第二章 第十九話 王都の裏側へ
旧検問所へ向かう許可が下りたのは、前日に見つかった「下層搬送路」の記録を東門守備隊が確認してから、さらに一日が過ぎた朝だった。先行して現地へ送られた二人の隊員は、建物そのものに大きな崩落が見られないこと、正面入口の封鎖には最近こじ開けられたような痕跡がないこと、そして南東側の斜面近くに、現在の地図には記されていない石積みの壁が半ば土へ埋もれた状態で残っていることを報告していた。その位置は、ミレナが聞き出した車輪職人の証言と、閉鎖前の補修図に残された床下点検口の方角にもほぼ一致している。
だからといって、レンたちが自由に現地へ向かえることになったわけではなかった。白環治療院の担当治療師は、東門守備隊から提出された現地報告を最後まで読み終えると、寝台に座るレンとアイリ、エリリア、そして杖を手にしたガリックを順番に見回した。
「最初に確認しますが、これは外出許可ではありません。治療上の制限を守ることを条件とした、短時間の現地確認です」
「分かってます」
レンが答えると、治療師は間を置かず続けた。
「その返事だけでは信用しません。条件を一つずつ確認します。現地までは東門守備隊の荷車を使い、歩行距離を最低限にすること。レンさんは右腕で重い物を持たず、左手も移動中の支えとして使い続けない。アイリさんは右肩と手首へ負担を掛ける動作を避ける。エリリアさんは風の魔力を使わない。ガリックさんは杖を使用し、段差や崩れた場所で誰かを支える役を引き受けない」
「最後だけ妙に細かくないか」
ガリックが不満そうに言う。
「過去の実績によるものです」
「反論しづらいな」
「さらに、地下へ入る場合は東門守備隊が先に安全を確認した範囲まで。時間も短く区切ります。息切れ、痛み、痺れ、眩暈、構造上の不安、その他どのような理由であっても、誰か一人が戻るべきだと判断した場合は、その時点で全員戻ってください」
「一人でも?」
レンが確認すると、治療師は迷わず頷いた。
「一人でもです」
「それでいい」
返事があまりに早かったため、隣のアイリが兄を見る。
「お兄ちゃん、本当に?」
「ああ。地下で誰か一人だけ置いて先へ行く方が危ないだろ。それに、怖いとか嫌な感じがするとか、うまく理由を説明できなくても、その人だけが何かに気づいてる可能性だってある。一人でも戻るって言ったら、全員戻る。それでいい」
エリリアも静かに頷いた。
「私も賛成です。地下では視界も逃げ道も限られますし、全員が同じものを見られるとも限りません」
ガリックは杖の柄へ両手を重ね、少しだけレンを見た。
「少し前なら、お前が一番先に『あと少しだけ』って言い出してただろうにな」
「少し前って、本当に少し前じゃないか」
「だから余計に驚いてる」
壁際に立っていたミレナが、そこで口を挟んだ。
「私は一つ追加したいわ。地下では勝手に別行動しないこと。入口が見えている程度の距離でも、一人だけ別の通路へ入るのは禁止。調べたい物があれば全員で移動するか、諦める」
レンが少し意外そうに彼女を見る。
「ミレナが一番勝手に動きそうなのに」
「だから自分にも適用される条件として言っているの」
「守るのか?」
ガリックが疑わしそうに尋ねる。
「契約したならね。必要なら戻るわ。情報は死んだあとでは売れないもの」
「結局そこか」
「納得できたなら理由は何でもいいでしょう」
治療師は全員から明確な同意を取り終えると、ようやく許可書へ署名した。
◇
南旧検問所は、現在使われている王都の街道から外れた低い斜面の途中に残されていた。白環治療院から東門守備隊の荷車で移動し、王都南部の倉庫街を抜けたあと、舗装の荒れた古い道へ入る。かつては多くの荷車が行き交ったはずの街道も、今では両側から雑草が伸び、石畳の隙間には細い根が入り込んでいた。新しい貨物門へ交通が移ったあとも完全に道が失われなかったのは、周辺の小さな倉庫や作業場へ向かう者が時折使うかららしいが、旧検問所へ近づくにつれて人の気配は目に見えて減っていった。
荷車が止まった場所から建物までは、ゆっくり歩いても数分とかからない。レンは降りる時も右腕を使わず、隊員が用意した低い踏み台を使って地面へ降りた。右脚に残る狼傷の古い痛みがまだ強く出ていないことを確かめながら、左手も荷台や壁へ長く体重を預けないよう注意する。アイリも右肩を庇い、エリリアは魔力を一切使わず自分の足で歩いた。ガリックだけは最初から杖へ一定の体重を預け、誰よりも遅い歩幅を崩さなかった。
「ちゃんと遅く歩けるんですね」
アイリが言うと、ガリックは顔をしかめた。
「俺を何だと思ってる」
「大鍋のためなら怪我してても走りそうな人」
「走らん。急ぐだけだ」
「同じでは?」
エリリアが静かに問いかける。
「違う」
そんなやり取りをしながら近づいた旧検問所は、遠くから見た印象以上に大きかった。正面には荷車を二台並べて止められる石敷きの検査場があり、その左右には低い詰所が伸びている。木製の正門は既に撤去され、代わりに横木と板で封鎖されていた。屋根の一部には何度か補修された跡が残り、閉鎖後も完全に放置されていた施設ではないことが外からでも分かる。
東門守備隊の副隊長は先行隊員二人と合流すると、正面ではなく建物の南東側へ全員を案内した。斜面と外壁の間には細い空間が続き、雑草を刈り取った跡の向こうに、昨日発見された古い石積みが露出している。
「これが職人の言ってた場所?」
レンが尋ねる。
「おそらくね」
ミレナが答えた。
「昨日もう一度本人に確認させた。建物自体は記憶より古びていたけれど、斜面との位置関係はここで間違いないと言っていたわ」
「荷車が入れる道には見えないね」
アイリが周囲を見回す。
現在の状態では確かに無理だった。壁と斜面の間には人が数人並んで歩ける程度の空間しかなく、その先は草地と崩れた石に塞がれている。
「今はな」
ガリックが杖の先で足元を軽く示した。
「ここの地面、周りより高さが変わってる。後から土を入れた可能性があるぞ」
副隊長も頷く。
「先行隊が表面だけ確認した。石積みの外側には、下の層と質の違う土や砕石が混じっている。いつ埋められたかまでは分からん」
「昔はもっと地面が低かった可能性があるということですね」
エリリアは壁へ近づきすぎない位置から石の並びを観察した。
「それに、この部分だけ上の建物とは石の大きさが違います」
「よく見たな」
副隊長が昨日の補修図の写しを広げる。
「上側は閉鎖前に何度も補修されているが、下の石組みは古い。先行隊が土を少し除けたら、これが出てきた」
図面上の床下点検口に対応する位置より低い場所から、半分錆びた鉄環が突き出していた。隊員二人が周囲をさらに掘り、用意していた細い鉄棒を隙間へ差し込む。
「魔法じゃなくて、普通に開くんだな」
レンが言う。
「元は荷物を運ぶ施設でしょう?」
エリリアが答える。
「開けるたびに術者が必要では、検問所として使いにくいです」
「確かに」
鉄環そのものは扉の取っ手ではなく、壁内部の固定金具を動かすための機構だった。古い補修記録と照らし合わせながら錆びた部分へ油を差し、二本の鉄棒で少しずつ力を加えていく。石の奥から低い金属音が何度か響いたあと、壁の一部が僅かに前へ動いた。
「下がれ」
副隊長の声で全員が距離を取る。
隊員二人がさらに機構を動かすと、石壁の一部が内側へ倒れるのではなく横へずれ、その向こうに人が二人並べるほどの暗い開口部が現れた。そこに魔力の光も、隠された紋様もなかった。何十年も使われなかった鉄と湿った石の匂い、そして地上より明らかに冷たい空気だけが、暗闇の奥から静かに流れ出してくる。
副隊長が灯りを掲げ、入口の内側を確認した。
「階段じゃないな」
その先は緩やかな下り坂になっていた。
「荷車用だったなら当然だ」
ガリックが覗き込む。
「階段じゃ下へ運べん」
石敷きの床には二本の浅い溝が並行して伸び、長い年月で角が削れている。ところどころ泥に埋もれているものの、荷車の車輪が繰り返し通った跡と考えるのが自然だった。
「これが搬送路……」
レンが暗い先を見つめる。
「その可能性が高そうですね」
エリリアが答えた。
副隊長は入口から十数歩だけ隊員を進ませ、天井、床、壁の状態を確かめさせた。直近に崩れる兆候がないことを確認したあと、予定通り隊員二人を先頭に、副隊長、レンたち、最後尾にもう一人の東門隊員という順で進むことになった。
「もう一度だけ確認する。一人でも戻ると言ったら全員戻る。先行隊より前へ出ない。勝手に物へ触らない。来た道を常に把握する」
「分かってる」
レンが答える。
「本当に?」
「戻ってくるまで何回聞くんですか」
「必要なら何回でもだ」
◇
地下へ続く坂道は、最初のうちは検問所の地上部分と同じ灰色の切石で固められていた。左右の壁には一定間隔で鉄製の灯火受けが残され、その下には荷車を一時的に固定するためと思われる太い鉄輪が埋め込まれている。床を走る二本の車輪溝の間には浅い排水路が設けられ、透明とは言い難い黒ずんだ水が細く流れていた。
五十歩ほど進んだところで、石の組み方が明らかに変わった。上部ではほぼ同じ大きさへ整えられていた石が、そこから先では形も大きさも少しずつ不揃いになり、後から補修された場所だけ別の色の石が使われている。古い石組みへ新しい漆喰を重ね、そのさらに上から別の時代の金具で固定した場所まであり、一つの施設を長い年月にわたって何度も修理しながら使い続けてきたことが壁そのものに刻まれているようだった。
「ここから急に古くなるな」
ガリックが足元を確かめながら言う。
「何回も作り直されてる」
アイリも周囲を見回した。
「そう見えますね」
エリリアは壁へ刻まれた数字らしい印へ視線を向ける。
「これは工事の番号でしょうか」
副隊長が近づいて確認した。
「街道警備隊の古い補修印に似てる。こっちは区画番号だな」
「写していい?」
アイリが尋ねる。
「普通の記録印だ。問題ない」
許可を受けた同行隊員が紙へ位置と形を書き写す。炭筆の線は薄れることも消えることもなく、そのまま紙の上に残った。
レンは一瞬だけ名もなき都市で見た文字を思い出したが、自分から比較しようとはしなかった。形も違えば、ここに刻まれている理由も説明できる。目の前にあるものは王都の工事記録として扱える印であり、夢の中に浮かんでいた未知の文字とは、今のところ別のものだった。
さらに奥へ進むうち、車輪溝の片側に周囲とは異なる傷が混じり始めた。
「止まって」
ミレナが声を掛けると、全員がその場で足を止めた。
「戻る?」
レンがすぐに尋ねる。
「まだ。確認したいだけ」
ミレナは前へ出ず、近くの隊員に灯りを少し下げてもらった。
「この溝、上の方と削れ方が違うわ」
ガリックも腰を落とさず、灯りの中へ目を凝らす。
「確かに。古い溝の上へ、別の傷が重なってる」
「最近のもの?」
レンが尋ねる。
「最近が何年以内を指すかによるな。少なくとも、周囲の摩耗より新しく見える程度しか言えん」
副隊長は記録係へその位置を書かせた。
「閉鎖後に使われた証拠になりますか」
アイリが尋ねる。
「まだならん」
ガリックが首を横へ振った。
「閉鎖直前についた傷かもしれないし、後の補修作業で台車を入れた可能性もある」
「ただ、記録しておく価値はありますね」
エリリアが言う。
「そういうことだ」
傷の形と位置だけを記録し、それ以上の意味を与えないまま先へ進んだ。
やがて道は大きく広がり、荷車を二台並べても余裕があるほどの地下空間へ出た。天井を支える石柱が四本並び、壁沿いには低い石台と、錆びた金属製の計量器具らしい残骸が残っている。床の車輪溝はいくつかの方向へ分かれ、その一つは右手の崩れた通路へ、もう一つは正面奥の閉じた木扉へ続いていた。
「地下の検査場か」
ガリックが周囲を見回す。
「荷物を一度止めて確認する場所だった可能性が高そうですね」
エリリアの言葉通り、壁には数字を刻んだ小さな石札がいくつも埋め込まれ、床の車輪溝と対応するように並んでいる。地上で扱いにくい荷物や、天候を避けて確認する必要のある積荷を下へ移していたのかもしれないが、現在残っている設備だけで用途を断定することはできなかった。
正面の木扉は表面こそ腐食していたものの、完全には崩れていなかった。副隊長が先行隊員へ確認させると、錠は既に壊れ、扉自体も軽く押すだけで内側へ動いた。
その先にあったのは広い倉庫ではなく、細長い小部屋だった。壁沿いには棚が並び、中央には二つの机が残されている。紙の多くは湿気によって崩れ、棚の下には革紐や木札の破片が散らばっていたが、奥の比較的乾いた区画には厚い帳簿が何冊か横倒しになって残っていた。
「記録室……?」
アイリが小さく言う。
「触るな」
副隊長が全員へ釘を刺し、まず同行した隊員に棚と天井の安全を確認させた。水が落ちる場所は避け、崩れかけた棚には近づかない。比較的状態の良い帳簿についても、素手ではなく薄い布を使って一冊ずつ机へ移していく。
最初の二冊は、検問所が正式に使われていた頃の一般的な貨物記録だった。日付、荷主、荷車番号、申告された積荷、重量、通過時刻、検査担当が規則正しく記され、穀物、塩、木材、織物、薬草、鉄材といった品目が淡々と並んでいる。
「こういうのが残ってるなら、貨物管理所の倉庫より先に見つかったのは運がいいな」
ガリックが言う。
「でも古い」
レンが帳簿を覗き込む。
「エドラスが調べてた三年前まで残ってる?」
「順番に見ないと分からん」
副隊長が背表紙を一冊ずつ確認した。
三冊目、四冊目と年代を追い、湿気で半分崩れた束を避けていくうち、閉鎖時期へ近い帳簿が出てきた。
「これを見てください」
エリリアが声を上げる。
彼女が見つけたのは、他より薄い一冊だった。表紙には南旧検問所の名称と、正式な閉鎖後の日付が記されている。
「閉鎖した後?」
レンが確認する。
「正式閉鎖の翌年ですね」
「何で通過記録が残ってるんだ」
副隊長の表情も変わった。
帳簿を開くと、最初の数頁には「設備搬出」「石材回収」「点検資材」といった記録が並んでいた。閉鎖後の撤去や補修に使用された荷車だと考えれば、そこまでは不自然ではない。
しかし途中から記録の形式が変わっている。
荷主欄は空白。
積荷欄も空白。
通過時刻は夜間。
重量欄だけには数字が残されていた。
そして数頁進んだところで、帳簿の綴じ方そのものに明らかな異常が現れた。
「待って」
アイリが声を落とす。
「ここ、破れたんじゃないよね?」
自然な破損ではなかった。背の綴じ糸が一定の範囲だけ切断され、複数の頁が根元から丁寧に外されている。湿気で抜け落ちたのであれば周囲の紙にも同じような崩れが出るはずだが、その部分だけは切断面が比較的揃っていた。
「何枚なくなってる?」
レンが尋ねる。
副隊長は紙の厚みと残った綴じ糸を注意深く確認した。
「少なくとも数枚。ただ、正確な枚数は記録官に調べさせないと分からん」
ガリックは前後に残った記録番号へ視線を移した。
「番号は続いてるか?」
外された部分の直前に残る最後の番号は四一八八。次に残っている頁の最初は四一九六だった。
「七つ飛んでる」
レンが言う。
「四一八九から四一九五までの記録が見当たりません」
エリリアが慎重に言い直す。
「一件につき一頁だったとは限りませんが、少なくとも番号上は七件分が抜けています」
「その前後は?」
副隊長が確認する。
四一八八は夜間。荷主欄空白。積荷欄空白。重量あり。
四一九六も夜間。荷主欄空白。積荷欄空白。重量あり。
レンは帳簿を見つめながら喉の奥が僅かに乾くのを感じた。
「エドラスの言ってた空の荷車……」
「まだ決めない」
ミレナがすぐに言った。
レンも今回は反論しなかった。
「分かってる。似てるだけだ」
「そう。申告欄が空白で重量だけ記録された荷車が、この帳簿にもある。それは確認できる。でも、エドラスが追っていたものと同じ荷車かどうかは、日付を照合するまで分からない」
「この帳簿、三年前を含んでる?」
ガリックが表紙と記録日を確認する。
「少なくとも一部は含んでいる」
副隊長の声が低くなる。
ミレナの表情からも、いつもの僅かな笑みが消えた。
「なら、エドラスの記録と照合する価値はあるわね」
「値段下げてくれる?」
レンが尋ねる。
「上げようか?」
「何も言ってない」
アイリが思わず小さく笑ったものの、すぐ帳簿へ視線を戻した。
「切られた頁って、いつ無くなったのかな」
「分からん」
副隊長が答える。
「閉鎖直後かもしれない。三年前かもしれない。もっと最近かもしれない。ここへ最後に正式な人間が入った時期さえ、別の記録を探さないと分からん」
「なら、今確認できるのは、頁が人為的に外された可能性が高いということだけですね」
エリリアが言う。
「ああ」
副隊長は帳簿を持ち帰って調査すると決め、保存状態を崩さないよう布と板で挟ませた。他の記録も必要なものだけ確認し、この場で長時間読み込むことはしない。治療院から許可された時間も、既に半分以上を使っていた。
「ここまでで戻りますか」
アイリが尋ねる。
副隊長は記録室の奥へ続く通路へ灯りを向けた。
「もう一か所だけ、安全確認をしてから戻る。先行隊が昨日見られなかった区画が、この先にある」
「全員で?」
ミレナが確認する。
「ああ。誰も離れない」
誰も異論を挟まず、帳簿を持つ隊員を中央に置いて記録室を出た。
◇
記録室の先でも、下層搬送路はさらに王都側へ伸びていた。石の組み方は先ほどより一段と古くなり、車輪溝の幅も僅かに狭い。天井には後から補強した木梁が何本か渡され、そのうち二本は腐食して黒ずんでいた。床を流れる排水も少し深くなり、靴底を濡らさず進むには壁寄りを選ばなければならない。
それでも、しばらくは問題なく歩けた。
百歩も進まないうちに、先頭の隊員が片手を上げた。
「止まってください」
全員がその場で足を止める。
前方では、搬送路の一部が大きく崩れ、その下を流れる古い排水路が露出していた。幅は数歩程度しかないが、崩落した石の縁は不安定で、近づくだけでも細かな砂が下へ落ちていく。向こう側には通路が続き、壁に残る灯火受けも暗闇の奥まで並んでいた。
「健康な人間一人なら、縄を掛ければ渡れなくは――」
先頭の隊員が言いかけたところで、アイリの声が重なった。
「戻ろう」
全員の視線が彼女へ向いた。
アイリ自身も一瞬だけ驚いたようだったが、言葉を撤回しなかった。
「端が崩れてる。誰か一人だけ向こうへ渡って、そのあともっと崩れたら戻れなくなる。それに、ここで分かれたら最初の約束を破ることになる」
副隊長は崩落部分を一度見たあと、すぐに頷いた。
「その通りだ」
レンも向こう側へ続く暗い通路を見つめたが、迷う時間は長くなかった。
「戻ろう」
あまりに素直な返事に、今度はアイリの方が兄を見る。
「いいの?」
「一人が戻るって言ったら全員戻るって決めただろ」
「でも、お兄ちゃんなら向こうを見たがると思った」
「見たいよ」
レンは正直に答えた。
「でも今日は、もう十分見つけた」
ガリックがその言葉を聞き、僅かに笑った。
「ようやく分かってきたな」
「またそれ言うのか」
「今日は褒めてる」
「本当に?」
「七割くらい」
「残り三割は何なんだよ」
「帰り道で無茶しないかどうかだ」
ミレナも崩落の向こうへ一度だけ視線を向けた。
「私も戻るに賛成よ。今ここで一人を渡して得られるかもしれない情報より、見つけた帳簿を無事に地上へ持ち帰る方が価値が高い」
「エリリアは?」
レンが尋ねる。
「最初から戻るつもりです。この先は天井の補強も古すぎます」
副隊長は崩落位置を図面へ記録させ、安全な距離から幅と深さを測らせた。それ以上前へ出ようとする者はいなかった。
帰路でも、誰も先ほどの判断を悔やむ言葉を口にしなかった。地下検査場を通り、記録室を確認し、入ってきた道を一つずつ辿り直していく。レンの右脚には歩行による重さが出始め、左前腕も何も持っていないにもかかわらず疲労で痺れが強くなっていた。もし崩落を越えてさらに奥へ進んでいれば、帰り道で身体が追いつかなくなっていた可能性は十分にある。
やがて地上の光が見えた時、レンは自分が安堵していることに気づいた。以前なら、その感覚を情けないと思ったかもしれない。今は違う。戻ると決め、全員で同じ入口から戻れたことそのものが、今日の調査を失敗ではなくしていた。
◇
白環治療院へ戻ったあと、地下から持ち帰った帳簿は東門守備隊の記録官へ預けられ、紙を傷めない形で頁数と綴じ糸の状態を詳しく調べることになった。ミレナも自分が保管しているエドラス・フィンの記録について、まず日付だけなら照合してもよいと認めたものの、原本そのものを見せる値段については「別」と言い張ったため、レンとはしばらく言い合いになった。
それでも、この日の調査で確認できたことは少なくなかった。旧検問所の地下には、確かに荷車を通すための搬送路が存在した。そこには車輪溝、固定用の鉄輪、地下の検査場、貨物を記録するための部屋まで残っていた。さらに閉鎖後の帳簿には、荷主も積荷も記されないまま重量と夜間の通過時刻だけが残る記録が存在し、その途中では番号の連続する範囲が、人の手によって外されたと考えられる状態で欠落していた。
しかし、そのどれもまだ「空の荷車」の正体を証明してはいない。切り取られた頁がエドラスの調査対象だったのか、荷主欄が空白の記録と彼が追っていた重量不一致が同じものなのか、誰が頁を切り、いつ持ち去ったのか、そして搬送路の崩落した先がどこへ続いているのか。確認すべきことは、むしろ増えていた。
「でも、これで一つは分かったよね」
寝台へ戻ったアイリが言う。
「何が?」
「閉鎖された検問所の下に、ただの地下室があったわけじゃなかったってこと」
エリリアが静かに頷いた。
「少なくとも、荷車を通し、検査し、記録するための設備だったことは今日確認できました」
「それと」
レンは机の上に置かれた帳簿の写しへ視線を向けた。
「誰かが記録を抜いた」
「頁が意図的に外された可能性は高いですね。ただ、誰が何のために行ったのかはこれからです」
「分かってる」
レンは苦笑した。
「最近、その言葉を言う回数が増えたな」
「悪いことではありません」
「エリリアに褒められた?」
「半分くらいです」
「ガリックまで移ったのか、それ」
アイリが笑った。
窓の外では、夕方の王都に灯りが一つずつ増え始めていた。地上ではいつも通り荷車が走り、人々が店を閉め、衛兵が門の交代を始めている。その足元に、現代の地図にはほとんど残されていない古い搬送路が伸び、かつて荷車が夜の地下を通っていた痕跡が残されていることを、街を歩く大半の人間は知らないだろう。
レンたちも、その全体を知ったわけではない。今日見たのは旧検問所の下に残された一部に過ぎず、その先には崩落によって進めなかった道が続いている。それでも地下から持ち帰った一冊の帳簿には、年月による劣化とは明らかに異なる欠落が残されていた。湿気で崩れたのでも、文字が薄れて消えたのでもない。綴じ糸を切り、連続した記録だけを意図的に外したと考えられる痕跡だった。
王都の裏側で失われていたのは、現代の地図から消えた道だけではなかったのかもしれない。誰かが特定の荷車について残された記録まで消そうとした可能性があり、その欠けた頁の前後には、荷主も積荷も記されないまま、夜間の通過時刻と重量だけを残した記録が静かに続いていた。
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