↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第二章 王都の闇
84/111

第二章 第二十五話 六年前の鴉

ガリックが六年間抱えてきた記憶を語った翌朝、中央回復室の空気は、それまでとは僅かに変わっていた。治安局の証拠保全命令も、武器保管庫で四者の封印を受けた黒銀剣も、レンの首元へ残された銀縁のロケットも、何一つ解決したわけではない。それでも皆の意識には、六年前、東街道の旧道へ消えた三台の荷車が重く残っていた。書類には保存食や武具と記されながら、実際に開いた一台には縄で縛られた十二人が乗せられていた。命令へ逆らったことでガリックの背に残った傷。証言を変えず、拘束から三日後に死んだセイン・バルカ。行方を追えなくなった妻マラと娘リコ。そして、襲撃より前に起きたことにされた軍用矢の盗難記録。どれも単独では答えにならない。けれど、三年前にエドラス・フィンが追っていた「空の荷車」と並べて調べる理由としては、十分すぎるほどの違和感を残していた。


 朝食を終えたガリックは、院長から念を押された通り椅子へ座ったまま動こうとはしなかった。もっとも、大人しくしているのは身体だけで、その目は何度も扉へ向いている。


「来るまで見ても、記録は早く来ないよ」


 アイリが言った。


「見てない」


「今ので六回目」


「数えてたのか」


「ガリックが食事の数を毎回数えるから、私も数える癖がついた」


「悪いところを覚えるな」


「昨日、お兄ちゃんにも同じこと言ってたよ」


 その隣では、レンが移動卓の上で左手の指をゆっくり開閉していた。右上腕にはまだ強い負荷を掛けられず、左前腕も長く使えば薬指と小指から痺れが強くなる。朝の訓練はいつもより早く切り上げていたが、頭の中では既に、六年前の旧道と三年前の空荷記録を何度も並べ直している。


「お兄ちゃんも待ってる顔してる」


「俺は見てない」


「兄妹で同じ言い訳をするな」


 ガリックが言う。


「ガリックが先に言ったんだろ」


「俺はいい」


「どうして」


「年上だからだ」


「理由になってない」


「二人とも、静かにしなさい」


 エリリアが呆れたように言ったが、口元には僅かな笑みがあった。


 窓際では、ミレナが昨日聞いた内容を小さな紙へ整理していた。ただし、一枚の紙へ何もかも書き込んではいない。六年前。東街道北分岐。護送荷車三台。書類上の積荷。開いた一台に十二人。旧道への進路変更。襲撃者は荷車そのものではなく、その周囲と荷を開けた者を狙った。セイン死亡。マラ、リコ所在不明。東第二工廠の矢に関する記録の不一致。そこまでを書き終えると一本の線を引き、その下には何も足さず、筆を置いた。


「続きは?」


 アイリが横から覗き込む。


「まだないわ」


「エドラスの荷車は?」


「別の紙」


「繋げないの?」


「繋がった証拠がないもの」


「似てるのに?」


「似ていることと、同じであることは違うでしょう」


 ミレナは隣へ置いた二枚目の紙を指先で叩いた。


「違う時代、違う証言、違う記録は、まず別々に置くの。最初から一枚へ書いてしまうと、人は無意識に一つの事件として読むようになる」


 アイリはしばらく紙を見比べ、やがて頷いた。


「分かった」


「本当に?」


「……たぶん」


「それでいいわ。分かったふりをするより、ずっとまし」


 その時、回復室の扉が二度叩かれた。


 入ってきた東門の副隊長は、片手に古びた革鞄を提げていた。


「待たせた」


「遅い」


 ガリックが即座に言う。


「昨日の今日で六年前の記録を持ってきた人間へ、最初に言う言葉がそれか」


「待ってた」


「子供か」


「いいから見せろ」


「院長から動くなと言われてるんだろう」


「だから、お前がここへ持ってきたんだろ」


「昔から面倒な奴だ」


「知ってるなら早くしろ」


 副隊長は深く息を吐いたが、本気で腹を立てている様子はなかった。


 机へ置かれた革鞄は東門の公用保管箱ではなく、使い込まれた私物だった。表面には何度も油を塗り直した跡があり、金具の一部は異なる部品で補修されている。副隊長は留め具を外す前に部屋を一度見回した。


「先に言っておく。ここにあるのは正式な保管記録ばかりじゃない。六年前に俺が個人的に写したもの、廃棄前に残した控え、それから外部へ預けた後に戻ってきた一部だ。原本と照合できるものもあれば、今となっては照合できないものもある」


「つまり、全部を同じ強さの証拠として扱うな、ということね」


 ミレナが言う。


「ああ」


「なら、最初から分けて見ましょう」


 副隊長がまず取り出したのは、薄い帳簿紙三枚だった。


「東第二工廠の月末集計から、当時の俺が写した数字だ。ガリックが襲われた日の直前、軍用矢の在庫に大きな不足はなかった」


「原本は?」


 レンが尋ねる。


「後で数字が変わった。少なくとも、俺が最初に見たものとは違っていた」


「差し替えられたと証明できる?」


「この控えだけでは無理だ」


「でも、違う数字の記録が二つ存在した」


「そこまでは言える」


 ミレナが小さく頷き、紙の端へ短い印を付けた。


「次」


「これは一週間ほど後に回ってきた盗難報告の写しだ。文面では、襲撃の三日前に東第二工廠から軍用矢が盗まれたことになっている」


「なのに、襲撃直前の在庫には不足がなかった」


 アイリが言う。


「俺が最初に見た数字ではな」


 エリリアは二枚の紙を慎重に見比べた。


「後から盗難日を遡らせた可能性はあります。ただ、最初の集計に誤りがあった可能性も残りますね」


「そういうことだ」


「盗難報告を作った人は?」


 レンが尋ねる。


「署名は当時の工廠副管理官。五年前に退職し、その後病死している」


「それ以上は?」


「今はない」


 レンが何か言いかけるより早く、ミレナが次の紙へ視線を移した。


「死亡時期が近いからといって、事件と結びつけない。次を見ましょう」


 副隊長が一瞬だけ彼女を見る。


「話が早くて助かる」


「金貨一枚」


「取るのか」


「冗談よ」


「分かりにくい」


「ガリックよりは分かりやすいでしょう」


「俺を巻き込むな」


 副隊長は鞄から折り畳まれた大きな紙を取り出し、机いっぱいに広げた。


「こっちが本命だ。ガリックたちへ渡されていた護送経路表の控え」


 王都東部から東第二工廠へ至る街道が太い線で描かれ、途中の中継所や検問所も細かく記されている。本来の護送経路はほぼ一本道で、北分岐へ入る理由は見当たらなかった。


「ここだ」


 ガリックが椅子から身を乗り出しかける。


「動くな」


 アイリと副隊長の声が重なった。


「指すだけだ」


「杖を持とうとした」


「近い方が見える」


「俺が持っていく」


 副隊長が地図をガリックの前へ寄せると、彼は不満そうにしながらも、指だけを動かした。


「難民が止まっていたのが、この石橋の少し南だ。荷車三台は襲撃の途中で、ここから旧道へ折れた」


 指先が、本来の護送線から離れた細い道へ移る。


「この道はどこへ?」


 レンが尋ねる。


「当時でも一部しか使われていなかった」


 副隊長がさらに古い地図を重ねた。


「北東へ進んだ後で主要街道から離れ、南東へ大きく回り込む。もっと古い地図では、その先から王都南東部の物流路へ戻る支線がある」


「南旧検問所は?」


 ミレナが尋ねる。


「直接繋がってはいない。ただ、この支線の一つが後年の南側物流路と一部重なる」


 エリリアが二枚の地図を慎重に追った。


「六年前の荷車が、私たちの調べた旧検問所を通ったとは言えませんね」


「言えん」


「けれど、表の本道から外れ、後の物流区域へ近づく旧道へ入った」


「ああ」


「エドラスが追った荷車は?」


 レンが尋ねると、ミレナが別の紙を机へ置いた。


「三年前。南倉庫街付近。申告上はほぼ空荷。それなのに、車軸の沈み方が軽荷ではなかった。二件については時刻まで残っている」


 副隊長は六年前の地図と見比べた。


「距離はある」


「同じ道とは言えない?」


 アイリが尋ねる。


「今は言えないわ」


 ミレナが答えた。


「六年前には、正式な申告と実際の積荷が一致しない輸送があり、主要路から外れた道へ進んだ。三年前には、申告と実際の重量が合わない荷車があった。そして現在、閉鎖後の旧検問所から夜間通行の欠落が見つかっている。並べて調べる価値はある。でも――」


「重ねない」


 アイリが先に言った。


 ミレナの口元が僅かに上がる。


「そういうこと」


 ◇


 次に副隊長が机へ並べたのは、ガリックの処分に関する聞き取り記録だった。ガリック本人の供述、セイン・バルカの供述、途中で証言を変えた隊員の供述、そしてロウ側が提出した任務報告。ただし完全なものは一つもなく、ガリックとセインの記録には頁の欠落があり、ロウ側の報告も後半部分しか残っていなかった。


「俺が人を見たと話した部分は?」


 ガリックが尋ねる。


「残ってる」


 副隊長が一枚を抜き出した。


『第一荷車内部に複数名の拘束者を確認したと主張』


 アイリが眉を寄せる。


「……『主張』」


「証明できなかったからだ」


 ガリックは静かに答えた。


 その下には、


『他の証人による確認なし』


 と続いている。


「セインは見てたんでしょう?」


「セインの供述は別紙扱いだった」


 副隊長が次の一枚を置いた。


『荷台内部に成人および児童を確認。人数は不明。被拘束者あり』


 レンの表情が変わった。


「大筋は同じだ」


「ああ」


「それでも、ガリックの処分は残った」


「セインは死に、荷台から出た人間の証言も残らなかった。もう一人の隊員は供述を変えた」


 エリリアが紙面へ目を落とした。


「そして最終的に残ったのは、命令違反と護送任務放棄」


「そうだ」


 副隊長はさらに一枚を抜き出した。


「マラ・バルカとリコ・バルカについても調べた」


 ガリックの顔から、先ほどまでの苛立ちが消えた。


「何かあったか」


「死亡記録はない」


 ガリックの指が膝の上で僅かに動いた。


「転居は」


「通常の転居届も見つからなかった。ただ、それだけで失踪とは断定できない。六年前は今より記録漏れも多い。地区をまたぐだけで照合できなくなる例もある」


「最後に確認できるのは?」


「セインが死んだ四日後。マラの名前で、王都南区の食料配給所から二人分の配給を受け取っている」


「二人分……」


 アイリが呟いた。


「マラとリコ?」


「可能性は高い。ただし、記録から確かめられるのはマラの名だけだ」


「その後は?」


「途切れている」


「誰かが消した?」


 レンが尋ねる。


「分からない」


 副隊長は即答した。


「消されたのか、自分たちで王都を出たのか、別の地区や制度へ移って記録が追えなくなったのか。今の材料では決められない」


 ガリックは目を閉じた。


「四日後までは王都にいた」


「ああ」


「俺が外へ出るより前だ」


「そうなる」


「……もっと早く探せていれば」


「それを今考えても、記録は増えないわ」


 ミレナが言った。


 ガリックが彼女を見る。


「慰める気はないのか」


「ない。あなたが拘束されていた間に何ができたかなんて、今の私には分からない。それより最後に確認できる場所が一つ増えた。南区の配給所。その日の担当者、配給名簿、周辺の住居記録。残っているものから追う」


「六年前だぞ」


「だから何?」


「残ってないかもしれん」


「残っているか調べる前に諦めるの?」


 ガリックは口を閉じた。


「……頼む」


「金貨一枚」


「今度は払う」


「冗談なのに」


「ややこしい女だな」


 ミレナは僅かに笑った。


 ◇


「まだ一つある」


 副隊長が最後に鞄から取り出したのは、他の書類より一回り小さな紙包みだった。


「これは俺が作ったものじゃない」


「誰の?」


 レンが尋ねる。


「分からん」


 包みの中には六年前の経路表の一部と、工廠集計の数字を写した短い控えが入っていた。内容の多くは副隊長が持っているものと重なるが、紙質も筆跡も明らかに異なる。


「これが戻ってきたのは、俺がガリックの処分決定を知った翌日だ」


「戻ってきた?」


 エリリアが聞き返す。


「書き換え前の数字が消えると思って、俺は控えを三つに分けた。一つは自分で持った。一つは信用できる記録官へ渡した。最後の一つは役所の外へ出した」


「誰へ?」


 ミレナが尋ねる。


「知らない」


「知らない相手へ?」


「直接は渡していない。仲介を使った。当時、表へ出せない記録を預かる者がいると聞いた。名前も顔も知らない。指定された酒場へ封をした紙を置き、翌朝なくなっていれば受け取られたことになる」


「かなり危うい方法ね」


「他になかった」


「それで、外へ出した控えの一部がこれ?」


「ああ」


 副隊長は紙を裏返した。


 右下に、小さな黒い鳥の羽根を思わせる印がある。


 その下には、古い筆跡で二つの符号だけが残されていた。


『外・七』


 ミレナの表情が変わった。


 レンはその一瞬を見逃さなかった。


「知ってる?」


「いいえ」


「でも、何か気づいた」


「印の使い方よ」


 ミレナは紙へ手を伸ばさず、机の上に置かれたまま覗き込んだ。


「これは人の名前を書いた署名には見えない。受け取った者が自分の身分を示す印とも違う。黒い鳥が仲介経路そのものを示していて、『外・七』はその中の場所や順番、保管先を区別する符号かもしれない」


「鴉のやり方?」


 アイリが尋ねる。


「今の私なら、似た方法を使う」


 ミレナは紙面を目だけで追った。


「一人が原本を全部持たない。受け取った者は次の受取人を知らない。控えを複数へ分ける。誰か一人が捕まっても、全部は消えない。名前ではなく符号を使えば、紙だけ奪われても人間までは辿られにくい」


「俺が記録を三つへ分けたのも、仲介人にそう指示された」


 副隊長が言った。


 ミレナが顔を上げる。


「何て?」


「『一羽へ全部を持たせるな』」


 回復室が静まり返った。


「鴉……」


 アイリが小さく呟く。


「同じ名前だったの?」


「名前は聞いてない。黒い鳥の印だけだ」


「『外・七』は?」


「当時は意味を考えなかった」


 レンが紙へ目を落とす。


「人を表してる可能性もある?」


「なくはない」


 ミレナが答えた。


「でも、今は人だと考える理由もない。『外』が外部保管を指すのかもしれないし、『七』が七番目の経路や預け先を示すのかもしれない。それすら推測よ」


「じゃあ、名前を探しても意味がない?」


「今の段階では、名前だけを探す方が危ないわ。似たものを見つけた瞬間、それが答えだと思い込みやすくなる」


 エリリアが頷いた。


「今確実なのは、六年前、黒い鳥の印と『外・七』という符号を使う誰か、あるいは何らかの仲介経路が存在したこと。そして、その経路を通して副隊長の記録の一部が外へ逃がされたことですね」


「どうして戻したの?」


 アイリが尋ねる。


 副隊長は紙をもう一度裏返した。


 黒い鳥の印の横に、薄い文字が残されている。


『一部を残す。残りは別へ。人より記録を生かせ。』


「残りはどこへ?」


 レンが尋ねる。


「六年前から分からない。仲介に使った酒場は一年後に閉じた。主人は地方へ移ったらしいが、その後の所在は追えていない。俺自身、接触した相手の顔さえ見ていない」


「その言葉……」


 ミレナが低く呟いた。


 灰色の瞳は六年前の紙を見ていたが、その意識はもっと遠い場所へ向いているようだった。


「何?」


 アイリが尋ねる。


「私が『鴉』になった頃に教えられたことと、少し似ている」


「誰に教わったの?」


「一人じゃないわ」


 ミレナはゆっくり椅子へ腰を戻した。


「疫病のあと、私は表の記録がどれだけ簡単に別の話へ変わるかを知った。誰が人を救おうとしたのか。誰が薬を持ち込んだのか。誰が逃げ、誰が残ったのか。実際に起きたことと、紙に残されたことは同じじゃなかった。その後、私は生きるために情報を集め始めた」


 誰も途中で口を挟まなかった。


「裏市場には、記録を売る人間がいくらでもいた。役人、商人、宿の主人、荷運び、墓掘り。誰が金で話し、誰が嘘をつき、誰が家族のためなら絶対に口を開かないか、一人ずつ覚えた。そうして何年か経った頃、私が情報を一か所へ集めすぎていると忠告されたの」


「誰に?」


「知らない」


「知らないの?」


「短い手紙だった。差出人はなかった。書いてあったのは――『鴉は巣を作るな。巣は燃やされる』」


 副隊長の顔が僅かに変わった。


「続きは?」


「『一つの記録を三つへ分けろ。名前を一人へ預けるな』」


 今度こそ、誰もすぐには言葉を出さなかった。


「六年前の仲介人と同じ人?」


 アイリが尋ねる。


「分からない」


 ミレナは即座に答えた。


「私がその手紙を受け取ったのは、ずっと後。同じ人間が生きていたのか、同じやり方を別の誰かが引き継いでいたのか、それとも似た考え方をしただけなのかも分からない」


「でも、その忠告から今のやり方へ変えた?」


「ええ」


「『鴉』って名前も?」


 ミレナは少し考えた。


「最初から自分で名乗ったわけじゃない。情報を買いに来る連中が、いつの間にかそう呼び始めた。黒っぽい服が多かったからとか、死んだ記録を漁るからとか、理由はいくつか聞いたわ。そのうち訂正するのが面倒になった」


「なら、昔の鴉を継いだつもりはない」


 レンが言う。


「少なくとも私はね」


「でも、お前より前に、似た方法を使っていた誰かがいた」


「それだけは確か」


 ガリックが椅子の背へ身体を預けながら低く言った。


「六年前、俺の記録を消し切れなかった理由の一つが、その誰かだった」


 ミレナの指が黒い鳥の印へ近づき、触れる寸前で止まった。


「外・七……」


「何だと思う?」


 レンが尋ねる。


「まだ決めない。人かもしれない。場所かもしれない。保管先や経路を示す符号かもしれない」


「じゃあ、どう調べる?」


「まず、この鳥の印が他の六年前の記録にないか探す。『外・七』と同じ表記だけじゃなく、『外』や数字を組み合わせた別の符号もね。副隊長が利用した仲介経路、その酒場、当時外部保管を使っていた役人。そこから一つずつ」


「一つずつ」


 アイリが繰り返す。


「ようやく覚えたわね」


「たぶん」


「それでいい」


 ◇


 昼を過ぎる頃には、机の上に三つの調査束ができていた。


 一つは六年前のガリックの事件。護送経路、工廠在庫、後から現れた盗難報告、ガリックとセインの供述。


 一つは三年前のエドラス・フィンの記録と、現在の旧検問所で見つかった欠落。


 そして最後の一つは、そのどちらにもまだ繋げてはいけない、黒い鳥の仲介印と「外・七」。


 アイリが三つの束を見比べる。


「離れてる」


「その方がいい」


 ミレナが答えた。


「いつか繋がったら?」


「証拠で繋げる」


「繋がらなかったら?」


「別の話だったと分かる。それも答えよ」


 レンは三つ目の紙束へ視線を向けた。


「『外・七』を辿れたら、ミレナのことも少し分かるかもしれないな」


「私の何が?」


「どうして、お前が同じやり方を知ることになったのか」


「知りたい?」


「ミレナは?」


 問い返され、ミレナは少しだけ黙った。


「……知りたいわ」


 何の飾りもない、短い答えだった。


「私は、自分で鴉になったと思っていた。必要だったから情報を集め、消されるなら分け、信用できないなら複数へ預けた。たとえ、その方法を誰かが先に使っていたとしても、私が選んできたことまで他人のものになるわけじゃない」


「ならないよ」


 アイリがすぐに言った。


「まだ最後まで言ってない」


「でも、ならない」


「どうして?」


「ミレナが選んで続けたから」


 ミレナはアイリをしばらく見つめた。


「簡単に言うわね」


「違う?」


「……いいえ」


 ガリックが鼻を鳴らした。


「昔の鴉だろうが今の鴉だろうが、記録を残したなら役に立つ」


「情緒がないわね」


「俺の命を助けた記録だ。十分ありがたい」


「あなたの命を助けたのは、副隊長の控えでしょう」


「それだけなら足りなかったかもしれん」


 副隊長も小さく頷いた。


「外へ出した記録が存在していたことで、処分を急いだ側も全部を消し切れなかった可能性はある。どこに何が残っているのか、向こうにも分からなかったからな」


「記録が分散していたこと自体が、防御になった」


 エリリアが言う。


「ええ」


 ミレナは六年前の黒い鳥を見た。


「誰だったのかは知らない。でも、やり方は間違ってなかった」


 しばらくして、副隊長が書類を革鞄へ戻し始めた。


「原本に近いものは俺が持ち帰る。ここへは写しを残す。ただし、全部を白環には置かない」


「また三つに分ける?」


 アイリが尋ねる。


「ああ。一部は東門。一部は白環。残りは別の場所へ」


「場所は?」


「言わない」


「また?」


「知らなければ話せない」


 アイリは少し不満そうな顔をしたが、今度はそれ以上聞かなかった。


「学んだな」


 副隊長が言う。


「ミレナから」


「だから私を悪い見本にしないで」


「役に立ってる」


「それも昨日聞いたわ」


 副隊長が鞄を閉じようとしたところで、ミレナが呼び止めた。


「『外・七』の紙だけ、もう一度見せて」


 差し出された紙を、今度は自分の手で受け取る。


 六年前の数字。


 古びた紙。


 小さな黒い鳥。


 そして、「外・七」。


 ミレナは指先で紙の端をなぞり、僅かに眉を寄せた。


「何かある?」


 レンが尋ねる。


「端を見て」


「紙?」


「真っ直ぐじゃないでしょう」


 副隊長も覗き込んだ。


「破れた跡じゃないのか」


「違う。細かい波形が一定に続いてる。最初から、この形に切られている」


「何のために?」


「もう一枚と合わせるため」


 ミレナは紙の切断面を目で追った。


「同じ一枚から切り分けた紙なら、断面が噛み合う。印や署名ほど便利じゃないけれど、現物同士を合わせれば同じ紙から分けたものか確認できる」


「もう半分がある?」


「少なくとも、作った時にはあったはず」


「今どこに?」


 ミレナは首を横へ振った。


「分からない」


「それを探すの?」


 アイリが尋ねる。


「ええ」


「見つかったら『外・七』の意味も分かる?」


「そんな都合よくはいかない。でも、誰かがこの紙をどこへ分けたのか、次の経路へ進めるかもしれない」


 ミレナはもう一度紙面を見つめた。


「六年前、誰かがこの記録を二つに分けた。一方を副隊長へ戻して、もう一方をどこかへ残した」


「人より記録を生かせ」


 レンが残された言葉を思い出す。


「ええ」


 ミレナは紙を副隊長へ返し、僅かに笑った。


「ずいぶん昔から、嫌なことを言う鴉がいたみたいね」


 その日の夕方、三つの記録束は再び別々の場所へ分けられた。ガリックの六年前。エドラスの三年前。そして、そのどちらにもまだ属さない黒い鳥。誰かが昔、記録を一か所へ集めれば消されると知っていた。だから分けた。一人が消えても、別の誰かが続きを拾えるように、名前と数字と証言を別々の場所へ残した。


 ミレナは窓の向こうへ沈んでいく夕日を見ながら、静かに胸元へ指を触れた。


 鴉という名を、自分は生きるために使ってきた。


 けれど六年前、まだ自分がその名を持つより前に、同じ黒い鳥を記録へ残した誰かがいる。


 その正体は分からない。


「外・七」が人を指すのか、場所なのか、それとも経路そのものを示す符号なのかさえ、まだ分からない。


 それでも初めて、ミレナ自身の過去ではなく、彼女が使ってきた「鴉」という名の過去が、王都の古い記録の底から静かに姿を見せ始めていた。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。