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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第二章 王都の闇
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第二章 第十六話 ミレナ・クロウ

鴉が白環治療院を去った翌朝、レンたちの前に増えていたのは答えではなく、追うべき名前だった。透明な保護板に挟まれた三枚の紙の横には、治療院の記録官が新しく作成した短い覚え書きが置かれている。そこに記されているのは、三年前に王都南側の貨物管理所で働いていた下級監査官――エドラス・フィン。そして、彼が死ぬ前日の記録へ残していたという一文だった。


 ――空の荷車を追え。


 レンは朝の左手訓練を終えたあとも、その言葉が書かれた紙を何度か見返していた。狼に噛まれた左前腕は休養を挟んだことで多少落ち着いているものの、薬指と小指の感覚は長く使えばまだ鈍くなる。治療師から決められた回数以上は炭筆を持たないよう言われていたため、今は指を休ませながら、昨日聞いた内容を頭の中で一つずつ整理していた。


「空なのに重かった荷車、か」


 レンが呟くと、向かいの寝台で朝食を終えたアイリが小さく首を傾げた。


「本当に何も積んでなかったのかな。見えない場所に隠してたとか、荷台の下に何かあったとか」


「それなら、まだ普通なんだけどな」


「普通って言っていいの、それ」


「少なくとも、空っぽなのに重いよりは分かりやすい」


 横で記録を読み返していたエリリアは、二人のやり取りを聞きながら静かに口を開いた。


「まず、『空だった』という部分から疑うべきでしょう。鴉が話したのは、荷台を確認した記録上ではほとんど何も積まれていなかった、ということです。実際に荷車が完全に空だったと確認されたわけではありません」


「エドラス本人が見たわけでもない?」


「そこも不明です。彼自身が検査した荷車だったのか、他の係員が残した記録を後から見つけたのかも、昨日の話だけでは分かりません」


 レンは紙から目を上げた。


「だったら、やっぱり現物の記録を見た方がいいな」


「鴉から買う?」


 アイリが尋ねると、レンは少し考えてから「値段次第だな」と答えた。


「その『値段次第』が一番怖い相手ですよ」


 エリリアが淡々と言う。


「金貨だけで済めばよいのですが」


「情報をよこせって言われそうだな」


「しかも、こちらが大事だと思っていない情報ほど、向こうにとっては価値がある可能性があります」


 レンは小さく息を吐いた。


「……やっぱり面倒だ」


 昨日から何度目か分からない結論へ辿り着いたところで、廊下から規則的な杖の音が聞こえてきた。ガリックが治療師とともに回復室へ入り、今日も左脚を庇いながら決められた歩幅で進んでくる。脇腹の傷も安定しているらしく、包帯に新しい血は滲んでいなかった。


「朝から難しい顔してるな」


「空の荷車について考えてた」


 レンが答えると、ガリックは用意された椅子へ腰を下ろした。


「考えるだけで荷車の中身が出てくるなら苦労しないぞ」


「それは分かってる」


「だったら先に食え。腹が減ったまま考えたって頭は回らん」


「もう食べました」


 アイリが言う。


「なら、もう一回食えるな」


「それはガリックさんだけです」


 当然のように返されたガリックは少しだけ不満そうな顔をしたものの、すぐに卓上の覚え書きへ目を落とした。


「エドラス・フィン、か」


「昨日は名前だけ知ってるって言ってましたよね」


 エリリアが確認する。


「ああ。貨物管理所の監査官だったことくらいは知ってる。街道警備隊と貨物管理所は何度か記録をやり取りするからな。ただ、俺が現役だった頃に直接話した記憶はない」


「三年前に死んだ」


「らしいな」


「事故だと思う?」


 レンが尋ねると、ガリックはすぐに答えず、紙に残された文章を見たまま眉を寄せた。


「分からん。それ以上でも以下でもない。昨日、鴉が言った通りだ。事故じゃなかった証拠がないなら、今のところ事故だった可能性も残る」


「でも、死ぬ前日にこんなの書いてる」


「だから怪しい、までは言える。だから殺された、まで飛ぶな」


 レンは軽く息を吐いた。


「最近、みんなそれ言うな」


「お前が頭の中で先まで走るからだ」


「走ってない」


「顔に出てるぞ」


 アイリが笑いを堪え、エリリアまで僅かに口元を緩めたところで、回復室の扉が二度だけ叩かれた。治療師が返事をすると、扉の向こうから聞き覚えのある女の声が聞こえた。


「昨日の取引に、少し訂正したいことがあるの」


 レンたちの表情が揃って変わり、扉が開く。昨日とほとんど同じ濃い灰色の外套をまとった鴉が、一人で回復室へ姿を見せた。銀色の羽根飾りも同じ位置に留められているが、今回は部屋へ入るなり出口や窓を確かめることもなく、最初からレンたちへ視線を向けていた。


「また来たのか」


 ガリックが露骨に嫌そうな顔をする。


「随分な歓迎ね、ヴェイン」


「昨日、会いたくないって言っただろ」


「私は今日会いたいと思ったの」


「もっと悪い」


 彼の反応を気にする様子もなく、鴉は昨日とは別の椅子へ腰を下ろした。


「今日は何を売りに来たんだ」


 レンが尋ねる。


「今日は売りに来たわけじゃない」


「鴉が?」


「その呼び方をされると、自分でも少し説得力がないと思うけれど」


 彼女は短く息を吐き、昨日までのような薄い笑みを浮かべないまま卓上の紙へ目を向けた。


「昨日、エドラス・フィンについて話したでしょう」


「ああ」


「私は、彼の記録を見たことがあると言った。でも、どうして私が彼の私物を見る機会を持っていたのかまでは話さなかった」


 エリリアの目が僅かに細くなる。


「昨日の取引では尋ねていませんからね」


「ええ。だから嘘はついていない」


「ただ、あなたとエドラスとの関係が情報の価値を変えるほど重要だったのなら、少し話は変わります」


 鴉はエリリアを見ると、ほんの僅かに口元を上げた。


「やっぱりあなたと話す方が楽ね」


「褒め言葉として受け取っておきます」


「昨日の時点では、私自身もどこまで話すべきか決めていなかった。でも帰ってから考え直した。あなたたちがエドラスの記録を追えば、遅かれ早かれ私の名前に辿り着く可能性がある」


「鴉って名前?」


 アイリが尋ねる。


 女は首を横へ振った。


「違うわ」


 それまで取引の延長にあった空気が、僅かに変わった。彼女は一度だけ灰色の瞳を伏せ、それから改めてレンたちを見る。


「昨日は、私を鴉と呼ぶ者もいる、とだけ言ったでしょう。でも今日は情報屋として来たわけじゃない。だから、その名前で話を続けるのも不自然ね」


 レンたちは黙って次の言葉を待った。


「ミレナ」


 女は静かに名乗った。


「ミレナ・クロウ。それが私の名前よ」


 アイリが一度瞬きをする。


「クロウ……」


「ええ」


「だから鴉?」


 ミレナは初めて少しだけ苦笑した。


「安直でしょう?」


「自分で付けたんですか」


「最初に呼び始めたのが誰だったかは、もう覚えていないわ。便利だったから否定しなかっただけ」


 レンが何か言おうとしたその時、椅子に座っていたガリックの表情が変わった。


「クロウ……」


 先ほどまでの軽い調子が消え、ミレナもその変化に気づいたように灰色の瞳を彼へ向けた。


「何?」


「その名前、どこかで見たと思ってた」


「昨日は思い出せなかった?」


「ああ。情報屋の鴉と結びつかなかった」


 ガリックは記憶を辿るように眉間へ皺を寄せた。


「王立街道警備隊にいた頃、疫病で封鎖された地方の町へ物資を運ぶ護送記録を見たことがある。町の名前より、後から付いた報告の方を覚えてる。治療師が感染を広げた疑いあり、住民との衝突後に追放――」


「そこまで」


 ミレナの声は大きくなかったが、ガリックはすぐに言葉を止めた。


 昨日まで、どんな質問にも余裕のある言葉を返していた女の表情から、ほんの一瞬だけ何かが抜け落ちた。怒りでも悲しみでもない。忘れたわけではない過去を、予想していなかった場所から突然差し出された人間の顔だった。


「その報告書を読んだの?」


 ミレナが尋ねる。


「全部じゃない。俺たちは封鎖区域へ食料と薬を運ぶ側だった。現地で何が起きていたのかを判断する立場でもなかった」


「なら、それで十分よ」


「ミレナさん」


 アイリが呼びかけると、彼女の目が僅かに動いた。


「何?」


「その記録、本当なんですか」


 すぐには答えが返ってこなかった。ミレナは椅子の背へ身体を預け、昨日のような情報屋の笑みではなく、どこか疲れた表情で天井へ視線を向けた。


「半分くらいは」


「半分?」


「疫病が出た。私は治療師だった。感染した人間を診て、薬を作って、治せる者は治した。それは本当」


「感染を広げたっていうのは?」


「違う」


 その返事にだけは迷いがなかった。


「私は止めようとした」


 レンたちは口を挟まず、彼女の言葉を待った。


「最初は普通の熱だと思われていた。でも日が経つにつれて症状が変わった。薬が効く患者と、まったく効かない患者がいた。傷もないのに身体の内側から黒い斑が広がる者もいたし、一度熱が下がったあとで急に悪化する人間もいた。私は普通の病だけじゃない可能性を疑って、町に残っていた古い治療記録や、呪いに関する資料まで調べた」


「呪い……?」


 アイリが小さく聞き返す。


「そういう患者も診ていたの?」


「治療師の中には嫌がる人もいるわ。呪いが病なのか術なのか、それとも別のものなのか分からない場合が多いから。でも、苦しんでいる側には分類なんて関係ないでしょう」


 ミレナは淡々と話していたが、その声には昨日の取引中とは違う重さがあった。


「だから私は診た。感染を恐れて誰も触れたがらない人間も、治せる可能性があるなら診た。薬を変えて、症状を記録して、夜中まで一人ずつ回った。助かった人間もいた」


「でも、町を追われた」


 エリリアが静かに言う。


「ええ」


「何故です」


「誰かのせいにしなければ耐えられなかったからでしょうね」


 ミレナの口元に、自嘲するような小さな笑みが浮かんだ。


「家族を失った人間に、『原因はまだ分かりません』と言い続けるのは残酷なのよ。そこへ、普通の治療師が使わない薬を作り、呪いの資料まで調べている女がいた。しかも私は最後まで患者のそばに残っていた。疑う相手としては便利だった」


「それで、ミレナさんが疫病を起こしたことにされた?」


「そういう話が広がった」


「家族は?」


 アイリが尋ねた瞬間、ミレナの視線が止まった。アイリ自身も聞いてから気づいたらしく、すぐに表情を曇らせる。


「ごめんなさい。言いたくなかったら――」


「死んだわ」


 ミレナは遮るようには言わず、ただ事実だけを置くような声で続けた。


「父も、母も。それで十分でしょう」


「……うん」


 それ以上、アイリは聞かなかった。ガリックも黙っている。彼が昔目を通した報告書に、今ミレナが語った出来事のどれほどが残されていたのか、あるいはほとんど何も書かれていなかったのかを問いただす者はいなかった。


 少しの沈黙のあと、ミレナは自分から話を戻した。


「私が町を出たあと、公式の記録には『治療師ミレナ・クロウが疫病拡大に関与した疑いがあり、住民との対立後に所在不明』と残った。少なくとも、私が後から手に入れた写しにはそう書かれていた」


「助けた人のことは?」


 レンが尋ねる。


「人数だけ。誰をどう治したか、何を使って助かったのか、そういうものはほとんど残っていなかった」


「ひどいな」


「記録って、そういうものよ」


 ミレナは卓上にある保護板へ視線を落とした。


「事実を全部残してくれるものじゃない。書く人間が選んだものだけが残る。書かなかったことは、何年か経てば最初から存在しなかったのと同じように扱われる」


 エリリアが彼女を見つめる。


「それが、あなたが情報屋になった理由ですか」


「一つではあるわね」


 ミレナは少し考えてから答えた。


「町を追われたあと、別の土地で治療師を名乗ろうとしたこともある。でも照会されれば、あの記録が出る。私は人を治したと言っても、紙の上には疫病を広げた疑いのある女として残っている。だったら今度は、紙に残らない方を集めてみようと思った」


「消された記録とか?」


「そう。誰かが無かったことにした話、公式の帳簿から抜けた名前、記録と現実が食い違っている場所。最初は自分のためだったけれど、そのうち、それを欲しがる人間が金を払うと分かった」


 レンが僅かに眉を上げる。


「それで鴉になった」


「簡単に言えばね」


「治療師は辞めたのか?」


「完全には」


 ミレナは自分の手へ視線を落とした。


「薬の作り方は忘れないし、傷や病気を見れば気になる。呪いに関する資料も今でも集めてる。ただ、人前で白い治療着を着て仕事をすることは、ほとんどなくなった」


「じゃあ昨日、俺たちの怪我を見てたのも……」


 レンが思い出すように言うと、ミレナは眉を上げた。


「情報屋が相手の動ける範囲を確認するのは普通でしょう?」


「それだけ?」


「質問は正確に」


 レンが僅かに顔をしかめると、ガリックが小さく笑った。


「お前、そういうところだけ昔から変わらないタイプだな」


「あなたは私の昔を知らないでしょう」


「何となく分かる」


「一番信用できない推理ね」


 先ほどまで張りつめていた空気が僅かに和らぎ、その隙を使うようにエリリアが本来の話へ戻した。


「それで、エドラス・フィンとあなたの関係は?」


 ミレナは頷いた。


「三年前、彼の方から私を探してきた」


「鴉を?」


「ええ。貨物管理所の帳簿に説明できない数字があると言っていた。申告内容と重量が合わない荷車が何度も同じ経路を通り、それについて上へ報告すると記録が戻ってこないことがある、と」


「消されたってこと?」


 アイリが聞く。


「そこまでは彼も断定していなかった。ただ、自分の手元へ控えを残すようになっていた」


「それが鴉のところにある記録?」


「一部はそう」


 レンがすぐに尋ねる。


「じゃあ昨日、それを言わなかったのは何でだ」


「私とエドラスが直接取引していたことまで話せば、私自身の事情も掘られる可能性が高かったから」


「だから隠した?」


「聞かれなかったから答えなかった」


「昨日のままだな」


「でも、今回は戻ってきたでしょう」


 ミレナは淡々と返した。


「昨日売った情報の価値に、私自身とエドラスの関係が影響すると判断した。取引として不完全だったから訂正しに来た。それだけよ」


「無料で?」


「今回はね」


 レンが少し疑うような目を向けると、ミレナは先に釘を刺した。


「無料という言葉を何度も確認されると、値段を付けたくなってくるわ」


「もう聞かない」


 即座に引いたレンを見て、アイリが小さく笑った。


「エドラスは何を調べてたんですか」


「最後まで全部は分からなかった」


 ミレナは続ける。


「ただ、彼から頼まれて一つだけ確認したことがある。問題の荷車が王都南側へ入る経路よ」


「どこだった?」


「通常の貨物門じゃない」


 ガリックが顔を上げる。


「どういう意味だ」


「表向きには使われなくなった古い検問所があるでしょう。南の倉庫街から少し外れた、昔の街道へ繋がっているところ」


「あそこは閉鎖されてる」


「昼間はね」


 ガリックの表情が変わった。


「……夜に使われてたのか」


「少なくとも三年前、エドラスが追っていた荷車のうち二台は、深夜にそこを通った可能性が高い」


「何で分かった」


「近くの酒場で働いていた人間が、同じ時刻に何度か車輪の音を聞いていた。別の日には、荷車の灯りが閉鎖されたはずの道へ入っていくのを見た者もいた」


「その証言は信用できる?」


 エリリアが尋ねる。


「完全には。酒を飲んでいた人間もいるし、夜だった。だから私は『通った』ではなく、『通った可能性が高い』と言っている」


「エドラスもそこへ行った?」


「分からない」


「最後の『空の荷車を追え』という言葉と、その検問所が繋がっている可能性は?」


「ある。でも証拠はない」


 レンが少し笑った。


「そこは絶対言うんだな」


「大事でしょう?」


「大事だけど」


 ミレナは外套の内側から小さく折り畳まれた紙を取り出し、卓上へ置いた。王都南部の通りと倉庫街だけを簡単に描いた粗い案内図で、主要な道が数本と貨物門、倉庫の集まる区画、そして南端に近い場所へ小さな印が付けられている。


「ここが、その旧検問所」


「これも無料?」


 レンが確認すると、ミレナは冷たい目を向けた。


「今度聞いたら金貨一枚」


「黙ります」


 アイリが笑いを堪えきれず、エリリアも僅かに顔を背けた。


 ガリックは案内図へ身を寄せ、古い道の位置を確かめる。


「確かにここなら、南貨物門を通らず倉庫街の裏へ出られる。けど閉鎖されたのはかなり前だ。門も封鎖されてたはずだぞ」


「三年前には、人が通れる状態だった」


「今は?」


「知らない」


「調べてないのか」


「昨日まで、もう一度あそこへ行く理由がなかったもの」


 ガリックはしばらく地図を見たあと、レンへ視線を向けた。


「今すぐ行くとか言うなよ」


「言ってない」


「顔が言ってる」


「まだ何も言ってないだろ」


「治療師の許可が出るまでは無理です」


 エリリアが先に釘を刺すと、レンは少し不満そうにしながらも反論しなかった。右手の指が動いても、傷ついた右上腕には剣を振るだけの力が戻っていない。左手も訓練を始めたばかりで、長く使えば前腕の痺れが強くなる。今の状態で夜の倉庫街へ向かうなど、治療師でなくても無謀だと分かっていた。


「まず記録を調べるべきでしょう」


 エリリアが言う。


「旧検問所がいつ正式に閉鎖されたのか。閉鎖後も管理担当者がいたのか。貨物管理所側に使用記録が残っているか。現地へ行く前に確認できることはあります」


「それなら俺にも伝手がある」


 ガリックが頷いた。


「街道警備隊の古い通達なら調べられるかもしれん。副隊長にも聞いてみる」


「エドラスの原本は?」


 レンがミレナを見る。


「それは有料」


「やっぱりか」


「私も生活があるの」


 昨日と変わらない返事だったが、今はその言葉の向こうにあるものを、レンたちは昨日より少しだけ知っていた。


「ただし、見る前に一つ言っておくわ」


 ミレナは少し間を置いて続ける。


「エドラスの記録にも答えは書かれていない。数字と日付、途中まで写された記号、いくつかの走り書き。それだけよ。買えば全部分かると思わない方がいい」


「ちゃんと商品の悪いところも言うんですね」


 アイリが言う。


「買ったあとで『役に立たなかった』と騒がれる方が面倒だから」


「それだけ?」


「質問は正確に」


 アイリは一瞬黙ったあと、くすりと笑った。


「やっぱりミレナさん、ちょっと面白い」


 その呼び方を聞いた瞬間、ミレナの動きが僅かに止まった。ほんの一瞬だったが、アイリはすぐに気づいたらしく、不思議そうに首を傾げる。


「ミレナさんって呼んじゃ駄目だった?」


「駄目じゃないわ」


「じゃあミレナさん」


「何度も確認しなくていい」


 僅かに早口になった彼女を見て、レンが口元を緩めた。


「鴉よりそっちの方がいいんじゃないか」


「あなたまで呼ばなくていい」


「何で俺だけ」


「何となく」


「理不尽だな」


「情報屋に公平さまで求めるの?」


「もういいよ」


 ガリックが堪えきれず笑い始めた。


「お前、本名で呼ばれるのに慣れてないだろ」


「黙って、ヴェイン」


「図星か」


「その左脚で逃げられると思わないことね」


「治療師の前で脅すな」


「脅してないわ。ただの忠告」


「同じだろ」


 回復室へ小さな笑いが広がり、先ほどまでミレナの過去を語っていた重い空気が、ようやく少しだけほどけていった。


 やがてミレナは椅子から立ち上がり、外套を整えた。昨日ほど長く居座るつもりはなかったらしい。


「今日はこれで終わり。旧検問所について調べるなら、まず記録からにしなさい。閉鎖された場所だからといって、今も無人とは限らない」


「ミレナさんは行かないの?」


 アイリが尋ねる。


「依頼されれば考える」


「またお金?」


「当然」


「でも今日の情報は無料だった」


「今日は取引の訂正だから。次は次よ」


 どこまでも情報屋らしい返答だった。


 扉へ向かいかけたミレナは途中で一度だけ足を止め、振り返らないまま言葉を続けた。


「それと、エドラスが何を見つけたのか本当に知りたいなら、死んだという事実から答えを作らないこと。彼が事故で死んだ可能性もあるし、調査と死因が無関係だった可能性もある。私自身、三年前にそこを間違えかけた」


「殺されたと思った?」


 レンが尋ねる。


「思いたかったのかもしれない」


 ミレナは静かに答えた。


「誰かが記録を消しているなら、誰かが彼を殺した、と考えれば話は綺麗になる。でも綺麗な話ほど危ない。現実は大抵、そこまで親切に繋がってくれないものよ」


 昨日とよく似た忠告でありながら、今度は情報屋としてではなく、自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。


「覚えておく」


 レンが答える。


「そうして」


 ミレナが扉へ手を掛けたところで、アイリがもう一度声を掛けた。


「またね、ミレナさん」


 ミレナは僅かに横顔だけを向けた。


「……取引があればね」


「なくても来ていいよ」


 その言葉にはすぐ返事をしなかった。灰色の瞳がほんの一瞬だけ柔らかくなったように見えたが、次にはいつもの読みにくい表情へ戻っている。


「考えておくわ」


 それだけを残して、ミレナ・クロウは回復室を出ていった。


 扉が閉じたあと、卓上には王都南部を描いた小さな案内図が残されていた。そこに記された旧検問所がエドラス・フィンの死と関係している保証はなく、空の荷車が消えていく文字や名もなき都市へ続いている証拠もない。今あるのは、三年前に不自然な貨物記録を追っていた監査官と、閉鎖されたはずの道を夜中に通った可能性のある荷車、そしてそれを追うための新しい場所だけだった。


 だが、昨日までと変わったのは手掛かりだけではない。鴉という名の向こう側にいた女へ、ようやく一人の人間としての輪郭が生まれていた。人を値踏みするような灰色の瞳を持ち、言葉の隙間に値段を付け、聞かれなければ必要以上のことを話さない情報屋でありながら、かつては誰も触れたがらない患者へ手を伸ばし、自分の家族を失い、自分が救おうとした町から追い出された治療師でもある。そのどちらが本当の彼女なのかと考えかけ、レンはすぐにその考えを捨てた。おそらく、どちらも同じ一人の女なのだ。


 透明板の中で薄れた記号の隣には、「空の荷車を追え」と記された紙と、南の旧検問所へ続く簡素な案内図が並んでいる。次に調べるべき場所は、少なくとも昨日よりはっきりした。そしてレンの記憶には、鴉という呼び名ではなく、彼女自身が選んで明かした名前が静かに残っていた。


 ミレナ・クロウ。その名だけは、消えていかなかった。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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