第二章 第十七話 盗まれた救難信
ミレナ・クロウが白環治療院を去った翌日も、レンたちの身体に目立った変化はなかった。深く傷ついた右上腕には、依然として剣を振るだけの力が戻っておらず、右手の五本の指は自分の意思で動かせても、強く力を込めようとすれば傷の奥から鋭い痛みが返ってくる。狼に噛まれた左前腕にも痺れと弱さが残り、朝の訓練では炭筆で短い線を何本か引いたところで薬指と小指の感覚が鈍り始めたため、レンは治療師から決められた範囲を守って手を止めた。
少し前までなら、その先を無理に続けようとしていたかもしれない。今は左手を膝の上へ置いて疲労が抜けるのを待ちながら、卓上に広げられた王都南部の簡素な案内図へ目を落としている。ミレナが残していった地図には南貨物門、倉庫街、古い街道が描かれ、その南端に近い場所には、三年前まで深夜に荷車が通っていた可能性があるという旧検問所が小さな印で示されていた。
「閉鎖された検問所の記録、今日から調べてもらえるんだよね?」
アイリが尋ねると、杖を使って回復室まで来ていたガリックが頷いた。
「副隊長が街道警備隊側へ照会を出してくれるらしい。いつ閉鎖されたか、最後に誰が管理していたか、閉鎖後に鍵がどう扱われたか。その辺からだな」
「貨物管理所の方は?」
エリリアが続けて尋ねる。
「そっちは少し時間が掛かる。昔の帳簿は倉庫へ移されてる可能性があるし、三年前の夜間通行記録まで残ってるかも分からん」
「でしたら、現地へ行く前に調べられることはまだありますね」
「そういうことだ」
ガリックはそう答えながら案内図へ伸ばしかけた手を途中で止め、代わりに杖の柄へ掌を置いた。左脚を庇っているため、座った状態でも不用意に身体を捻らないよう治療師から言われている。
「だからレン、お前はその顔をやめろ」
「何も言ってないだろ」
「旧検問所へ行きたい顔してる」
「行きたいとは思ってる」
「思ってるじゃねえか」
「でも今行くとは言ってない」
レンが言い返すと、エリリアが静かに口を挟んだ。
「そこは進歩として認めてもよいのではないでしょうか。以前のレンなら、まず行く方法を考えていたでしょう?」
「……否定できない」
アイリが小さく笑った、その時だった。穏やかな空気を遮るように廊下から早い足音が近づき、三人の意識が自然と扉へ向く。普段この回復室を訪れる治療師たちとは歩幅が違い、急いではいても走ってはいない。その足音には、腰に下げた金属具が触れ合う微かな音も混じっていた。
エリリアが先に扉を見つめ、ほどなくして二度のノックが響いた。
「東門守備隊だ」
聞こえてきた声に、レンとアイリが同時に顔を上げる。
治療師が入室を許可すると、東門守備隊の副隊長が一人で回復室へ入ってきた。普段なら必要な説明を頭の中で整えてから話す男だが、今日は扉を閉めてもすぐには口を開かず、レンたちを順番に確認してから卓上の空いている椅子へ腰を下ろした。
「何かあったんですか」
レンが尋ねる。
副隊長は短く息を吐いた。
「救難信の原本が盗まれた」
その一言で、先ほどまでの空気が一変した。
「……原本?」
最初に聞き返したのはアイリだった。
「ああ」
「あの、俺たちの場所が書いてあった手紙?」
「それだ」
レンは一瞬、言葉を失った。あの夜、東門の連絡箱へ誰にも気づかれないまま現れた一枚の紙。封鎖されていたはずの投入口、使われた形跡のない二本の鍵、そして公式な救助要請が届くより早く、三人の存在と居場所を正確に知らせていた救難信。
「いつですか」
エリリアの声だけは落ち着いていた。
「盗まれたと分かったのは今朝。原本が最後に確認されたのは昨夜の第二巡回時だ」
「保管場所は?」
「東門詰所の証拠保管室だ。救難信だけを置いていたわけじゃない。通常の盗難なら他にも持ち出せるものはあった」
「他に無くなったものは?」
「今のところ確認できていない」
レンの眉が寄る。
「手紙だけ?」
「少なくとも、現在の棚卸しではな」
ガリックがすぐに身体を起こしかけたが、左脚へ負担を掛けないよう途中で姿勢を戻した。
「保管室に入れる人間は何人いる」
「常時の権限を持つのは俺を含めて四人。ただし、証拠の搬入や記録確認の場合は、立ち会い付きで他の隊員も入れる」
「鍵は?」
「二本。一つは俺、もう一つは当直責任者が管理している。夜間の引き継ぎ記録上、どちらも使用されていない」
アイリの顔から僅かに血の気が引いた。
「また、鍵を使わずに……?」
「そこはまだ分からない」
副隊長はすぐに否定した。
「今回、扉の錠前には開けられた痕跡がある」
エリリアの目が細くなる。
「壊されたのではなく?」
「違う。こじ開けた傷はない。錠前を担当している職人にも確認させたが、正しい形の鍵を差し込んで回した時に近い摩耗が残っているそうだ」
「鍵が複製された可能性がある?」
「ある。ただし断定はできない。古い錠だから、同型の鍵を加工して合わせた可能性もある」
ガリックは険しい顔で腕を組んだ。
「夜番は何してた」
「そこも調べている。保管室前の廊下には常時一人配置し、内側の通路にも巡回が入る。昨夜の記録では異常なし。ただ、一つ妙な点があった」
「何だ」
「夜半前、東側廊下の担当者が交代した記録が残っている」
「予定外の交代?」
「そうだ」
「誰と誰が」
副隊長は僅かに間を置いた。
「記録上では、正規隊員同士だ。ただし、交代したことになっている隊員の一人は、昨夜ずっと北門の宿直にいた」
今度は誰もすぐには言葉を返さなかった。
「じゃあ、その人の名前を使われた?」
アイリが尋ねる。
「その可能性が高い。交代記録には本人の認証印まで押されていたが、北門側の記録にも同じ認証印がある。本人も東門へは来ていないと証言している」
「印を複製されたか、盗まれたか。あるいは、以前に押されたものを流用した可能性もありますね」
エリリアが整理するように言う。
「そうだ。今の段階では、どれか一つに決められない」
レンは右手を無意識に開きかけた。五本の指は問題なく動いたが、上腕の奥へ鈍い痛みが返ってきたため、それ以上力を込めず寝台の上へ手を戻す。
「誰かが交代したふりをして廊下に入り、鍵を使って保管室を開けた」
「可能性としてはな」
「服は?」
ガリックが尋ねる。
「東門守備隊の制服を着ていたという証言が一件ある。夜間の薬品搬入で通った治療院の使いが、廊下の角で隊員らしい人物とすれ違っている。ただ、顔は覚えていない」
「本物の制服かどうかは?」
「不明だ。型は合っていたらしい」
「内部の人間か?」
レンが尋ねると、副隊長はすぐに首を横へ振った。
「そこまで言うな。内部の手順を知っている人間が関わった可能性は高い。交代記録の書き方、認証印の位置、保管室のある廊下への入り方、どの棚にどの証拠が収められているか。何も知らない人間が偶然そこまで辿り着くとは考えにくい」
「でも、現役の衛兵が裏切った証拠はない」
エリリアが続ける。
「そういうことだ。元隊員かもしれない。事務記録へ触れられる人間かもしれない。手順そのものを誰かから買った可能性もある。今の段階で内部に裏切り者がいると決めつければ、逆に調査の幅を狭める」
レンは黙って頷いた。少し前の自分なら、盗まれた救難信と最初の不可解な出現方法を聞いただけで、同じ人物が戻ってきたのではないかと考えたかもしれない。しかし今回は違う。原本が現れた夜には説明できない現象があった一方、今回の盗難には鍵、交代記録、制服、保管場所の知識という、明確に人の手で用意されたらしい痕跡が残っている。
「手紙の文面は?」
アイリが尋ねる。
「写しがある。複数残しているし、報告書にも転記してある。最初に受け取った当直記録にも同じ内容が残っている」
副隊長は懐から折り畳んだ紙を取り出し、卓上へ置いた。そこには、すでに何度も確認した短い文章がそのまま記されていた。
『東街道沿いの石小屋。
負傷者、三名。
人間の兄妹と、エルフの女性。
至急、治療の準備を。』
レンはその文面をしばらく見つめた。書かれている情報は何一つ失われておらず、今でも誰が読んでも同じ内容を確認できる。
「だったら、手紙に書いてあった内容を消したかっただけなら、原本だけ盗んでも意味ないよな」
「俺もそう考えた」
副隊長が頷く。
「写しが残っていることを知らなかった可能性は?」
アイリが尋ねると、エリリアは少し考えてから答えた。
「もちろんあります。ただ、保管室の位置や証拠の収納方法まで知っていた人物なら、原本の文面がすでに記録へ転記されている可能性をまったく考えなかったとは、少し考えにくいですね」
「じゃあ、紙そのものが欲しかった?」
レンが言う。
エリリアはすぐには肯定しなかった。
「その可能性はあります。ただし、現時点で言えるのはそこまでです」
「紙の質、筆跡、墨、何か付着していたもの……そういう部分に意味があった可能性もある」
「レン」
「分かってる。候補を挙げてるだけだ」
ガリックが小さく鼻を鳴らした。
「少しは学習したな」
「褒めてる?」
「半分くらい」
副隊長は卓上の写しへ目を落とした。
「こちらでも同じところまでは考えている。だから保管室に残された袋や棚、床、周囲の備品まで全部調べ直している。ただ、今のところ決定的なものは出ていない」
「原本は袋に入ってたんですか」
アイリが尋ねる。
「ああ。透明な保護袋に入れていた。袋自体は残っている」
「破られてた?」
「いや。留め具を外して開封され、中身だけ抜かれていた」
エリリアはその説明を聞き、視線を僅かに落とした。
「つまり、どの袋に救難信が入っていたかを事前に知っていた可能性がありますね。もちろん、現場で一つずつ確かめた可能性もありますが、その場合は時間が必要になります」
「昨夜、保管室前が無人になった時間はどのくらいです」
「記録上、最大で十二分ほどだ」
「その十二分で侵入し、該当する証拠袋を探し、原本だけを抜き取り、また廊下へ戻った」
「事前に場所を知っていた方が自然ではあるな」
ガリックが答える。
レンは写しを見たまま尋ねた。
「この手紙がどこに保管されてるか知ってた人は?」
「正確な棚位置まで知っていた人間は限られる。ただ、救難信を証拠扱いにしたこと自体は東門内部で複数人が知っていた」
「治療院側は?」
「原本を東門が保管していると知る者はいる。ただし、棚の位置までは知らないはずだ」
エリリアが少し考えたあと、顔を上げた。
「ミレナへ意見を聞いてみてはいかがでしょう」
副隊長が眉を上げる。
「鴉に?」
「昨日の話で、彼女が不自然な記録や保管物を扱うことに慣れているのは分かりました。今回、新しい秘密を広く渡す必要もありません。救難信の原本だけが盗まれたという事実から、私たちとは違う視点を持つかもしれません」
ガリックはあからさまに嫌そうな顔をした。
「また呼ぶのか」
「嫌なら帰ってもいいぞ」
レンが言う。
「お前らだけで鴉と話させる方が不安だ」
「昨日はエリリアがいれば安心って言ってただろ」
「それとこれとは別だ」
副隊長は二人のやり取りを聞き流しながら少し考え、やがて頷いた。
「連絡だけはしてみる。来るかどうかは本人次第だ」
◇
ミレナが白環治療院へ姿を見せたのは、昼を少し過ぎた頃だった。昨日までの濃い灰色の外套ではなく、今日は丈の短い黒褐色の上着をまとい、銀の羽根飾りも身につけていない。髪も以前より低い位置でまとめられているため、遠目には同じ人物だと気づかない者もいるだろう。
「本当に服変えてるじゃねえか」
彼女を見るなり、ガリックが呟いた。
「今日は普通に来ただけよ」
「昨日と服が違う」
「毎日同じ服を着る方がおかしいでしょう?」
「お前の場合は信用できん」
「何を着れば満足するの?」
「分かりやすい格好」
「情報屋に?」
そこでガリックは言葉を止め、諦めたように顔を背けた。
「……もういい」
ミレナは彼とのやり取りを軽く流し、副隊長へ顔を向けた。
「盗まれたのは救難信の原本だけ、と聞いたわ」
「今のところはな」
「写しは?」
「複数ある」
「文面は全て残っている?」
「ああ」
「保管場所を知っていた人間は?」
「調査中だ」
「侵入方法は?」
「正しい鍵に近い形で錠が開けられている。予定外の交代記録が残り、別の場所にいた隊員の名前と認証印が使われていた。東門の制服らしいものを着た人物を見た証言もある」
ミレナは椅子へ座ることなく、卓上の写しにも触れず、質問だけを続けた。
「原本を最後に確認した時刻は?」
「昨夜の第二巡回」
「盗難が発覚したのは?」
「今朝の最初の棚卸し」
「その間、保管室へ入った正規の人間は?」
「記録上は二人。ただし、どちらも救難信の袋には触れていないと証言している」
「記録上は、ね」
「そうだ」
「他に無くなった証拠は?」
「ない」
「現金、押収品、武器、機密書類も?」
「確認できる範囲では一つも」
そこでミレナは初めて少し考えるように目を細めた。
「では、少なくとも無差別な盗難ではない可能性が高いわね」
「俺たちも、救難信を狙った可能性が高いと考えてる」
レンが言う。
「そう見えるわ」
「それで、写しが残ってるなら内容を消したかっただけじゃない。だから原本そのものに――」
「そこまで」
ミレナに止められ、レンは口を閉じた。
「何?」
「少し前より慎重にはなったけれど、まだ結論へ近づくのが早いわ」
「可能性って言おうとしただけだ」
「なら、そう言いなさい」
ミレナは卓上の写しへ視線を落とした。
「文面を消すことだけが目的ではなかった可能性がある。原本そのものを必要としていた可能性もある。でも、原本を別の場所へ移すこと自体が目的だった可能性や、こちらに盗難を認識させるために持ち出した可能性も捨てられない」
「盗まれたって気づかせるため?」
アイリが尋ねる。
「可能性としてはね。私はそうだと言っていないわ」
ミレナはそこで副隊長へ視線を戻した。
「だから今、一番先に調べるべきなのは紙の意味じゃない」
「侵入経路か」
「正確には、情報経路」
「情報?」
「誰が原本の存在を知っていたのか。誰が写しの存在を知っていたのか。誰が原本の保管場所まで知っていたのか。この三つを分けて調べるべきよ」
エリリアがすぐに頷いた。
「同じ人物が三つ全てを知っていたとは限らない」
「そういうこと。侵入した本人は、どの袋を取ればいいか指示されただけかもしれない。逆に、保管場所まで知る人物が直接入った可能性もある。今の情報では区別できない」
「制服と認証印も同じか」
ガリックが言う。
「ええ。盗んだ本人が東門の手順を熟知していたとは限らない。制服、認証印、交代記録の書き方、鍵の型。それぞれ別の経路から手に入れた可能性もある」
「つまり、内部犯と決めるなと」
「そういうこと」
副隊長は険しい表情のまま頷いた。
「分かってる。現役隊員全員を疑って組織を壊すつもりはない」
「なら結構」
レンは写しへ目を落とした。
「原本にしかないものって、盗まれる前にどこまで調べてた?」
「何を指してる?」
「紙の質とか、墨とか、筆跡とか」
「最低限は確認している。紙は王都周辺でも流通する一般的なものに近く、墨にも今のところ特別な特徴は見つかっていない。筆跡については照合できる相手がいない」
「じゃあ、そこから送り主は分からない」
「今のところはな」
「原本の一部を削ったり、切ったりは?」
「していない。証拠だからな」
そこでミレナが僅かに眉を動かした。
「誰かが原本を欲しがった理由を考えるより先に、盗まれるまでに何を調査済みだったか、全部一覧にした方がいいわね」
「どうしてですか」
アイリが尋ねる。
「もし犯人が原本から何かを隠したかったのなら、こちらがすでに調べ終えたことと、まだ確認していなかったことの差が重要になるでしょう?」
エリリアがすぐに理解した。
「犯人がこちらの調査状況まで知っていた場合、まだ確認されていない特徴を調べられる前に持ち去った可能性もある」
「ええ。ただし、それを考えるにはまず、こちらが何を確認済みだったか整理する必要がある。逆に、犯人がこちらの調査状況をまったく知らず、何も調べられていないと思って持ち出しただけという可能性も残るわ」
レンは少し感心したようにミレナを見る。
「こういう時、本当に役に立つな」
「今さら?」
「褒めたんだけど」
「金貨一枚」
「何でだよ」
「相談料」
「呼んだの副隊長だぞ」
「では、副隊長へ請求するわ」
「勝手にしろ」
副隊長の疲れた返事にアイリが小さく笑ったが、その笑いも長くは続かなかった。卓上には救難信の写しがあり、原文も報告書も残っている。それでも誰かは危険を冒して東門の証拠保管室へ入り、正規の手続きを偽装し、鍵まで用意したうえで、たった一枚の紙だけを持ち去った。
「この件が起きたことで、旧検問所の調査は止めるんですか」
レンが尋ねると、副隊長は首を横へ振った。
「止めない。別件として進める」
「別件」
「ああ。今のところ繋がっている証拠はない」
エリリアが僅かに頷いた。
「それがよいと思います」
「ただし、救難信の盗難が起きた以上、今後の証拠管理は全面的に見直す。お前たちに関係する資料だけじゃない。保管室への入退室、鍵、認証印、制服の管理まで全部だ」
ガリックが低い声で言う。
「認証印まで別人に使われたなら当然だな」
「まだ複製されたとは決まっていない」
「分かってる。だが、誰かが他人の名前を使って廊下へ入れた時点で穴はある」
「そこは認める」
副隊長は立ち上がる前に、レンたちを一度見回した。
「それと、勝手に調べに行くな」
「俺を見て言いました?」
「お前以外に誰がいる」
「今日は行かない」
「今日だけじゃなく、許可が出るまでだ」
「分かってるよ」
「本当に?」
アイリが横から尋ねる。
「アイリまで疑うな」
「だってお兄ちゃんだから」
「理由になってないだろ」
「なってると思う」
ガリックが鼻で笑い、ミレナまで僅かに口元を緩めた。
◇
午後、東門守備隊の副隊長とミレナがそれぞれ帰ったあと、回復室の卓上には救難信の写しが残されていた。それはもちろん盗まれた原本ではなく、記録官が文面をそのまま転記したものだった。
レンは疲労の残る左手を使わないよう注意しながら、その短い文章をもう一度目で追った。
『東街道沿いの石小屋。
負傷者、三名。
人間の兄妹と、エルフの女性。
至急、治療の準備を。』
「文字は全部残ってるね」
隣から覗き込んだアイリが言う。
「ああ」
「なのに、本物だけ盗まれた」
「うん」
エリリアも寝台の上から写しを見つめていた。
「だからといって、原本そのものに特殊な何かがあると決まったわけではありません」
「分かってる。でも、誰かがあの一枚を狙って持ち出した可能性は高い」
「そうですね。少なくとも、現在確認できている事実からはそう見えます」
誰が原本を必要としたのか、何を目的としていたのか、どこまで東門内部の事情を知っていたのか。答えはまだ一つもない。原本を盗んだ人物が、最初に救難信を届けた何者かと関係しているのかさえ分からず、今回の盗難にはむしろ鍵、制服、認証印、交代記録という、人の手で準備された痕跡ばかりが残っている。
それがレンには、最初の不可解な出来事とは違う意味で不気味に思えた。救難信が現れた時には、封鎖された投入口と使われていない鍵を前に、どうやって紙が連絡箱へ入ったのかすら説明できなかった。それなのに今度は、その説明できない形で現れた一枚の紙を、誰かが極めて現実的な手段を用いて持ち去っている。
「今は二つを分けて考えましょう」
エリリアが静かに言った。
「救難信が現れた方法と、盗まれた方法です」
「同じ人がやった可能性はある」
「ええ。でも、違う可能性もあります」
「分かってるよ」
レンは写しから目を離さなかった。そこに残された文字は明瞭で、滲んでもいなければ、夢の記号のように薄れてもいない。あの夜、三人の居場所を知らせた文章は今も完全な形で残り、記録も証言も失われていない。それでも、本来なら誰にも触れられないはずだった連絡箱の中へ現れた、あの一枚の原本だけが消えていた。
少なくとも現時点では、盗まれたのは言葉そのものではないように見える。誰かが危険を冒してまで必要としたのは、あの夜そこに存在した一枚の紙だったのか、それとも別の目的があって持ち出したのか。その理由を判断できる材料はまだなく、レンたちに残されたのは、完全な文章を写した紙と、原本だけが失われたという不自然な事実だけだった。
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