第二章 第十五話 鴉の名を持つ女
午後の診察が終わる頃には、白環治療院の回復室に保管された三枚の紙にも、それ以上の変化は起きていなかった。レンが意図的に間違えて描いた記号は炭の黒をそのまま残し、夢で見た形に近いと感じた部分だけが退色した二枚も、薄くなった状態で透明な保護板の中に収まっている。現象が止まったこと自体は安心材料とも言えたが、なぜ特定の線だけが薄くなったのかという疑問には、依然として何一つ答えが出ていなかった。
東門守備隊の副隊長から、王都の裏で「鴉」と呼ばれる情報屋へ話を通してみると言われて以来、レンたちは彼女へ何を話し、何を伏せるかをあらかじめ決めていた。今回伝えるのは、夢の中で未知の記号を見たことと、それを紙へ再現した際に特定の部分だけが原因不明の退色を起こしたことまで。それ以上――灰青色の髪と左右で異なる瞳を持つ女、黒い運河の底に逆さまに存在していた都市、空に浮かぶ巨大な環、胸元のロケット、遺跡で見た赤い瞳の救助者、別室に保管されている白い花、そして光に弱い黒い糸――については、今回の相談から完全に切り離す方針だった。
「本当に、それだけで話になるのかな」
アイリが不安そうに尋ねると、エリリアは保護板の中に残る記号へ視線を落とした。
「今回知りたいのは、このような退色を起こす記号を過去に見たことがあるかどうかです。それ以外の情報は、答えを得るために必要だと分かった時点で初めて伝えるかどうかを判断すれば十分でしょう」
「相手が情報屋だから?」
「それもあります。ただ、相手が誰であっても、私たち自身が関係を確認できていない謎を最初から一つの話として渡すべきではありません」
レンもその考えには異論がなかった。ここ数日の出来事だけでも、分からないものを一つの答えへ押し込める危うさは十分に思い知らされている。ロケットの少女、夢の女、赤い瞳の救助者、削られた武具の識別印、黒い糸、白い花、そして消えていく文字。そのどれかが同じ場所へ繋がっている可能性はあっても、現時点では何一つ証明されていない。
「じゃあ、鴉に話すのは文字だけ」
アイリが確認すると、エリリアは頷いた。
「正確には、夢の中で未知の記号を見たこと、それを再現した際にレンが『近い』と感じた部分だけが退色したこと、そして第三者が同じ形を写した場合にも一度同様の現象が起きたことまでです。場所について聞かれれば、知らない場所だったとだけ答えましょう」
「女の人のことは?」
「話す必要はありません」
「ロケットも?」
「今回の現象との関係は確認されていませんから、触れない方がよいでしょう」
エリリアの答えには迷いがなかった。レンも胸元にある銀の重みを一度だけ意識したものの、そこへ手を伸ばすことはしなかった。
やがて廊下から規則的な杖の音が近づき、ほどなくしてガリックが回復室へ姿を見せた。左脚を庇いながらも、今日は治療師に言われた通りきちんと杖を使い、脇腹の包帯にも新しい出血は見られない。彼は空いている椅子へ腰を下ろすと、レンたちの前に並べられた紙へ一度目を向けた。
「話はまとまったか」
「何で知ってるんだ」
「副隊長に聞いた。鴉を呼んだんだろ」
「その人、知ってるんですよね」
アイリが尋ねると、ガリックは杖を椅子の横へ立て掛けてから腕を組んだ。
「知ってると言うほど親しくはない。王立街道警備隊にいた頃、何度か仕事で関わっただけだ」
「信用できないって言ってましたよね」
「信用する相手じゃない。ただ、使える情報を持っている時は本当に持ってる」
「嘘つきなんですか?」
「そこが面倒なんだよ」
ガリックは少しだけ表情を険しくした。
「昔、護送中の荷車が一台消えたことがある。馬も積荷も護衛もまとめて消えて、街道を外れた痕跡すらなかった。三日探しても見つからなかったが、鴉から情報を買った翌日には所在が分かった。そこまでは正しかった」
「だったら役に立ったんじゃないですか」
「問題はそのあとだ。俺たちが回収へ向かう頃には、こっちの動きが相手側へ漏れていた。鴉に問い詰めたら、『あなたたちの目的地を誰にも教えていない』と答えた」
「それなら鴉じゃないんじゃ――」
言いかけたアイリに、ガリックは首を横へ振った。
「俺たちがいつ出発するか、誰が同行するか、どの道を使うかを売っていないとは一言も言ってない」
レンが眉を寄せる。
「言葉遊びか」
「そういう相手だ。俺が知る限り、真正面から聞いたことにはかなり正確に答える。ただし、聞いていないことまで親切に補足してくれる女じゃない。質問が雑なら、答えを勝手に誤解した側の責任になる」
「かなり面倒な人ですね」
エリリアが静かに言うと、ガリックは「だから気をつけろ」と三人を見回した。
「特にレン」
「何で俺だけ」
「お前、気になったらすぐ全部聞こうとするだろ」
「最近は考えて聞いてる」
「最近はな」
「アイリと同じ言い方するな」
アイリが小さく笑う横で、ガリックはもう一つだけ、と声を落とした。
「鴉に、自分たちが持ってる情報を全部見せるな。あの女は金より情報を好む時がある。何をどこまで知っているか分からない相手に、こっちから手札を全部広げる必要はない」
「それはもう決めました」
エリリアが答える。
「今回は消える記号についてだけ尋ねます。それ以外は、必要性が生じるまで話しません」
ガリックは僅かに目を細めた。
「なら俺から言うことは少ないな。エルフの嬢ちゃんが交渉するなら、レンより安心できる」
「おい」
「事実だ」
レンが言い返そうとしたところで、扉が二度だけ軽く叩かれた。返事を待つことなく扉が開き、最初に東門守備隊の副隊長が姿を見せ、その後ろから一人の女が静かに回復室へ足を踏み入れた。
二十代半ばほどに見える細身の女だった。背はそれほど高くなく、肩に掛かる暗い茶色の髪は簡素にまとめられ、瞳は冷たい灰色をしている。濃い灰色の外套の下には動きやすそうな黒い衣服を身につけ、外套の留め具には細長い羽根を模した銀色の飾りが使われていた。光の当たり方によって黒にも銀にも見えるその意匠以外、王都の雑踏に紛れれば特別目立つ格好ではない。
しかしレンが最初に気づいたのは服でも顔でもなく、女の視線だった。部屋へ足を踏み入れた瞬間、彼女はまず出口を確認し、続いて窓、治療師が出入りする内扉、寝台の位置、ガリックの杖、レンの固定された右腕、アイリの包帯、エリリア、最後に卓上の保護板へと、ごく短い時間で視線を滑らせた。ほんの数秒に満たない仕草だったにもかかわらず、部屋の中にあるものを一通り数え終えてから初めて人間を見たような印象だけが強く残った。
「連れてきた」
副隊長が言う。
「話はお互いに直接してくれ。俺はここに残る」
「見張り?」
女が初めて口を開いた。声は落ち着いており、挑発するような調子ではない。
「立会人だ」
「あなたがそう言うなら、そういうことにしておきましょう」
女は副隊長からガリックへ視線を移した。
「久しぶりね、ヴェイン」
「会いたくはなかった」
「それは残念」
「残念そうに見えないぞ」
「見えるように言っていないもの」
ガリックの眉間に皺が寄る。
「相変わらずだな」
女は気にした様子もなくレンへ視線を向けた。
「あなたがレン?」
「ああ」
「アイリ、エリリア。それから負傷中の元王立街道警備隊、ガリック・ヴェイン。東門の副隊長から聞いたのはそこまで」
「本当に?」
レンがすぐに尋ねると、女の口元が僅かに動いた。
「良い質問ね」
「答えは?」
「副隊長から聞いたのは、そこまで」
ガリックが小さく舌打ちする。
「ほらな」
「何がだよ」
「副隊長以外から何も聞いていないとは答えてない」
レンが改めて女を見る。
「他から聞いたのか?」
「その質問への答えは、まだ無料?」
「……先に条件を決めた方が良さそうですね」
エリリアが静かに言った。
女は初めて少しだけ興味を示したように彼女へ顔を向ける。
「あなたが交渉役?」
「必要なら」
「助かるわ。負傷した剣士と条件を決めるより早そう」
「聞こえてるぞ」
レンの抗議を軽く流しながら、女は近くの椅子へ腰を下ろした。
「私を鴉と呼ぶ者もいる。今日はそれで十分よ」
「本名じゃない?」
アイリが尋ねる。
「そうとも言っていないし、違うとも言っていない」
「やっぱり面倒くさい……」
「だから言っただろ」
ガリックが即座に返した。
エリリアは無駄な応酬が続く前に、卓の上へ保護板を一枚置いた。
「では、先に条件を決めます。今回、私たちがあなたへ直接提示する未知の記号と、それに伴う退色現象について、少なくとも私たちが白環治療院を退院するまでは第三者へ売らないでください」
「その範囲なら悪くない。ただし、会話の途中であなたたち自身が余計なことを口にしても、それまで全部対象に含めるつもりはないわ」
「承知しています。対象は今申し上げた二点だけです」
「対価は?」
「あなたが何を提供できるか確認してから決めます」
「後払いは嫌いなの」
「こちらも価値の分からない情報へ先払いするつもりはありません」
二人の視線が静かにぶつかった。レンは途中で口を挟まず、そのやり取りを見守る。ガリックがエリリアへ任せた方がいいと言った理由が、すでに分かり始めていた。
やがて鴉の方が小さく笑った。
「いいでしょう。今回提示される記号と退色現象について、あなたたちが退院するまでは第三者へ売らない。その代わり、私が役に立つ情報を一つでも提供できた場合、最後に一つ質問する権利をもらう」
「内容によっては答えません。知らないこと、あるいは私たちが危険だと判断する情報については拒否します」
「それでは支払いにならない可能性がある」
「その場合は別の対価を相談します」
鴉は銀の羽根飾りへ指先を触れ、僅かに目を細めた。
「堅いわね」
「必要なので」
「嫌いじゃない」
条件が決まると、レンたちは朝に行った実験を必要最小限だけ説明した。夢の中で未知の記号を見たこと、その形を思い出して紙へ再現しようとしたこと、明らかに違う線は残った一方で、レン自身が「近い」と感じた部分だけが退色したこと、そして記録官が同じ部分を写した際にも一度だけ同様の現象が起きたことまで。それ以上の夢の内容には触れなかった。
「夢を見た場所は?」
鴉が尋ねる。
「知らない」
「街?」
「そう見えた」
「どこの国?」
「分からない」
「記号は誰かが使っていた?」
「道に浮かんでた」
「文章?」
「意味は読めなかった」
質問は続いたが、レンは決めた範囲を越えず、街の詳細については「見たことのない場所だった」とだけ答えた。他に誰かいたかと問われた時には、エリリアが静かに割って入る。
「その情報は、今回の記号を判断するために必要でしょうか」
「必要かどうかを確かめるために聞いているの」
「でしたら、現時点では回答を控えます。記号との関係が確認できていません」
鴉はしばらくエリリアを見たあと、僅かに笑った。
「徹底してるわね」
「あなたが情報屋だからです」
「正しい判断よ」
鴉はむしろ楽しそうに答え、保護板の紙へ視線を戻した。
「実際に消えるところを見られる?」
「必ず起きるとは限らない」
「それでも構わないわ」
治療師から短時間だけ許可を得て、レンは新しい紙へ一つの記号を描くことになった。朝に行ったような長い検証を繰り返す必要はないため、まず記憶とは明らかに異なる角度の線を一本引き、そのまましばらく待った。何の変化も起こらないことを確認すると、今度は残された記録と自分の感覚を頼りに、斜線の角度を僅かに修正していく。
「……多分、こっちの方が近い」
数秒後、修正した部分の黒だけがゆっくりと薄くなり始めた。
それまで僅かに浮かんでいた鴉の笑みが消え、灰色の瞳が紙の一点へ固定された。驚いて身を乗り出すことも、声を上げることもない。ただ、炭の黒が紙の上から少しずつ抜けていく過程を、何一つ見落とさないよう最後まで観察していた。
「誰も触っていないわね」
「全員見てたでしょう」
レンが答える。
「あなた以外が描いても?」
「一度は同じことが起きた」
「誰が?」
「治療院の記録官」
「その時、あなたは形を見ていた?」
「ああ」
「あなたが近いと思ったあとに薄くなった?」
「そう」
鴉はそこで質問を止め、しばらく紙を見つめたまま黙り込んだ。
「知ってるんですか」
アイリが尋ねると、彼女はようやく顔を上げた。
「似た現象なら、一度だけ見たことがある」
その一言で、部屋の空気が僅かに変わった。レンも反射的に身体を前へ寄せかけたが、右上腕へ余計な力が入らないようすぐに姿勢を戻す。
「どこで?」
「その答えを、私が提供する情報に含めていい?」
「役に立つなら」
鴉は椅子の背へ浅く身体を預けた。
「三年ほど前、王都南側の貨物管理所にエドラス・フィンという下級監査官がいた。王都へ入る荷物の申告内容と実際の重量を照合する、目立たない仕事をしていた男よ。普通なら私が名前を覚えるような人間じゃなかったけれど、死ぬ少し前から妙な記録を集め始めた」
「知ってる?」
レンがガリックへ尋ねる。
「名前だけなら。直接会ったことはない」
「妙な記録というのは?」
エリリアが尋ねる。
「荷車の申告重量と実測が合わない記録。そういう不一致自体は珍しくない。商人が税を誤魔化したり、途中で積み荷を入れ替えたりすることもある。でもエドラスが追っていたのは逆だった」
「逆?」
「申告された積み荷より、実際の荷車の方が重かった」
アイリが首を傾げる。
「隠して何か積んでたってこと?」
「普通なら、まずそう考えるでしょうね。ところが荷台を確認した記録では、ほとんど何も積まれていなかった。それなのに重量だけがあり、そういう荷車ほど護衛の数も多かった」
ガリックの表情が僅かに険しくなる。
「街道警備の記録は?」
「担当区域を通る間は通常のものが残っている。でも王都へ近づくほど抜けが増えていく」
「消された?」
「そこまでは分からない。最初から記録されていなかった可能性もあるし、あとから抜かれた可能性もある」
エリリアはすぐに本題へ戻した。
「その荷車と、今回の記号にはどのような関係が?」
「まだ関係があるとは言っていないわ」
鴉は即座に答えた。
「エドラスの私物の中に、見慣れない記号を書き写した紙が一枚あった。意味も、何を見て写したのかも不明。ただ、私がその紙を見た時、一部分だけ不自然に薄くなっていた」
レンの視線が机上の記号へ落ちる。
「同じ形?」
「分からない。記号そのものは覚えているけれど、あなたの描いたものと同じだと断言できるほど似てはいない」
「じゃあ、何が似てたんですか」
「一部分だけが不自然に消えていたことよ。当時は水か摩擦か、保存状態の問題だと思って深く追わなかった。でも今ここで同じような退色を見たから、少しだけ考え直している。それだけ」
必要以上に断定しない返答は、情報屋という肩書きから想像していたものより慎重だった。レンは紙から鴉へ視線を戻した。
「エドラスは、その記号について何か残してなかったんですか」
「死ぬ前日の記録の端に、一文だけ」
鴉は少し間を置き、灰色の瞳をレンへ向けた。
「『空の荷車を追え』」
その言葉の意味を考えるように、誰もすぐには口を開かなかった。
「空なのに重い荷車……」
アイリがやがて呟く。
「本当に空だったのかも分かりません」
エリリアが続ける。
「そうね。荷物を見落としただけかもしれないし、申告が偽装されていたのかもしれない。車体そのものに何かが仕込まれていた可能性もある。エドラスが別の意味で『空』という言葉を使った可能性だってあるわ」
「その人は、どう死んだんですか」
レンが尋ねた。
「王都南区の倉庫階段から転落。公式には事故」
「本当に事故だったんですか」
鴉の目が僅かに細くなる。
「質問を正確にした方がいいわ」
レンが言葉に詰まると、ガリックが横から口を挟んだ。
「エドラス・フィンの死が事故ではなかったと判断できる証拠を、お前は持っているか?」
鴉の口元が少しだけ上がる。
「良い質問ね」
「答えろ」
「持っていない」
レンがガリックを見ると、彼は短く肩を竦めた。
「つまり事故だった可能性も普通に残ってる」
「そういうことよ。ただし、私が事故だったと確信しているわけでもない。判断できる証拠を持っていないというだけ」
「そこを分けろってことか」
「ええ」
ガリックが鼻で息を吐く。
「昔から変わらんな」
「あなたは少し質問が上手くなったわね」
「お前のせいだよ」
鴉は楽しそうに笑った。
「エドラスの記録は、まだ残っているのですか」
エリリアが尋ねる。
「一部は手元にある」
「見せてもらえますか」
「それは別の商品ね」
「今日の情報提供には含まれないと?」
「私が今売ったのは、似た退色を見たことがあるという事実と、その記録を持っていた人物について。現物まで含めるとは約束していないでしょう?」
レンが呆れたように息を吐く。
「本当に何でも売るんだな」
「売れるものを無料で渡す理由がある?」
「ないけど」
「なら同じね」
エリリアは少し考えたあと、取引をそこで区切った。
「では今日のところは、あなたが似た退色を過去に見たこと、エドラス・フィンという監査官の存在、そして彼が残した『空の荷車を追え』という文を、あなたの提供した情報として受け取ります。それでよろしいですね」
「ええ」
「でしたら、こちらも約束通り質問を一つ受けます」
鴉の灰色の瞳が僅かに細くなった。
「本当にいいの?」
「条件の範囲内なら」
「では――」
鴉はレンの胸元ではなく、まっすぐ彼の顔だけを見た。
「天坑の遺跡で最初に異変が起きた時、光ったのは遺跡が先? それとも、あなたが先?」
レンの表情が止まり、アイリとエリリアもすぐに鴉へ視線を向けた。ガリックだけは口を挟まず、相手の出方を見るように黙っている。
「何でそれを聞く」
レンが低く尋ねる。
「それが私の一問」
「誰から天坑の異変を聞いた?」
「それはあなたの質問になるわね」
そこでレンは口を閉じた。問い返せば、それもまた別の取引になる。
「答えなくてもいい契約ですよね」
アイリが警戒した声で確認すると、鴉は素直に頷いた。
「もちろん。ただ、答えないという選択自体も情報にはなるけれど」
「そういうところが嫌なんだよ」
ガリックがぼやく。
レンは少し考えた。質問はロケットでも、夢の女でも、赤い瞳の救助者でもない。天坑で起きた異変について、それも鴉がどこまで事情を知っているのか分からない以上、余計な説明まで加える理由はなかった。
「分からない」
レンはそう答えた。
「俺自身、あの時は倒れかけてた。遺跡の中心が光り始めたのと、自分の身体に何か起きたのはほとんど同時だったと思う。どっちが先だったかまでは覚えてない」
鴉は数秒、レンの顔を観察した。
「なるほど」
「それだけ?」
「それだけ」
「何か分かったのか?」
「今のところは何も」
「じゃあ、何で聞いた」
「一問は使ったでしょう?」
レンは深く息を吐いた。
「……やっぱり面倒くさいな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
鴉はそれ以上話を延ばさず、椅子から立ち上がった。
「約束は守る。この部屋で提示された記号と退色現象について、あなたたちが白環治療院を退院するまでは第三者へ売らない。エドラスの記録を見たくなったら、副隊長を通して連絡して」
「値段は?」
レンが尋ねる。
「その時の価値次第」
「今決められないのか」
「情報の価値は、知る人間と状況が増えるほど変わるものよ」
そう言いながら外套を整え、銀の羽根飾りを留め直す鴉を、ガリックが不機嫌そうに見上げた。
「出口で誰か待ってるのか」
「どうして?」
「昔、お前を見送った兵士が二人とも五分後には見失った」
「私は普通に帰っただけよ」
「普通に帰る奴は途中で服まで変えない」
「証拠は?」
「ない」
「なら、普通に帰ったのね」
ガリックは何とも言えない顔をした。
「本当に腹立つな……」
「またね、ヴェイン」
「会いたくない」
「それも前に聞いたわ」
鴉は最後にレンたちへ一度だけ視線を向けた。
「一つだけ忠告しておくなら、分からないものを全部一つに繋げないことね。情報を集める人間ほど、それで簡単に自分の欲しい答えを作ってしまうから」
レンが僅かに眉を寄せる。
「それ、俺たちもさっき話してた」
「なら、忘れないことね」
それ以上は何も残さず、鴉は副隊長とともに回復室を出ていった。扉が閉まったあとも数秒ほど誰も口を開かず、先ほどまで彼女が座っていた椅子だけが妙に目についた。
「……あれが鴉?」
最初に沈黙を破ったのはアイリだった。
「そうだ」
ガリックが疲れたように答える。
「嫌な人って感じじゃないけど、何か怖い」
「その感想が一番近いかもしれんな」
「私は、少し面白いと思いました」
エリリアの言葉に、レンが意外そうな顔をする。
「エリリアが?」
「こちらが何を話し、何を伏せるか理解していれば、かなり有用な相手でしょう。ただし、自分たちが何を知られたくないのかまで整理しておかなければ危険だと思います」
「つまり面倒?」
「かなり」
「結局そこか」
ガリックが鼻で笑った。
卓の上には、鴉が見た三枚の紙が残されていた。そこへ新しく加わったのは答えではなく、エドラス・フィンという死んだ監査官の名前と、過去にも一部だけ不自然に薄くなった記録が存在したという証言、申告より重いにもかかわらず荷台にはほとんど何もなかったという荷車、そして男が死ぬ前日に残した「空の荷車を追え」という短い一文だけだった。
名もなき都市へ直接繋がる証拠は一つもない。夢の女とも、ロケットの少女とも、遺跡で見た赤い瞳の救助者とも関係があるとは限らない。それでも、紙の上から消えていく線と似た異常へ、レンたちより先に触れた人間がいた可能性だけは初めて形になった。
レンは透明板の向こうで薄くなった記号を見つめながら、鴉が最後に残した忠告を思い返した。分からないものをすべて一つへ繋げず、今は確認できた事実だけを追う。その先に何があるのかはまだ分からないが、エドラス・フィンが残した「空の荷車」という言葉だけは、次に辿るべき新しい手掛かりとして確かに残っていた。
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