第二章 第十四話 消えていく文字
翌朝、白環治療院の回復室で最初に話題になったのは、レンが再び名もなき都市を夢に見たかどうかではなかった。夜明け前まで右上腕に貼られていた感応糸のうち、傷口から少し離れた位置にあった一本だけが、夜間の記録上、一度だけ僅かに張っていたのである。
夜番の治療師から記録を引き継いだ担当治療師は、寝台脇の小さな記録具を確認したあと、傷口へ負担を掛けないよう注意しながらレンの右上腕を診察した。新しい出血や目立った腫れはなく、熱の持ち方も昨日と大きく変わっていない。右手の五本の指はこれまで通り自分の意思で動かすことができ、触れられた位置も正確に答えられたが、右上腕そのものに昨日までと違う明確な回復が起きた様子はなかった。
「じゃあ、夜に動いたのは何だったんですか?」
レンが尋ねると、治療師は感応糸を外しながら首を横へ振った。
「現時点では分かりません。眠っている間の無意識な筋収縮かもしれませんし、寝返りを打とうとした時に上腕へ力が入った可能性もあります。治りかけの筋肉が、一時的に反応しただけということも考えられます」
「脈光は?」
「記録具に大きな異常は残っていません。ただ、ごく短時間の変化まで完全に拾える器具ではありませんので、何もなかったとも断定できません」
レンは右手をゆっくり開いてから拳を作った。動きそのものは昨日までと変わらず、夢の中で感じたような軽さもなければ、深く斬られた上腕の奥に残る重い違和感が消えているわけでもない。もう少し力を入れて確かめたくなったが、治療師に視線だけで制されると、それ以上試すことなく手を緩めた。
「夜に一度反応があったからといって、今それを再現できるとは限りません。むしろ、意識的に再現しようとして傷へ負担を掛ける方が問題です」
「分かってます」
「その返事を聞いても、以前ほど不安にならなくなりました」
「前はどれだけ信用なかったんですか」
「かなりです」
隣の寝台でやり取りを聞いていたアイリが小さく笑った。彼女の両手と手首も少しずつ落ち着き始めているが、右肩を含めてまだ軽い動作以上は許されていない。エリリアも昨日より顔色は良くなっているものの、消耗した身体と風の魔力が完全に戻ったわけではなく、この日も魔力の使用は禁止されたままだった。
「夢は見なかったんだよね?」
アイリが確認すると、レンは「ああ。少なくとも、あの街には行ってない」と答えた。
「だったら、その糸が動いたことと夢は関係ないのかもしれないんだ」
「その可能性も十分あります」
エリリアは落ち着いた声で続けた。
「レンが名もなき都市を見たことと、眠っている身体に小さな反応が起きたことを結びつける証拠は、今のところありません。同じ時期に起きたというだけで同じ原因だと考えるのは早いでしょう」
「分かってるよ」
レンも素直に頷いた。少し前までなら、僅かな変化にも意味を求めていたかもしれない。しかし今は、分からないものを分からないまま残しておく必要があることを少しずつ理解し始めている。天坑周辺で回収された矢尻も、救難信も、黒い糸も、名もなき都市も、証拠のないところまで一つの答えへ押し込めれば、本当に重要な違いを見落とす可能性がある。
右腕の診察が終わると、治療師は左手の状態も簡単に確認した。狼に噛まれた左前腕の影響は残っているものの、前日に訓練を休んだことで疲労はかなり抜け、薬指と小指の感覚も朝の時点では少し戻っている。
「今日は軽い訓練なら再開して構いません。ただし、昨日休んだ分を取り返そうとは考えないこと」
「考えてません」
「今、一瞬だけ考えましたね」
「……少しだけ」
「正直なのは進歩です」
レンは何とも言えない表情を浮かべたが、反論はしなかった。
その日の訓練は豆の数を増やすものではなく、炭筆を使って短い線を引く練習から始まった。左手で剣を扱うことを考えるなら、必要なのは握力だけではない。細かな力加減や指先の調整も取り戻さなければならないというのが治療師の考えだった。レンは紙の端から端へ一本の線を引き、次は僅かに角度を変え、途中で手首や肩へ余計な力が入らないよう意識しながら炭筆を動かしていった。単純な練習に見えても、薬指と小指が十分に支えへ入らない左手では、一本の線を一定の太さで引くだけでも思った以上に集中力を使う。
三本目を引き終えたところで、レンの視線が紙の隅へ止まった。そこには昨日、夢から覚めた直後に描こうとした不完全な記号が残されている。白い紙と手の中の炭筆を交互に見たあと、レンは治療師へ顔を向けた。
「夢で見た文字、もう一回書いてみてもいいですか」
「訓練として行う程度なら構いません。ただし、長く続けないこと」
「分かりました」
レンは炭筆を持ち直した。昨日より記憶は薄れている。それでも完全に消えたわけではなく、名もなき都市の道に浮かんでいた銀色の文字の一つだけは、形の一部がまだ頭に残っていた。外側には円に近い線があり、その内側へ斜めの線が入り、途中からさらに短い線が交差していたはずだった。
最初に描いたものを見た瞬間、違うと分かった。
「これじゃない」
「どこが違うの?」
アイリが紙を覗き込む。
「内側の線。もっと……こっちだった気がする」
レンは一枚目の横へ、角度を少し変えた二つ目の記号を描いた。先ほどより近づいた感覚はあるものの、それでも何かが噛み合わない。
「これも違う」
「正しい形は思い出せないのに、間違ってるのは分かるの?」
「多分。見た瞬間に違うって感じる」
「不思議ですね」
エリリアも寝台から紙へ視線を向けた。
「形そのものを完全には思い出せないのに、描いたものが記憶と一致していないことだけは判断できるのですね」
「そんな感じだ」
レンは三つ目を描き始めた。外側を少し縦長にし、内側の斜線を先ほどより低い位置から伸ばす。途中まで描いたところで、胸の奥に小さな引っ掛かりのような感覚が走った。
「……この線は近い」
そう呟きながら角度を僅かに修正し、斜線を最後まで引く。すると、その変化を最初に見つけたのはアイリだった。
「お兄ちゃん、そこ……薄くなってない?」
レンもすぐ紙へ目を落とした。三つ目の記号には外側の線も短い交差線も残っている。しかし、今しがたレン自身が「近い」と感じた斜線だけが、他の部分より明らかに薄くなっていた。左手が紙へ擦れた形跡もなく、炭の乗り方だけが最初から弱かったようにも見えない。
治療師もすぐに紙を手に取り、光へ向けて確認した。
「炭が十分に付いていなかった可能性は?」
「描いた時は他と同じくらい濃かったよ」
アイリが答える。
「私も見ていました。最初からこの薄さではありませんでした」
エリリアの証言も加わり、治療師は紙へ息を吹きかけたり、表面へ触れないよう角度を変えて確認したりしたが、擦れや湿気による変化らしい痕跡は見つからなかった。
「もう一度試せますか」
「やってみます」
新しい紙を受け取ったレンは、今度は最初から意図的に間違った形を描いた。外側の向きを変え、内側の斜線も自分の記憶とは明らかに違う角度へ伸ばす。そのまましばらく待ってみたが、何も起こらず、炭の黒は描いた直後と同じ濃さを保っていた。
「次は、先ほど近いと感じた方を」
治療師に促され、レンは先ほどの紙を見ながら、残っている線と自分の感覚を頼りに形を作り直していった。完全な文字そのものは思い出せない。それでも斜線の角度を少しずつ修正し、ある位置まで動かしたところで、再び胸の奥に同じ感覚が生まれた。
「この辺だ」
その瞬間、今度は全員が紙を見ていた。
レンが修正した部分の黒が、数秒のうちにゆっくりと淡くなり始めた。擦られたように広がるのではなく、紙の上から色だけが抜けていくように薄くなり、十数秒ほどで細い灰色の痕を残す程度まで消えていく。その一方で、意図的に間違えて描いた周囲の線には何の変化も起こらなかった。
「……本当に消えてる」
アイリが息を呑む。
「完全に無くなってはいませんが、他の部分との差は明らかですね」
エリリアは紙を注意深く見ながら答えた。
「やっぱり、近い線だけだ」
レンが言うと、エリリアはすぐに首を横へ振った。
「今は、『レンが近いと感じた部分と退色した部分が二度一致した』と考えるべきでしょう。それだけで、正しい形だから消えていると断定することはできません」
「でも、間違ったやつは残ってる」
「それも重要な事実です。ですから、条件を分けて確認する価値があります」
担当治療師も同意し、これ以上は自分たちだけで試さず、記録を専門に扱う者を呼ぶことにした。こうした現象は誰がどの順番で何を描き、どの時点で変化が起きたかを残しておかなければ、あとから記憶違いや思い込みと区別できなくなるからだった。
「そんな大事にします?」
レンが尋ねると、治療師は紙を保管用の板へ挟みながら呆れたように答えた。
「誰も触れていない線が目の前で薄くなったのを見て、大事にしない方が問題でしょう」
その返答には、レンも反論できなかった。
◇
午前の終わり頃、白環治療院の患者記録や薬品台帳を扱う部署から一人の記録官が呼ばれた。三十代半ばほどの男で、片目には細かな文字を見るための薄い透明板を掛け、腰には筆記具や小さな定規をいくつも下げている。事情を聞かされた時点ではかなり疑っていたらしく、レンが描いた紙を確認すると、まずは炭筆や紙そのものに原因がないかを調べることから始めた。
「同じ道具を使って、私が書いても構いませんか」
「お願いします」
記録官は新しい紙へ意味のない円や直線、自分の名前の一部や数字をいくつか書き、そのまま時間を置いた。どの線にも変化はなく、炭の濃さも変わらない。続いて、レンが最初に描いた明らかに間違った記号をそのまま写したが、それも同様に残り続けた。
「少なくとも、紙や炭筆に触れただけで何かが消えるわけではなさそうですね」
記録官は次に、レンが「近い」と感じた形の再現へ移った。ただし、元の斜線はすでにほとんど退色しているため、残った痕跡を見ながらレン自身に位置を確認してもらう。
「ここから、この角度ですか」
「もう少し上です。そこから少し左へ」
「このくらい?」
記録官が炭筆を止める。
レンは描かれた線を見つめた。完全に同じという確信はない。それでも、先ほどと同じ引っ掛かりが胸の奥へ戻ってくる。
「……近いと思います」
「では、この状態で触れずに待ちます」
記録官は炭筆を机へ置き、全員が紙から手を離した。窓も閉じられており、紙を動かすほどの風もない。数秒間は何も起こらなかったため、アイリが僅かに息を吐きかけた、その直後だった。
記録官が描いた斜線の中央から、炭の黒が少しずつ抜け始めた。
「……これは」
書いた本人が最も驚いた表情を見せた。
レンが描いた時と同じように、線は擦れも滲みもせず、特定の部分だけがゆっくり淡くなっていく。十数秒ほど経つ頃には、その箇所だけがほとんど紙の色へ溶け込み、僅かな灰色の痕を残す程度になっていた。
「触らない方がよさそうですね」
「そのままにしてください」
治療師が答える。
記録官はすぐ別の紙を用意し、今度は先ほど消えた斜線の角度を意図的に大きく変えた形を描いた。
「これは違いますか」
レンは一目見て頷いた。
「全然違います」
その紙には何も起こらなかった。数分待っても炭の濃さは変わらず、最初の形を保っている。
記録官は三枚の紙を机へ並べた。レンが意図的に間違えて描いたもの、レンの感覚に合わせて修正した結果一部が薄くなったもの、そして第三者である自分が描き、同じように一部分だけが退色したものだった。
「興味深いですが、原因についてはまだ何も言えませんね」
「でも、俺が書かなくても消えましたよね」
「はい。それは確認できました。ただし、あなたが『近い』と判断した時だけ現象が起きている点も無視できません。文字の形そのものが条件なのか、あなたの認識が関わっているのか、あるいは別の要因があるのかは分かりません」
エリリアも静かに頷いた。
「レンが知らない完全な形を、レンに見せず第三者だけで描くことができれば条件を分けられるかもしれませんが、そもそも誰も正しい形を知りません」
「その通りです」
記録官は一部の消えた紙を見直した。
「それでも、一つだけ昨日より前へ進みました。レンさんの記憶が曖昧になったという話だけではなく、紙の上で実際に変化が起きることを複数人で確認できた。少なくとも、この現象そのものを単なる夢忘れとして片づけるのは難しくなりました」
その言葉を聞いても、レンは嬉しいとは思わなかった。原因も意味も分からないまま、自分の頭の中だけにあったはずの奇妙さが他人の目の前でも形を持ち始めたことで、むしろ名もなき都市が以前より近づいてきたような不気味さが残った。
「もう少し試しますか?」
アイリが尋ねると、記録官はすぐにレンの左手へ視線を向けた。
「今日はここまでにした方がいいでしょう。元々これは左手の訓練時間ですし、続ければ前腕に疲労が出ます。検証を続ける前に、まずは今ある紙を保存して時間経過による変化を確認するべきです」
治療師もその判断に頷いた。レン自身も左前腕へ軽い疲労が溜まり始め、薬指と小指の感覚が朝より鈍くなっていることに気づいていたため、以前のように「あと一枚だけ」と食い下がることなく炭筆を置いた。
「今日は止めます」
「本当に成長しましたね」
「何で毎回そこまで驚くんですか」
「積み重ねです」
アイリが笑い、エリリアも僅かに口元を緩めた。
◇
昼を過ぎる頃には、消えた文字について白環治療院の外へ不用意に広めない方針が決まった。隠蔽するためではない。原因も意味も分からない現象を、名もなき都市の夢と合わせて断片的に話せば、瞬く間に尾ひれの付いた噂へ変わる可能性が高いからだった。記録官が作成した報告にも夢の女や都市についての推測は書かれず、「患者が睡眠中に見た未知の記号を再現する過程で、一部筆跡に原因不明の退色が確認され、第三者による再現でも同様の変化が一度確認された」と、観察された事実だけが記された。
午後になって東門守備隊の副隊長が回復室を訪れたのは、その報告を目にしたからだった。
「今度は消える文字か」
開口一番そう言われ、レンは寝台の背へ身体を預けたまま顔をしかめた。
「俺に言われても困ります」
「責めてはいない。お前たちの周りは報告書が増えるなと思っただけだ」
「好きで増やしてるわけじゃないです」
「それは分かっている」
副隊長は卓上に保管された紙を順番に確認した。意図的に間違えて描かれた形には変化がなく、退色した二枚についても、それ以上薄くなった様子はない。
「こっちが明らかに違う形で、こちらがお前が近いと判断した方か」
「はい。ただ、文字全体が正しいかどうかは分かりません。俺が近いと思ったのは一部分だけです」
「その部分だけが消えた。それも、お前が描いた紙だけじゃない」
「記録官が描いた方でも起きました」
副隊長はしばらく黙って紙を見つめたあと、短く息を吐いた。
「面倒だな」
「何がですか」
「調べる相手を選ぶ」
エリリアが顔を向ける。
「王都には、未知の文字や古い記号を調べる機関はないのですか」
「ある。王立学院にも古文書を扱う部署はあるし、神殿にも古い碑文を読む人間がいる。軍にも遺跡調査を専門にする書記官がいる」
「でしたら、そこへ相談するのが自然では?」
「普通ならな。ただ、今のお前たちには天坑から回収された、識別印を削られた武具という別件がある。まだ誰が何のために関わっているのか分からない以上、王都中の機関へ珍しい情報を一度に広げるのは避けたい」
「軍や王立学院まで怪しいって言ってるんですか?」
レンが尋ねると、副隊長はすぐ首を横へ振った。
「そうは言っていない。昨日ガリックにも言われただろ。証拠のないところまで飛ぶな。問題は内部に敵がいるかどうかではなく、珍しい情報ほど人の口を通りやすいことだ。必要以上に広がれば、それを探している相手がいた場合にも届く」
レンは一度頷いた。
「じゃあ、どうするんです」
「公的な機関へ持ち込む前に、こういうものを見慣れている人間へ聞く手がある」
「こういうもの?」
副隊長は薄くなった線を指先で示した。
「消えた記録、削られた名前、出所の分からない古文書、誰かが意図的に残さなかった情報。そういうものを金に換えて生きている奴だ」
アイリが少し身を乗り出した。
「そんなことを専門にしてる人がいるんですか」
「専門と言えば聞こえはいいが、役人でも学者でもない。情報屋だ」
レンの表情が僅かに険しくなる。
「信用できるんですか」
「できない」
「即答ですか」
「情報屋を無条件で信用する方が危ない」
「だったら何で会わせるんです」
「信用できることと、使えることは別だからだ」
副隊長は椅子へ深く座り直した。
「そいつは王都の表側には出てこない記録を集めている。潰れた商会の帳簿、消された裁判記録、古い家系図、地図から消えた集落、持ち主の分からない刻印。金か情報になると思えば、かなり広く手を出す」
「何で東門守備隊がそんな人を知ってるんですか」
「門番を長くやっていれば、表の人間だけ相手にして済むほど王都は綺麗じゃない」
エリリアが続けて尋ねる。
「その人物なら、この記号について何か知っている可能性があると?」
「分からない。ただ、『見たことがない』と言われるにしても、王立学院の若い研究員より判断材料を持っている可能性はある。本人が知らなければ、こういう情報を誰が扱うかくらいは知っているだろう」
「この紙を渡すんですか?」
レンが尋ねる。
「原本は渡さない。必要なら見せるだけだ。お前が覚えている範囲で別の紙へ描くこともできる」
「また消えたら?」
「それも含めて見せればいい。ただし、お前の身体の状態を優先する。今日すぐ連れていくつもりはない」
アイリはまだ警戒を解いていなかった。
「危ない人なんですか?」
「少なくとも、善人だから情報屋をしている種類ではない」
「余計に不安になる言い方ですね」
「だから一人で行かせるつもりもない」
レンが自分の右腕へ視線を落とした。
「そもそも治療師が外出を許しますかね」
「そこは治療院と相談する。ただ、この記号を見て近いか違うか判断できるのがお前だけなら、お前抜きでは話が進まない」
レンは少し考えたあと、副隊長へ視線を戻した。
「その情報屋、名前は?」
「本名は知らん。本名として使っている名前があるかどうかも怪しい」
「じゃあ、何て呼べばいいんですか」
アイリが尋ねると、副隊長は僅かに声を落とした。
「王都の裏では、鴉と呼ばれている」
「カラス?」
「ああ」
「男ですか、女ですか」
「女だ」
「どんな人?」
アイリの問いに、副隊長は少し考えたものの、結局それ以上の説明はしなかった。
「会えば分かる。先に余計な印象を持たない方がいい相手だ」
エリリアは消えた線の残る紙へ視線を落とした。
「消えたものを扱う情報屋、ということですね」
「消えた文字だけじゃない。記録から抜けたもの、意図的に隠されたもの、最初から存在しなかったことにされたものまで含めてだ」
「名前も?」
アイリの問いに、副隊長は僅かに間を置いてから「場合によってはな」と答えた。
その言葉を聞いた瞬間、レンの意識には十年前のエレナの声が蘇った。誰も覚えていなくても、この少女だけは忘れるな――胸元の銀のロケットへ左手が伸びかけたが、途中で止める。ロケットの少女と、夢の中で歩き去った灰青色の髪の女、遺跡で見た赤い瞳の救助者、そして今目の前にある消えていく文字。そのどれが繋がっているのか、あるいは一つも繋がっていないのかさえ、まだ何も分かっていない。ここで自分から関係を作るべきではなかった。
レンは手を膝へ戻し、透明板の向こうに残された不完全な記号を見つめた。なぜ自分が近いと感じた線だけが薄くなったのか、第三者が描いても同じ変化が起きた理由は何なのか、そして夢の中で見たあれが本当に文字だったのかさえ答えは出ていない。それでも、これまで何一つ掴めなかった名もなき都市について、初めて別の角度から問いを投げられるかもしれない相手だけは現れた。
王都の裏で、消えた記録や削られた名前を集める女――鴉。その呼び名だけが、消えかけた文字の並ぶ紙とは対照的に、レンの記憶へはっきりと残った。
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