第一章 第十三話 森の巨影
巨大な熊の咆哮が森を揺らした瞬間、リュネは倒木の根へ縋るように身を縮めた。長い耳が頭へ張りつくほど伏せられ、せっかく固定したばかりの左足首を庇うことすら忘れたように後ずさろうとする。だが一歩目で痛みが走り、細い脚が崩れかけた。
熊の濁った黄色い瞳が、その動きを追った。
レンでもない。
アイリでもない。
明らかに、リュネだけを見ている。
「リュネ、動くな!」
レンが叫ぶのと、熊が前脚で地面を蹴ったのはほとんど同時だった。
黒褐色の巨体が動き出す。あれほど大きいにもかかわらず、最初の数歩は想像以上に速かった。湿った土が後方へ弾け、低木が肩に触れただけで折れ、重い足音が一つ響くたび地面から振動が伝わってくる。
レンは黒銀の剣を右手だけで構えた。
正面から止める。
その考えだけは最初から捨てた。
昨日戦った狼ですら、一頭の突進を真正面から受ければ身体を持っていかれた。今迫ってくる獣は、その何倍もの重量がある。まして今のレンは左腕をまともに使えず、右脚にも噛み傷を抱えている。
「アイリ、リュネを右へ!」
「分かった!」
「走れない……!」
「走らなくていい! あの太い木の後ろまで!」
アイリはリュネを無理に掴まず、自分が先に移動して進む場所を示した。リュネも倒木のそばへ置いてあった太い枝を拾い、それを杖代わりにして右足を中心に身体を動かす。固定した左足は地面へ触れるだけに留め、二人で巨木の陰へ回り込んだ。
熊はそれでも進路を変えない。
レンは一歩だけ前へ出た。
距離を測る。
あと三歩。
二歩。
熊の頭が下がり、巨大な肩がさらに前へ出る。
レンは最後まで待たなかった。
右へ踏み込みながら身体を半身にし、黒銀の剣を熊の鼻先へ斜めに走らせる。深く斬るためではない。突進する頭の進路へ刃を置き、自分から身体を逃がす。
黒い刃が鼻先の古い傷跡を掠めた。
「グォオッ!」
熊の頭が大きく振れた。
その勢いだけでレンの外套の端が牙へ引っ掛かり、布が裂ける。右脚へ無理な力が入った瞬間、噛み傷が鋭く疼いたが、レンは止まらず地面を転がるように距離を取った。
背後で若木が折れた。
熊は止まり切れず、その肩を幹へぶつけた。
鈍い衝撃。
だが倒れない。
「お兄ちゃん!」
「平気だ!」
「平気は禁止!」
「じゃあ今は動ける!」
「最初からそう言って!」
叫びながら、レンは立ち上がった。
右脚が一瞬沈む。
痛い。
だが立てる。
熊も既にこちらへ向き直っていた。鼻先から新しい血が流れている。それなのに、黄色い瞳はレンへ固定されなかった。
巨体の向こう。
太い木の陰。
そこにいるリュネの方へ、何度も鼻先を向けている。
「……何だ?」
レンは眉を寄せた。
自分が傷をつけた。
目の前に剣を持った人間がいる。
それでも熊は、レンへ飛び掛かるより先にリュネの位置を探している。
熊が横へ動いた。
レンも進路を塞ぐように動く。
巨体が右へ。
レンも右へ。
左へ回ろうとすれば、その前へ出る。
正面から力で止めるのではなく、木々の位置を利用しながら、熊がリュネへ一直線に進めない角度を作る。
「グルルル……」
低い唸り声。
熊の右前脚が地面を掻いた。
次の瞬間、巨大な腕が横薙ぎに振るわれる。
レンは受けなかった。
刃を立てて止めようとすれば、剣ごと身体を吹き飛ばされる。
右手首を返し、爪の軌道へ刃の側面をほんの一瞬だけ触れさせる。力を受けるのではなく、下へ流す。
爪が地面を抉った。
それでも一本だけがレンの上着の背を裂き、皮膚へ浅い熱を走らせた。
「っ!」
レンは前へ倒れ込まず、熊の脇を抜ける。
離れる。
決して二撃目の距離へ残らない。
熊が振り返る。
その時、レンは肩口に異物があることへ気づいた。
左肩。
黒褐色の毛の間から、錆びた鉄の棒が僅かに突き出している。
矢。
いや、途中で折れた古い矢の残骸だった。
深く刺さったまま、周囲の毛が血と膿の跡で固まっている。
「矢が刺さってる……」
アイリも気づいたらしい。
熊がまた身体を捻った拍子に、首元の毛が分かれた。
そこにも傷がある。
一つ二つではない。
首を一周するように毛が擦れた古い跡。前脚にも、何か硬いものが長く食い込んでいたような痕が残っている。
「誰かに……捕まってた?」
アイリが小さく呟く。
「分からない!」
レンは熊から目を離さなかった。
「そう見えるだけだ! 決めつけるな!」
熊が再び前へ出る。
今度はレンを正面から排除しようとするように頭を低くした。
レンは剣先を向ける。
ただし、狙うのは首ではない。
今の状態であの太さの首へ深く刃を入れ、反撃より先に引き抜く自信はない。左手が使えれば違ったかもしれないが、片手だけでは刀身を最後まで制御できない。
熊が突っ込む。
レンは太い木を背後に置くように位置を変えた。
直前で横へ。
熊の肩が幹を擦る。
その瞬間に、レンは右前脚の外側へ浅く刃を走らせた。
深追いはしない。
熊が振り向く前に離れる。
「お兄ちゃん、そのまま!」
アイリの声。
「その熊、やっぱりリュネを見てる!」
「俺もそう思ってた!」
「わたしが動いても追わない!」
アイリは太い木の陰から少しだけ左へ身体を出していた。
熊の視界には入っている。
それなのに熊はほとんど反応しない。
「リュネ、少し右へ動ける?」
「……うん」
「無理しないで、一歩だけ」
リュネが枝へ体重を預け、右へ一歩移る。
熊の鼻先が動いた。
すぐにそちらへ顔が向く。
視界を木で遮っても。
迷わない。
「匂い……?」
レンが呟いた。
「リュネ、何か血のついた物を持ってないか?」
「持ってない!」
「怪我以外でだ! 肉とか、獣の皮とか!」
「ない!」
リュネの声が震える。
「何も持ってない……!」
熊がまた動いた。
「アイリ!」
「分かってる!」
アイリはリュネと一緒にさらに太い幹の裏へ回る。
熊は鼻を鳴らし、木を迂回しようとする。
レンが前へ出る。
熊が苛立ったように咆哮し、前脚を持ち上げた。
レンは一瞬、黒銀の剣を両手で構えようとした。
左手が柄へ伸びる。
だが指が触れただけで、深い噛み傷から腕全体へ痛みが走った。
「ぐっ……!」
力が入らない。
すぐ手を離す。
その一瞬の遅れで熊の爪が迫った。
レンは刃を斜めに差し入れ、前脚そのものを止めるのではなく軌道を外へ逸らしながら、右脚で地面を蹴った。
完全には避け切れなかった。
爪の先が胸元の布を裂き、皮膚へ数本の浅い線を残す。
レンは背中から地面へ落ちた。
息が詰まる。
だが熊も体勢を崩し、すぐには次の一撃へ移れない。
「お兄ちゃん!」
「来るな!」
レンは右手を地面へつき、起き上がる。
胸は痛い。
背中も熱い。
だが骨が折れた感覚はない。
今はそれで十分だった。
熊は再び鼻を鳴らした。
そして、レンから離れようとする。
またリュネへ。
「やっぱりだ……」
レンは荒い息を整えながら言った。
「こいつ、俺たちと戦いたいんじゃない。何かでリュネを追ってる」
「でも、わたし……」
リュネの声が掠れる。
「何も……」
アイリが少女を見た。
次に、若草色の上着へ視線を移す。
「リュネ。ちょっと後ろ向いてくれる?」
「何で?」
「触らない。見るだけ」
少女は怯えたまま、それでもゆっくり背を向けた。
上着の背中。
泥。
枝に引っ掛けた裂け目。
乾いた血。
その中に一か所だけ、不自然に黒く濡れて見える部分があった。
「……待って」
アイリが眉を寄せる。
「そこ、何かついてる」
「どこ?」
「背中。自分じゃ見えないところ」
リュネの肩が強張った。
「触らないで」
「うん。まず上着、脱げる?」
リュネはレンの方を見る。
彼はまだ熊と自分たちの間に立っている。
「俺は見ない」
そう言って、レンは意識的に少女へ背を向けた。
アイリも短剣を地面へ置いた。
リュネは少し迷ってから、若草色の上着を脱ぎ始めた。足を動かす必要はないが、焦りで手が何度も紐へ引っ掛かる。
ようやく脱いだ上着を地面へ置く。
その背面に。
黒いものが刺さっていた。
「……何、これ」
アイリが息を呑んだ。
黒い金属。
指ほどの長さ。
釣り針を大きくしたような形で、先端だけではなく途中にも逆向きの小さな返しがいくつもついている。
幸い皮膚へは刺さっていない。
だが上着の布を何重にも巻き込み、簡単には外れないよう食い込んでいた。
その周囲には黒赤い粘り気のあるものが塗られている。
アイリが顔を近づけかけ、すぐ止めた。
「血の匂い……」
リュネの耳が震える。
「それと、油みたいな……」
「獣の脂かもしれない」
レンが熊を見たまま答える。
確定はできない。
だが熊が何度も鼻を動かしてリュネの位置を追っていることと、この異物が偶然同時に存在するとは考えにくかった。
「リュネ」
アイリが慎重に尋ねる。
「背中に何か当たった覚え、ない?」
「……背中?」
「逃げてる時とか」
リュネは目を閉じた。
呼吸が速くなる。
「走って……」
小さく呟く。
「森へ入る前……後ろから、何か飛んできた」
アイリの顔から表情が消えた。
「痛かった?」
「少し。石だと思った。転んだけど……服は破れてなかったから、そのまま……」
リュネは黒い鉤を見つめた。
理解が追いつくにつれ、顔色が変わっていく。
「これ……わたしに……?」
レンの奥歯が噛み締められた。
熊の肩に残る古い矢。
首や脚の不自然な傷。
血と脂を塗った黒い鉤。
逃げた少女の、自分では見えない背中へ取りつけられていた。
「餌にしたんだ」
言ったのはレンだった。
声が低くなる。
「少なくとも、そういう使い方をするための物に見える」
「餌……?」
「誰かがこれをつけて、獣に追わせた可能性がある」
「わたしを……?」
リュネの顔が強張る。
「何で……」
「分からない」
レンは即座に答えた。
「今は考えるな。誰がやったかも、何のためかも後だ」
熊が大きく唸った。
距離がまた縮まっている。
「アイリ、それを上着ごと切り離せるか?」
「やる」
アイリは左手で短剣を拾った。
「リュネ、上着切っていい?」
少女は一瞬だけ迷ったが、すぐ頷いた。
「いい」
アイリは黒い鉤へ直接触れないよう、周囲の布を大きめに切り取った。若草色の布片ごと鉤が外れる。
それを地面へ置いた瞬間。
熊の頭が動いた。
三人ではない。
地面の布片へ。
「間違いない」
レンが言う。
熊がそちらへ一歩踏み出す。
「なら俺が持って――」
「駄目」
アイリが即座に遮った。
「まだ何も言ってない」
「それ持って熊を遠くへ引っ張るって言うつもりでしょ」
レンは黙った。
「その右脚で?」
「木の間なら――」
「昨日から何を話してたの」
その一言で止まった。
レンは反論しようとした。
だが、昨夜。
そして今朝。
自分が勝手に決めたことを思い出す。
アイリは睨んでいる。
怒っているのではない。
怖がっている。
自分がまた一人で危険を抱えると言い出すことを。
レンは息を吐いた。
「……分かった」
アイリが少し驚いた。
「本当に?」
「ああ。俺が持って走るのはやめる」
「早い」
「何だよ」
「もっと言い合うと思ってた」
「言い合ってる時間がない」
「それはそう」
レンは周囲へ視線を走らせた。
「人が運ばないなら、匂いだけ別の場所へ置く」
「でも、置いただけじゃ追いつかれたら終わりだよ」
「追いついた場所で、動きを止める」
木。
岩。
倒木。
斜面。
森の中へ視線を巡らせる。
少し先。
岩壁と太い生木の間に、一本の枯れた大木が斜めに傾いていた。
根元の半分近くが土から浮き、腐った根が露出している。それでも完全に倒れないのは、張り出した根の下へ大きな石が噛み込み、辛うじて支えになっているからだった。
レンが目を細めた。
「アイリ」
「見えてる」
「あれ、倒せそうか?」
「手で押すのは無理」
「押さない」
レンは足元に落ちていた太い枝へ目をやる。
「石を直接動かすんじゃない。土を緩めて、枝を梃子にする」
アイリも枯れ木を見た。
次に、熊。
そして地面の黒い鉤。
「匂いをあの木の向こうへ置く?」
「枝へ引っ掛ける。熊が真下か、その手前まで入ったら支えを外す」
「倒れる方向は?」
「岩壁の方へ傾いてる。あの生木との間を塞ぐように落ちるはずだ」
「熊を倒せる?」
「分からない」
レンは首を振った。
「でも挟めれば、少なくとも追えなくなる」
嘘は言わない。
一撃で倒せるとは限らない。
あれだけの巨体なら、木が当たっても暴れる可能性はある。
それでも、今の三人が正面から戦い続けるよりはましだった。
「やろう」
アイリが言った。
リュネが黒い鉤を見る。
「わたしも……」
「足首」
「走らない。手は使える」
アイリが少女を見る。
リュネは怖がっている。
それでも逃げようとはしなかった。
「分かった。でも立ったまま力を入れないで。根元で座って手伝って」
「うん」
「レン」
「ああ」
「死なないで」
「それを作戦の条件にするな」
「条件じゃない」
アイリの青い目が逸れない。
「約束」
レンは一瞬だけ黙った。
「……分かった」
◇
最初に動いたのはアイリだった。
黒い鉤のついた布片を左手で持つ。ただし金属には触れず、切り取った若草色の布の端だけを摘まむ。
熊の鼻が動いた。
すぐ反応する。
「来る!」
リュネの声。
「レン!」
「行け!」
レンが熊の前へ出た。
アイリは無理に走らない。左脹脛の傷と右肩を庇いながら、枯れ木の方へ最短距離で進む。
リュネも杖代わりの枝を使い、遅れて続いた。
熊は二人を追おうとする。
レンが剣先を地面へ軽く打ちつけた。
金属音。
熊が一瞬こちらを見る。
「こっちだ!」
意味が通じるとは思っていない。
だが音と動きへ反応するだけでいい。
熊が前脚を振る。
レンは太い幹の反対側へ回り込む。
熊も追う。
木が二人の間へ挟まる。
巨大な爪が幹へ叩きつけられ、樹皮が大きく剥がれた。
「……まともに食らったら終わりだな」
レンは息を吐く。
熊が左から回る。
レンは右へ。
熊が右から来れば、今度は左へ。
円を描くように木を使う。
右脚の痛みで速度は落ちている。それでも巨体の熊も太い幹を無視して直線には進めない。
だが何度目かの切り返しで、熊はレンを追わなかった。
鼻を鳴らす。
頭が枯れ木の方へ向く。
「まずい……!」
匂いの方が強い。
熊がそちらへ駆け出す。
レンも追った。
右脚へ衝撃が走る。
一歩ごとに傷が脈打つ。
それでも無理に追いつこうとはしない。
「アイリ!」
「もう少し!」
枯れ木の根元で、アイリが布片を低い枝の叉へ押し込んでいた。片手では結ぶのが難しい。だから切り取った布を枝へ何重にも巻きつけるのではなく、二股になった枝の間へ鉤ごと噛ませ、引っ張られても簡単には落ちないよう差し込む。
「入った!」
「根元へ!」
アイリがリュネと一緒に浮き上がった根の側へ回る。
大きな支え石の周囲は、硬く締まった土と細い根で固められていた。
「わたしが切る。リュネは土を取って」
「分かった」
二人とも立ったまま作業しない。
アイリは右肩へ負担が掛からない姿勢で片膝をつき、左手の短剣を土へ差し入れる。石の周囲を支えている細い根を一本ずつ切り、固まった土を崩す。
リュネは地面へ座り込み、痛む左足を前へ伸ばしたまま、両手で緩んだ土を掻き出す。
「もっと下?」
「うん。その石の手前」
「ここ?」
「そこ。指挟まないでね」
「アイリも」
「わたしは大丈夫」
「平気は禁止じゃなかった?」
アイリの手が止まった。
「……リュネ、覚えるの早いね」
「ずっと聞いてたから」
ほんの一瞬だけ、アイリが笑う。
次の瞬間、熊の咆哮が響いた。
笑みが消えた。
「急ごう」
レンは追いついた熊の横へ回り込んでいた。
斬る。
倒すためではない。
右後脚の外側へ浅く刃を走らせ、注意を自分へ向ける。
熊が振り返る。
レンはすぐ距離を取る。
黒銀の剣がいくら鋭くても、片手で届く範囲には限界がある。深く踏み込めば、その一撃のあと逃げられない。
熊が追う。
レンは枯れ木から離れる方向へ数歩誘う。
ところが、熊は途中で止まった。
鼻を鳴らす。
また布片の方を見る。
「匂いの方が上か……!」
熊が枯れ木へ向く。
レンはその進路へ回り込む。
熊の頭が下がった。
突進。
「っ!」
レンは横へ逃げる。
右脚が遅れた。
熊の肩が身体の左側を掠めた。
まともに受けたわけではない。それでも人間一人を弾き飛ばすには十分だった。
レンの身体が地面へ転がる。
背中が土を擦る。
黒銀の剣だけは手放さない。
「お兄ちゃん!」
「作業続けろ!」
レンは右肘をついて起き上がる。
右脚が震える。
左腕も転倒の衝撃で疼く。
それでも熊は彼に止めを刺しに来ない。
枯れ木へ。
匂いへ。
リュネへつけられていた黒い鉤へ。
「本当に……あれだけを追ってる」
レンは低く呟いた。
背筋が冷える。
偶然ではない。
少なくとも、この熊にとってあの匂いが普通ではないほど強い意味を持っている。
誰かがそれを知っていた。
だからリュネの背へつけた。
「……くそ」
怒りが湧く。
だが今は使い道がない。
レンは立った。
◇
「もうちょっと!」
アイリが短剣を土へ差し込む。
支え石の片側が少しだけ露出した。
リュネが両手で土を払い、石の下へ僅かな隙間を見つける。
「ここ、空いてる!」
「枝を入れられるかも」
アイリは周囲を見る。
手頃な枝。
細過ぎる。
もう一本。
曲がっている。
その時、リュネが先ほど杖代わりにしていた枝を差し出した。
「これ」
「でも、それないと歩けない」
「今は歩かない」
確かにそうだった。
太さもある。
完全に乾いておらず、簡単には折れそうにない。
「借りるね」
「あとで返して」
「折れなかったら」
「折らないで」
「熊に言って」
二人で枝の先端を石の下へ差し込む。
深く入らない。
アイリが土をさらに掘る。
もう一度。
今度は入った。
近くの小さな石を支点にして枝を載せる。
「梃子って知ってる?」
アイリが尋ねる。
「知らない」
「こっちを押すと、あっちが持ち上がる」
「人間の道具?」
「たぶんエルフも使うと思う」
「知らない」
「じゃあ今日から知ってる」
リュネが僅かに頷いた。
「わたし、どこ持つ?」
「立たなくていい。そのまま座って、両手で先を押して」
「アイリは?」
「わたしは根が戻らないように見る」
「一緒に押さないの?」
「右肩使えないから、片手で押してもリュネの邪魔になる」
隠さない。
できないことはできないと言う。
「合図したら押して」
「うん」
熊の足音が近づく。
「レン!」
「まだだ!」
レンは枯れ木と熊の間へ立っていた。
熊の鼻は、低い枝へ固定された布を捉えている。
進みたい。
そこへレンがいる。
熊が唸る。
レンは黒銀の剣を構える。
右手だけ。
呼吸が荒い。
右脚はもう痛みを隠せない。
左腕の包帯にも、転倒の影響で小さな赤い染みが戻り始めていた。
それでも、剣先は下げない。
「早く……」
リュネが呟く。
「何で、あの人は逃げないの」
アイリは土を掻きながら答えた。
「逃げたら、こっちに来るから」
「でも、わたしたち置いて逃げればいい」
「しないよ」
「わたし、さっきまであなたたち疑ってた」
「今日会ったばっかりなんだから、当たり前でしょ」
「石も向けた」
「当たってないからいいよ」
「当たってたら?」
「ちょっと怒ってたかも」
リュネがアイリを見る。
「……それだけ?」
「それだけ」
「どうして?」
アイリは土から目を上げなかった。
「怖かったんでしょ」
「……」
「怖い時に、全部正しくできる人なんていないよ」
リュネの指が枝を握る。
「でも――」
「リュネ」
アイリが初めて強い声を出した。
「今は押すこと考えて」
少女は息を呑んだ。
それから、大きく頷いた。
「うん」
◇
熊が前へ出た。
レンも下がる。
一歩。
また一歩。
これ以上後退すれば、自分が枯れ木の倒れる範囲へ入る。
まだ早い。
「グァアアッ!」
熊が立ち上がった。
巨体が持ち上がる。
人間の頭よりはるか上に前脚がある。
レンはその場に残らない。
振り下ろされる瞬間、右へ飛ぶように身体を逃がした。
爪が地面を叩く。
土が弾ける。
レンは剣を返し、熊の左肩へ浅く刃を当てた。
古い矢の近く。
「グォオッ!」
熊が激しく身体を振った。
折れた矢が揺れた。
痛みに反応した巨体が横を向く。
レンは一瞬、その矢を見た。
深い。
今触れば余計に暴れる。
使えるものではない。
少なくとも今は。
熊が頭を振り、再び鼻を鳴らした。
布片。
枯れ木。
そこへ向かう。
「アイリ!」
「まだ石が動かない!」
「あとどれくらい!」
「分からない!」
「最高だな!」
「分かったふりしない約束だから!」
「今それ言うか!」
熊が駆け出す。
レンはその横へ飛び込み、黒銀の剣で鼻先を狙う。
熊が嫌がって頭を逸らす。
それだけで進路が少し変わった。
枯れ木の真下から外れる。
「違う、そっちじゃない!」
アイリが叫ぶ。
「分かってる!」
レンは熊の左側へ回り込む。
今度は剣で斬らない。
地面を強く踏み、わざと大きく姿を見せる。
熊が振り返る。
「こい!」
熊がレンへ向く。
成功した。
だが、その位置から熊が突進すれば、枯れ木とは逆方向へ行く。
レンはさらに後退する。
熊も来る。
もう一歩。
もう一歩。
そのまま大きく弧を描き、レンは熊の正面を少しずつ枯れ木へ戻していく。
力で動かすのではない。
自分へ向けさせる。
そこから自分が移る。
熊の向きを一歩ずつ変える。
「お兄ちゃん、あと少し!」
アイリの声。
「こっちもあと少しだ!」
熊が低く身を沈めた。
突進の姿勢。
レンは枯れ木の下へ続く狭い空間を背後に見る。
左には太い生木。
右には岩壁。
熊を通すなら、ここしかない。
「アイリ!」
「いつでも!」
「俺が合図するまで押すな!」
「分かった!」
レンは熊の正面へ立った。
黒銀の剣を右手一本で構える。
熊の鼻が動く。
レンの背後。
枝へ挟まれた血と脂の臭い。
熊の視線が、ほんの一瞬だけレンを越えた。
次の瞬間。
地面が鳴った。
突進。
レンは待つ。
昨日の狼より速い。
身体も大きい。
怖い。
右脚は痛い。
逃げるなら今だと身体中が叫んでいる。
それでも、あと半歩。
「レン!」
アイリの叫び。
今。
レンは左へ避けた。
熊の巨体が横を通り過ぎる。
――はずだった。
右脚が沈んだ。
「っ……!」
右脚の噛み傷が鋭く疼き、踏み出しが半歩遅れた。
熊の肩がレンの脇腹へ触れる。
まともな衝突ではない。
だが、それだけで身体が回転した。
地面へ投げ出される。
黒銀の剣が土を削る。
熊は止まらない。
そのまま枯れ木の下へ進む。
「今!」
レンが叫んだ。
「リュネ!」
「うん!」
リュネが枝を両手で押し下げた。
アイリは左手で梃子の位置が外れないよう支点を押さえる。
枝がしなる。
石が僅かに浮く。
「動いた!」
「もう一回!」
リュネが息を吸う。
押す。
支え石が土を削り、指一本分だけ外へずれた。
枯れ木全体が軋んだ。
「まだ!」
アイリが叫ぶ。
熊は布片の真下へ入った。
鼻を上げる。
枝に挟まれた黒い鉤へ近づこうとする。
その時、背後でレンが起き上がった。
熊が振り返る。
鼻先から血が流れている。
左肩の古い矢も揺れている。
レンを見る。
次に匂い。
そしてもう一度レン。
「こっち見なくていいんだよ……」
レンは息を吐いた。
熊が低く唸った。
何を考えているのかは分からない。
ただ、その巨体が再びレンへ向いたことだけは分かった。
「お兄ちゃん、そこから離れて!」
「石は!」
「あと少し!」
レンが動こうとする。
右脚が言うことを聞かない。
熊が前脚で地面を掻く。
「リュネ、もう一回!」
「うんっ!」
枝がしなる。
石がさらにずれる。
腐った根が切れる音。
ぎしり。
枯れ木が初めて大きく傾いた。
「動いた!」
アイリが顔を上げる。
その視線の先。
レンと目が合った。
二人とも同時に気づいた。
熊の位置が変わっている。
さっきまで枯れ木の真下にいた巨体が、レンへ向かうため数歩戻っていた。
そしてレン自身は。
左に太い生木。
右に岩壁。
背後に、今まさに倒れ始めた枯れ木。
正面には熊。
「お兄ちゃん!」
熊が走った。
同時に。
枯れ木の根元から、最後の支えが外れた。
巨大な幹が軋む。
枝葉が一斉に揺れる。
影がレンの頭上へ広がった。
正面からは熊。
背後からは倒木。
横へ逃げるだけの幅はない。
レンは黒銀の剣を握り直した。
右手だけで。
熊の咆哮が迫る。
木が落ちる。
その二つの轟音が――同時に、レンへ襲いかかった。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!




