイリにも関係あるからな」
「当たり前」
満足したように言ったあと、アイリは頭をレンの右肩へ預けた。狼に噛まれた左腕側ではない。レンも身体を僅かに調整し、その重さを受け入れた。
「十年前、お兄ちゃん、強くなるって言ったよね」
「ああ」
「今日、強かったよ」
「何度も噛まれたけどな」
「それでも助けてくれた」
「アイリも俺を助けた」
「じゃあ二人とも強くなった?」
「まだ足りない」
「お兄ちゃんらしい」
「本当に強かったら、ここまで傷だらけになってない」
アイリは少し考えた。
「でも、強いって、怪我をしないことだけじゃないと思う」
「じゃあ何だ」
「怖くても動けることとか。痛くても誰かを助けられることとか」
「それなら今日は二人とも合格だな」
「あと、助けてもらえること」
レンは眉を寄せた。
「助けてもらうのも強さなのか?」
「たぶん」
「ずいぶん都合がいいな」
「お兄ちゃんには必要でしょ」
「どういう意味だ」
「一人で何でもできる人が一番強いって思ってそうだから」
「違うのか」
「できないことをちゃんと認めて、誰かに任せられるのも強いと思う」
レンは返事をしなかった。
最後の一つは、今日一日を通して何度も突きつけられたことだった。
アイリに傷を見せること。
背中を任せること。
黒銀の剣を取りに行かせること。
最後の一撃を一人ではなく、二人で終わらせたこと。
「セラみたいなこと言うな」
「弟子だから」
「まだ先生じゃないぞ」
「帰ったら、森で見つけた薬草を持っていって褒めてもらう」
「分からない草を持ち帰るな」
「ちゃんと見分けるよ」
「今朝も知らない草に近づいてただろ」
「触ってないもん」
アイリの声が少しずつ弱くなっていく。疲労も痛みも、とうに限界へ近づいている。
「眠っていい」
「見張りは?」
「最初は俺がする」
「ちゃんと起こしてね」
「ああ」
「絶対?」
レンは一瞬だけ言葉を止めた。
昼間に交わした約束。
そして火のそばで交わしたばかりの、新しい約束。
「絶対に」
「狼が戻っても、一人で戦わない?」
「起こす」
「わたしだけ逃げろって言わない?」
「言わない」
「干し林檎、明日三枚くれる?」
「それは二枚」
「二枚半」
「眠れ」
アイリが小さく笑い、やがて目を閉じる。
数分もしないうちに呼吸がゆっくりと整い始めた。しかし完全に眠りへ落ちる直前、左手がレンの右手を探すように僅かに動いた。
「……手、離さないでね」
十年前と同じ言葉だった。
レンはその指を包んだ。
「離さない」
アイリの身体から力が抜け、頭が兄の肩へ少し深く預けられる。それでも指だけは、眠ったあともレンの手を握ったままだった。
レンはしばらく妹の寝顔を見たあと、胸元のロケットへ触れた。鎖を静かに引き出し、蓋を開く。
古い写真の中で、黒髪の少女が変わらない表情をしていた。
青みを帯びた琥珀色の瞳。
十年前、母が最後まで手放さず、そしてレンへ託した少女。
誰なのかは、今も分からない。
なぜエレナが「忘れるな」と言ったのかも。
どうして写真を見るたび、名前のない懐かしさのようなものを覚えるのかも。
「……あなたは、誰なんだ」
答えはない。
ロケットは冷たいままだった。
レンは静かに蓋を閉じ、胸元へ戻した。
岩棚の外には深い夜が広がっている。ときおり遠くで獣の鳴き声が響き、枝が風に擦れる。左腕と右脚は脈を打つように痛み、瞼も重かった。
それでも今は、隣にアイリがいる。
握った手の温度がある。
母から受け継いだ「守る」という言葉を、今日までレンはずっと、一人で背負うものだと思っていた。
けれど、たぶん違う。
守るだけでは足りない。
守らせることも。
支えられることも。
生き残ることも。
全部、同じ約束の中にある。
レンは眠る妹の手を、ほんの少しだけ握り直した。
「二人で、生きるんだ」
その声は、静かな夜の森へ溶けていった。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!




