第二章 第二十四話 ガリックの古い傷
治安局による一時証拠保全命令をめぐる長い一日が終わった翌朝、白環治療院の回復室には久しぶりに大きな騒ぎのない時間が戻っていた。黒銀剣は治療院の武器保管庫に残され、治安局、白環治療院、東門守備隊、そして所有者側の立会人であるガリック――四者それぞれの印を用いた封印の向こうにある。ロケットもレンの首元へ戻ったままで、即時保全審査の結果が出るまでは治療院から持ち出さないという制限こそ付いたものの、治安局へ引き渡されてはいない。何かを勝ち取ったというより、判断するための時間を確保しただけだった。それでも昨日まで胸の奥に張りつめていたものが僅かに緩み、レンは朝の訓練で左手の指をゆっくり開閉しながら、ようやく目の前の治療へ意識を戻すことができていた。
少し離れた場所では、ガリックが定期の診察を受けていた。左脚と、これまで幾度か負担を掛けてきた脇腹の傷を確認するだけの予定で、新たな出血も傷口の開きもない。治療師から上着を脱ぐよう言われたガリックは不満そうな顔こそしたものの、今回は抵抗せず、椅子へ腰を下ろしたまま厚い上着を肩から外した。
「……それ」
最初に声を上げたのはアイリだった。
ガリックの右肩甲骨の下から、背中を斜めに横切るように一本の古い傷跡が走っていた。単純に剣で斬られただけの痕ではない。中央は指二本ほどの幅で皮膚が大きく潰れ、硬く引きつれた組織がその周囲を囲んでいる。傷は右肩の下から脇腹近くまで続き、その周辺にはさらに幾つかの古い裂傷や刺傷の痕まで残されていた。
「今の傷じゃないよね?」
アイリが尋ねる。
「ああ」
「何年前?」
「昔だ」
「それ、答えになってないよ」
「昔は昔だ」
治療師が古傷の周囲へ軽く指を当て、皮膚と筋肉の状態を確かめると、ガリックの背中が僅かに強張った。
「古傷そのものは安定している。脇腹も悪化していない。ただ、これは相当深くやられた跡だ。筋肉まで傷ついている」
「長柄武器ですね」
少し離れて見ていたエリリアが言った。
「刃幅が広い。斜め後ろから入り、そのまま押し込まれたように見えます。少なくとも、正面から打ち合って受けた傷には見えません」
ガリックが振り返る。
「詳しいな」
「似た傷を見たことがあります」
それだけ答えたエリリアの声に、冗談めいた響きはなかった。
レンは左手の訓練を止めた。
「後ろからやられたのか」
ガリックは答えない。
「王立街道警備隊にいた頃?」
今度はアイリが尋ねると、ガリックの表情が僅かに変わった。
「……朝から面倒なところを見るな」
「見えたんだから仕方ないよ」
「治療が終わったら服を着る」
「話したくない?」
「飯の前に話す内容じゃない」
その返事に、レンがすぐ反応した。
「じゃあ、飯の後なら話すんだな」
「そういう意味じゃない」
「今言った」
「言葉尻を取るな」
「ミレナに教わった」
窓際で書類を確認していたミレナが顔を上げた。
「勝手に私を悪い見本にしないで」
「でも使える」
「否定はしないけど」
治療師は呆れたように息を吐きながら、ガリックの脇腹へ新しい包帯を巻いた。
「古傷について話すかどうかは本人が決めればいい。ただし今日は左脚も脇腹も休ませる。昨日は保管庫まで歩いたんだ。午後まで杖を突いて院内を歩き回るな」
「大鍋を見に行くだけだ」
「駄目だ」
「食事の量を――」
「厨房にはお前以外にも人間がいる。五人分の朝食をここへ運ばせる」
ガリックは不満そうに口を閉じた。
「逃げられなくなったな」
レンが言う。
「お前は本当に性格が悪くなった」
「知ってる人が増えたからな」
◇
朝食が運ばれてくると、ガリックはいつものように真っ先に人数と器の数を確認した。誰の粥が少ない、誰のパンが一つ足りないということもなく、それでも全員へ行き渡ったのを見届けてから自分の器へ手を伸ばす。その癖をレンたちは既に見慣れていたが、背中の古傷を目にした直後では、何気ない動作まで少し違って見えた。
「どうして毎回数えるの?」
アイリが尋ねた。
「足りなくなると困るからだ」
「今まで一度も足りなくなってないよ」
「確認してるからだ」
「ガリックが見なくても治療院の人が数えてる」
「見落とすかもしれん」
「そこまで食べ物がなくなるのが嫌なの?」
ガリックの手が僅かに止まった。アイリは問い詰めているわけではない。ただ理由を知りたそうに彼を見ている。
「……飯を食ったら話すと言ったな」
「やっぱり話してくれるの?」
「約束した覚えはない」
「でも話すんでしょ」
「食え」
そのまま全員が食事を終えるまで、誰も続きを急かさなかった。
器が下げられ、治療師がガリックの状態をもう一度確認して部屋を出ていく。ミレナは窓際の椅子を少し寄せ、エリリアも手元の紙を閉じた。アイリは寝台へ腰を掛け、レンは移動卓へ左腕を置いたままガリックを見る。
「六年前だ」
ガリックは自分から口を開いた。
先ほどまでの軽口は消えていた。
「俺は王立街道警備隊の東部第三隊にいた。王都から東第二工廠へ向かう荷車三台を護衛する任務だった」
「東第二工廠……」
レンが繰り返す。
「あの矢尻と関係あるところ?」
「まだ関係があるとは言えん」
ガリックはすぐに訂正した。
「ただ、ティアンケン周辺で拾われた矢尻を見た時、昔見たものを思い出した。軍用品に近い寸法で、製造元を示す箇所だけが削られていた。六年前にも似た矢が使われた。それだけだ」
「同じ製造元だと確認されたわけではないのですね」
エリリアが言う。
「ああ。だから確定した話としては言わなかった」
「その任務では、何を運んでいたの?」
ミレナが尋ねる。
「書類上は武具、薬、街道補修用の金具、それから緊急備蓄用の保存食だ」
「書類上は?」
レンが聞き返した。
「最後まで聞け」
ガリックは一度息を整えた。
「東街道の北分岐へ入る少し前で、難民の荷車が道を塞いでいた。北側で小競り合いが続いていた頃でな。村を離れて南へ逃げてきた連中だった。四十人前後。老人と子供が多く、馬は二頭とも倒れていた。水も食い物もほとんど残ってなかった」
ガリックの視線が、目の前の空になった器へ落ちる。
「荷車の横に、七つか八つくらいの子供が座ってた。空の木椀を両手で抱えてな。何も入っていないのに、誰にも取られないよう胸へ押しつけていた。その隣では、もっと小さい子供が動かなくなっていた」
アイリの表情が曇る。
「死んでたの?」
「俺が見た時には、呼吸がなかった」
誰も言葉を挟まなかった。
「俺たちの積荷目録には保存食があった。全部を渡せと言ったわけじゃない。一箱だけ開けて、水と一緒に分ければいい。次の中継所で補充もできる。だが隊長は許可しなかった」
「ヘルマン・ロウ?」
レンが尋ねる。
ガリックの目が少し鋭くなった。
「王立街道警備隊東部第三隊長、ヘルマン・ロウ。俺の上官だった」
「理由は?」
エリリアが尋ねる。
「任務外の人間へ王命物資を渡すな。封印を破るな。荷車を遅らせるな。それだけだ」
「中継所まで難民は行けた?」
アイリが尋ねた。
「歩ける大人だけなら半日も掛からん。だが馬もなく、老人と子供を連れていれば一日以上だ。そこまで水が持たないことくらい、誰にでも分かった」
「それで命令を無視した」
ミレナが言う。
「最初は俺の水袋を渡しただけだ。何人かの隊員も同じことをしようとした。そこでロウが止めた」
ガリックは自分の両手を見た。
「俺は荷車へ行った。保存食の積んである車両を一台開けると言った。止められた。封を破れば命令違反だとな」
「それでもやった」
「ああ」
「背中の傷はその時?」
エリリアが尋ねた。
ガリックは僅かに頷いた。
「荷台へ手を掛けた瞬間、後ろから肩を打たれた。長斧の柄だった。膝をつかなかったから、次は刃が来た」
アイリが息を呑む。
「味方だったんでしょ」
「ロウにとって、その瞬間の俺は任務を妨害する者だったらしい」
「警告もなく?」
「『手を離せ』とは言われた」
「そういう意味じゃないよ」
「分かってる」
ガリックは苦く笑った。
「傷を受けて前へ倒れた。その時、荷台の留め具まで一緒に壊れた。俺の重さで壊れたのか、最初から緩んでいたのかは分からん。だが扉は開いた」
そこで声が止まった。
「保存食はなかった」
レンの目が細くなる。
「何があった」
「人だ」
ガリックは短く答えた。
「十二人いた」
回復室から音が消えた。
「全員、手を後ろで縛られていた。普通の麻縄だ。口にも布を噛まされ、荷台の床へ座らされていた。大人だけじゃない。子供もいた。何人かは意識が朦朧としていて、甘い眠り草の匂いがした」
「書類には、人を運ぶなんて書いてなかった」
アイリが言う。
「ああ」
「王命物資として隠してた?」
「俺が見たものはそうだ」
「ほかの二台も?」
レンが尋ねる。
「分からん。開けられなかった」
「十二人を外へ出した?」
「最初に手が届いた四人だけだ。一人を抱えて荷台から下ろした。別の隊員二人も俺を手伝った。そこで矢が飛んできた」
「どこから?」
「街道脇の林と北側の斜面。最初は盗賊だと思った」
「荷車を狙ってた?」
「一本も荷台には当たらなかった」
ミレナの表情が変わった。
「誰へ飛んだの」
「難民と、俺たちだ。特に荷車を開けた側へ矢が集まった」
「なら、荷を奪いに来た襲撃者ではない可能性が高いですね」
エリリアが静かに言った。
「俺もそう考えた。ただし、それがロウたちと最初から繋がっていた証拠はない」
レンはガリックを見る。
「ロウはどうした」
「荷車を進ませた」
「人を戻して?」
「俺たちが出した四人のうち二人は難民側へ逃げた。残る二人はロウの部下に引き戻された。開いた荷台も閉められた。俺は追おうとしたが、背中から血が流れていたし、矢が難民へ降っていた」
「だから残った」
「……ああ」
ガリックの声は静かだった。
「俺と、命令へ逆らった隊員が二人。それから難民の中で武器を持てる大人が何人か。荷車を追えば、目の前の人間が死ぬ。だから残った」
「ロウたちはどっちへ行ったの?」
アイリが尋ねる。
「記録上なら東第二工廠へ続く本道だ」
「実際は?」
「北分岐の手前から旧道へ入った」
その一言に、レン、エリリア、ミレナの視線が集まった。
「旧道?」
レンが聞き返す。
「今はほとんど使われてない道だ。当時から主要路じゃなかった。王都南部へ戻るにも遠回りになるし、東第二工廠へ向かうにも効率が悪い。それでも三台ともそっちへ入った」
「旧検問所へ繋がる可能性は?」
ミレナが尋ねる。
「六年前の旧道が、そのまま今見つけている地下搬送路へ繋がっていたとは言えん。ただ、方角はおかしくない」
「地図で確認できます」
エリリアが言う。
「エドラスの記録とも重ねた方がいい」
レンが続けた。
ガリックは頷いた。
「俺もそう思ってる」
◇
襲撃が収まったのは、三台の荷車が旧道へ消えてからかなり後だった。
難民側には死傷者が出た。ガリック自身も背中の傷に加え、肩近くと脇腹へ矢を受けた。現在も大きな古傷の周囲に残る幾つもの小さな痕は、その時のものだった。
「治療されたの?」
アイリが尋ねる。
「まともな治療は二日後だ」
「二日?」
「援軍は来た。だが俺は負傷者として運ばれたんじゃない」
「拘束された」
エリリアが言う。
ガリックは頷いた。
「軍用荷車の封印破壊。護送任務放棄。隊長命令への反抗。積荷損失への関与。それが俺に付けられた嫌疑だった」
「人が乗ってたことは?」
「記録にはない」
「助けた人が証言したら?」
「難民の多くは荷台の中を直接見ていない。外へ出た二人のうち、一人はその夜に死んだ。もう一人は翌朝には姿を消していた」
「誰かに連れていかれた?」
「分からん」
ガリックはそこで一度言葉を切った。
「決めつけるつもりはない。ただ、荷台の中を証言できる人間はいなくなった」
「一緒に残った隊員は?」
レンが尋ねる。
「一人は途中で証言を変えた。ロウの命令には逆らっていない、俺が勝手に荷車を壊したと言った」
「もう一人は?」
ガリックの顔から僅かに感情が消えた。
「セイン・バルカ」
アイリが小さく名前を繰り返す。
「俺と一緒に拘束された。あいつは最後まで証言を変えなかった。荷台の中に人がいた。ロウが俺の背中を斬った。襲撃者は荷車を狙わなかった。全部、見たままを言った」
「それで?」
「三日後に死んだ」
誰もすぐには次の質問をしなかった。
「記録では、夜中に房内で暴れ、拘束具へ喉を強く押しつけたことによる窒息だ」
「信じてないんだね」
アイリが静かに言った。
「俺は隣の房にいた」
ガリックは彼女を見る。
「暴れる音なんて聞いていない」
それ以上、「殺された」とは言わなかった。レンも、誰も、その言葉を代わりに口へ出さなかった。
「家族は?」
しばらくしてレンが尋ねる。
「妻がいた。マラ・バルカ。娘が一人。リコ。あの時八歳だった」
「その二人には会えた?」
「免職されたあと探した」
ガリックは膝へ視線を落とした。
「家は空だった」
「いつから?」
「俺が出た時にはもういなかった。故郷へ戻ったという話もあれば、王都を離れたという話もあった。だが、俺が探した範囲では転居記録は見つからなかった」
「だから、失踪した可能性がある」
エリリアが言う。
「可能性だけだ」
「死んだと確認されたわけではないんですね」
「ああ」
アイリは小さく頷いた。
「じゃあ、まだ決めなくていいね」
ガリックが彼女を見る。
「何をだ」
「いなくなった理由。死んだとも、生きてるとも、まだ決めなくていい」
ガリックはしばらく黙っていた。
「……そうだな」
短い答えだった。
◇
ガリック自身へ下された処分は、最終的に「命令違反」と「護送任務放棄」による免職まで縮小された。本来なら、さらに重い罪へ問われる可能性があったという。
「どうして免職だけで済んだの?」
レンが尋ねる。
「一人、記録を残していた奴がいた」
「誰?」
「当時、東門にいた下級書記だ」
レンたちの視線が集まった。
ガリックは扉の方へ目を向ける。
「今の副隊長だ」
「……あの人?」
アイリが驚いた声を出した。
「ああ」
「最初から知り合いだったの?」
「顔見知り程度だ。俺が捕まる前に話したことなんて数回しかない」
「何を残してたの」
ミレナが尋ねる。
「矢の記録だ」
ガリックは答えた。
「俺たちを襲った矢は軍用品と同じ規格だった。製造元を示す部分だけ削られていた。取り調べでは、東第二工廠から大量の矢が盗まれ、それを盗賊が使った可能性があると説明された」
「それなら軍用品でも不自然ではありません」
エリリアが言う。
「ところが盗難届の日付が合わなかった」
ガリックの目が鋭くなる。
「俺が拘束された時点では、工廠の出荷と在庫に不足はないと記録されていた。後になって、『襲撃前に盗難があった』という別の記録が出てきた」
「書き換えられた?」
レンが尋ねる。
「その可能性を疑ったのが今の副隊長だ。あいつは修正前の集計控えを残していた」
「それで、ガリックが盗賊と組んで矢を用意したって話が崩れた」
ミレナが言う。
「ああ。人間を運んでいたという証言まで証明されたわけじゃない。ロウと襲撃者の繋がりも証明できなかった。それでも、俺を反逆者として処刑できるほど都合よく記録を揃えられなくなった」
「だから最後に残ったのが、『命令違反により免職』」
レンが言った。
「記録には、な」
ガリックが答える。
前日にヴァルトの口から聞いたのと同じ一文が、今度はまるで違う重さを持って部屋へ落ちた。
ミレナが腕を組む。
「ヘルマン・ロウはその後どうなったの」
「警備隊には長く残らなかった。数年後、王都治安局へ移ったと聞いた」
レンの表情が強張る。
「治安局?」
「そこで止まれ」
ガリックが先に釘を刺した。
「ロウが治安局へ移った。それだけだ。昨日来たヴァルトとも、監査部が買った黒い封蝋とも、レヴィン・ハルトとも、今追っている荷車とも繋がったとは言ってない」
「……分かってる」
「ならいい」
エリリアも静かに続ける。
「一人の人間が治安局へ移ったことと、組織全体が六年前の輸送へ関与していたことは別です。ただ、ヘルマン・ロウ本人について調べる理由は生まれました」
「そういうことだ」
ガリックが頷いた。
レンは一度深く息を吐いた。
六年前、ガリックが見た荷車。
三年前、エドラス・フィンが追っていた、書類上は軽いはずなのに車軸が沈む「空の荷車」。
そして現在、閉鎖された旧検問所の地下から見つかった、意図的に切り取られた七件の通行記録。
同じ輸送だとは決まっていない。けれど、正式な記録と実際の荷が一致しない輸送が、王都の表の街道から外れた場所を使っていた可能性は、少なくとも六年前まで遡った。
「一つだけ聞いていい?」
アイリが言った。
「何だ」
「食べ物を毎回数えるのって、やっぱりあの日のことがあるから?」
ガリックはすぐには答えなかった。
「全部があの日のせいじゃない。警備隊にいた頃から、食料は人数を数えて配る癖があった。街道じゃ補給を間違えれば本当に死人が出る」
「でも、空の器を持ってた子を覚えてる」
「ああ」
「だから大鍋の時も、最後の人の分まで残ってるか見てた?」
ガリックは顔を横へ向けた。
「……食い物があるなら、全員へ行くようにすればいい。それだけだ」
「それだけのことをしなかった人たちを見たんだね」
アイリが言う。
ガリックは何も返さなかった。
けれど、否定もしなかった。
◇
話を聞き終えたあと、東門の副隊長が呼ばれた。
六年前の件をレンたちへ話したと告げられると、彼はしばらくガリックを見たあと、深く息を吐いた。
「いつか話すとは思っていた」
「だったら、お前から言え」
「俺の過去じゃない」
「記録はお前が持ってる」
「一部だけだ」
レンが身を乗り出しかけ、右上腕を思い出したように身体を戻す。
「まだ残ってる?」
「全部じゃない。修正前の工廠集計の写しと、ガリックの護送任務に付いていた経路表の一部。それから当時の聞き取り記録を数枚」
「経路表」
ミレナの目が変わった。
「荷車が本来通るはずだった道が分かるの?」
「ああ」
「実際に旧道へ入った場所と重ねられる?」
「ガリックが位置を正確に覚えているならな」
「覚えてる」
ガリックは迷わず答えた。
副隊長は少し考えた。
「なら、エドラスの記録と、今ある旧検問所周辺の地図も並べる価値はある。ただし先に言っておく。六年前の三台と、三年前にエドラスが追っていた荷車が同じ輸送網だったという証拠はまだない」
「分かってる」
レンが答える。
「でも、同じかどうか調べる理由はできた」
「そうだ」
副隊長が頷いた。
「それから、セイン・バルカの記録も見たい」
レンが続けると、ガリックの顔が僅かに強張った。
「レン」
「勝手に家族へ会いに行かない。今ある記録を見るだけだ」
「……ならいい」
「マラ・バルカとリコ・バルカも」
「転居記録が残っていれば確認する」
副隊長が答える。
「なければ?」
アイリが尋ねた。
「ないこと自体を事件にはしない。別の地区へ移った際に記録が途切れたのかもしれないし、事情があって別名を使った可能性もある」
「一つずつですね」
エリリアが言う。
「ああ」
ガリックが長く息を吐いた。
「セイン・バルカ」
レンが言う。
ガリックが顔を上げた。
「マラ・バルカ。リコ・バルカ」
「何してる」
「覚えてる」
「紙に書けばいいだろ」
「紙だけじゃ足りないこともある」
レンの答えに、副隊長の表情が僅かに曇った。
「だから人も覚える」
アイリが続ける。
「私も覚えた。セイン、マラ、リコ」
「私もです」
エリリアが言う。
ミレナも静かに頷いた。
「私も覚えておく」
ガリックは四人を順番に見た。
「……好きにしろ」
そう言いながら、その声には先ほどまでになかった僅かな弱さが混じっていた。
六年前、ガリックが荷車の扉を開けたことで外へ出せた人間は、ほんの僅かだった。荷台に残された者たちの名前は知らない。残る二台に何が積まれていたのかも分からない。旧道へ消えた三台が、その後どこへ向かったのかさえ、今日まで一度も突き止められなかった。
それでも今は、三年前にエドラスが残した記録があり、閉鎖された旧検問所の地下から回収された帳簿がある。
六年前には持てなかった手掛かりが、今は残っている。
「今度は追えるかもしれない」
ガリックが低く言った。
「何を?」
レンが尋ねる。
「俺が止められなかった荷車の続きをだ」
レンは少し考え、頷いた。
「追おう」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないのは分かってる」
「なら無茶するな」
「ガリックもな」
「俺は怪我人だ」
「知ってる」
「だから動けん」
「それでも行こうとするだろ」
「……否定はしない」
アイリが呆れたように二人を見る。
「二人とも同じこと言ってるよ」
「俺はこいつより慎重だ」
ガリックが言う。
「それは怪しい」
レンが返した。
「今日だけでも昔の荷車を追いに行こうとしてる顔してる」
「足が治ってからだ」
「ちゃんと待つんだ」
「院長に殺されたくない」
「そこは学んだんですね」
エリリアが僅かに微笑んだ。
ガリックは不満そうに鼻を鳴らし、そのまま椅子の背へ身体を預けた。
上着の下には、六年前につけられた大きな傷が残っている。
記録の上では、命令違反。
ガリックの記憶では、飢えた人間へ食料を渡そうとし、封じられた荷車の中から十二人を見つけた日。
同じ一日が、残された記録と生きている人間の中で、まるで違う形をしていた。
そして今、その古い傷の先に、三年前のエドラス・フィンと、現在の旧検問所へ伸びる道が見え始めている。
同じ道なのかはまだ分からない。
同じ者たちが使っていたのかも分からない。
だからこそ、確かめなければならなかった。
六年前の経路表。
三年前の「空の荷車」。
切り取られた七件の通行記録。
そして、記録の先で行方を追えなくなった三つの名前。
セイン・バルカ。
マラ・バルカ。
リコ・バルカ。
その日の午後、四人はその名を一度ずつ心の中で繰り返した。
紙だけに任せないために。
失われかけたものを、今度こそ見落とさないために。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!




