第二章 第二十話 消された荷車の記録
旧検問所の地下から持ち帰った帳簿が記録官の手へ渡った翌朝、白環治療院では前日の調査による疲労を理由に、レンたち全員へ外出禁止が言い渡されていた。もっとも、今回は強く反発する者はいない。レンは右脚に歩き疲れが残り、狼に噛まれた左前腕も普段より痺れが出やすくなっていたため、この日の訓練は炭筆を握る時間そのものを短くされている。深く斬られた右上腕にも悪化は見られなかったが、剣を振るだけの力が戻っていないことに変わりはない。アイリも右肩と手首を休ませるよう指示され、エリリアには引き続き風の魔力の使用が禁じられ、ガリックも左脚への負担を減らすため朝から杖を寝台の脇へ置き、椅子へ腰を落ち着けていた。
「今日は誰も外へ行かない。地下にも行かない。荷車にも乗らない」
朝の診察を終えた治療師が念を押すように言う。
「分かってます」
レンが答えると、治療師は疑うような目を向けた。
「昨日も同じ返事を聞きました」
「昨日は許可をもらって行っただろ」
「今日は新しい理由を見つけて許可を取りに来ないでください、という意味です」
「そこまで考えてないよ」
「今、少し考えましたね?」
「……少しだけ」
アイリが隣で笑い、エリリアは呆れたように小さく息を吐いた。
「今日は記録を調べるだけにしましょう。昨日、レン自身が戦えないことと何もできないことは同じではないと考えたばかりではありませんか」
「分かってる。だから今も言い返してないだろ」
「十分言い返しています」
治療師は首を横へ振りながら扉へ向かった。
「昼までには東門守備隊から記録官が来るそうです。それまでは休んでいてください」
扉が閉まったあと、ガリックが椅子の背へ身体を預けた。
「完全に扱いを覚えられてるな」
「ガリックも同じだろ」
「俺は聞き分けがいい」
「昨日、崩れた搬送路の向こうを一番長く見てたの誰だよ」
「見るだけなら規則違反じゃない」
「俺が言うと怒るくせに」
「お前の場合、見たあと行こうとするからだ」
そんなやり取りの横で、アイリは卓上に置かれた昨日の帳簿の写しへ目を落とした。原本は東門守備隊が保管しており、治療院に残されたのは、記録官が必要な箇所だけを書き写した資料だった。
「四一八八の次が四一九六」
アイリが番号を目で追う。
「間が七つ抜けてる」
「少なくとも、番号としてはですね」
エリリアが答える。
「前後と同じ形式なら七件分の記録である可能性は高いですが、原本の綴じ方を詳しく調べてもらっている途中です」
「でも、あの部分だけ糸が切られてた」
レンが言うと、ガリックが頷いた。
「そこはまず人の手だろう。湿気で自然に抜け落ちたなら、あんな揃った切れ方にはならん」
「じゃあ、誰かが持っていった」
「その可能性は高い。ただ、いつ外されたかまでは分からん」
レンはそれ以上先へ進めず、写しへ視線を戻した。旧検問所の地下で見つかったものは、一つ一つを取り出せば決定的な証拠とは言えない。それでも、閉鎖後にも残された夜間の通行記録、荷主も積荷も書かれず重量だけが記された欄、そして連続した番号だけが物理的に抜き取られた帳簿。偶然として処理するには、不自然なものが少しずつ積み重なっていた。
「エドラスの記録と日付まで重なれば、もう一段進みますね」
エリリアが言う。
「ミレナが本当に見せればな」
ガリックが答えた。
「日付だけなら照合していいって言ってたよ」
「日付だけ、な。あいつは本当に一語ごとに値段を付けそうで嫌になる」
「でも今日来るんだよね?」
アイリが尋ねる。
「ああ。副隊長と一緒に来るはずだ」
◇
昼前、東門守備隊の副隊長は記録官を一人連れ、ミレナ・クロウとほぼ同時に白環治療院へ現れた。
記録官は四十代ほどの細身の男で、両腕に資料を抱えたまま部屋へ入ると、空いている机を確認してすぐに紙束を広げ始めた。地下から持ち帰った原本そのものは持ち込まず、調査結果をまとめた報告書と、必要部分を正確に写した資料だけを用意している。
「まず結論から言う」
副隊長が腰を下ろす前に口を開いた。
「四一八九から四一九五までの七つの番号は、それぞれ一件ずつの貨物通行記録だった可能性が非常に高い」
レンが僅かに身体を前へ傾ける。
「七台?」
「そこまではまだ言わん」
今度は記録官が先に止めた。
「前後二百件ほどを調べたが、番号は一件の通行記録ごとに一つずつ振られている。ただし、一件が必ず一台の荷車を意味するわけではない。複数台をまとめて一件として処理した例も、逆に一台を二つの検査記録へ分けた例も、古い時期にはある」
「じゃあ、少なくとも七件分の記録がない」
「現時点では、その言い方が一番正確だ」
記録官は一枚の写しを机へ置いた。
「それと、綴じ糸は自然に切れたものではない。刃物を入れた痕跡が確認された。いつ切られたかまでは判断できないが、頁が意図的に外されたと見ていい」
「そこだけ?」
アイリが尋ねる。
「同じ帳簿には湿気や虫食いによる傷みもある。だが、連続する番号の範囲だけ綴じ糸を切って頁を外した痕跡があるのは、今のところそこだけだ」
部屋の空気が僅かに変わった。
「なら、内容を隠したかった可能性はかなり高い」
レンが言うと、エリリアは慎重に頷いた。
「そう考えるのが自然ではあります。ただ、頁を外した理由そのものまで記録から証明できるわけではありません」
「そこは分かってる」
副隊長は次の資料を開いた。
「だから、昨日お前たちが戻ったあと、同じ期間の別系統の記録も探させた」
「別系統?」
「荷車一台を動かせば、一冊の通行帳簿だけで全部が終わるわけじゃない。重量を量れば計量記録が残るし、地下扉を使えば開閉記録が残る。夜なら灯火も必要になるし、人を長く働かせれば別の支出も出る」
ガリックの表情が変わった。
「そっちまで残ってたか」
「一部だけだがな」
記録官が三枚の紙を並べた。
「まず地下計量所の月次集計だ。個々の荷主や積荷は記されていない。その日に何件の計量を行ったかだけを月末にまとめた帳簿らしい」
「昨日見つけた台帳とは別なんですね」
アイリが尋ねる。
「ああ。保管場所も別だった」
記録官が問題の期間を指した。
「通行台帳に残る記録は三十一件。だが、月次集計では三十八件になっている」
レンが数字を見比べる。
「七件多い」
「そうだ」
エリリアが静かに資料へ目を落とした。
「これで、欠番が単なる番号の付け間違いだった可能性はかなり低くなりますね」
「さらに、下層扉の開閉記録も残っていた」
記録官が二枚目を示す。
「完全な記録ではない。担当者によって記載が雑な時期もある。だが同じ期間、通常の閉鎖後作業で想定される回数より、夜間開閉が七回多い」
「また七か」
ガリックが低く言う。
「計量で七件。扉で七回」
「数字は一致してる」
レンが言ったあと、一度言葉を止めた。
「でも、それだけで同じ七件とは決められない」
エリリアが僅かに目を細めた。
「その通りです。期間も数も重なっていますが、別の作業が偶然七回あった可能性まで消えたわけではありません」
「ただ、もう一つある」
副隊長が三枚目を示す。
「灯油支給簿だ」
問題の期間には、地下区画向けの灯油が通常より明らかに多く支給されていた。灯火を増やしたのか、夜間の稼働時間を延ばしたのかまでは分からない。ただし、平時の点検だけで使う量としては多すぎるらしい。
「倍近いな」
ガリックが数字を見ながら言う。
「分かるの?」
アイリが尋ねる。
「街道警備で夜番をやってりゃな。検問所の灯りなんて好き放題燃やすもんじゃない。特に地下なら煙も空気も考える。必要以上に焚く理由は普通ない」
それまで黙って資料を眺めていたミレナが口を開いた。
「夜勤の食事は?」
副隊長が彼女を見る。
「食事?」
「荷車だけ勝手に動くわけじゃないでしょう。いつもより長く人を働かせたなら、食べ物にも何か残っていない?」
ガリックが小さく笑った。
「そこは俺も同意だ」
「あなたの場合は理由が違いそうだけど」
「食い物の記録を馬鹿にするな。人間が働けば必ず何か減る」
記録官は少し困ったように別の紙束を取り出した。
「実は探した。旧検問所単独の食事記録は残っていないが、南地区全体の夜勤支給一覧があった」
「何か増えてた?」
「同じ期間に、保存パンと干し肉が通常より十人分多く出た夜が二度ある。ただし、毎夜ではないから七件の通行と直接結びつけることはできない」
ミレナはそれ以上意味を足さず頷いた。
「なら、長い夜勤が少なくとも二度あった可能性がある。それだけで十分よ」
レンは机の上へ並んだ資料を見回した。元の通行台帳だけなら、七つの番号が消えているという事実しかなかった。ところが保管場所も目的も違う記録を重ねると、同じ期間に計量件数が七件多く、地下扉の夜間開閉も七回多い。灯油の支給まで増え、二度の夜には食事の追加まで発生していた。
「通行帳簿だけ消しても、他の記録までは消せなかったのか」
レンが呟く。
「そうだった可能性はあるわ」
ミレナが答える。
「ただし、同じ人物が全てを隠そうとしたという前提付きでね」
「分かってる」
「最近、本当に扱いやすくなったわね」
「それ褒めてる?」
「半分くらい」
「みんな同じこと言うようになったな……」
ガリックが笑いながら、計量集計と扉の記録を見比べる。
「で、次はエドラスだ」
全員の視線がミレナへ向いた。
「そうね」
彼女は少し間を置いてから、懐から細長い革袋を取り出した。
「原本そのものは渡さない。私がここで開いて、日付と時間だけ読む。書き写して構わないけれど、他の欄を覗こうとしたらすぐ閉じるわ」
「そこまで警戒する?」
「三年間、私が自分で保管してきた情報よ。当然でしょう」
「値段は?」
「今日は取らない」
ガリックが顔を上げた。
「珍しいな」
「昨日見つかった帳簿が本物なら、私にも確認したいことがある。今日は交換よ。あなたたちは東門の記録を見せる。私はエドラスの日付と時刻を出す。それだけ」
副隊長が頷いた。
「それなら問題ない」
ミレナは革袋から薄い紙束を取り出し、レンたちから文字が直接見えない角度で最初の一枚を開いた。
「エドラスが最初に『空の荷車』として注意を付けたのは、この日。時刻は夜半より少し前。場所は倉庫街南側」
記録官が地下帳簿の期間と照合する。
「欠番の期間内だ」
「旧検問所から遠い?」
アイリが尋ねる。
「荷車ならそう遠くない」
ガリックが答えた。
ミレナは次の紙へ移る。
「三日後にも一件ある。夜。今度は『見た目より車軸が沈む』とだけ書いている」
「それも範囲内です」
記録官が言った。
「二件重なった」
レンが呟く。
「日付と地域が重なっただけよ」
ミレナがすぐに補足する。
「でも偶然として考える材料は減りました」
エリリアが言う。
「エドラスが不自然だと判断した二つの荷車が、欠番七件の存在する期間に王都南部で確認されている。さらに旧検問所では同じ期間に、通行台帳に残らない七件分の計量差がある。両方を照合する理由は十分にあります」
「エドラスの『空』って、本当に荷台が空だったって意味じゃないんだな」
レンが尋ねる。
ミレナは紙を一度確認した。
「最初の記載は『申告上、空に近い』。別の記録では『荷台は軽荷扱い、車軸は軽荷ではない』となっている」
「書類ではほとんど積んでない扱いなのに、実際の車体は重かった」
ガリックが言う。
「少なくともエドラスは、そう疑ったようね」
「重量の数字は?」
副隊長が尋ねる。
「そこから先は有料」
「今その流れで?」
レンが呆れた声を出す。
「交換条件は日付と時間だけよ」
「本当に一行ずつ値段付けるな」
「信用できるでしょう?」
「別の意味でな」
それでも、必要なものは得られた。エドラスが不自然と判断した少なくとも二件の荷車は、七件の欠番が生じた期間に王都南部で確認されている。そして旧検問所の地下では、その同じ期間に通行台帳より七件多い計量が行われ、下層扉も夜間に七回多く使用されていた。
同じ荷車だったと断定するには、まだ足りない。
だが、無関係として切り離す理由も少しずつ弱くなっていた。
◇
調査はそこで終わらなかった。
記録官が持ち込んだ資料の中には、通行記録とは直接関係がないと考えられていた会計書類も混じっていた。閉鎖後の旧検問所に掛かった修繕費、灯油、夜勤手当、設備搬出費などをまとめた支出控えで、大半は既に確認した別の記録と数字が一致している。
「これは関係なさそうだな」
副隊長が一枚を脇へ避けようとした時、アイリが紙の端へ顔を寄せた。
「待って。ここ、何?」
「どこだ」
「『夜間下層通行』って書いてあるところ」
記録官が紙を戻した。
薄い会計控えの中ほどに、周囲の項目とは少し異なる一行が残っていた。
『夜間下層通行 一括精算』
その横には金額と日付、確認した会計担当者の短い署名がある。だが、本来なら記されるはずの荷主名も荷車番号も書かれていなかった。
「日付は?」
レンが尋ねる。
記録官が確認し、僅かに表情を変えた。
「欠番がある期間の最終日だ」
ガリックが身を乗り出しかけ、左脚を思い出したように椅子へ座り直した。
「何件分の精算か分かるか」
「書いていない」
「金額から逆算できませんか」
エリリアが尋ねる。
記録官は通常料金表を取り出し、しばらく数字を照らし合わせた。
「単純な通行料だけなら出せる。ただ、夜間割増や地下区画使用料が含まれていた可能性があるから、正確な件数までは分からん」
「それでも、おおよそは?」
「……七件分に近い」
室内が静かになった。
レンはすぐに確認した。
「近いだけ?」
「ああ。荷物の重量や時間帯でも料金は変わる。七件だと断定できる数字じゃない」
「ただ、七件の欠番が発生した期間の終わりに、七件分に近い夜間地下通行の一括精算が残っている」
エリリアが整理するように言う。
「そう見えます」
「誰が払った?」
レンが尋ねる。
「分からん」
副隊長が答えた。
「通常なら荷主か商会名が入る欄が空白だ」
「署名は?」
「会計担当の確認だけ。支払った側の名前じゃない」
ミレナはしばらく会計控えを見つめたあと、静かに口を開いた。
「裏を見せて」
「裏?」
「紙を返してみて」
記録官が慎重に紙を裏返す。
文字はない。
ただ、折り目の近くに黒いものが薄く付着していた。
「汚れかな」
アイリが尋ねる。
ミレナは直接触れず、顔を近づけて確認する。
「蝋だと思う」
「封蝋か?」
副隊長が覗き込む。
「たぶん。ほとんど欠けてるけど」
記録官が小さな木べらを使い、紙を傷つけないよう残留物の端を確認した。黒い蝋は丸い封印の一部だったらしく、中央部分は失われ、外周だけが薄く紙へ残っている。
「東門の会計書類で黒い封蝋を使う?」
レンが尋ねる。
「使わない」
副隊長は即答した。
「うちの標準は赤茶か無色だ。用途ごとに違いはあるが、少なくとも黒は東門のものじゃない」
「王都の商会では?」
ミレナが首を傾げる。
「黒そのものなら使うところはあるでしょうね。違法でも珍品でもない。だから色だけでは絞れない」
「印の紋章は残っていませんか」
エリリアが尋ねる。
「肝心の中心が欠けてる」
記録官が答えた。
「外周だけじゃ判別は難しいな」
ガリックは一括精算の金額へ目を落としたまま言う。
「名前のない夜間通行をまとめて払った記録がある。その時期と欠番の期間が重なって、金額も七件分に近い。そこへ黒い封蝋が残ってる」
「そこまでは事実として並べられるわね」
ミレナが答えた。
「でも、これを押した相手が七件の欠番そのものを支払った人物だとまでは、まだ言えない」
副隊長は通常の会計控えを何枚か並べた。
「そもそも閉鎖した検問所で、一括精算ってよくあることなのか」
「商会の定期便や王家の指定輸送なら珍しくない」
ガリックが答える。
「だが、正式閉鎖後の旧検問所で、夜間に地下通行だけまとめて精算するのは別だ。正規の荷主なら新貨物門へ回される。どうしても旧施設を使うなら、工事か警備か、それなりの理由が必要になる。その理由まで空白なのは妙だ」
「他にも同じ形式の書類は?」
エリリアが尋ねる。
記録官は会計控えを一枚ずつ確認したが、「夜間下層通行 一括精算」と記されたものはその一件だけだった。黒い封蝋についても、同じ束の中では他に見つからない。
「この書類は、通行台帳とは別の場所に保管されていたんですよね」
アイリが確認する。
「ああ。閉鎖後の費用処理だから南地区会計所へ回され、その後は古い支出控えとして倉庫へ移された。地下の通行帳簿とは管理系統が違う」
ミレナが僅かに口元を緩めた。
「だから残ったのかもしれないわね」
「誰かが通行記録だけ消せば十分だと思った?」
レンが尋ねる。
「そうだった可能性はある。でも、それもまだ推測よ」
レンは返事の代わりに頷いた。
◇
午後になると、記録官と副隊長は資料を持って東門へ戻る準備を始めた。一括精算の控えは黒い封蝋ごと専用の保護袋へ入れられ、今後は地下帳簿とは別の保管場所で管理されることになった。救難信の原本が盗まれたばかりである以上、一つの場所へ重要な証拠を集め直す気は副隊長にもないらしい。
ミレナもエドラスの紙束を革袋へ戻したが、帰る前に一度だけ机の上へ残された資料へ目を向けた。
「エドラスは、自分の報告が戻ってこないことを気にしていた」
「前にも言ってたな」
レンが答える。
「ええ。だから控えを残した。今回見つかった欠番が彼の追っていた荷車と同じだと決まったわけではないけれど、少なくとも彼が不自然な輸送を追っていた時期に、旧検問所の地下通行記録が七件分抜かれていた可能性はかなり高い」
「それとは別の記録に、七件分の差が残ってた」
アイリが言う。
エリリアも頷いた。
「計量、扉の開閉、灯油、夜勤支給、会計。全てが完全に一対一で対応しているわけではありません。それでも、同じ期間へ複数の不自然な記録が集中していることは無視できません」
「で、一番知りたい積荷だけは分からない」
ガリックが言う。
「そこが次ね」
ミレナが答えた。
「まず黒い封蝋を調べるべきじゃないか」
レンが言うと、副隊長も頷いた。
「俺もそう考えてる。支払った相手へ近づければ、一括精算の理由も分かるかもしれん」
「封蝋だけで追える?」
アイリが尋ねる。
「王都には封蝋を扱う商人も、紋章印を彫る職人もいる。黒を扱う店が多ければ色だけでは絞れないが、残った外周の形や蝋の質、混ぜ物、厚さまで調べれば何か拾える可能性はある」
ミレナが肩をすくめる。
「それを本気で追うなら、詳しい人間を何人か知ってるわよ」
「有料?」
レンが尋ねる。
「当然」
「聞く前から分かってた」
「成長したわね」
ガリックが笑った。
副隊長たちが帰ったあと、回復室には地下帳簿の写しと、会計控えから転記された一行だけが残された。
『夜間下層通行 一括精算』
支払人の名前はない。
荷車番号も、積荷も記されていない。
それでも、金額だけは確かに残っていた。
通行台帳では、四一八九から四一九五までの七件分が刃物を使って外されていた。同じ期間、地下計量所の集計には七件分の差があり、下層扉も夜間に七回多く使われている。灯油の支給量は増え、二度の夜には食事まで追加され、エドラスが不自然な荷車を追っていた日付もその期間と重なっていた。そして最後には、夜間の下層通行をまとめて精算した一枚の会計控えが残されている。
一冊の帳簿から記録を切り取ることはできる。
だが、荷車を実際に動かせば、重量を量る者がいて、扉を開ける者がいて、地下に灯りをともす者がいる。夜を越えて働く者には食事が必要になり、施設を使えば金も動く。輸送そのものを存在しなかったことにしようとしても、その周囲で発生した仕事の痕跡まで一つ残らず消すことは難しい。
「エドラスも、こういうのを探してたのかな」
アイリが小さく言った。
「たぶんな」
レンは卓上の数字を見たまま答える。
「一個の記録だけ信じないで、別のところに残った数字を比べてたんだと思う」
「だから、通行帳簿が消されても他が残った」
「そうかもしれない」
エリリアは二人の会話を聞きながら、静かに付け加えた。
「ただ、それが偶然残ったのか、誰かが意図して残したのかはまだ分かりません」
「そこは決めない」
レンが答える。
「でも、調べる場所は分かった」
窓の外では、午後の王都を荷車が行き交っていた。荷主の名があり、積荷があり、門を通るたびに記録が残される、どこにでもある日常の輸送。それと同じように見える荷車が三年前の夜にも走っていたのだとすれば、なぜ一部だけが地上の正式な記録から外れ、閉鎖されたはずの旧検問所の下を通る必要があったのか。
まだ分からないことの方が多い。
四一八九から四一九五までの七件が、エドラスの追っていた荷車そのものだったのか。
それぞれ何を運んでいたのか。
誰が記録を外したのか。
そして、なぜ名前を残さず夜間の下層通行をまとめて精算したのか。
だが一つだけ、以前より確かな形になった疑問がある。
消された通行には、費用が発生していた。
誰かがその費用を払っている。
支払人の名前は残っていない。それでも、会計控えの裏には東門守備隊が通常使わない黒い封蝋が欠けたまま残されていた。
荷車の記録は消されても、その通行が誰のものでもなかったわけではない。
次に追うべき相手は、名前のない荷車そのものではなく、それを通すために金を払った誰かだった。
ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。
もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。
皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。
いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!




