第二章 第二十一話 黒封蝋の買い手
黒い封蝋が残された会計控えを見つけた翌朝も、レンたちに外出の許可は下りなかった。前日の記録調査では誰も白環治療院を出ていないため、新たに傷を悪化させた者はいない。それでも旧検問所の地下を歩いた疲労が完全に抜けたわけではなく、レンは治療師の指示に従って左手の訓練をいつもより短く切り上げた。狼に噛まれた左前腕は、炭筆を握り続けると薬指と小指の感覚が鈍くなる。右手の五本の指は変わらず動いているが、深く斬られた右上腕には剣を振るだけの力がまだ戻っていない。アイリも右肩と手首を休ませ、エリリアには引き続き風の魔力を使わないよう指示が出されている。ガリックも左脚へ余計な負担を掛けないよう杖を椅子の脇へ置き、珍しく朝から腰を落ち着けていた。
「今日は本当に何もないんだな」
炭筆を置いたレンが少し退屈そうに言うと、向かいの椅子に座っていたアイリが兄を見る。
「何もない方がいいんじゃない?」
「分かってる。でも昨日あそこまで調べたから、続きが気になる」
「黒い封蝋ですね」
エリリアが卓上に残された会計控えの写しへ視線を向けた。
原本は東門守備隊が保管しており、そこに付着していた黒い蝋も別の保護袋へ移されている。救難信の原本が証拠保管室から盗まれたばかりである以上、副隊長は重要な証拠を一か所へまとめることを避け、保管場所そのものを分散させていた。
「色だけじゃ追えないって、ミレナさん言ってたよね」
アイリが言う。
「ああ。黒い封蝋自体は珍しくない。でも、蝋の中身とか厚さとか、残った印の形を見れば何か分かるかもしれないって」
「そんなもので本当に違いが分かるのか」
ガリックが腕を組む。
「俺には、溶かして印を押したら全部同じに見えるぞ」
「剣も知らない人から見れば、全部同じに見えるでしょう」
エリリアが答える。
「そう言われると何も返せんな」
レンが少し笑ったところで、廊下から二度のノックが響いた。
治療師が扉を開けると、その向こうには東門守備隊の副隊長とミレナ・クロウ、それから見慣れない初老の男が立っていた。男の衣服は質素だったが、細長い革箱を大事そうに抱え、腰には小さな拡大鏡や金属製のへら、刃の付いていない細い針のような道具をいくつも下げている。
「その人は?」
レンが尋ねる。
「封蝋と印章を扱って三十年以上になる職人だ」
副隊長が答えた。
「王都の公証所や商会にも品を卸している。証拠を店まで持ち出すわけにはいかないから、こちらへ来てもらった」
「私は紹介しただけよ」
ミレナが付け加える。
「料金は東門持ち」
「まだ何も聞いてない」
「先に安心させてあげようと思って」
「最近、俺が金の話ばっかりしてるみたいになってないか?」
「かなりしてるわ」
ガリックが横で笑った。
職人は彼らのやり取りにはほとんど反応せず、副隊長が用意した小さな作業板を卓上へ置くと、保護袋から黒い封蝋の欠片を慎重に取り出した。
「最初に言っておくが、色は気にしなくていい」
男がそう言うと、レンが目を瞬いた。
「いきなり?」
「黒い封蝋を使うところなんて王都にいくらでもある。煤でも炭でも黒土でも、黒くする方法はいくつもある。色だけ追ったら一週間で嫌になるぞ」
「じゃあ、何を見るんですか」
アイリが尋ねる。
「割れ方と艶、それから混ぜ物だ」
職人は欠片へ指を触れず、先の丸い金属棒で光の当たる角度だけを変えた。
「これは保存用に硬くしてある。普通の手紙へ使う蝋より樹脂が多い。持ち運ぶ文書や、後から開封の有無を確認したい書類向けだな」
「壊れやすくするってこと?」
「適度にな。柔らかすぎる蝋は熱を加えれば押し直しやすい。硬い蝋なら、一度割れた跡を誤魔化しにくい」
副隊長が腕を組んだ。
「普通の会計控えへ使うには少し大げさか」
「俺なら使わん」
職人は小さな拡大鏡を目へ当て、しばらく欠片を観察した。
「それと、これには銀灰色の細かな粉が混じってる」
「銀?」
レンが聞く。
「金属じゃない。石の粉だ。割れを見やすくするために入れる。黒一色だと古くなった時に亀裂が分かりにくいが、細かい灰色を混ぜておけば割れ目が浮く」
「珍しい方法なんですか」
エリリアが尋ねる。
「方法そのものは珍しくない。ただ、この粒の細かさと樹脂の割合には見覚えがある」
職人は一度だけ副隊長を見た。
「王都中央の文具問屋が扱ってる長期保管用の配合だ。あそこは自分で作らず、北側の工房からまとめて仕入れている。俺も昔、公証人向けに同じものを買った」
「誰が買ったかって、記録に残ってる?」
レンが尋ねる。
「それは店に聞け。俺は客まで知らん」
「だから、もう聞いてあるわ」
ミレナが何でもないように言った。
レンが彼女へ顔を向ける。
「早いな」
「昨日あなたたちが『黒い封蝋を追う』と言った時点で、色より仕入れ先を調べた方が早いと思ったもの」
「結果は?」
「副隊長が持ってる」
全員の視線が副隊長へ集まった。
「まだ結果と呼べる段階じゃない」
副隊長は先にそう断ってから、懐から数枚の紙を取り出した。
「問屋へ正式に照会を出した。この配合を扱っていた時期の販売台帳も残っている。ただし、同じ蝋を買った客は一人じゃない。問題の一括精算が行われた時期を前後二か月まで広げると、購入記録は二十七件あった」
「多いな……」
レンが肩を落とす。
「だから色だけじゃ無理だと言っただろう」
職人が淡々と言った。
「でも、全部が同じ量を買ったわけではありませんよね」
エリリアが尋ねる。
「そこも見た」
副隊長が販売台帳の写しを広げた。
「個人の書記や小規模商会は一本か二本。公証所や文書庫は十本前後を定期的に購入している。この時期にまとまった量を買った組織は六つあった。南商業組合文書室、王都北部公証所、中央土地管理所、二つの大商会。それと――王都治安局監査部」
回復室から笑いが消えた。
レンはすぐに言葉を返さず、紙に並ぶ組織名を見た。
「治安局も、この黒い蝋を買ってた?」
「ああ」
「じゃあ、あの精算も治安局が――」
「そこまでだ」
今度はガリックが副隊長より先に止めた。
レンは口を閉じ、短く息を吐いた。
「……分かってる。買ってたってだけだ」
「そうだ」
副隊長が頷く。
「治安局が封蝋を買うこと自体には何の不自然さもない。押収品の封印、機密文書、内部監査、証拠品管理。用途はいくらでもある」
「しかも、同じ配合をまとまった量で買った組織が他に五つある」
エリリアが続けた。
「この記録だけでは、治安局を特別に疑う理由にはなりません」
「そこまでなら普通の購入記録だ」
ガリックは紙から目を離さなかった。
「だが、副隊長。まだ何かある顔してるぞ」
「ある」
副隊長は短く答えた。
◇
職人は蝋の配合を確認し終えると、今度は会計控えに残っていた封印の外周を写し取った紙へ視線を移した。中央部分は大きく欠けているため紋章そのものは判別できないが、外縁には二本の細い円が並び、その間へ小さな切れ目のような跡が一定の間隔で残っている。
「これは飾り?」
アイリが尋ねる。
「たぶんな」
職人は別の紙へ円を描いた。
「中央が残ってりゃ早かったんだが、外周だけでも印そのものの大きさはだいたい分かる。普通の商会印より小さい。携帯用だ」
「持ち歩く印?」
「そうだ。机へ据えて使う大型印じゃない。監査官、徴税官、街道検査官なんかが持ち歩く印に近い大きさだな」
「それで治安局に近づく?」
レンが聞く。
「近づくだけだ。同じ大きさを使う役人はいくらでもいる」
副隊長が別の購入記録を取り出した。
「問屋の台帳には、蝋と一緒に買われた物まで記録されていた。治安局監査部が問題の時期に購入したのは、長期保管用の黒蝋十二本、携帯印用の革ケース四つ、交換用の印柄二本だ」
「印章そのものは?」
エリリアが尋ねる。
「問屋では扱っていない。別の印章職人へ発注したはずだ。その記録は今取り寄せている」
ミレナは販売記録へ目を落とした。
「他の五つの大量購入先も、携帯印用の道具を同時に買っていた?」
「二つだけだ。北部公証所と中央土地管理所」
「なら、その点でも治安局だけが特別というわけではない」
「そういうことだ」
レンは机の上に並んだ資料を順番に見た。
「会計控えに残った印影は携帯印に近い。治安局監査部も同じ時期に黒蝋と携帯印用の道具を買ってる。でも、それだけなら他の役所も候補に残る」
「はい」
エリリアが頷いた。
「印の規格が一致したと確認できたわけでもありません」
「分かってる」
「今日は言われる前に止まったな」
ガリックが言う。
「もう慣れたよ」
職人はそのやり取りには関心を示さず、黒い蝋の欠片を再び保護袋へ戻した。
「この蝋から俺が言えるのはここまでだ。同じ問屋から出た同じ商品なら、買った客が誰でも中身は同じだ。封蝋そのものだけで一人に絞るのは無理だぞ」
「ありがとうございました」
アイリが頭を下げる。
職人は軽く片手を上げ、副隊長から受領書を受け取ると回復室を出ていった。
扉が閉じたあと、ミレナが販売記録へ指を置いた。
「ここからが面倒ね。同じ蝋を正規に買える場所が複数ある以上、治安局監査部の購入記録だけでは何の証明にもならない。でも、候補から外せるわけでもない」
「他の五つも同じだろ」
レンが言う。
「ええ」
「なら、全部調べるしかない」
「普通ならね」
ミレナは副隊長を見る。
「でも、あなたはまだ一枚残しているでしょう?」
「人聞きが悪いな」
「顔で分かるわ」
「俺もそう思う」
ガリックまで同意したため、副隊長は少し嫌そうな顔をしたあと、販売記録の束から一枚だけ別に抜き出した。
「治安局監査部が品を受け取った時の確認票だ」
レンたちの視線が紙へ集まる。
『黒封蝋 十二
携帯印革函 四
交換印柄 二』
品目と数量の下には受領場所と日付があり、最後に一人の名前が記されていた。
『受領確認 監査官 レヴィン・ハルト』
「レヴィン・ハルト……」
レンが声に出す。
「知ってる人?」
アイリが副隊長へ尋ねる。
「名前だけだ。王都治安局の監査官で、東門へ日常的に出入りするような役職じゃない」
「何を監査するんですか」
エリリアが尋ねる。
「部署の会計、証拠品、押収物、職員の不正。担当は時期によって変わるが、この購入記録が出た頃には監査部に所属していた」
「じゃあ、この人が黒い封蝋を買った?」
レンが尋ねる。
「違う」
副隊長ははっきり否定した。
「購入したのは監査部だ。ハルトは受領を確認しただけ。注文を出した人間が別にいる可能性もあるし、その日たまたま受領担当だっただけかもしれない」
「それでも、その配合の蝋が監査部へ届いたことは確認できる」
エリリアが言う。
「そこまではな」
ミレナは紙を見たまま尋ねた。
「監査部では封蝋の払い出し記録を残している?」
「普通なら、まとまった備品なら残す」
「それを確認すれば、誰が使ったか分かる可能性がある」
「治安局へ正式に照会を出せばな」
ミレナは僅かに目を細めた。
「そうすれば、こちらが黒い封蝋の流れを追っていることも伝わる」
副隊長は答えなかった。
その沈黙だけで意味は十分だった。
「治安局が無関係なら、照会しても問題ない」
レンが言う。
「そうだ」
ガリックが答えた。
「だが、もし監査部の中に今回の輸送へ関わった人間がいたなら、自分たちがどこまで追われてるか教えることになる」
「だから厄介なのよ」
ミレナが頷いた。
「治安局が候補へ入った瞬間から、普通の問い合わせが普通の問い合わせではなくなる」
「だからって、治安局全体を疑うのも違うよね」
アイリが言う。
「もちろんです」
エリリアが答える。
「今確認できているのは、会計控えに残されたものと同じ配合の黒い蝋を、治安局監査部も同時期に購入していたこと。そして、その納品確認書にレヴィン・ハルトという監査官の名があることだけです」
「携帯印の大きさも近い可能性がある。でも、それも治安局専用じゃない」
レンが続ける。
「そうです」
「なら、まだ誰も犯人じゃない」
「その通りです」
レンは少しだけ息を吐いた。
「少し前なら、ここで治安局が黒幕だって決めつけてたかもな」
「少し前って昨日くらい?」
アイリが言う。
「そこまで酷くないだろ」
「三日前?」
「ほとんど変わってないじゃないか」
ガリックが笑ったが、ミレナは紙から目を離さなかった。
「レヴィン・ハルトという名前は、今のところ調べる対象であって、答えではないわ」
「ミレナは知ってるのか」
「噂程度なら。監査官として細かい人間だとは聞く。帳簿の数字が一つ違うだけでも差し戻す。賄賂を受け取ったという話は聞かないけれど、嫌われているという話なら山ほどあるわ」
「それだけ?」
「それだけ。嫌われている人間が悪人とは限らないし、評判のいい人間が善人とも限らないでしょう?」
「確かにな」
ガリックが低く答える。
「俺も昔、規則を破る側から見れば嫌な衛兵だった」
「今も十分嫌な時あるよ」
レンが言う。
「そこまで元気なら腕の訓練増やすか?」
「治療師呼ぶぞ」
◇
午後になる頃には、黒い封蝋について確認できた事実が一枚の紙へ整理されていた。
黒という色自体に特別な意味はない。蝋は長期保管向けの硬い配合で、亀裂を見やすくするための銀灰色の石粉が混ぜられている。同じ配合の商品は王都中央の問屋から複数の客へ販売され、問題の時期にまとまった量を購入した組織は六つ。その中の一つが王都治安局監査部だった。会計控えに残された印影の外周は携帯印に近い大きさだが、それも治安局だけが使う規格ではなく、監査部への納品確認書に残されたレヴィン・ハルトの署名も、彼が蝋の用途を決めたことまでは示していない。
どの事実も、消された七件の通行と治安局を直接結びつける証拠にはならなかった。
だからこそ、副隊長は次の手を急がなかった。
「印章職人側の記録を先に取る。それと、他の五つの大量購入先も同じ条件で調べる。治安局だけ先に掘れば、最初から答えを決めてるのと同じだ」
「ハルト本人には?」
レンが尋ねる。
「まだ聞かない」
「治安局にも?」
「今の段階では正式照会しない。まず外から確認できるものを取る」
ミレナが頷いた。
「その方がいいわね」
「お前に褒められると嫌な予感がする」
「失礼ね」
エリリアは整理された資料を見ながら言った。
「他の購入先にも同じ規格の携帯印が確認されれば、治安局との繋がりは弱くなる。逆に、治安局監査部だけが同じ条件を満たすなら、改めて調べる理由が増えるということですね」
「そういう比較が必要だ」
副隊長が答える。
「結論を先に決めず、候補を減らす」
「エドラスも、そうしてたのかな」
アイリが小さく言った。
ガリックが彼女へ視線を向ける。
「たぶんな。だから一枚の帳簿だけじゃなく、別のところにも控えを残した」
「それで誰かに嫌がられた」
アイリが言ったあと、自分から少し考え直した。
「……そこまでは、まだ分からないね」
「ああ」
ガリックが短く頷いた。
レンはレヴィン・ハルトの名が記された写しを見た。そこにあるのは備品の受領確認だけで、秘密の指示も、不自然な暗号も、欠番になった荷車の番号も書かれていない。監査部へ届けられた品を、一人の監査官が受け取った。それだけなら、どこにでもある普通の事務記録に過ぎなかった。
それでも、その普通の記録がこれまで集めてきた資料の隣へ並んだことで、名前を持たなかった疑問に初めて一人の人間の名が触れた。
レヴィン・ハルト。
しかし、その名前を答えに変えるには、まだあまりにも多くのものが足りなかった。
副隊長が資料を片づけ、ミレナも帰るために立ち上がった、その時だった。廊下の向こうから早い足音が近づき、回復室の扉が三度叩かれた。
「失礼します」
白環治療院の受付を担当している職員の声だった。
「どうした」
ガリックが尋ねる。
扉が開き、職員が少し緊張した表情で室内を見回した。視線は副隊長の制服へ一度止まり、そのあとレンたちへ向く。
「正面受付に、お客様が来ています」
「誰?」
アイリが尋ねる。
職員は答える前に僅かに息を整えた。
「王都治安局の方々です」
先ほどまで紙を片づけていた副隊長の手が止まった。
「何人だ」
「三名です。正式な身分証と、公印の入った文書を持っています」
「用件は?」
「レンさん、アイリさん、エリリアさんへの正式な面会を求めています」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
黒い封蝋の購入記録から治安局監査部の名を見つけてから、まだ半日も経っていない。だからといって、治安局がこちらの調査を知ったと考える根拠はない。使者の訪問が以前から予定されていた可能性もあれば、封蝋とはまったく別の用件で来た可能性もある。今ある情報だけなら、そのどちらも十分にあり得た。
それでも、あまりにも間が悪かった。
ミレナが閉じた扉の向こうへ視線を向ける。
「正式な使者なら、理由もなく追い返すわけにはいかないわね」
「だが、聞かれたことへ全部答える義務もない」
ガリックが言う。
副隊長は短く頷いた。
「まず俺が文書と身分を確認する。お前たちは何も話すな」
「黒い封蝋のことも?」
レンが尋ねる。
「特にそれだ」
「分かった」
副隊長は受付職員とともに回復室を出ていった。
扉が閉じたあと、部屋には再び静けさが戻った。卓上に黒い封蝋そのものはない。ただ、同じ配合の蝋を治安局監査部が購入していたという記録と、レヴィン・ハルトという一人の監査官の名前だけが紙の上に残されている。
その二つが偶然ここまで近づいただけなのか、それとも何かの入口なのかは、まだ分からない。
分からないまま、治安局の方から白環治療院の扉を叩いた。
レンは紙の上に残された名前から視線を上げ、閉じられた回復室の扉を見つめた。次に調べるつもりだった相手が、こちらより先に訪ねてきていた。
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