第二章 第二十八話 白環治療院の包囲
東門が一時的に閉ざされた翌朝、白環治療院には夜明け前から普段とは違う緊張が漂っていた。正門は開いている。患者の家族も治療師も、食料や薬草を運ぶ商人も、今のところ出入りを禁じられてはいない。それでも昨日の夕刻から東地区を巡回する治安局員の数は明らかに増え、白環へ続く通りでも濃紺の外套を見かけるようになっていた。門前に兵が並んでいるわけでも、武器を構えている者がいるわけでもない。ただ、道の向こうで立ち止まり、治療院へ入る荷車を見ている者がいる。角を曲がれば別の者が通行人へ何かを尋ね、さらに先では帳面へ名前を書き留めている。一つ一つなら珍しくない光景であっても、それらが重なると、白環だけが静かに囲われ始めているように見えた。
中央回復室では、レンたち五人と東門副長、院長が朝食を終えるより早く、今朝予定されている保全状況確認の準備を進めていた。黒銀剣は前夜から一度も武器保管庫を動いておらず、治安局、白環治療院、東門守備側、そしてガリックの立会いを示す四つの封印にも異常はない。銀縁のロケットも即時保全審査で定められた条件のもと、レンの首から離れていなかった。今回届いた文書には、封印状態と保管条件の遵守を確認するとしか記されておらず、再押収や再鑑定を求める文言はどこにもない。
「だから、書かれていないことまでさせない」
ミレナは文書を卓上へ置いた。
「向こうがロケットを開けろと言ったら?」
アイリが尋ねる。
「理由を聞く」
「剣を抜けと言ったら?」
「断る」
「その場で新しい命令書を出されたら?」
「まず読む」
「本物だったら?」
「何を命じているのか確認してから考える。怒るのは自由だけど、怒ったまま従う必要はないでしょう」
「レンに聞かせたい」
ガリックが言う。
「聞こえてる」
「なら覚えろ」
「お前もな」
「俺は今日は何もしない」
「それが一番怪しい」
ガリックは不満そうに鼻を鳴らしたものの、左脚を休ませるため椅子から動くつもりはないようだった。脇腹の傷は落ち着いており、六年前の背中の古傷が悪化しているわけでもない。ただ、目を覚ましてから右肩の強張りが抜けず、それが痛みではなく緊張から来ていることも治療師へ伝えていた。
「怖い?」
アイリが尋ねる。
「ああ」
「昨日より?」
「本人が来る分、今日の方が強い」
「逃げたい?」
「半分はな」
「もう半分は?」
ガリックは少しだけ黙った。
「殴りたい」
「それは駄目」
「分かってる。一人では会わん。勝手に触らん。勝手に取引もしない。怖くなったら言う。これでいいか」
「うん」
「子供に監督されるとは思わなかった」
「アイリは強いぞ」
レンが言う。
「お前も監督される側だ」
「何で俺まで」
「右腕は?」
「朝から少し重い。痛みは昨日と同じ」
「左手は?」
「指先に少し痺れがある」
「右脚」
「長く立たなければ大丈夫」
アイリが満足そうに頷くと、レンはガリックと同じように顔をしかめた。
「だから褒めるなよ」
「二人とも同じこと言ってる」
エリリアはそのやり取りを聞きながら、治安局から届いた文書の写しをもう一度読んでいた。淡い銀髪を肩の後ろへ流し、魔力を使うことなく紙の端へ指を添える。
「今回の確認には、担当者一名と記録官二名が来るとあります。護衛については書かれていません」
「外で待機させる可能性はある」
東門副長が答える。
「だが、白環は治療施設だ。院内へ多数の武装員を入れる理由はない」
「ロウが理由を作れば?」
レンが尋ねる。
「来る前からこちらで理由まで作らないの」
ミレナが先に答えた。
院長は卓上の文書を回収し、全員を見渡した。
「確認場所は武器保管庫前の記録室だ。患者の治療区画へ入れる必要はない。ロケットについてはレン本人を連れていく。ガリックも同席するが、歩行距離は短くする」
「椅子はいらん」
「なら寝台にする」
「椅子でいい」
院長はそれ以上何も言わず頷いた。
◇
朝の三刻を少し過ぎた頃、正門の外で馬車の止まる音がした。
治安局の印を大きく掲げた車ではなく、二頭立ての簡素な黒塗りの馬車だった。降りてきたのは三人。先頭の男は五十歳に届くか届かないかという年頃で、軍人だった頃の名残を感じさせる真っ直ぐな姿勢をしていた。髪には灰色が混じり、顔立ちは鋭いが、わざと威圧するような立ち方はしていない。腰には剣を下げているものの、柄へ手を置くこともなかった。その後ろには治安局の記録官らしい男女が一人ずつ続き、二人とも書類鞄だけを持っている。
正門で院長が身分証と命令書を照合した。
「今回の東門監査、および白環治療院における保全状況確認の現場担当、ヘルマン・ロウ。相違ないな」
「ああ」
「常設の役職名は?」
「今回の監査権限に必要か?」
「昨日まで、こちらにはあなたの現在の正式な立場が伝えられていなかった」
ロウは一瞬だけ院長を見た後、別の身分証を差し出した。
「治安局所属。それ以上の人事上の肩書きが必要なら、本部へ照会すればいい」
「そうする」
「好きにするといい」
声は低いが、苛立ってはいなかった。
院長は三人だけを院内へ通した。御者と、通りの反対側に立っていた治安局員二人は外に残った。護衛なのか、別の巡回員なのかは分からない。誰も理由までは決めず、人数と位置だけを記録した。
ロウが白環の廊下を歩くにつれ、職員や患者の視線が集まった。昨日から東門で治安局の監査が続いていることは既に広く知られ、その中心にいる人物が白環へ来るという噂も朝のうちに広がっていた。誰かが小さく「ヘルマン・ロウだ」と囁くと、その名は声を潜めながら廊下の奥へ伝わっていった。
記録室へ入ったロウは最初にレンを見て、アイリ、エリリア、ミレナへ順に目を向けた後、最後にガリックで視線を止めた。ガリックの肩が僅かに強張る。
「久しぶりだな、ヴェイン」
六年ぶりに交わされた最初の言葉は、それだけだった。
ガリックは椅子の肘掛けを掴みかけたが、途中で指を開いた。
「そうだな」
「左脚をやったのか」
「お前に関係あるか」
「今回の確認にはない」
ロウはそれ以上聞かなかった。
ガリックの呼吸が僅かに速くなる。アイリが横から彼を見たが、すぐには声を掛けない。ガリック自身が長く息を吐き、自分から口を開いた。
「怖い。だが、話せる」
ロウの眉が僅かに動く。
「何の話だ」
「お前には関係ない」
「そうか」
会話はそれで終わった。ミレナはロウの反応へ意味を与えず、眉が一度動いたという事実だけを記憶した。
「保管庫から確認します」
院長が言った。
武器保管庫の扉には、昨日までと変わらず複数の管理札が掛けられている。院長が外側の記録板を示し、四者の封印番号と最終確認時刻を読み上げると、女性記録官が手元の写しと照合し、治安局、白環、東門守備側、ガリックの立会いを示す封印を順番に確認した。
「いずれも破損なし」
「保管庫を開けますか」
院長が尋ねる。
ロウは命令書へ目を落とした。
「封印状態の確認が目的だ。開ける理由はない」
「剣を見ないのか」
レンが尋ねる。
「見る必要があると書かれているか?」
「いや」
「なら見ない」
「押収命令が出てるんじゃなかったのか」
「保全命令だ。言葉は正確に使え」
レンの表情が僅かに変わったものの、言い返すことはしなかった。
次はロケットだった。女性記録官に求められ、レンは左手で服の襟元を少し開き、銀縁のロケットを外へ出した。鎖は首に掛かったままで、表面にも留め具にも変化はない。
「取り外していない?」
「外してない」
「院外へ持ち出していない?」
「一度も」
「内容物の変更は?」
「してない」
記録官は前回の記録を確認し、院長へ頷いた。
「外形に相違ありません。今回は開く必要もありません」
ロウも短くロケットへ目を向けたが、写真を見せろとも、中の少女について答えろとも言わなかった。
「保全確認は以上だ」
アイリが僅かに肩の力を抜いた。
しかしロウは書類を閉じず、別の紙を取り出した。
「次に、六年前の護送記録について確認する」
ガリックの目が鋭くなる。
「今日の保全確認とは別だろ」
「別件だ。回答を強制するものではない」
「なら後日にしろ」
「それでも構わない」
ロウはガリックではなく院長へ紙を差し出した。
「昨日照会した資料の所在について、回答期限は正午だ。白環が保管していないなら、その旨だけ返せばいい」
「ここにはない」
ガリックが先に言った。
「ガリック」
ミレナが静かに名前を呼ぶ。
彼は一度口を閉じ、ほんの短い沈黙の後に言い直した。
「……俺が持っていた控えは、白環の公的保管物じゃない。所在を答えるかは、今ここで一人では決めん」
ロウは彼を見た。
「六年前と変わったな」
「何がだ」
「昔のお前なら、先に殴っていた」
「六年前も殴ってない」
「剣へ手は掛けた」
「お前が俺の背中を斬った後だ」
室内の空気が一瞬で張り詰めた。アイリの手が膝の上で強く握られ、エリリアもロウへ視線を向ける。レンも立ち上がりはしなかったが、身体が僅かに前へ傾いた。
ロウだけは表情を変えなかった。
「そうだな」
否定しなかった。
「……覚えてるのか」
「忘れる理由がない」
「荷車の中にいた十二人も?」
ロウはすぐには答えず、ガリックを見たまま言った。
「今日は、その件の聴取ではない」
「いたことは否定しないのか」
「今ここで答えても、正式な供述にはならない」
「逃げるのか」
「手続きを守っている」
ガリックの手が肘掛けを強く掴んだが、やがて自分から指を開いた。
「怖い」
今度は誰かに問われる前に言った。
「腹が立つ。あの時と同じ顔で手続きだと言われると、また何も残らなくなる気がする。でも、今日は一人で決めない。六年前の話をするなら、俺の記憶だけじゃなく、残っている記録も、セインの供述も、書き換え前の控えも並べる。その上で話す」
「セイン・バルカ」
ロウがその名を口にした。
ガリックの表情が固まる。
「覚えてるのか」
「記録にある名前だ」
「死んだことも?」
「知っている」
「どうやって死んだ」
「拘束中の事故として処理された」
「俺は隣の房にいた。暴れる音なんて聞いてない」
「それも記録に残したのか?」
「残させてもらえなかった」
「なら、今度は残せばいい」
ガリックは言葉を失った。ロウが挑発しているようには見えず、かといって味方をするようにも見えない。ただ事実だけを並べているように見えることが、かえって理解しにくかった。
「何が目的だ」
「今日は保全状況を確認しに来た」
「それだけか」
「それ以上をここで話す義務はない」
そこでミレナが初めて口を挟んだ。
「では、こちらも六年前の資料の所在を今ここで話す義務はないわね」
ロウは彼女へ視線を移す。
「ミレナ・クロウ」
「知ってるの?」
「治安局には情報屋についての記録もある」
「どこまで?」
「今日の確認とは無関係だ」
「便利な言葉ね」
「お互いにな」
一瞬だけミレナの目が細くなった。
「六年前の黒い鳥については?」
口にした直後、ミレナ自身が止まった。ロウの照会と黒い鳥には、今のところ六年前という時期以外の繋がりがない。
「……今の質問は撤回する」
「なぜだ」
「別の話を重ねかけたから」
「そうか」
ロウはそれ以上追及せず、ミレナもその反応へ意味を付けなかった。
保全確認は、その後大きな問題を起こさず終了した。ロウは四つの封印が維持されていることと、ロケットが定められた条件のもとでレンの手元にあることを記録官へ確認させ、白環側にも同じ内容の控えを残した。剣の開封もロケットの取り上げも要求せず、六年前の資料についても回答期限を確認しただけで、その場での提出を強制しなかった。
帰り際、ロウは記録室の扉を出る前にガリックを振り返った。
「ヴェイン。六年前の件を正式に話すなら、記録を残せ」
「お前に言われる筋合いはない」
「その通りだ」
ロウはそれだけ言い残して廊下へ出た。扉が閉じてからもしばらく黙っていたガリックへ、アイリが静かに尋ねる。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない。だが、殴らなかった」
「偉い」
「だから褒めるな」
「今日は褒める」
ガリックは反論しかけ、疲れたように椅子へ背を預けた。
「……好きにしろ」
◇
ロウが白環治療院を出てから一刻も経たないうちに、外の様子が変わり始めた。
最初に気づいたのは薬草を運んできた商人だった。いつもなら正門まで直接荷車を入れられるのに、今日は一つ手前の角で治安局員に止められ、荷の送り主、受取人、積載量、出発場所を尋ねられたという。検査そのものは短く、薬草も一束たりとも没収されなかった。それでも商人は帳面へ自分の名まで書かれたことを気味悪がり、次からは西側の市場を通って運びたいと院長へ申し出た。
その後も似た報告が続いた。見舞いに来た老人は正門前で患者との関係を尋ねられ、帰る時にも時刻を書かれた。厨房へ肉を運んだ店の少年は、昨日にはなかった通行確認を二度受けた。白環から外へ出た治療師も、次の角まで歩いたところで行き先を尋ねられた。誰も止められてはいないし、拘束された者もいない。それでも、出入りする者の名前だけが少しずつ増えていく。
「監視ね」
二階の窓から通りを見下ろしながら、ミレナが言った。
「監査かもしれない」
レンが答える。
「正式にはね」
「違いは?」
アイリが尋ねた。
「監査なら、普通は理由と範囲がある程度見える。今外にいる人たちが何を目的に白環の出入りまで記録しているのかは、まだ分からない」
「じゃあ監視だって証拠もない?」
「ない。今は『そう見える』まで」
エリリアも別の窓から外を観察していた。
「昨日までより人員は増えています。正面の交差点に二人、西側にも二人。ただ、同じ人がずっといるかまでは分かりません」
「交代してるなら長く見るつもりか」
ガリックが言う。
「そこまで決めない」
ミレナが返した。
「お前、急に厳しくなったな」
「あなたたちが何度も注意するからでしょう」
◇
昼前になると、外の変化より先に院内の空気が揺れ始めた。ロウが来たこと。治安局員が白環へ出入りする人間の名を記録していること。東門の大型荷車が止められていること。それらは正確な説明より早く患者の間を巡り、いつの間にか「白環が治安局の捜査対象になった」「危険な武器を隠している」「東門で捕まった犯罪者が入院している」と姿を変えていた。
院長は噂を放置せず、昼食前に動ける患者と職員を大広間へ集めた。寝たきりの患者には担当治療師が病室ごとに同じ内容を伝える。誰かを説得して白環へ残すためではなく、少なくとも事実と噂を分けるためだった。
レンたちも参加した。レンは右脚へ負担を掛けないよう移動を短くし、右腕を身体へ寄せたまま椅子へ座る。アイリも手首と右肩を庇いながら隣へ座り、エリリアは自分の足で歩いたが魔力は使っていない。ガリックは左脚の負担を避けるため椅子を使い、ミレナは普段どおり歩いて後方の壁際へ立った。
大広間には患者と職員を合わせて六十人ほどが集まっていた。誰もが怒っているわけではない。ただ、何が起きているのか分からないことに怯えている。
「今朝、治安局の人が来たんでしょう?」
院長が説明を始めるより先に、脚へ包帯を巻いた中年の男が尋ねた。
「来た」
院長は隠さなかった。
「何をしに?」
「治療院で保全している剣の封印と、患者が所持するロケットの保全条件を確認するためだ」
「危険な物なのか」
「危険だと確認されたわけではない」
「なら、どうして治安局が見るんだ」
「事件に関係する可能性のある物として保全対象になっているからだ」
「東門で荷車を止めてる話と同じ事件なのか?」
院長が答える前に、レンは一度だけミレナへ視線を向けた。
「分からない」
広間の視線が集まった。
「何が分からないんだ」
「剣やロケットの保全確認と、東門の荷車監査が同じ理由で動いてるのかは、まだ分からない」
「お前が持ってきた剣なんだろ」
「ああ」
「治安局に渡せば終わるんじゃないのか?」
アイリの肩が僅かに動いたが、レンは急いで反論しなかった。
「今、剣は四つの封印を受けて白環に置かれてる。俺が勝手に持ち出すことも、治安局が勝手に持っていくこともできない」
「だったら治安局へ任せればいい」
「そのための手続きも進んでる」
「なら、どうして外にあんなに人がいる」
男の声には怒りより不安が滲んでいた。
「それも、まだ理由までは分からない」
「分からないばかりじゃないか」
「ああ。だから、分かったふりをしない」
広間が少し静かになった。
院長はその言葉を引き取り、現在確認できている事実だけを説明した。東門では三年前の通行記録に不整合が見つかり、治安局による監査が始まっていること。大型荷車の通行が一時的に制限されたこと。白環の黒銀剣と銀縁のロケットについて正式な保全状況確認が行われ、今朝は何も持ち出されなかったこと。そして、白環へ出入りする者が外で質問を受けているという報告が複数あること。
「白環は犯罪者を匿ってるのか?」
誰かが尋ねた。
「匿っていない」
院長が答える。
「ここにいるのは患者と、捜査に協力している人間だ」
「東門副長も?」
「治療院内にいるが、拘束命令も逃亡扱いも受けていない」
「ガリックって人は?」
ガリックが自分で手を挙げた。
「ここだ」
「治安局と揉めたって聞いた」
「六年前にな」
「何をした」
ガリックは一度だけ深く息を吸った。恐怖は消えていない。それでも、隠す必要もなくなっていた。
「六年前、俺は王立街道警備隊にいた。東第二工廠へ向かう三台の荷車を護衛していたが、途中で難民を見つけた。食料を分けるよう求めたが、当時の隊長に拒否された」
「それが今朝来た男?」
「ああ。ヘルマン・ロウだ」
広間の空気が僅かに変わった。
「俺は命令に逆らって、食料が積まれているはずの一台を開けた。中にいたのは食料じゃなかった。手を縛られ、口を塞がれた人間が十二人いた。大人も子供もいた」
ざわめきが広がる。
「治安局の荷車だったのか?」
「違う。当時の俺たちは王立街道警備隊だった。今の治安局とは別だ」
「誰が十二人を運んでた?」
「分からん」
「ロウは知ってたんだろ」
「そう思いたくなる。だが、俺が確実に言えるのは、荷車を開けた後にロウから背中を斬られたことと、護送隊が旧道へ進んだことまでだ」
「それだけ?」
「それだけだ。六年前の出来事と今の荷車の記録が同じものかも分からん。ロウが今朝ここへ来た理由も、文書上は保全確認だった。俺はあいつを信用してない。怖いし、腹も立ってる。それでも、嫌いだからって見ていない罪まで足すつもりはない」
大広間は先ほどより静かになっていた。
「なら、どうしてここにいるんだ」
最初の中年の男が尋ねた。
「治安局が気になるなら、別の治療院へ移ればいいだろ」
「俺はまだまともに歩けん。それに、ここには六年前のことを調べるために必要な人間と記録がある。だが、俺たちのせいで不安だと言われれば、それも分かる」
「出ていけとは言わない」
男は少し声を落とし、隣にいる妻と幼い娘へ視線を向けた。
「娘がいるんだ。外で治安局が人の名前を書いてるのを見ると、ここにいるだけで何かに巻き込まれるんじゃないかと思う」
アイリは父親の服を握る少女を見てから、ゆっくり口を開いた。
「怖いって言ってくれて、ありがとうございます」
男が意外そうに彼女を見る。
「怒ってるんじゃないのか」
「怖い時に怒ることもあるから。私も怖いです。治安局の人が外に増えてるのも、ロウさんが来た時にガリックが固くなったのも怖い。でも、怖いから誰かが悪いって先に決めるのも怖い」
「じゃあ、どうするんだ」
「分かったことを一つずつ確かめます」
「それで危なくなったら?」
「その時は、危ないことを隠さずに言います。それから、ここを出たい人がいるなら、止めない方がいいと思います」
レンが妹へ視線を向けた。
「アイリ」
「私たちのせいで怖いと思ってる人を、ここに閉じ込めたら駄目でしょう」
院長も頷いた。
「その通りだ。白環は患者を拘束する場所ではない。転院や帰宅を望む者には、身体の状態を確認したうえで可能な限り対応する。ただし、外で治安局の質問を受ける可能性があることは説明する」
「止められるかもしれない?」
「現時点では、患者が白環を出ることを禁じる命令はない」
「なら帰れるんだな」
「ああ。ただ、怪我の状態によっては医療上認められない場合がある」
男は妻と娘を見た。
「俺はまだ歩けない」
「無理に出る必要はないよ」
アイリが言った。
「でも、残るかどうかも自分で決めていいと思う」
男はしばらく答えなかった。
エリリアが広間全体を見渡しながら、静かに言葉を続けた。
「白環が今後危険になるかどうかは、私たちにも分かりません。ただ、状況が変われば隠さず伝えるべきだと思います。食料や薬の搬入が止まった、外出が禁じられた、強制捜索の命令が出た。そのような事実が起きた時は、すぐ皆へ知らせる。それまでは噂だけで決めない」
「治安局を信じろってこと?」
「いいえ」
「じゃあ、お前たちを?」
「それも違います。どちらか一方を先に信じる必要はありません。見たものと、確認できたものを基準にすればいい」
後方にいた老女が小さく笑った。
「面倒な答えだね」
「簡単な答えがあれば良かったのですが」
「でも、あんたたちは簡単な答えを売らないんだね」
壁際にいたミレナが肩をすくめた。
「簡単な答えは、高くつくことが多いから」
「情報屋らしい」
「元からそういう仕事よ」
広間にほんの僅かな笑いが生まれた。
その後も質問は続いた。白環の食料は足りているのか。薬は入ってくるのか。夜間に治安局が入ってくる可能性はあるのか。東門が完全に閉まった場合はどうするのか。院長と職員は分かる範囲だけを答え、ガリックも朝に確認した備蓄量を説明した。水は井戸で確保でき、今すぐ配給を減らす必要もない。強制捜索については命令が出ていない以上、起こるとも起こらないとも断言しなかった。
最後まで不安を拭えない者はいた。それでも大広間を出る頃には、「白環が治安局と戦争を始めた」という噂だけはかなり薄れていた。誰かを説得し切ったわけではない。ただ、恐怖の中に事実を置く場所ができた。
◇
午後になると、白環の外にいる治安局員はさらに増えた。正門前へ立つ者はいないが、東へ続く大通りの角に二人、西側の市場へ抜ける道にも二人、裏手の通りにも制服姿が見えるようになった。歩いて巡回する者もいれば、近くの商店へ入り、白環へ向かう荷車について質問する者もいる。
白環へ食料を運んできた荷車も、午前より長く止められた。
「一刻までは掛かってない」
厨房係が報告した。
「でも、荷を全部開けられた。肉の包みまで」
「傷んだ?」
ガリックが尋ねる。
「今日は大丈夫。ただ、毎回これだと困る」
「薬草は?」
院長が尋ねる。
「午後便はまだ来てません」
「予定より半刻遅れているな」
「止められたと決めない」
ミレナが言った。
「だが確認はする」
東門副長が通常の伝令で問い合わせると、薬草車は東門ではなく、白環へ入る手前の検査所で止められていることが分かった。積載記録の一枚に記入漏れがあり、その訂正待ちだという。
「理由はある」
副長が言った。
「少なくとも書類上はな」
「訂正すれば来る?」
「そういう返答だ」
「どのくらい掛かる?」
「そこまでは分からん」
ガリックは在庫表へ目を落とした。
「今日来なくてもすぐには困らん。明日までなら持つ」
「なら、今すぐ別の道を探す必要はない」
レンが言った。
「お前がそう言うとは思わなかった」
「無理に運ばせて別の商人まで巻き込む方が悪い」
「少しは賢くなったな」
「少しって何だ」
アイリが笑った。
「二人とも褒められるの嫌いだね」
「褒め方が腹立つんだ」
ガリックとレンの声がほとんど重なった。
◇
夕刻前、白環を出ようとした一組の親子が正門の外で治安局員に呼び止められた。昼の大広間で不安を口にしていた男ではない。腕の治療を終えた若い母親と七歳ほどの息子で、医師から帰宅許可を受けていた。
治安局員は二人を拘束しなかった。母親の名前、住所、白環にいた期間、誰と同じ病室だったかを尋ね、帳面へ書き込む。母親は何度か白環を振り返ったが、やがて息子の手を引いて通りを歩いていき、追う者もいなかった。
「帰れた」
アイリが言う。
「ああ」
「でも、同じ病室の人まで聞かれた」
ミレナは窓の隙間から治安局員を見下ろした。
「患者本人だけじゃなく、接触した人間まで確認している可能性はある。でも、目的まではまだ分からない」
「向こうにも二人います」
エリリアが西側の通りを見た。
「裏手にもいる」
東門副長が続ける。
「洗濯場へ荷を入れる商人へ質問していた」
アイリは指を折りかけ、手首に走った痛みに眉を寄せた。
「痛んだ?」
レンがすぐ気づく。
「少しだけ」
「治療師に言え」
「お兄ちゃんも今朝ちゃんと言ったから?」
「ああ」
「じゃあ、言う」
レンは妹が治療師のところへ向かうのを見届けてから、再び外へ視線を戻した。どの道にも治安局員がいる。それでも白環の正門は開いており、治療師も患者も外へ出られる。商人も検査を受ければ荷を運び込める。
「包囲じゃない」
レンが呟いた。
「まだね」
ミレナが答える。
「でも、そう見える」
ガリックも椅子から窓の外を見た。午前中にロウ本人と向き合った時より、表情は落ち着いている。
「六年前なら、俺はもう全部あいつがやってると思ってただろうな」
「今は?」
「ロウが東門の監査担当で、白環の保全確認にも来た。外に治安局員が増えた。そこまでは一緒に書ける」
「その先は?」
「まだ書かん」
ミレナは僅かに笑った。
「上出来」
「お前まで褒めるな」
「嫌ならやめる」
「……今のはいい」
治療師への報告を終えたアイリが戻ってくる。
「何の話?」
「何でもない」
「隠してる?」
「違う!」
久しぶりに少し大きな笑いが起きた。
その笑いが収まった直後、正門から受付係が二階へ上がってきた。
「院長、治安局から通知です」
「今度は何だ」
「明日から監査期間中、東地区の医療施設、倉庫、商会へ出入りする大型荷車について、事前申告を求めるとあります」
「白環だけではないのね」
エリリアが言う。
「だが、さらに荷が遅くなる」
ガリックが眉を寄せた。
「申告はいつまでに?」
「前日の夕方です」
「急患用の薬は?」
「緊急搬送については例外で、後から報告すればいいと」
「完全には塞いでない」
レンが言う。
「ええ。ただ、毎日少しずつ手続きが増えている」
ミレナは通知を読み終え、これまでの文書とは別に時系列の束へ加えた。
◇
日が沈む頃、東門は再び通常の人通りを許していた。大型荷車の監査は続いているが、昨日のように門扉そのものが長く閉じられることはなかった。それでも商人の多くは既に別の門へ回り始め、東地区を通る荷の量は目に見えて減っている。
白環治療院にも正門を閉ざす理由はなく、灯りを入れて普段どおり夜間の患者を受け入れる準備をしていた。その開いた門の外を治安局員が二人通り過ぎ、しばらくすると反対方向から別の二人が現れる。西側の角にも、裏通りにも濃紺の外套が見えた。
「夜もいるのかな」
アイリが尋ねる。
「交代するなら、残るかもしれません」
エリリアが答えた。
「怖い?」
レンが妹を見る。
「うん。でも、朝よりは何が怖いのか分かる。外へ出たら名前を聞かれるかもしれない。薬が遅れるかもしれない。ロウさんがまた来るかもしれない。でも、今すぐ兵が入ってくるって決まったわけじゃない」
「そうだな」
「お兄ちゃんは?」
「このまま少しずつ普通じゃなくなって、気づいた時には何も選べなくなってることが怖い」
その言葉を聞いたミレナは、卓へ一枚の紙を置いた。
「なら、毎日残しましょう」
「何を?」
「昨日と違うこと。治安局員が何人増えた。荷車の検査にどれだけ時間が掛かった。誰が何を聞かれた。どんな通知が届いた。事実だけを書いて、理由は書かない」
「どうして?」
「少しずつ変わるものは、慣れると見えなくなるから」
ガリックが紙を見る。
「六年前に欲しかった記録だな」
「だから今度は残す」
東門副長も頷いた。
「一か所だけに置くな」
「分けて保管する?」
アイリが尋ねる。
ミレナは一瞬、六年前の黒い鳥と、自分が後に学んだ「鴉」の方法を思い出したように目を細めた。
「方法が似ているからといって、同じやり方にする必要はない。今の私たちに合う形を決めましょう」
「また先に決めつけないってことだね」
「今日何回目?」
「数えてない」
「ガリックなら数えてる」
「七回くらいだ」
全員がガリックを見る。
「本当に数えてたの?」
「何となくだ」
「絶対嘘」
「これで八回目だ」
わずかな笑いが、今度は先ほどより長く続いた。
夜が深くなる前、白環治療院の正門には普段どおり灯りがともされた。扉は閉ざされていない。急患が来れば治療師が迎え入れ、帰宅を許された患者がいれば外へ出ることもできる。
それでも、門の向こうへ伸びる三本の通りには、どこにも濃紺の外套が見えた。人が入れば名前を尋ねられ、人が出れば行き先を確認される。荷が届けば積載記録を見られ、届け先を書き留められる。誰も白環を封鎖したとは言わず、包囲を命じる文書も存在しない。
だからこそ、その光景は不気味だった。
ガリックは窓際の椅子から外を見つめた。
「門は開いてるんだな」
「ああ」
レンが答える。
「道も通れる」
「今はね」
ミレナが言った。
白環の正門を一人の治療師が出ていく。通りの角にいた治安局員が彼女を呼び止め、短く話を聞いてから通した。その姿が暗い道の向こうへ消えるまで、別の治安局員が視線を追っている。
治療院の扉は開いていた。
それなのに、その先へ伸びるどの道も、もう自由には見えなかった。
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