第一章 第十一話 兄妹の森歩き
夜明け前の森には、ラウナで迎える朝とはまるで違う静けさがあった。鶏の声も、井戸へ向かう足音も、パンを焼く匂いもない。岩棚の外では、夜露を抱いた葉から雫が落ちる音と、暗い木々の向こうを流れる細い水の気配、それから夜が明けるのを待ちきれなくなった鳥が、ときおり一声だけ鳴くのが聞こえていた。昨夜の焚き火はほとんど灰へ変わり、その奥で炭がかすかに赤く残っている。レンは岩壁へ背を預けたまま、薄明るくなり始めた森へ視線を上げた。最初に確かめたのは右手の感触だった。昨夜、アイリが眠りへ落ちる直前に探るように伸ばしてきた左手を、レンは今も右手で包んでいる。彼女はレンの右肩へ頭を預け、毛布と、戦いのあとに回収した傷だらけの灰色の外套に包まれながら静かな寝息を立てていた。顔色は昨夜よりいくらか戻っているものの、頬には細い傷が残り、銀白色の髪には洗い落とせなかった血と小さな葉が絡んでいる。
交代の時間には必ず起こす。
レンはそう約束した。
それなのに、起こさなかった。
夜の途中、アイリの呼吸が深くなり、痛みで強張っていた顔から少しだけ力が抜けたのを見ているうちに、もう少し眠らせてやってもいいのではないかと思った。自分があと少し起きていれば済む。危険が来たら、その時に起こせばいい。そう考えているうちに交代の時間は過ぎ、次の区切りも過ぎた。何度か瞼が落ちかけ、そのたびに冷えた水を口へ含んだり、残った火種を確かめたりして眠気を追い払った。それでもレンは、最後までアイリを起こさなかった。
昨夜あれほど話した直後に。
勝手に相手のためを決めないと約束した、ほんの数時間後に。
レンは眠る妹の横顔を見ながら、それを理解していた。それでも、起こせなかった。
「……お兄ちゃん」
眠っていると思っていたアイリの声が、肩のすぐ横から聞こえた。
「起きたのか」
「今」
まだ眠気の残る声だった。けれど次の問いだけは妙にはっきりしていた。
「わたし、何時に見張りした?」
レンは答えず、右手をそっと抜いてから灰の中へ細い枝を差し込んだ。残った火種へ静かに息を送り込むと、赤い炭の端から小さな炎が立ち上がる。
「お兄ちゃん」
「まだ早い。もう少し寝てても――」
「何時に起こしたの?」
逃げられないらしい。
「……起こしてない」
アイリがゆっくり顔を上げた。
怒鳴られはしなかった。
ただ、青い瞳でじっと見られた。
それが妙に痛かった。
「絶対に起こすって言ったよね」
「ああ」
「狼が戻ってきても一人で戦わないって言ったよね」
「ああ」
「それで?」
レンは息を吐いた。
「眠ってる顔を見たら、起こすのがもったいなくなった」
「何それ」
「あれだけ消耗してたから、もう少し寝かせた方がいいと思った」
「誰が?」
「俺が」
「だから、それを勝手に決めないって昨日話したんでしょ」
言われた瞬間、レンは返す言葉を失った。
アイリは痛む右肩を庇いながら身体を起こした。灰色の外套が肩からずれ、その下には右腕を胸元へ寄せて固定している布が見える。寝ている間に筋肉が固まったのか、身体を起こし切るまで何度か小さく息を止めていた。
「わたしを休ませたかった?」
「ああ」
「心配だった?」
「ああ」
「それは嬉しいよ。でも、お兄ちゃんがその分ずっと起きてたら、二人で生きるための約束になってない」
「……分かってる」
「本当に?」
「今はな」
アイリが眉を寄せる。
「今は?」
「夜中は、自分に都合よく考えてた。俺が一晩くらい起きてても問題ないって」
「問題あるよ。顔、ひどいもん」
「元からだ」
「目の下、すごいよ」
「森の影だ」
「まだ朝日も入ってきてないのに?」
レンは黙った。
アイリは小さく溜め息をつき、今度は兄の左腕へ視線を落とした。昨夜巻き直した布には新しい血が大きく広がってはいない。それでも腕全体の腫れは残り、見た目だけでもまだまともに使える状態ではなかった。
「見せて」
「起きたばかりだろ」
「だから見るの」
「自分の肩は?」
「あとで。まずお兄ちゃん」
「順番を勝手に決めるなって言ったのは誰だ」
「怪我の手当てと見張りは別です」
「便利な理屈だな」
「今は手当てする側の言うことを聞いて」
聞き覚えのある言い方だった。
レンは諦めて左腕を差し出した。
アイリは布へ少量の水を染み込ませ、傷へ張りついた部分を無理に引かないようゆっくり剥がしていく。牙が深く入った箇所はまだ赤く腫れ、触れられなくても内部に熱がこもっているのが分かるほどだった。アイリは傷を覗き込み過ぎず、昨夜と同じように、まず指先の状態から確かめた。
「薬指と小指」
レンがゆっくり動かす。
昨夜と同じように反応は鈍い。
それでも完全に動かないわけではない。
「痺れは?」
「ある」
「強くなった?」
「たぶん同じくらい」
「たぶんじゃなくて」
「同じだと思う」
アイリは頷いた。
「腫れもまだひどいし、傷も深い。中がどうなってるかは分からないから、今日は絶対にこの腕を当てにしないで」
「絶対は無理だな」
「何で」
「何かに襲われたら右手だけで全部受けられるとは限らない」
「じゃあ、左腕を使わないと死ぬ時だけ」
「条件が重いな」
「死ぬよりいいでしょ」
「それはそうだ」
水と洗浄液で傷の周囲をもう一度清め、薬草を替えて、新しい布を巻いていく。アイリの動きはまだぎこちないが、昨夜より迷いが少なかった。セラから習ったことを一つずつ思い出し、それ以上のことは分かったふりをしない。
処置が終わると、今度はレンがアイリの傷を確認した。
左の脹脛は歩けば傷口が引かれるものの、出血は止まっている。頬や脇腹の爪痕も浅い。右肩はまだ大きく動かせず、少し位置を変えただけでも顔が強張った。
「今日は休むか」
「ここで?」
「昨日よりは守りやすい」
「でも、狼を倒した場所からそんなに離れてないよ。血の匂いで別の獣が寄ってくるかもしれない」
「歩いたら肩と脚に負担が掛かる」
「お兄ちゃんも腕と脚を怪我してるのに歩く気でしょ」
「俺は――」
「訓練で怪我には慣れてる?」
先回りされた。
「……そう言おうと思った」
「狼に噛まれる訓練なんてしてないよね」
「してたらガルドさんを疑う」
「じゃあ同じ」
どちらも相手を休ませたい。
そして、どちらも自分を理由に足を止める気はあまりない。
その矛盾に二人とも気づいたらしく、しばらく睨み合ったあと、今度はレンの方が先に息を吐いた。
「少し進む」
「うん」
「森を抜けることは考えない。もっと安全に休める場所を探す。水場から離れすぎず、後ろを守れるところ」
「今日は昨日より早く止まる」
「ああ」
「どっちかが痛みで歩けなくなりそうなら止まる」
「ああ」
「痛いのに『平気』は禁止」
「アイリもな」
「約束」
差し出された左手を見る。
昨夜と同じ言葉が脳裏へ浮かんだ。
レンはその手を右手で軽く握った。
「今度は守る」
「今度は、って言った」
「ああ。昨日は破った」
アイリが少し驚いた顔をした。
レンは目を逸らさなかった。
「休ませたかった。それは本当だ。でも、そのために俺が勝手に決めた。昨日、あれだけ話したのに」
「……うん」
「悪かった」
アイリの表情から少しだけ硬さが抜けた。
「ちゃんと分かってるなら許してあげる」
「ありがたい」
「ただし罰があります」
「何でだ」
「干し林檎三枚」
「二枚半だろ」
「約束を破った分、増えたの」
「昨日の契約に後から条件を足すな」
「じゃあ二枚半」
「戻ったな」
「反省してる人には優しくします」
「偉そうだな」
ようやくアイリが笑った。
その笑顔を見て、レンも少しだけ肩の力を抜いた。
◇
朝食は、昨夜よりは少しまともなものになった。
残った火で水を温め、乾燥豆と砕いた硬パンを煮る。そこへ香草を少し加えたものの、鍋の中には茶色がかった薄い粥しかできなかった。
レンが一口食べた。
黙る。
向かいでアイリも一口食べた。
やはり黙った。
「どう?」
先に尋ねたのはアイリだった。
「食べ物ではある」
「おいしいか聞いたの」
「豆の味がする」
「豆がほとんどだからね」
「身体には良さそうだ」
「それ、おいしくない時に言うやつ」
アイリは薬袋とは別の小袋から食用の乾燥香草を追加し、さらに干し肉を細く裂いて鍋へ落とした。
「昼の分じゃないのか」
「このまま食べたら旅への希望までなくなる」
「食料は大事にするんじゃなかったのか」
「お兄ちゃんが全部食べてくれるなら肉は戻すよ」
「入れたままでいい」
「素直でよろしい」
少しの肉が入っただけで、粥は驚くほど食べやすくなった。二人は急がず、身体が受け付ける分だけ少しずつ口へ運んだ。大量の血を失ったわけではないにしても、昨日一日で使い切った体力は、一晩身体を休めた程度では戻らない。胃もまだ疲れているのか、少量で重く感じる。それでも残さなかった。
片づけの途中、レンは黒銀の剣を抜いた。
夜のうちに大まかな血は拭ってあったが、鍔の溝や刀身の根元には暗い汚れが残っている。水を無駄にしない程度に布を湿らせ、右手だけでゆっくり拭った。昨日、何度も骨や牙とぶつかり、黒灰色の大狼へも深く斬り込んだ。それでも黒い刀身には目立つ欠けがほとんどない。
「やっぱり丈夫だね」
「ああ」
「王都で誰かに見てもらう?」
レンは少し考えてから鞘へ戻した。
「相手を選ぶ」
「ラウナに来た、あの箱があるから?」
「この印を知ってる人間が全員味方とは限らない。まず話を聞く。剣を見せるのは、そのあとだ」
「慎重になった」
「森へ出た初日に死にかけたからな」
「十年分くらい?」
「知らない草へ手を出しかけるやつよりは慎重だ」
「まだ言うの?」
アイリが頬を膨らませ、そのまま自分の短剣を手に取った。
鞘から抜いた瞬間だけ、表情が変わる。
昨夜何度拭いても、柄の隙間には乾いた血が残っていた。細い枝へ布を巻きつけ、それを使って少しずつ汚れを掻き出す。水へ落ちた赤黒い色を見たところで、その手が止まった。
「……持つの、嫌か?」
レンが尋ねる。
「少し」
アイリは嘘をつかなかった。
「握ると、思い出すから」
「しばらく俺が持っててもいい」
「ううん」
「無理するな」
「無理して強いふりをしたいわけじゃないよ」
アイリは布で刀身を拭った。
「怖い。でも、昨日これがなかったら、わたしは自分を守れなかった。お兄ちゃんのところにも行けなかった」
乾いた刃を見つめる。
「だから、怖いまま持つ」
レンはしばらく彼女を見てから頷いた。
「それでいい」
「いつか何も感じなくなった方が楽なのかな」
「無理にそうなる必要はない」
「お兄ちゃんも?」
「ああ」
レンは腰の黒銀の剣へ触れた。
「怖さを忘れたいわけじゃない。ただ、本当に必要な時に怖さだけで動けなくならないようにはなりたい」
「難しいね」
「たぶんな」
アイリは短剣を鞘へ戻した。
それ以上、昨日の殺し方について話す必要はなかった。
忘れていないことだけ、互いに分かっていれば十分だった。
◇
出発の準備を始めると、昨夜よりもはっきりと身体の不自由さが分かった。
レンが自分の背嚢を持ち上げようとしたところで、無意識に左腕へ力が入り、傷が強く引きつった。
「待って」
アイリがすぐに止める。
「持てる」
「持てるかどうかじゃなくて、持ち方を変えるの」
「アイリだって肩を傷めてるだろ」
「だから二人とも軽くする」
二つの背嚢を開き、荷物を並べ直した。鍋のようにかさばるものは肩へ重量が集中しない位置へ移し、水袋も一つに偏らせず分ける。アイリの薬や軽い衣類の一部をレン側へ移し、レン側の重い道具は腰紐や外側の固定具へ回した。
「鍋、歩くたびに脚へ当たるぞ」
「紐を短くすれば大丈夫」
「音もする」
「森のみんなに朝ご飯作れますって宣伝する」
「食材として見られるだけだ」
「狼のお肉、持ってくれば食料にはなったかな」
言った直後、アイリの顔が固まった。
「……やっぱり嫌」
「俺も今は食いたくない」
「お兄ちゃんでも?」
「昨日見たものを思い出しながら肉を食う趣味はない」
「ちょっと安心した」
「何を心配されてたんだ」
二人で火へ水を掛け、灰の奥に赤い部分が残っていないことを確かめる。
それから岩棚を離れた。
森へ戻る。
昨日と同じ場所とは思えないほど、朝の森は明るかった。
高い梢の隙間から淡い光が幾筋も落ち、夜露をまとった蜘蛛の巣が細い銀糸のように輝いている。道の脇には小さな白い花が固まって咲き、その間を青い蝶が低く舞っていた。苔に覆われた太い幹からは水滴が一つずつ根元へ落ち、遠くでは鳥が木を叩く乾いた音が一定の間隔で続いている。
本来なら、足を止めて眺めたくなる景色だった。
けれど低木が揺れると、レンの身体は先にそちらへ向く。
枝が折れれば足を止める。
鳥の声が急に途切れれば、右手が黒銀の剣へ近づく。
隣のアイリも同じだった。
「お兄ちゃん、ずっと周り見てる」
「見てなかったら昨日死んでた」
「見すぎても疲れるよ」
「じゃあ後ろはアイリが見てくれ」
「わたしも疲れる」
「交代するか」
「十数えたら交代」
「短すぎる」
「じゃあ百」
「数えることに集中するだろ」
「注文多いね」
会話をしていても、視線は森から完全には外さない。
それでも、話しているだけで呼吸は少し楽になった。
アイリが頭上を見上げる。
「昨日、木の上から何も来なくてよかったね」
「狼は木に登らない」
「でも、爪猿って魔物がいるんでしょ?」
「この辺りでは滅多に出ないってハインさんが言ってた」
「滅多に、ってことは出るかもしれないよね」
「次は何が来ても驚かない」
「家くらい大きな栗鼠でも?」
「……それは驚く」
「正直でよろしい」
負傷しているため、昨日の朝とは比べものにならないほど歩みは遅かった。レンは右脚を庇い、アイリも左脚へ体重を掛けるたび僅かに歩調が乱れる。狭い場所ではレンが先に根や泥の深さを確かめ、坂ではアイリが後ろから背嚢を軽く押して兄の右脚への負担を減らした。片方がよろめけば、もう片方が使える腕で支える。一人なら何度も立ち止まっていたはずの場所を、二人なら少しずつでも進めた。
「お兄ちゃん、右」
「道はこっちだ」
「道じゃなくて身体。ずっと左に傾いてる」
「左腕を庇ってるからな」
「そのまま歩いたら腰まで痛くなるよ。剣、少し右へずらそう」
「抜きにくくなる」
「今襲われても、昨日みたいには戦えないでしょ」
「……それはそうだ」
「今日は、戦いやすさより歩けること」
アイリに剣帯の位置を調整される。
黒銀の剣が少し右へ寄ると、確かに左側へ引かれていた身体の負担が減った。
「どう?」
「楽になった」
「ありがとうは?」
「助かった」
「もっと丁寧に」
「ありがとうございます、アイリ先生」
「よろしい」
「先生ではないだろ」
「今だけです」
今度はレンがアイリの背嚢を直した。
右肩へ重みを掛けられないため、左だけで背負おうとして背嚢が斜めになっている。肩紐を無理に締めるのではなく、腰側の固定を強くして重量を下へ逃がす。
「どうだ」
「さっきより楽」
「ありがとうは?」
「ありがとうございます、レン荷物係さん」
「誰が荷物係だ」
「ラウナの朝市で荷物持たされてた人」
「半分以上アイリの物だった」
「干し林檎は必要品だから」
「まだ干し林檎の話してるのか」
「旅で一番大事」
「水より?」
「二番目に大事」
「順位が下がったな」
昼が近づく頃、道は緩やかに下り始めた。
ハインから渡された地図によれば、この先には細い川があり、それを越えた先に猟師たちが使う小屋がある。健康な状態なら川から半日程度。しかし昨日の遅れと今の歩調を考えれば、小屋へ着くのは今日の夕方どころか、明日になる可能性も高かった。
それでも、道が地図の通り続いていることはありがたかった。
少なくとも、自分たちは迷ってはいない。
やがて水音が近くなる。
二人はすぐ川へ下りず、周囲を一度確認してから斜面を降りた。川幅は広くなく、三、四歩もあれば向こう岸へ届く。流れも膝に届かないほど浅いが、石の間は速く水が走っていた。
「少し休む」
レンが言う。
アイリは即座に平たい石へ座った。
「自分が休みたかったんでしょ」
「二人ともだ」
「正解」
水筒を満たし、ミアが持たせてくれた柔らかなパンの最後を取り出した。一晩経って少し硬くなっていたが、朝の粥に比べればご馳走に思える。
パンを分けたあと、アイリが手を出した。
「二枚半」
「覚えてたのか」
「大事な約束は忘れない」
「見張りの話を忘れたふりはしてくれないんだな」
「忘れたのはお兄ちゃんでしょ」
「忘れてはいない」
「余計悪いよ」
レンは干し林檎を二枚渡し、三枚目を半分にしようとした。
右手が反射的に黒銀の剣へ向かう。
「待って」
「何だ」
「その剣で切るの?」
「洗ったぞ」
「狼を斬った剣で干し林檎は嫌」
「じゃあ短剣」
「それも狼に使ったよ」
二人で黙って干し林檎を見た。
結局、アイリが左手で折ろうとしたが、乾燥した果肉は予想以上に硬く、綺麗な半分にはならなかった。大きい欠片と小さい欠片に割れる。
「大きい方を半分ってことにすればいい」
「半分の意味がなくなるだろ」
「じゃあお兄ちゃん、小さい方」
「罰を受けるのは俺なのに、何でアイリが多くなる」
「一晩見張ってくれた分だけ減刑」
「誰が裁くんだ」
「わたし」
「横暴だな」
アイリは満足そうに大きい方を噛んだ。
レンも小さな欠片を口へ入れる。
甘酸っぱさが広がった。
昨日から舌の奥に残っていた血の記憶が、ほんの少し遠くなった。
◇
休憩を終えると、問題は川だった。
水そのものは浅い。だが二人とも脚を傷めている。濡れても渡れなくはないものの、傷口や靴を余計に濡らすのは避けたかった。
水面から出ている石を使えば、向こう岸まで足を濡らさずに行けそうだった。
「俺が先に行く」
「転ばないでね」
「それはこっちの台詞だ」
「お兄ちゃんの方が重いから、落ちたら流されるよ」
「この深さで流されるなら俺は魚だ」
最初の石へ右足を置いた。
次の瞬間、苔で靴底が滑った。
「っ……!」
身体が左へ傾く。
反射的に左側で支えようと肩が動いたが、腕へ力が入るより先に噛み傷が鋭く痛み、その動きが止まった。レンは咄嗟に身体を右へ捻り、岸から張り出していた枝を右手で掴む。
辛うじて踏みとどまった。
「危なかったね」
後ろからアイリが言った。
「今のは確認だ」
「何を?」
「この石が滑ることを」
「足で確かめるだけでよかったと思う」
「俺も今そう思った」
「わたしが先に行く?」
「もう滑る石が分かったから俺が行く」
「急に格好よく言っても、さっき転びかけた人だからね」
「転んでない」
枝を杖代わりにして、今度は慎重に一つずつ石を渡る。対岸へ着いたレンは身体の向きを変え、右手を伸ばした。
アイリも一つ目、二つ目と進む。
中央まで来たところで左の脹脛へ痛みが走ったらしく、身体が揺れた。
「止まれ」
「止まったら余計怖い」
「右足を次の石へ」
「遠い」
「少しだけ届かせろ」
「届かなかったら?」
「右手で掴む」
「お兄ちゃんの右脚も怪我してるよ」
「だから小さく」
アイリは一度息を整えた。
右足で石を蹴り、本当に小さく身体を前へ送る。
レンは右手で彼女の背中側を支えた。
着地には成功した。
問題は、その直後だった。
アイリの体重を受けた瞬間、レンの傷ついた右脚が耐えきれず、二人揃って後ろへよろめく。
「え――」
そのまま草の上へ倒れた。
レンが下。
アイリが上。
川には落ちなかった。
しばらく二人とも何も言わなかった。
「……受け止めた」
レンが言う。
「二人とも倒れたよ」
「川には落ちなかった」
「そこだけは成功だね」
アイリが起きようとした瞬間、痛めた右肩へ力が掛かったらしく、「っ」と息を詰めて再びレンの胸元へ戻ってきた。
「重い」
「女の子に言っちゃいけない言葉だよ」
「背嚢が」
「本当に?」
「半分くらい」
「お兄ちゃん」
「冗談だ」
左手で頬を押された。
「痛い」
「わたしも肩痛い」
「なら早く起きろ」
「今起きようとしてるの」
結局、二人ともゆっくり身体を起こし、草の上へ座ったまま傷を確認した。幸い新しく大きな出血はない。
アイリは靴についた泥を払いながら、大きく息を吐いた。
「旅って、もっと格好いいものだと思ってた」
「格好いい?」
「外套を風になびかせて、遠い山を見ながら歩くの。歌に出てくる旅人みたいに」
「現実は狼に噛まれて、まずい豆を食って、川辺で二人で倒れる」
「まだ川では転んでないよ」
「倒れただろ」
「お兄ちゃんが受け止めきれなかったから」
「川には落とさなかった」
「英雄には見えないね」
「生きて渡れたなら十分だ」
「それはそう」
立ち上がる。
また歩く。
川を越えた先では木々の間隔が少し広くなり、柔らかな光が地面まで届いていた。低い草が一面に広がり、白い花の上では何匹もの蝶が羽を休めている。
少し先で、小さな鹿が二頭こちらを見ていた。
一頭は成獣。
もう一頭はまだ身体が小さい。
「可愛い」
アイリが足を止める。
「追うなよ」
「追わないよ」
「食べたいとも言うな」
「言わないよ。お兄ちゃんは何でも食べ物に見えるの?」
「森で食料が尽きたら鹿は食料だ」
「夢がない」
「狼の肉は嫌だって言ってたのはアイリだろ」
「鹿は違う」
「何が」
「可愛い」
「基準そこなのか」
鹿の親子は兄妹を少し見つめたあと、軽い足音を残して木々の奥へ消えていった。
アイリはその姿を最後まで目で追っていた。
昨日なら、獣が動いただけで短剣へ手を伸ばしていたかもしれない。
それでも今は、少しだけ森を森として見ることができている。
怖くなくなったわけではない。
枝が不自然に揺れれば、二人とも反応する。
背後から足音のようなものがすれば立ち止まる。
ただ、それだけではなかった。
森には狼以外のものもいる。
花も、蝶も、鹿もいる。
そのことを少しずつ思い出していた。
だからこそ、最初はその音を森の一部だと思った。
鳥とも違う。
枝の軋む音とも違う。
細く、高く、途中で切れる。
しばらくすると、また聞こえた。
アイリが立ち止まる。
「……お兄ちゃん」
「何だ」
「今、声しなかった?」
レンも足を止めた。
耳を澄ませる。
風が葉を揺らす。
遠くで鳥が鳴く。
その間に――また、細い声が混じった。
泣いている。
幼い子供が、声を出さないよう必死に堪えながら、それでも抑え切れずに漏らしているような泣き声だった。
「子供……?」
アイリが音の方へ身体を向ける。
「待て」
レンは咄嗟に彼女を止めた。
「怪我してるかもしれない」
「森の中に子供が一人でいる方がおかしい」
「迷ったのかも」
「その可能性もある。でも、罠かもしれない」
「罠?」
「泣き声で旅人を道から外すやり方はある」
アイリの顔が曇る。
もう一度、泣き声がした。
今度は少し近い。
ひどく弱い。
「……でも、本当に子供だったら?」
レンは森の奥を見た。
昨夜の約束が頭を過ぎる。
危険かもしれない。
だからといって、自分だけ先へ行ってアイリを置いていくことも違う。
無視して進み、あとで本当に助けを求めていた子供だったと分かれば、それもきっと後悔する。
「道から遠くへは外れない」
「うん」
「俺が少し前を見る。アイリは数歩後ろで、周囲を見てくれ」
「一緒に行くよ」
「置いていくとは言ってない。距離を少し空けるだけだ」
「危なくなったら?」
「二人とも戻る」
アイリがレンの顔を見る。
「本当に?」
「ああ」
今度は迷わず答えた。
二人は泣き声の方角へ進んだ。
踏み固められた道から外れ、膝ほどの草をゆっくり掻き分ける。レンが先に地面を確認し、その数歩後ろをアイリがついてくる。
すぐに、小さな足跡が見つかった。
「これ……子供の?」
「たぶんな」
小さな靴の跡。
歩幅は狭い。
ところどころ大きく乱れ、草が倒れている。
走っていたらしい。
何度か転んだ跡もあった。
「お兄ちゃん」
アイリが低い声で呼ぶ。
葉の一枚に、小さな赤い染みが付いていた。
量は多くない。
それでも血だった。
二人の表情から、さっきまでの軽さが消える。
泣き声がさらに近くなった。
レンは黒銀の剣の柄へ右手を置いた。
抜かない。
ただ、何かが飛び出してきても反応できるようにする。
太い木の陰から先を覗く。
少し開けた場所に、根を大きく持ち上げた倒木があった。
その根元の暗い隙間に、小さな人影が縮こまっている。
淡い若草色の服。
泥に汚れた肩。
葉の絡んだ淡い金色の髪。
膝を抱え、身体全体を小さく震わせていた。
子供だった。
けれど、その髪の間から覗く耳は、人間のものではない。
細く長く伸び、その先が尖っている。
アイリが小さく息を呑んだ。
「……エルフ?」
少女が顔を上げた。
涙で赤くなった大きな緑色の瞳が、木陰に立つレンとアイリを捉える。
一瞬、レンは助けを求めてこちらへ手を伸ばすのではないかと思った。
違った。
少女の顔に浮かんだのは安堵ではなく、明確な恐怖だった。
「来ないで……!」
小さな身体が倒木の根の奥へさらに押し込まれる。
少女は震える両手で近くの石を拾い、それを胸元へ構えた。
「人間は……来ないで!」
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
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