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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第十二話 泣き声の先に

倒木の根が持ち上げた暗い隙間で、エルフの少女は今にも泣き崩れそうな顔をしながら、それでも両手に握った小さな石だけは手放そうとしなかった。淡い金色の髪は泥と枯れ葉に汚れ、その間から伸びた細長い耳が恐怖を示すように後ろへ伏せられている。緑色の瞳は泣き続けたせいで赤く腫れ、頬にも乾いた涙の跡が残っていた。薄い若草色の服は肩と裾が裂け、片方の革靴は紐が切れて足首からずれかけている。左膝には擦り傷があり、脛まで流れた血は既に半ば乾いていた。


 レンが腰の黒銀の剣へ右手を置いたまま立っているのを見た瞬間、少女の身体がさらに小さく縮んだ。


「来ないで……! 人間は、来ないで!」


 掠れた声だった。何度も叫び、泣いたあとだと分かるほど喉が枯れている。それでも少女は石を投げる構えを崩さない。あの小さな腕で投げられたところで、レンが避けられないほど速いとは思えなかった。だが問題はそんなことではない。目の前の少女にとって、自分たちは石を握らなければならないほど危険な存在なのだ。


 レンは剣の柄から右手を離し、少女から見える位置へゆっくり上げた。そのまま数歩後ろへ下がる。


「分かった。近づかない」


「嘘……」


 少女の指が石へ食い込む。


「人間は、いつも嘘をつく……」


「俺たちは――」


「同じこと言った!」


 少女の声が一瞬だけ大きくなった。


「あの人たちも、最初は同じことを言った!」


 レンはそこで口を閉じた。


 問い返したいことはいくつもあった。


 あの人たちとは誰なのか。なぜこの子はこんな場所に一人でいるのか。誰から逃げているのか。


 だが、今聞けば何も答えないだろう。それどころか、わずかに残っている逃げ道さえ奪われたと思わせるだけかもしれない。


 レンがさらに半歩下がると、その後ろからアイリがゆっくり姿を見せた。短剣へは触れない。痛む右肩を胸元へ寄せたまま、使える左手を少女から見える位置に置き、少し離れたところで膝を折った。右肩を固定した布の上には、戦いのあとに回収した灰色の外套が掛かっている。


「わたしも、ここから動かないよ」


 声を低くし過ぎず、急かさない。セラから、怪我や恐怖で怯えている人へ話しかける時ほど、一度にたくさん聞かず、相手が返事をするまで待つよう教えられたことがある。アイリはそれを思い出しながら、少女と同じ高さに視線を置いた。


 少女は今度は石をアイリへ向けた。


「あなたも……人間」


「うん」


「じゃあ、近づかないで」


「分かった」


 アイリは即座に頷いた。


「近づかないよ。ただ……膝から血が出てるけど、痛くない?」


「痛くない」


 返事があまりにも早かった。


 アイリは思わずレンへ視線を送る。レンは眉を寄せた。つい先ほどまで自分も似たようなことを言っていたため、その視線が何を意味しているのかは分かっている。


「痛くないって言う人って、だいたい痛いんだよね」


「本当に痛くない」


「じゃあ、怖い?」


 少女の唇が僅かに震えた。石を持つ腕が下がりかけ、すぐに元へ戻る。


「怖くない」


「わたしは怖いよ」


 少女が目を瞬いた。


「……何が?」


「森もまだちょっと怖いし、昨日は狼に襲われたし、身体中痛いし。それに今は、知らない子から石を向けられてるから、少しだけ怖い」


 アイリは灰色の外套を左手で少し持ち上げ、自分の左脹脛へ巻かれた布を見せた。乾き始めた血が薄く滲んでいる。次に、布で固定された右肩へ目を向けた。


「わたしも怪我してるの。あっちのお兄ちゃんなんて、もっとひどいよ」


「余計なこと言うな」


 少し離れたところからレンの声が飛んできた。


「本当でしょ」


「子供を安心させる話じゃないだろ」


「すごく強そうに見える人が、実は立ってるだけでも痛いって分かった方が安心するかもしれないよ」


「勝手に俺の評価を下げるな」


「事実だもん」


 少女の視線が、恐る恐るレンへ移った。


 改めて見れば、確かに無傷の戦士には見えない。左前腕には厚く布が巻かれ、その内側では深い噛み傷がまだ熱を持っている。右脚も完全には隠せず、立ち位置を変えるたび僅かに庇っていた。胸元や脇腹の服には狼の爪や牙で裂かれた跡が残り、腰には黒銀の長剣があるものの、それを今すぐ自在に振るえる状態ではない。


「狼に……襲われたの?」


 少女が尋ねた。


「ああ」


「何頭?」


「数える余裕はなかった」


「十頭以上いたよ」


 アイリが横から答える。


 レンが妹を見る。


「数えてたのか?」


「途中までは」


「そんなところに意識を使うな」


「でも生き残ったよ」


「結果がよければ何でもいいわけじゃない」


「今それ言う?」


 二人のやり取りを見ながら、少女の腕がまた少し下がった。


 警戒が消えたわけではない。石も手放していない。


 けれど、自分を攫うために現れた者たちが、目の前で狼の頭数について兄妹喧嘩を始めるとは思っていなかったのだろう。


「あなたたち……本当に、あの人たちの仲間じゃないの?」


 不意に尋ねられ、アイリの表情が僅かに変わった。


「あの人たち?」


 少女はしまったという顔をした。


 唇を噛み、石を再び胸元へ引き寄せる。


 アイリは追わなかった。


「言わなくていいよ」


「……聞かないの?」


「今はね。話したくなったら、その時に聞く」


「わたしを捕まえない?」


「捕まえない」


「どこかに連れていかない?」


「あなたが嫌なら、無理には連れていかないよ」


「本当に?」


「うん」


 少女はまだ信じていなかった。


 それでも、さっきまでのように答えを聞く前から拒絶することはなくなっている。


 アイリは腰の薬袋へゆっくり左手を伸ばした。


 その瞬間、少女の身体が強張った。


 アイリは動きを止める。


「薬を出したいだけ。ここで袋を開けてもいい?」


 返事はない。


 だが「嫌」とも言わない。


 アイリは数呼吸待ってから、薬袋を腰から外して自分の前へ置いた。留め具を開き、中から清潔な布、小さな水筒、軟膏を入れた木の容器を一つずつ取り出し、何を出したのか少女にも分かるようゆっくり地面へ並べた。


「膝、泥が入ってるみたいだから、できれば洗った方がいいと思う。靴の紐も切れてるから、替えた方が歩きやすいよ」


「近づかないで」


「うん。だから、ここに置くね」


 布と水筒、それから軟膏を自分の側から押し出す。少女が倒木の隙間から少し出れば届くくらいの位置で止めた。


「自分でできそう?」


 少女の視線が薬から水筒へ移った。


 ほんの一瞬ではなかった。


 明らかに水を見ている。


 だが、手を伸ばさない。


「毒かもしれない」


「じゃあ、先にわたしが飲むね」


 アイリは自分の水筒を出し、一口飲んだ。


「これは、さっきの川で汲んだ水。同じ場所のだよ」


 掌にも少し落とし、自分の頬に残る浅い傷を洗う。そのあと軟膏も少量だけ指先へ取り、左脹脛の傷の周囲へ薄く塗った。


 少女は一つひとつの動作を見逃さなかった。


「どうして……そこまでするの?」


「怪我してる子を見つけたから」


「わたしはエルフだよ」


「うん」


「人間じゃない」


「それも分かってるよ」


「じゃあ、何で?」


 アイリは少し考えた。


「膝が痛いのに、人間かエルフかは関係ないと思うから」


 少女の指が、自分の耳へ伸びた。


 金色の髪を引き下ろし、尖った先端を隠そうとする。


「この耳……怖くないの?」


「どうして?」


「人間は、変だって言う」


「わたしは綺麗だと思うけど」


 少女がアイリを凝視した。


「……本当に?」


「うん。すごく音が聞こえそう」


「……聞こえる」


「どれくらい?」


「あなたたちが近づいてきたのも、ずっと前から聞こえてた」


「だから隠れてたんだ」


 少女は答えなかった。


 だが、伏せていた耳の片方が僅かに動いた。


「俺たち以外の音は聞こえるか?」


 レンが口を挟むと、少女の警戒が一瞬で戻った。


 石を持つ手が上がる。


 レンは近づかず、むしろ少女から視線を外して森へ向けた。


「君を探ってるわけじゃない。もし誰かが追ってきてるなら、俺たちも知っておきたい。こっちも昨日の怪我がある。できればもう戦いたくない」


 少女はレンを見つめたまま黙っていたが、やがて長い耳をゆっくり起こした。


 右。


 左。


 わずかに向きを変えるだけで、森の中にある無数の音を分けて拾っているようだった。葉擦れ。鳥。枝の上を走る小さな爪。遠い水音。


「……人の足音は、聞こえない」


「獣は?」


「小さいのがいる。鳥と、栗鼠。それから……遠くに鹿」


「狼は?」


「いないと思う」


「そうか」


 レンは自分でも木々の間を確認した。


 少女の言葉を完全に信じるにはまだ早い。しかし、自分よりずっと細かな音を聞き取れるらしいことは、今の様子だけでも分かる。


「ありがとう」


 少女の耳がぴくりと動いた。


 石を握る指から、ほんの少しだけ力が抜けた。


     ◇


 それからアイリは、何も言わず待った。


 レンも少女を見つめ続けることを避け、数歩離れた位置で周囲の警戒へ意識を向けた。鳥の声が戻り、枝の隙間から差す光が少しずつ場所を移していく。


 どれくらい経ったのか。


 倒木の根元で、枯れ葉を踏む小さな音がした。


 少女が動いた。


 石を片手へ持ったまま、隙間から慎重に身体を出す。最初に右足を地面へ置き、次に左足をつこうとした瞬間、その顔が痛みに歪んだ。すぐに倒木へ手をつき、体重を右側へ戻す。


 膝だけではない。


 紐の切れた靴の奥で、左足首が明らかに腫れていた。


「足首も痛いんだね」


 アイリが静かに言った。


 少女は止まった。


「近づかないって言った」


「近づかないよ。見えただけ」


 少女は疑うように睨んだあと、一歩ずつ水筒へ向かい始めた。


 左足をほとんど使えないため、進むたび身体が揺れる。アイリが思わず腰を浮かせると、少女はすぐ石を持ち上げた。


 アイリは座り直した。


 ようやく水筒へ手が届くところまで来ても、少女はすぐには飲まなかった。


 蓋を開ける。


 匂いを嗅ぐ。


 指へ一滴だけ落としてから、舌先へ触れさせる。


 そこまで確認して、ようやく小さく一口飲んだ。


 次の瞬間、少女の喉が大きく動いた。


 二口。


 三口。


 両手で水筒を抱え、息もほとんど継がずに飲み始める。


 どれほど長くまともな水を飲めていなかったのか。半分近く減ったところで、アイリはようやく柔らかく声をかけた。


「急がなくて大丈夫だよ。一気に飲むと苦しくなるかもしれないから、少しずつにしよう」


 少女は名残惜しそうに口を離した。


 顎から零れた水が、汚れた若草色の服へ落ちる。


「……返さない」


「いいよ」


「これ、わたしの?」


「うん。あげる」


「あとで返せって言わない?」


「水はまた汲めるから」


 少女はしばらく水筒を見つめてから、胸元へ強く抱えた。


 次に、地面へ置かれた布と軟膏を見る。


 水筒を抱えたまま屈み、まず布を手に取った。膝へ水をかけた瞬間、尖った耳がぺたりと伏せられる。


 声は上げない。


 だが、相当染みているらしい。


 傷には泥だけではなく、小さな木屑も入り込んでいる。


 少女は自分で拭おうとするものの、布を当てるたびに痛みで手を引いてしまう。


「手伝ってもいい?」


 アイリが尋ねた。


「嫌」


「分かった」


 それ以上は動かない。


 少女は再び自分で挑戦した。


 一度。


 二度。


 やがて諦めたように軟膏の蓋を開け、そのまま傷へ塗ろうとする。


「待って」


 アイリの声が少しだけ強くなった。


 少女の手が止まる。


「まだ泥が残ってる。汚れたままだと、あとで傷が悪くなるかもしれないよ」


「悪くなる……?」


「腫れたり、熱が出たりすることもあるってセラに教わった。できるだけ綺麗にしてから薬を使った方がいいと思う」


「でも……触らないで」


「うん。嫌なら触らない。ただ、自分で取れないものが残ってるみたいだから……もし手伝わせてくれるなら、何をするか全部先に言うよ」


 少女は膝へ目を落とした。


 次にアイリを見る。


 信じたいのではない。


 必要だから迷っているだけだ。


 それで十分だった。


 アイリは自分の短剣を鞘ごと腰から外し、薬袋の横へ置いた。それから左手も膝の上へ戻す。


「武器はここ。手当てが終わったらすぐ離れる。途中で嫌って言ったら、その時点で止めるよ」


「……本当に?」


「本当に」


「人間の約束、信じない」


「それでも約束する」


 長い沈黙のあと。


 少女は石を地面へ置いた。


 完全には離さず、指先だけ触れたままだった。


「……膝だけ」


「うん」


「足首は触らないで」


「分かった。膝だけ」


 アイリが立ち上がろうとした。


 だが左脚へ力を掛けた瞬間、脹脛の傷が引きつり、さらに動かせない右肩のせいで平衡を取れず、身体が僅かに傾いた。


 レンが反射的に一歩出る。


 少女はすぐ石を掴んだ。


「来ないで!」


 レンは止まった。


「アイリが倒れそうだっただけだ」


「お兄ちゃん、大丈夫」


 アイリは左手を地面へつき、自分の力でゆっくり立つ。


「行けるから」


 レンは納得していない顔をした。


 昨夜、何でも一人で背負わないと約束したばかりだ。だが、ここで自分が助けに入れば少女が許した範囲を壊すことになる。


「無理なら言えよ」


「うん」


 それだけでレンは下がった。


 アイリは少女の前まで進み、真正面ではなく少し横へ身体を向けて座った。右肩へ負担が掛からない位置を探し、呼吸を整える。


「最初に水をかけるね」


 少女が小さく頷く。


 傷へ水が触れた瞬間、身体が跳ねた。


「痛い?」


「痛くない」


「今すごく動いたよ」


「冷たかっただけ」


 アイリの口元が僅かに緩んだ。


「お兄ちゃんと同じこと言うね」


「一緒にするな」


 離れた場所からレンが抗議した。


「二人とも素直じゃないところが似てる」


「わたし、人間じゃない」


「種族じゃなくて性格の話」


 少女が困ったような顔をした。


 ほんの一瞬、口元が緩んだようにも見えた。


 アイリはその変化を指摘せず、傷へ集中した。


 清潔な布で泥を少しずつ取り除いていく。擦り傷そのものは大きくないが、中央近くに細い木片が刺さっていた。先端だけが皮膚の上へ出ている。


「小さい木の欠片が刺さってる」


 少女の顔が強張る。


「抜いた方がいいと思う」


「嫌」


「うん。嫌だよね」


「抜かないで」


「残したままだと、歩いた時にもっと痛くなるかもしれない」


「嫌」


 アイリは考えたあと、左手を少し差し出した。


「何か握る?」


 少女はその手を見た。


 指先には疲労と痛みのせいか、まだ僅かな震えが残っている。


「人間の手は、握らない」


「じゃあ、これ」


 アイリは灰色の外套の端を差し出した。


 少女は迷った末、布を強く掴んだ。


「三つ数えるね」


「三で抜く?」


「うん」


「本当に?」


「本当に」


 少し離れたところでレンがわざとらしく咳払いをした。


 アイリが兄を見る。


「何?」


「何でもない」


「言いたいことある顔してる」


「俺の時は二だった気がするだけだ」


「今回は三」


「随分公平だな」


 少女の視線が二人の間を往復する。


「……二で抜くの?」


「抜かないよ」


 アイリは真顔で答えた。


「このお兄ちゃんにやっただけ」


「おい」


「いくよ」


 少女が外套を握り直す。


「一、二――三」


 三と同時に、アイリは露出していた木片を摘まみ、真っ直ぐ抜いた。


 少女は声を上げなかった。


 ただ、外套を握る左手へ一気に力が入り、長い耳が頭へ張りつくほど伏せられた。緑色の瞳から涙が一粒だけ零れる。


「終わったよ」


「……もう触らない?」


「もう一回洗って、薬を薄く塗って、布を巻く。それで膝は終わり」


「痛い?」


「少し染みるかもしれない」


「人間の『少し』は信用できない」


「それは……ちょっと分かる」


「何でアイリまで認めるんだ」


 レンの声が聞こえたが、二人とも無視した。


 アイリは傷をもう一度洗い、軟膏を薄く使った。それが何の傷にも効く万能薬だとは思っていない。せいぜい傷を清潔に保つ助けになる程度だ。布を巻く時も、締め過ぎていないか少女へ何度も確認した。


「ひとまず膝はこれでいいと思う。でも、あとで急に痛みが強くなったり、腫れたりしたら言ってね」


「……うん」


「それで――」


 アイリが足首へ視線を落とす。


 少女はすぐ眉を寄せた。


「触らないって言った」


「触らないよ。まだね。ただ、膝よりそっちの方が心配」


「歩ける」


「無理に証明しなくて――」


 言い終える前に、少女が立ち上がった。


 左足へ体重が移った瞬間、脚が崩れる。


「っ……!」


 身体がアイリへ倒れ込んだ。


 アイリは反射的に左腕を回したものの、自分も左脚を傷め、右肩は固定されている。少女一人分の体重を受け止め切れず、二人揃って草の上へ座り込んだ。


「ご、ごめんなさい……!」


 少女はすぐアイリから離れようとした。


「大丈夫。わたしも怪我してるから、支えるの下手だっただけ」


「あなたも……痛いのに」


「うん。だからお互い様」


 近くまで来たことで、少女は初めてアイリの状態をじっくり見た。


 頬の爪痕。


 左脹脛の包帯。


 固定された右肩。


 灰色の外套の下に覗く黒いドレスにも、昨日の戦いでついた裂け目や洗い切れなかった血の跡が残っている。


 その視線がレンへ移る。


 レンも右脚を庇いながら立っている。左腕には厚い包帯。顔にも睡眠不足と疲労が隠し切れない。


 二人が自分を油断させるために傷ついたふりをしているわけではないことくらいは、ようやく信じてもいいと思ったのかもしれない。


「あなたたち……どうしてこの森にいるの?」


「王都へ向かってるの」


 アイリが答えた。


「二人で?」


「今はね。本当は商隊と一緒だったんだけど……」


 少女が不思議そうに首を傾げたあと、兄妹が進んできた方角を見た。


「人間の道、そっちじゃないよ」


「え?」


 アイリが瞬く。


 レンはすぐ地図を取り出した。


「王都へ続く道は?」


 少女は彼らが進もうとしていた方向より少し右を指した。


「あっち」


「川を渡ったあと、外れたのか」


 レンは地図を開き、現在地らしい場所と川の位置を見比べる。


「この森の道は、変わる」


「道が?」


 アイリが尋ねると、少女は首を横へ振った。


「木が倒れる。獣が歩けば新しい道ができる。人間が通らなくなった道は、草に隠れる。この地図……古いと思う」


 レンは昨日からの道筋を頭の中で辿った。


 商隊の二台の荷車が破壊された場所で、兄妹は生き残った者たちと分断された。狼との戦いが終わったあとには、血と死体の匂いが残る街道から離れ、夜を越せる岩棚を探して移動した。今朝になって地図を頼りに進路へ戻ったつもりだったが、森の中では人が長く使っていない古道も、獣が踏み固めた道も、遠目には同じように見える。さらに川を越えたあと、地図に描かれた道が今もその形で残っていると無意識に決めつけてしまった。


「どこかで獣道へ入ったみたいだな」


 レンが地図を畳みかけ、少女を見る。


「王都へ続く道、知ってるのか?」


 少女の表情が一瞬で硬くなった。


 せっかく少しだけ緩んだ警戒が戻る。


「……知ってる」


「そうか」


「でも、教えない」


「分かった」


 レンはそれ以上聞かず、地図を畳んだ。


 少女の方が戸惑った。


「怒らないの?」


「何で怒るんだ」


「道が分からないんでしょ?」


「大まかな方角は太陽と川で取れる。時間は余計に掛かるだろうけど、どうにかする」


「わたしを捕まえて、案内させないの?」


「しない」


「どうして?」


 レンは少しだけ黙った。


 昨夜、自分がアイリのためだと勝手に決めたことを思い出す。


「嫌だと言ってる相手を、俺たちに都合がいいからって無理に連れていったら……俺たちが嫌ってる連中と変わらない」


 少女の緑色の瞳が揺れた。


 何かを思い出したように両腕を胸元へ引き寄せる。


 その拍子に袖が少しずれた。


 細い手首に、薄紫色の痣が残っている。


 一周するような細い跡。


 反対側にも同じものがあった。一部は擦れて皮膚が破れている。


 アイリは反射的に口を開きかけ、すぐ声を柔らかくした。


「手首も、怪我してるね」


 少女は慌てて袖を引き下ろした。


「見ないで」


「分かった」


 アイリは視線を外す。


 少女が驚いたように尋ねる。


「……聞かないの?」


「話したくないんでしょ?」


「……うん」


「じゃあ聞かない」


 少女は水筒を胸へ抱き直した。


「あなた……変な人間」


「よく言われる」


 レンが遠くから言った。


 少女がそちらを見る。


「誰に?」


「俺に」


「お兄ちゃんの方が変だよ」


「どうして俺になる」


「怪我してるのに、ずっと立ってるから」


 アイリが言うと、少女もレンの右脚へ視線を落とした。


「……座れば?」


「周りを見てる」


「この子の方が耳いいんでしょ」


「まだ俺たちを信用してない」


「お兄ちゃんが剣をつけてずっと立ってる方が怖いんじゃない?」


 レンは少女を見た。


 少女は目を逸らした。


 否定はしなかった。


「……分かったよ」


 レンは右脚を引きずらないよう注意しながら、二人から少し離れた木の根元まで移動した。腰の黒銀の剣が地面へ当たらない位置を選び、ゆっくり腰を下ろす。


 右脚への荷重が抜けた瞬間、本人の意思とは関係なく表情から少し力が抜けた。


 少女がそれを見る。


「本当に痛かったんだ」


「少しだ」


「また言ってる」


 アイリが即座に返す。


 少女の口元が、今度こそほんの少しだけ緩んだ。


     ◇


「名前、聞いてもいい?」


 少しして、アイリが尋ねた。


 少女はまた黙った。


「嫌ならまだ言わなくていいよ。わたしはアイリ。あっちが兄のレン」


「勝手に紹介するな」


「名前くらいいいでしょ」


「俺が危険人物だったらどうする」


 少女がレンを見る。


「危険なの?」


「違う」


「じゃあ、いいんじゃない?」


「ほら」


「何で初対面の子と組んでるんだ」


 少女は二人を交互に見てから、小さな声で名前を繰り返した。


「アイリ……レン……」


「うん」


「兄妹?」


「そうだよ」


「似てない」


「たまに言われるよ」


「俺は聞いたことないぞ」


「お兄ちゃんが人の話を聞いてないから」


「聞いてる」


「都合のいいところだけ」


 少女はもう一度、二人を見比べた。


 黒髪と琥珀色の瞳を持つ兄。


 銀白色の髪と青い瞳を持つ妹。


 外見だけを見れば、すぐに兄妹だと分かる組み合わせではない。それでも、言い返す間の取り方や、会話の途中で互いの傷へ向ける視線、どちらかが少し身体を動かしただけで無意識にそちらを確認する仕草には、長い年月を同じ家で過ごしてきた者にしかない近さがあった。


 少女は水筒へ視線を落とした。


 そして。


「わたしは……リュネ」


 小さく言った。


「リュネ?」


 アイリが聞き返すと、少女はすぐ睨んだ。


「一回しか言わない」


「分かった。教えてくれてありがとう、リュネ」


 初めて自分の名を呼ばれた少女――リュネの耳が、僅かに立った。


 アイリは急がず、少し間を置いた。


「足首も、見せてもらっていい?」


「名前を言っただけ」


「うん。全部信じてくれたとは思ってないよ。でも……その足だと、一人で歩くのはかなり大変だと思う」


「一人じゃない」


 リュネが反射的に答えた。


 直後。


 自分で口にした言葉へ気づき、息を呑んだ。


 アイリも気づいた。


「誰かと――」


 そこまで言った瞬間、リュネの顔から血の気が引いた。


「違う……!」


 両手が耳を覆う。


「言わない……言ったら、また見つかる……!」


「分かった」


 アイリはすぐ引いた。


「もう聞かない。ごめんね。ゆっくり息して」


「来る……」


 リュネの呼吸が速い。


「あの人たち、来る……きっと探してる。わたしが逃げたから……」


「さっき、人の足音は聞こえないって――」


「今はいない。でも来る……!」


 リュネは倒木の根元へ戻ろうと立ち上がった。


 左足へ力を入れた瞬間、身体が大きく傾く。


 アイリも支えようとしたが、右肩が使えず、自分の左脚にも傷がある。


 二人まとめて倒れかけた。


 レンがすぐ立ち上がる。


「支えるぞ」


「嫌!」


 リュネが叫ぶ。


 レンの手が止まった。


 だが、このままでは倒れる。


 彼はリュネの身体には触れず、右手で倒木から張り出していた太い根を押さえ、少女が掴みやすい位置へ僅かに動いた。さらに自分の身体を根の反対側へ置き、それ以上倒れ込めない壁を作る。


 リュネは両手で根を掴み、どうにか踏みとどまった。


 レンは触れなかった。


「……触ってない」


「……うん」


「嫌だと言ったからな」


 リュネがレンを見上げる。


「人間なのに?」


「人間でも、約束は守る」


 レン自身、その言葉が少し胸へ刺さった。


 昨夜の約束を守れなかったばかりだからこそ、今度は軽く言って終わりにはしたくなかった。


 リュネは初めて、腰の黒銀の剣ではなく、レン自身の顔を長く見た。


「全部の人間が……あの人たちと同じじゃないの?」


「違う」


「どうして分かるの?」


 レンは少し黙った。


 アイリが兄を見る。


 やがて、レンは静かに答えた。


「俺たちの故郷を焼いたのも、人間だった」


 リュネの耳が動く。


「母さんを殺したのも人間だ」


 アイリの表情が僅かに強張った。


 レンはそれでも続けた。


「でも、あの夜のあと、俺たちを助けたのも人間だった。十年育ててくれたのも、飯を食わせてくれたのも、怪我した時に怒りながら手当てしてくれたのも人間だ」


「……同じ人間なのに?」


「ああ」


「じゃあ、どうやって見分けるの?」


「簡単には分からない」


 リュネは眉を寄せる。


「分からないの?」


「だから、見るしかない。何を言うかだけじゃなくて、何をするか」


 少女は少し考えた。


「エルフも?」


「同じなんじゃないか」


「悪いエルフもいるってこと?」


「俺はほとんどエルフを知らないから、分からない」


「エルフは悪くない」


「そうかもしれない」


「今、同じって言った」


「種族だけじゃ分からないって言ったんだ」


「人間、すぐ分からないって言う」


「分からないのに分かったふりするよりはいいだろ」


 リュネは反論しようとして、言葉が見つからなかったらしい。


 唇を尖らせる。


 その顔は、ほんの少しだけ年相応の子供に戻っていた。


     ◇


「……足首を見せたら、歩けるようになる?」


 しばらくして、リュネがアイリへ尋ねた。


「すぐ治るとは言えないよ。でも、腫れてるところを支えれば、今より動きやすくなるかもしれない」


「骨、折れてる?」


「見ただけじゃ分からない」


「分からないの?」


「うん。明らかに変な形になってるわけじゃないけど、それだけで骨まで大丈夫とは言えないから」


「もし折れてたら?」


「できるだけ歩かない方がいいと思う」


「歩かないと駄目」


「どうして?」


 リュネが口を閉ざした。


 アイリはすぐ続ける。


「言わなくていい。でも、急いで動かなきゃいけないなら、なおさら今できることはしておいた方がいいと思う」


 リュネは長い間迷った末、倒木の根元へ腰を下ろし、腫れた左足を少しだけ前へ出した。


「……触ってもいい」


「うん」


「でも、痛くしたら嫌いになる」


「できるだけ優しくする」


「できるだけ?」


「痛い場所を確かめるから、全然痛くないとは言えない」


「正直すぎる」


「嘘つくよりいいでしょ?」


 リュネは渋々頷いた。


 アイリは左手だけで靴紐を解く。動かせない右肩に響かないよう身体の向きを変えながら、紐が切れた革靴を慎重に外した。


 足首の外側は大きく腫れ、紫色の痣が広がっていた。明らかに形が崩れている様子はない。ただ、それだけで骨の状態まで判断できるわけではない。


「ここ、触るね」


 リュネが頷く。


 アイリは強く押し込まず、足首の周囲へ軽く指を当てながら痛みの場所を確かめた。


「ここは?」


「少し」


「こっち?」


「……痛い」


「指、動かせる?」


 リュネは足の指をゆっくり曲げた。


 動く。


 だが、それだけで安心はできない。


「捻った可能性が高そうには見える。でも、骨まで本当に大丈夫かは、ここじゃ分からない」


「治療師じゃないの?」


「違うよ。セラっていう人から手当てを教わっただけ」


「じゃあ、間違える?」


「間違えるかもしれない」


 リュネが目を丸くした。


「だから、分からない時は分からないって言うの」


「変なの」


「今日それ二回目だよ」


「変だから」


 アイリは周囲から真っ直ぐな細い枝を二本選び、表面の尖った部分を布で包んだ。それを足首の両側へ当て、残っている布で固定していく。きつく締め過ぎないよう何度も確認し、切れていた靴紐も予備の細紐へ替えた。


「これで治ったわけじゃないよ。ただ、ぐらぐらしにくくなると思う」


「立っていい?」


「ゆっくり。痛かったらすぐ止めて」


 リュネは倒木へ両手を置き、右足を中心にして立ち上がった。


 左足を地面へそっとつける。


 顔はまだ痛そうだったが、先ほどのように一瞬で脚が崩れることはなかった。


 耳が驚いたように立つ。


「……少し歩ける」


「歩くなら少しずつね。走るのは駄目」


「走らないといけないかもしれない」


「それでも無理に走ったら、もっと動けなくなるかもしれないよ」


「でも――」


 言葉が途切れた。


 リュネの耳が、突然真っ直ぐ立った。


 それまでとは違う。


 何かを聞こうとしたのではない。


 何かが聞こえたのだ。


 レンが即座に木の根元から立ち上がった。


「何だ?」


 リュネは返事をしない。


 森の左奥へ顔を向ける。


「リュネ?」


「……分からない」


「人か?」


「違う」


 少女の顔が青ざめていく。


「もっと……重い」


 レンも耳を澄ませた。


 最初に聞こえるのは、風に揺れる葉と、遠くを流れる水だけだった。


 だが数呼吸後。


 森の奥から、低く鈍い音が届いた。


 木が折れる音。


 一度ではない。


 何かが前へ進むたび、低木が押し潰され、枝がまとめて折れ、湿った地面へ重いものが落ちるような振動が近づいてくる。


「鹿じゃないな」


 レンの右手が腰の黒銀の剣へ移る。


 アイリも地面へ置いていた短剣を左手で拾った。


「鹿より……ずっと大きい」


 リュネの声が震える。


 鼻を動かしたあと、さらに顔色を変えた。


「匂いもする」


「何の?」


「獣……それと、血」


 一瞬間を置いて、リュネは小さく付け足した。


「古い血の匂い」


 レンは黒銀の剣を抜いた。


 右手一本。


 左腕はまだまともに使えない。柄へ添えようとすれば深い噛み傷が強く引きつり、指先にも十分な力が入らない。


 それでも、レンはアイリとリュネの前へ出た。


「この辺りに、大きな魔物はいるのか?」


「いる。でも……普通は、この辺まで来ない」


「何がいる?」


 リュネが答えようと口を開いた、その時だった。


 森が震えた。


 腹の底へ叩き込まれるような咆哮が木々の奥から響き、枝に止まっていた鳥たちが一斉に空へ飛び立った。アイリは思わず左手を耳へ寄せかけ、短剣を握っていることに気づいて途中で止める。リュネは長い耳を完全に伏せ、苦痛に顔を歪めた。


 レンの胸元にまで低い振動が届く。


 右脚の噛み傷が脈打った。


 左腕の傷も熱を増す。


 昨日の狼たちとは違う。


 音だけで分かる。


 もっと大きい。


 太い木の向こうで、黒い影が動いた。


 枝を押し分けるのではない。


 身体で折っている。


 最初に見えたのは、血に濡れた巨大な前脚だった。丸太ほど太く、先端の爪は地面へ深く食い込んでいる。続いて黒褐色の毛に覆われた肩が現れ、そのさらに上から、成人した人間を見下ろせるほど高い位置に大きな頭が持ち上がった。


「……熊?」


 アイリが呟く。


 リュネは激しく首を横へ振った。


「違う……普通の熊じゃない」


 獣が一歩進む。


 邪魔になった若木が肩に押され、嫌な音を立てて折れた。


 全身の毛は泥と乾いた血で固まり、首から背へかけていくつもの古い傷が見える。片方の耳は裂け、鼻先にも深い傷跡が走っていた。どれだけ傷ついているのか分からない。それでも弱っているようには見えず、むしろ痛みそのものに突き動かされているような荒々しい呼吸を繰り返している。


 口が開く。


 黄ばんだ長い牙。


 血と腐った肉のような臭気が、離れた場所にいる三人のところまで届いた。


 レンは剣を右手だけで構え直す。


 アイリはリュネの前へ半歩出ようとしたが、レンが視線だけで止めた。彼女も右肩と左脚を傷めている。リュネに至っては、たった今足首を固定したばかりだ。


 逃げ切れる状態ではない。


 巨大熊の濁った黄色い瞳が、ゆっくり三人の上を動いた。


 まずレン。


 次にアイリ。


 そして――止まる。


 リュネだった。


 最初からそこにしか興味がなかったかのように、獣の頭が少女の動きへ合わせて僅かに傾いた。


 リュネの身体が震える。


「どうして……」


 後退しようとした左足が痛みで止まった。


「どうして、ここまで……」


 熊の鼻が大きく動いた。


 森の空気を吸い込む。


 そして、まっすぐリュネだけを見ながら低く唸った。


「どうして、ここまで追ってきたの……?」


 レンの表情が変わった。


「追ってきた?」


 聞き返す暇はなかった。


 巨大な熊が口を開き、再び森を揺らす咆哮を放った。


 リュネが怯えて身を縮める。


 アイリは短剣を左手で握り直す。


 レンは痛む右脚を踏みしめ、黒銀の剣を一人で支えながら二人の前へ立った。


 森の奥から逃げてきた少女。


 何者かに縛られていた痕。


 追ってくるという「あの人たち」。


 そして今、傷だらけの巨大な獣が、レンでもアイリでもなく、リュネだけを見ている。


 偶然なのかどうかを考える時間はなかった。


 獣が前脚を地面へ踏み込む。


 湿った土が沈む。


 もう一歩。


 三人との距離が縮まった。


 狼との死闘を越え、ようやく一つの夜を生き延びたばかりの兄妹に、森はまだ立ち止まる時間を与えてはくれなかった。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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