第二章 第十三話 妹ではない女
午後を告げる王都の鐘が鳴り止んだあとも、レンはしばらく寝台の上で紙を見つめていた。左手で書き残した幾つかの記号は、夢の中で見た銀色の文字を再現しようとしたものだったが、改めて眺めれば眺めるほど正しい形なのか分からなくなっていく。円に似た線へ斜めの線を重ねたもの、途中で途切れた角ばった形、書き始めたまま記憶が消えて完成させられなかったもの。そのどれにも確信が持てず、つい先ほどまで頭の中に鮮明に残っていたはずの文字だけが、指の間から砂が零れるように失われていた。
「もう思い出せない?」
隣の寝台からアイリに尋ねられ、レンは炭筆を置いた。
「街の景色ならまだ覚えてる。塔も、黒い水も、空に浮いてたでかい輪も。それなのに文字だけは駄目だ。書こうとすると、その前より分からなくなる」
「夢だったからじゃないの?」
「そうかもしれない」
レンは否定しなかった。夢を見ただけなのだから、目覚めたあとに細部を忘れていくこと自体は不思議ではない。それでも、あの都市の景色や女の顔が妙なほど鮮明に残っているのに対し、文字だけが異様な速さで崩れていくことには違和感があった。ただ、その違和感だけを根拠に超常的な何かだと断定するほど、レンももう焦ってはいなかった。
エリリアは寝台の背へ身体を預けたまま、レンが書いた紙を見つめていた。
「今の段階では、何かに忘れさせられていると決めるのも早いでしょう。夢の中で文字を正確に読めていたわけでもありませんし、意味を理解していたわけでもありません。形だけを覚えようとした記憶が、起きたあとに急速に曖昧になった可能性もあります」
「分かってる。でも、変な感じは残ってる」
「その感覚まで否定する必要はありません。ただ、分からないものへ早すぎる名前を付けない方がいいと思います」
「昨日の矢尻と同じか」
「ええ。似ているから同じ、怪しいから繋がっている、と考え始めれば、いくらでも話を作れてしまいます」
レンは小さく頷いた。天坑周辺から回収された矢尻についても、軍用品に似た規格と削られた識別印が見つかっただけで、王国軍が盗賊へ武器を渡していたと断定できるわけではない。同じように、夢を見た直前にロケットが手元へ戻ってきたからといって、それが夢の原因だと決めることもできなかった。
胸元へ手を伸ばすと、銀のロケットは現実らしい冷たさを保っていた。夢の中では妙に温かかったが、今はいつもと変わらない。中にいるのは長い黒髪と青みを帯びた琥珀色の瞳を持つ少女であり、夢で見た灰青色の髪と左右で異なる瞳を持つ女とは明らかに違う。そして、崩れ落ちる遺跡の中でレンとエリリアが見たのは、闇の奥に浮かんでいた赤い瞳だった。三者を一つの存在として考える理由は、今のところ何もなかった。
「ねえ」
アイリが少し迷うように声を上げた。
「さっきの女の人、本当に私には似てなかったんだよね?」
「ああ。全然違う」
「髪も?」
「違う。あいつは灰色に青が混ざったみたいな色だった。光が当たると銀っぽく見えたけど、お前みたいな銀白じゃない」
「目も?」
「右が青で、左が薄い金色だった。顔立ちも別人だ」
「じゃあ、どうして私の名前を呼んだの?」
レンは答えられなかった。それこそ、目が覚めてから何度も自分に問いかけていたことだった。夢の女が振り返った瞬間、考えるより先に「アイリ」という名前が口から零れた。似ていると思ってから呼んだわけではない。何がそうさせたのか説明しようとしても、手掛かりが一つも見つからなかった。
「分からない。立ち方かもしれないし、目の動かし方かもしれない。そもそも本当に何か似てたのかも自信がない。ただ、振り返ったのを見た瞬間だけ、お前の名前が出た」
アイリは少し黙り、自分の包帯の巻かれた手を見た。
「嫌な感じ?」
「何が?」
「私に似てない人を見て、私の名前が出たこと」
レンは妹の表情を見てから首を横へ振った。
「嫌っていうより、気持ち悪い。理由が分からないから」
「その人、何か反応した?」
「何も。俺を一度見ただけだ」
「名前を呼んでも?」
「ああ。そのあと、そのまま歩いていった」
「ずっと無言?」
「最後まで」
エリリアが静かに口を挟んだ。
「でしたら、現時点で確かなのは、レンがその女性を見た時に何故かアイリの名前を口にした、という一点だけですね。女性自身がアイリを知っていると示したわけでも、レンを知っていると示したわけでもありません」
「そうなるな」
「でしたら、今はそれ以上広げない方がよいでしょう」
エリリアの言い方は淡々としていたが、レンもその考えには同意した。分からないことばかり増えている。ロケットの少女、赤い瞳の救助者、削られた識別印、何者かが投函した救難信、光に弱い黒い糸、別室で保管されている白い花。そして今度は、名前すら分からない都市と、何一つ話さず歩き去った女まで現れた。焦ってすべてを一つの答えにまとめようとすれば、本当に別のものまで同じに見えてしまう。
アイリはしばらく考えたあと、今度は別のことを尋ねた。
「夢の中では、右腕は本当に普通だったの?」
レンは視線を固定具に守られた右腕へ落とした。五本の指には感覚があり、自分の意思で動かすこともできる。しかし拳へ強く力を込めたり、腕全体を大きく持ち上げようとしたりすれば、深く斬られた上腕の奥から痛みが返ってくる。
「普通だった。肩より上まで上げても痛くなかったし、思い切り拳を握っても平気だった。剣は持ってなかったけど、振る時の動きをしても何ともなかった」
言葉にしているうちに、あの感覚が身体へ蘇ってくる。現実では、今後どこまで力が戻るのか治療師にもまだ分からず、黒銀の剣を以前と同じように振るえるかどうかさえ誰にも断言できない。だからこそ、夢の中で何の痛みもなく腕を振り、強く拳を握れた時の軽さと解放感を、レンは簡単には忘れられなかった。
「……また見たい?」
アイリの問いに、レンはすぐには答えなかった。
「街を?」
「それも。その腕の感覚も」
レンはしばらく右手を見つめたあと、小さく息を吐いた。
「見たいと思ってる」
アイリの表情が僅かに曇る。
「でも、自分から寝て戻ろうとはしない。戻り方も分からないし、同じ夢を見る保証もない」
「もし見られる方法が分かったら?」
「今はやらない」
「本当に?」
「ああ」
「腕が普通に動くのに?」
「だからこそだよ」
レンは妹へ視線を戻した。
「もしあそこへ行けば右腕が普通に動くからって、そればっかり求めるようになったら、現実で治す意味が分からなくなる。ガリックに左で新しい形を作れって言われたばっかりなのに、夢の中だけ昔の腕に戻ってどうするんだよ」
アイリは少し驚いた顔をしたあと、ほっとしたように息を吐いた。
「お兄ちゃん、本当に少し変わったね」
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「ならいい」
それでも、アイリの表情から不安が完全に消えたわけではなかった。レンはそのことに気づいたものの、今は無理に聞き出さず、妹が自分から話すのを待つことにした。
◇
午後の診察では、夢の中で右腕が自由に動いたという話を受け、治療師が現実の状態を改めて確認した。右手の五本の指はこれまでと同じように動き、触れられた感覚にも大きな異常はない。軽く握る動作も可能だが、力を強めれば上腕へ痛みが走るため、その時点で止められた。肘についても許された範囲で動かす限り問題はなく、夢を見たことによって傷が突然良くなった様子も、逆に悪化した様子もなかった。
「夢のあとに良くなったところは?」
レンが尋ねると、治療師は記録板を確認しながら首を横へ振った。
「少なくとも今の診察では見つかりません。悪くなったところもありません。現実の右上腕については、昨日とほぼ同じです」
「そうですか」
「残念そうですね」
「少しは期待しますよ」
「気持ちは分かります。ただ、夢の中で動いたからといって、実際の傷まで治っているとは考えないでください」
「分かってます」
「最近、その言葉が少し信用できるようになってきました」
「最初はどれだけ信用なかったんですか」
「かなり」
横で聞いていたアイリが小さく笑い、エリリアも僅かに口元を緩めた。治療師はそのまま午後も安静にするよう三人へ念を押し、記録板を抱えて部屋を出ていった。
しばらくすると、廊下から杖の音が近づいてきた。
「飯の時間じゃないのに来るの珍しいな」
レンが入口を見ると、ガリックが左手に杖を持ったまま部屋へ入ってきた。脇腹には新しい包帯が巻かれ、午前中よりも歩き方は慎重になっている。
「俺を何だと思ってる」
「飯の時に現れる人」
「否定しにくいのが腹立つな」
ガリックは空いている椅子へ腰を下ろし、杖を手の届く位置へ置いた。
「治療師から聞いた。変な夢見たんだって?」
「何で治療師が話すんだよ」
「俺が食堂で、お前らが午後どうしてるか聞いたら、『レンさんが奇妙な夢を見たそうです』って言われた」
「聞き方が完全に保護者みたいになってるぞ」
「うるさい。暇なんだよ」
アイリが小さく笑い、エリリアも僅かに表情を和らげた。
「で、どんな夢だ?」
ガリックに聞かれ、レンは昼から何度も説明した内容を今度は簡潔に話した。見たことのない巨大な都市、黒い運河と逆さまの街、空に浮かぶ巨大な環、読めない銀色の文字。そして、灰青色の髪と左右で違う瞳を持つ女が現れたこと。
「そいつとは話したのか?」
「俺は何回も話しかけた。でも向こうは一言も言わなかった」
「無視されたのか」
「言い方」
「事実だろ」
「多分な」
「で、妹の名前を呼んだ?」
ガリックがアイリを見る。
「そうらしいです」
アイリが少し複雑そうに答えた。
「でも、私には全然似てないって」
「髪も目も顔も別人だった。それなのに名前だけ出た」
ガリックはしばらく考えてから肩を竦めた。
「なら今のところ、“妹じゃない女”だな」
レンが眉を寄せる。
「何だそれ」
「名前がないと話しづらいだろ」
「もっと何かないのか」
「知らん女一号でもいいぞ」
「そっちの方がひどい」
「じゃあ妹ではない女で決まりだ」
「長いだろ」
「分かりやすい」
アイリが思わず吹き出した。
「私としてはちょっと嫌だけど」
「本人が名前を教えてくれたら、その時に変えればいい」
ガリックの単純な返答に、レンは呆れながらも、それ以上反論しなかった。
「次があればな」
「あると思ってる顔してるぞ」
「そんな顔してる?」
「してる」
レンは否定しかけてやめた。あの夢をもう一度見る気がしている。根拠などない。それでも、名前のない都市も歩き去った女も、あれだけで終わったものではないという感覚が残っていた。
「問題はそこなんだよ」
それまで黙っていたアイリが口を開いた。声には、それまでとは違う重さがあった。
「お兄ちゃんが、またそこに行くかもしれないってこと」
「夢なら止めようがないだろ」
「分かってる。でも……怖いの」
レンは言葉を止めた。
アイリは膝の上に置いた包帯の巻かれた手を見つめたまま、ゆっくり続けた。
「天坑でお兄ちゃんが倒れた時、何回呼んでも起きなかった。剣を取って戦ってる間も、ずっとお兄ちゃんが起きたら何とかなるって思ってた。でも起きなくて、最後まで自分でやるしかなかった」
部屋から先ほどまでの軽い空気が消えていった。
「今日の朝も、赤いのを見たらあそこに戻ったみたいになった。だから、もし今度お兄ちゃんが寝て、知らない街へ行って……私が呼んでも起きなかったらって考えたら、夢だから大丈夫ってまだ思えない」
レンはすぐに「必ず起きる」とは言わなかった。そんな保証はできない。眠りを自分で制御できるわけでもなければ、あの都市が本当に普通の夢だったのかさえ分からない。
「自分から戻ろうとはしない」
レンは静かに言った。
「戻る方法を探したり、無理に寝ようとしたりもしない。もしまた見たら、起きた時に覚えてることは全部話す」
「……それだけ?」
「それ以上は約束できない」
アイリが顔を上げる。
「絶対すぐ起きるとか言わないんだ」
「言っても嘘になるだろ」
少しの沈黙のあと、アイリは小さく頷いた。
「じゃあ、それでいい」
ガリックは兄妹のやり取りを黙って聞いていたが、やがて杖へ手を伸ばした。
「夢のことは分からんが、少なくとも寝るのを怖がって起き続けるのは一番駄目だぞ」
「誰もそんなこと言ってない」
「今夜になったら妹が言い出しそうだから先に言った」
「言わないよ」
アイリがすぐに返すと、ガリックは僅かに笑った。
「ならいい」
立ち上がろうとする彼を見て、レンが「治療師に立つ回数減らせって言われてないのか」と尋ねると、ガリックは杖をつきながら不機嫌そうに振り返った。
「言われてる」
「じゃあ何で来たんだ」
「暇だったからだ。あと夕飯の時間を聞きたかった」
「結局飯じゃねえか」
「重要だろ」
先ほどまで張り詰めていた空気が、そのやり取りでようやく少しだけ緩んだ。
◇
その日の夕方、レンの夢について聞いた担当治療師が、夜間の状態を簡単に記録してみることを提案した。夢そのものを調べる方法はないが、眠っている間に傷ついた右上腕の筋肉へ異常な動きが起きるのか、脈や呼吸が大きく変化するのか、あるいは脈光に普段とは異なる揺らぎが現れるのか程度なら確認できるという。
「危ないことはしないですよね」
アイリが先に尋ねる。
「もちろんです。治療用の感応糸を皮膚の上へ貼るだけです。傷口へ入れたり、魔力を流したりはしません」
「感応糸?」
「筋肉が動いた時や脈が大きく変化した時に、張り方が僅かに変わる糸です。普段、意識のない患者や眠っている患者の状態を見るためにも使います」
レンは固定された右上腕へ視線を落とした。
「夢の中で腕を動かしたら、こっちも反応するかもしれない?」
「分かりません。それを確かめるだけです。ただし、何か反応しても夢が原因だとすぐ決めないこと。寝返りや無意識の筋収縮でも動きます」
「分かりました」
治療師は患者服の袖を慎重にずらし、傷口や包帯へ触れない位置に数本の細い感応糸を貼っていった。一本は肩に近い上腕部、もう一本は傷の下側、さらに肘に近い筋肉へ沿うように配置され、寝台脇には脈や呼吸を記録する小さな器具も置かれた。大掛かりな検査ではなく、あくまで通常の治療で使われる方法を少し応用するだけだった。
「これで何も起きなければ?」
「何も起きなかった、という記録が残ります」
「地味ですね」
「医療は大抵そういうものです」
エリリアが「その方が安心できます」と言う横で、アイリはまだ感応糸を気にしていた。
「私、今日はちゃんと寝るから」
突然そう言われ、レンが妹を見る。
「何で宣言した?」
「ガリックに起き続けるなって言われたから」
「気にしてたんだ」
「ちょっとだけ」
「俺も寝る。わざと起きてる理由ないし」
「もしまた街に行ったら?」
「起きてから話す」
「うん」
約束はそれだけだった。夢を見ないという保証も、呼べば必ず目覚めるという保証もない。ただ、自分からあの都市を求めることはしない。その点だけはレン自身も決めていた。
消灯後、回復室は静かになった。廊下を歩く夜番の治療師の足音が時折聞こえ、窓の向こうでは王都の遠い灯りが淡く揺れている。レンは無意識に胸元のロケットへ触れかけたが、途中で左手を止めた。もし本当にロケットと夢に何らかの関係があるのだとしても、今夜わざわざ条件を重ねる必要はない。そう考えて手を布団の上へ戻すと、右上腕に貼られた感応糸の存在を確かめるように一度だけ視線を落とした。
「おやすみ、お兄ちゃん」
暗闇の中からアイリの声がした。
「おやすみ」
エリリアも続けて小さく挨拶し、やがて部屋には三人の穏やかな呼吸と、遠くの廊下から届く僅かな物音だけが残った。
レンが目を閉じると、名前のない都市の景色が自然と浮かんできた。銀色の光が流れる塔、黒い運河の底へ反転して存在する街、空に浮かぶ巨大な環、そして一度だけ振り返ったあと、何を尋ねても歩みを止めなかった女の背中。そこへ重なるように、現実では傷に妨げられている右腕が何の痛みもなく自由に動いた感覚まで蘇ってくる。もう一度あの場所へ行けば、また同じように動かせるのだろうかという誘惑が胸を過ったが、レンはそれを追いかけることも、無理に打ち消そうとすることもしなかった。ただ自然に眠気が訪れるのを待ち、やがて意識はゆっくりと深い眠りへ沈んでいった。
その夜、レンは名もなき都市を見なかった。途中で一度目を覚ました時にあったのは白環治療院の暗い天井だけで、右腕には現実の重さと鈍い疼きが残り、隣からはアイリの静かな寝息が聞こえていた。もう一度あの都市へ引き込まれなかったことに安堵する一方で、ごく僅かに落胆している自分にも気づいたが、レンはその感情を否定することなく再び目を閉じた。
それから夜は何事もなく過ぎていくように見えた。窓の外が僅かに白み始め、夜番の治療師が交代する時刻が近づいても、レンは深い眠りの中にあり、右手の指も右腕も布団の上で静かなままだった。名もなき都市の鐘が響くこともなく、彼自身に目立った変化は何一つ起きていない。
しかし夜明けの薄暗がりの中、傷口から離れた右上腕へ貼られていた一本の感応糸だけが、ごく僅かに張った。筋肉が何かへ応じるように一瞬だけ微かに収縮し、すぐに元の状態へ戻る。レンは目を覚まさず、部屋の誰一人としてその変化に気づかなかった。感応糸もそれ以上動くことはなく、まるで最初から何も起きなかったかのように静けさだけが残された。
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