第二章 第十二話 眠りの底の名もなき都
朝食を終えて回復室へ戻る頃には、ガリックの脇腹に滲んでいた血も新しい包帯の下へ収まり、治療師からは傷口そのものが大きく開いたわけではないと説明されていた。ただ、それを聞いた本人が「なら問題ない」と言いかけた瞬間、周囲の治療師たちから一斉に睨まれ、その日の午前中は強制的に安静となったらしい。レンたちが廊下ですれ違った時も、ガリックは杖をつきながら「昼飯までには戻る」と言い残したが、背後の治療師に「戻る時間はこちらが決めます」と即座に訂正されていた。そのやり取りにアイリが僅かに笑ったものの、食堂で起きたことの余韻までは消えていなかった。
レンは寝台へ戻り、背もたれを少し起こした姿勢で窓の外を眺めた。潰れた赤い果実を見た瞬間、アイリが遺跡での記憶へ引き戻されたこと。ガリックが傷を滲ませながら椅子を動かしたこと。そして昨日、天坑周辺から回収された軍用品に似た矢尻に、出所を隠すような削り跡が残されていたこと。本来なら別々に考えるべき出来事が、一つの朝へ重なったせいか、どれも普段以上に重く胸へ残っていた。
向かい側では、アイリが治療師に両手と右肩を診てもらっていた。食堂で乱れた呼吸はすでに落ち着き、身体に新しい異常もない。ただ、それでヴァレクを殺した瞬間まで消えるわけではなかった。レンが何度か様子を窺うたび、アイリは「大丈夫」と笑ってみせたが、その笑顔が普段より少し慎重になっていることくらい、兄には分かる。窓際の寝台ではエリリアも静かに身体を休めていた。限界を越えた風の魔力使用と長い戦闘で積み重なった消耗は少しずつ抜け始めているものの、今日も治療師から魔力の使用を禁じられている。以前なら少しくらいならと押し切ろうとしたかもしれないが、今のエリリアは無理を重ねる危険を理解し、黙って回復を優先していた。
「午後の訓練は休みにします」
レンの左手を確認していた治療師が告げると、彼は眉を寄せた。
「何でですか」
「朝から指の訓練をして、そのあと食堂でも長く匙を使っています。左前腕に疲労が出ていますし、薬指と小指の感覚も朝より僅かに鈍くなっています」
言われて左手を開き、一本ずつ指を動かしてみる。動かないわけではない。しかし狼に噛まれた左前腕の傷が残した影響はまだ消えておらず、薬指と小指には確かに朝より僅かな遅れがあった。
「……少しだけです」
「その少しのうちに止めるための訓練です。今日はここまでにしてください」
「分かりました」
あまりにも素直に返したため、治療師が一瞬だけレンの顔を見直した。
「何ですか」
「いえ。以前なら、もう少し交渉されるかと思いまして」
「交渉しても駄目なんでしょう」
「駄目です」
「なら意味ないので」
治療師は僅かに笑い、「その理解が続くことを祈ります」と記録板へ書き込んだ。レン自身、今日は休んだ方がいいことくらい分かっている。深く斬られた右上腕はまだ固定され、右手の五本の指こそ動いても、剣を振るえるほどの力を込める段階には遠い。左手も以前より動くようになったとはいえ、完全には戻っていない。無理をして両方を悪化させれば、結局どちらも使えなくなるだけだった。
治療師が部屋を出ようとしたところで、レンはふと思い出して呼び止めた。
「俺の剣とロケット、まだ保管してありますよね」
「はい。剣は武器庫側で、ロケットは他の私物と一緒に預かっています」
「剣はまだ手元には置けないですか」
治療師は迷うことなく首を横へ振った。
「以前、監督下で確認することは許可しましたが、寝台の横へ置くのはまだ駄目です。重さもありますし、あなたの場合、夜中に思いつきで持ち上げようとしないとも限りません」
「もうそんなことしませんよ」
「その言葉を完全に信用できる日が来たら考えます」
アイリが小さく吹き出した。
「お兄ちゃん、信用ないね」
「最近はちゃんと言うこと聞いてるだろ」
「最近は、ね」
「それ、何回言うんだよ」
兄妹のやり取りを聞いていた治療師は少しだけ考え、「ロケットなら危険物ではありませんし、手元へ戻しても構いません。ただし、失くさないこと」と続けた。
「失くしません」
その返事だけは迷わなかった。
ほどなくして、治療助手が小さな布袋を持って戻ってきた。中から取り出された銀のロケットには細かな擦り傷が残り、炎と泥の中を何度も潜り抜けてきた年月を思わせる、くすんだ光が宿っている。左手で受け取った瞬間、冷たい金属の感触とともに十年前の夜が胸の奥へ蘇った。
燃え上がる家。崩れ落ちる屋根。煙に霞んだ母エレナの顔。床板の下から取り出された黒銀の剣と銀のロケット。震える指でロケットを押しつけられた時の感触。そして、なくしてはいけない、誰にも渡してはいけない、この中の少女を忘れてはいけないと告げられた母の声。たとえ他の誰もがその少女を忘れたとしても、自分だけは忘れてはいけない。幼かったレンには、その言葉の意味など何一つ分からなかった。ただ母の声があまりにも切迫していたから頷き、それから十年、理由が分からないままでもロケットだけは手放さずに生きてきた。
「開ける?」
アイリに尋ねられ、レンは一度だけ頷いた。左手の親指で留め金を外す動作にはまだ少し時間が掛かったが、以前よりずっと滑らかに蓋を開けられる。
内側には、長い黒髪と青みを帯びた琥珀色の瞳を持つ少女の小さな写真が残されていた。何度見ても知らない顔だった。それなのに、名前も関係も知らない少女の姿を十年間持ち続けてきたことを、改めて不思議に思う。
「昔から見てるけど、やっぱり誰なのか分からないね」
アイリが静かに言った。
「ああ」
「お母さんは、どうしてこれをお兄ちゃんに渡したんだろう」
「それが分かれば苦労してない」
「でも、『忘れないで』って言ったんでしょう?」
「そうだ。誰も覚えてなくなっても、俺だけは忘れるなって」
その言葉を聞いたエリリアが、窓際の寝台からゆっくり顔を向けた。
「随分と不思議な言い方ですね。ただ覚えていてほしいというより、他の人々が忘れることを最初から想定しているように聞こえます」
レンは写真の少女を見つめたまま黙り込んだ。幼い頃には深く考えなかった。しかし今になって思い返せば、確かにエレナの言葉は奇妙だった。この子を覚えていてほしい、ではない。他の誰もが忘れても、レンだけは忘れてはいけない。まるで、人が誰かの記憶から消えてしまうことが本当に起こり得ると知っていたような言い方だった。
「お母さん、何か知ってたのかな」
アイリが呟いた。
「多分な」
「この子のことも?」
「それも多分」
「でも、私たちには何も教えてくれなかった」
「……教える時間がなかったのかもしれない」
その一言で、三人の間に短い沈黙が落ちた。あの夜、エレナには何かを順序立てて説明する時間などなかった。炎は村を呑み込み、家のすぐ近くまで敵が迫り、赤髪の男とフードを深く被ったもう一人の人物が二人を追ってきていた。銀のロケットの少女が誰なのか。黒銀の剣が何なのか。なぜ自分たちが狙われていたのか。母が何を知り、何から二人を守ろうとしていたのか。何一つ答えを残せないまま、あの夜は終わった。
レンはしばらく写真を見つめ、それから静かにロケットを閉じた。
「今考えても答えは出ないな」
「そうですね。ただ、お母様から直接託されたものなら、これからも大切にした方がいいでしょう」
「そのつもりだ」
治療師に手伝ってもらいながら銀の鎖を首へ戻すと、ロケットの冷たい重みが胸元へ収まった。十年間ほとんど変わらなかったはずの感触なのに、その日はなぜか以前より存在を強く感じた。
昼食を終えた頃、レンは予想以上の眠気に襲われた。朝の左手の訓練、食堂で起きたこと、昨日見せられた削られた識別印、そして久しぶりに手元へ戻ったロケット。身体そのものはほとんど動かしていないにもかかわらず、頭の中だけが何日も休まず働いていたように重い。
「少し寝た方がいいよ」
アイリに言われ、レンは素直に枕へ身体を預けた。
「お前は?」
「私も休む。今日は朝だけで疲れた」
「エリリアは?」
「私も同じです。魔力を使っていなくても、体力まで戻ったわけではありませんから」
右腕を固定された姿勢にも、少しずつ慣れてきている。レンは胸元のロケットへ左手を軽く置き、そのまま目を閉じた。
眠りは、思っていたより早く訪れた。
◇
最初に感じたのは、風だった。
冷たいとも暖かいとも言い切れない、乾いた匂いを僅かに含んだ風が頬を撫でている。レンがゆっくりと目を開くと、白環治療院の白い天井はなく、自分は石とも金属とも判別できない淡灰色の道の上へ立っていた。
頭上を見上げた瞬間、息をすることさえ忘れそうになった。
空は夜でも昼でもなかった。青紫と銀白が溶け合った巨大な天蓋の奥を、川のような光がゆっくり流れている。星に似た無数の光点は浮かんでいるものの、レンが知る星座は一つもなく、月も太陽も見えない。それでも世界は暗くなかった。どこか一か所から光が差しているのではなく、空そのものが淡い輝きを帯び、眼下の世界を照らしている。
その下には、見たこともない巨大な都市が果てしなく広がっていた。王都さえ小さく思えるほどの街だった。細長い塔が何百本も空へ伸び、その間を無数の橋が結んでいる。だが橋の多くには地上から支える柱がない。何もない空中へ固定されたように浮かび、塔の側面を走る複雑な銀色の線の内側では、淡い光が脈を打つように移動していた。さらに遠くには、都市そのものを取り囲むほど巨大な黒銀の環が宙へ浮かび、その内側を星のような光が一定の速さで巡っている。
「……どこだ、ここ」
声は広すぎる都市へ吸い込まれ、返ってこなかった。
周囲に人の姿はない。それなのに、完全な無人とも思えない。遠くから何かが開閉する音が聞こえ、石の道を踏むような足音も響いている。高い塔の間を光が横切り、遠くの橋では人影らしきものが僅かに動いた。街は死んでいない。何者かが確かに存在している。そう感じるのに、その姿だけが霧の向こうへ隠されているように見えなかった。
レンは無意識に右腕を動かし、すぐに違和感へ気づいた。
痛くない。
治療院では肩より高く上げることさえ禁じられている右腕が、何の抵抗もなく動いた。肘を曲げ、拳を握り、試しに剣を振る時の動きをなぞってみる。深く斬られた右上腕の痛みはどこにもなく、身体は傷を負う以前の記憶どおり滑らかに動いた。
「夢……なのか?」
腰へ手を伸ばしても、黒銀の剣も鞘もない。ただ胸元には銀のロケットがあり、現実では冷たいはずの金属が微かな温かさを帯びていた。
その時、都市の奥深くから低い鐘の音が響いた。
重く、長い音だった。
耳から入ってくるというより、身体の内側へ直接落ちてくるような響きに、レンの胸が強く締めつけられる。初めて聞いたはずだった。それなのに懐かしい。何を思い出したのか自分でも分からない。ただ、この音をずっと昔から知っているような感覚だけが残った。
レンは鐘の鳴った方角へ歩き始めた。
道の両側には細い水路のような溝が続いている。しかし流れているのは水ではなく、銀色の光だった。時折、その中から文字に似た形が浮かび上がり、宙へ数秒だけ留まったあと、再び光の中へ沈んでいく。見たことのない文字だった。読むことも、意味を推測することもできない。それなのに目を逸らし難く、なぜか形だけでも覚えておかなければならない気がした。
やがて道が開け、巨大な運河へ出た。
水面は夜よりも深い黒をしていた。濁っているわけではなく、磨き上げた鏡のように滑らかで、僅かな波さえない。何気なく覗き込んだレンは、その下に映ったものを見て息を止めた。
もう一つの都市があった。
沈んでいるのではない。
上下が逆だった。
塔は水面から底へ向かって伸び、橋も反転し、遠くに浮かぶ巨大な黒銀の環までもが逆さまに存在している。同じ都市が二つ重なり、一方だけが世界の裏側へ落ち込んでいるような光景だった。
「……何なんだ、ここ」
思わず呟いた時、運河の向こう側に人影が見えた。
一人の女だった。
こちらへ背を向け、黒い水面を見つめるように立っている。遠目には銀白にも見える長い髪が、都市を流れる淡い光を受けて静かに揺れていた。白と黒を基調とした衣服は、レンがこれまで見たどの国のものとも違う。布のように柔らかく見える部分と、金属のような硬い光を返す部分が奇妙に混ざり合っていた。
「おい!」
レンが呼びかける。
女は動かなかった。
「ここがどこか分かるのか?」
返事はない。
レンは運河沿いへ進み、彼女へ近づこうとした。
「待ってくれ!」
その声に初めて反応したように、女がゆっくりと振り返った。
レンの足が止まった。
髪は銀白ではなかった。近くで見ると冷たい灰青色で、光を受けた部分だけが銀色に変わって見える。白い頬から首筋へは淡く光る細い紋様が走り、何より目を引いたのは左右で異なる瞳だった。右は深い青。左は褪せた金色。その二色の瞳が、何の感情も読み取れない静けさでレンを見つめている。
知らない女だった。
それなのに、一瞬だけ誰かに似ていると思った。
顔立ちではない。髪でも、瞳でもない。立ち方なのか、視線の向け方なのか、それすら分からなかった。
「……アイリ?」
無意識に妹の名が漏れた。
女の表情は変わらない。
ほんの数秒レンを見つめたあと、何も答えず前へ向き直り、そのまま歩き始めた。
「待て!」
レンもすぐに追った。
「お前、誰なんだ!」
返事はない。
「ここはどこだ!」
女は歩みを止めなかった。
奇妙なことに、距離が縮まらない。女は走っているわけではなく、一定の速さで歩いているだけだった。それなのにレンが足を速めても、二人の間には常に同じだけの空間が残る。自分が進むたび、道そのものが僅かに引き延ばされているようだった。
「俺を知ってるのか!」
女は振り返らない。
レンは追いながら胸元のロケットへ触れた。
「これを知ってるのか! この中の女を知ってるのか!」
それでも反応はなかった。
知らないのか。
知っていて答えないのか。
判断する材料さえ与えてくれない。
二度目の鐘が都市へ響いた。
今度は先ほどより大きく、近かった。
その音に合わせるように道の両側を流れていた銀色の光が強まり、淡灰色の地面へ無数の文字が浮かび上がった。線と線が複雑に交差し、円とも角とも言えない形を作りながら、まるで都市そのものが言葉を吐き出しているように次々と現れていく。
レンは一瞬だけ足元へ目を落とした。
読めない。
けれど、覚えておかなければならない。
理由など分からない。ただ、その形だけは忘れてはいけないという感覚が、胸の奥から強く湧き上がっていた。
前へ視線を戻した時には、女との距離がさらに開いていた。
「待ってくれ!」
レンは走り出した。
右腕も脚も自由に動く。現実の傷など存在しないように身体は軽かった。それでも追いつけない。
女は巨大な塔の間へ架かる橋へ入った。支柱のない橋の向こうには、空へ浮かぶ巨大な黒銀の環が見えている。
「せめて名前だけでも教えてくれ!」
叫んだ直後、自分が何の名前を求めたのか分からなくなった。
女の名前なのか。
この都市の名前なのか。
あるいは、その両方なのか。
女は橋の途中で一度だけ足を止めた。
振り返らない。
ただ数秒、そこへ立っていた。
レンも足を止める。
「……何なんだよ」
声は届いているはずだった。
それでも答えはない。
やがて女は再び歩き始めた。
その瞬間、都市全体を走っていた銀色の線が一斉に輝きを増した。
空に浮かぶ巨大な環が、ゆっくりと回転を始める。
三度目の鐘が鳴った。
レンの視界が揺れる。
「待て!」
女の姿が遠ざかった。
いや、女だけではない。
塔も橋も、黒い運河も、奇妙な空も、世界のすべてが白い光の向こうへ薄れていく。
「まだ何も分かってない!」
レンは手を伸ばした。
女は最後まで振り返らなかった。
ただ歩き続け、その背中から先に白い光へ溶けていく。
最後まで残ったのは、足元を流れていた銀色の文字だった。
レンは必死に形を目へ焼きつけた。
線の位置を。
交わる角度を。
円に似た形を。
目を覚ましたあと、必ず書き残せるように。
忘れないように。
そう強く思った瞬間、文字の輪郭だけが急速に崩れ始めた。
世界が白く染まった。
◇
レンは息を呑みながら目を覚ました。
視界いっぱいに白環治療院の天井があり、窓から午後の光が差し込んでいる。
「お兄ちゃん?」
すぐ横からアイリの声がした。
返事をするより先に、レンは右手を動かした。五本の指は現実でも自分の意思どおり動く。しかし夢の中と同じように右腕全体を持ち上げようとした瞬間、右上腕の奥へ鈍い痛みが走り、治療師から禁じられていたことを思い出してすぐに力を抜いた。
「……戻ってる」
「何が?」
アイリが心配そうに身体を起こしかける。
「夢を見た」
「怖いやつ?」
「分からない。変な街だった」
エリリアも目を覚ましていたらしく、反対側の寝台から顔を向けた。
「どのような場所でしたか」
夢の感覚が薄れる前に、レンは覚えているものを一つずつ言葉へ変えていった。青紫と銀白の空。支えのない橋。何百本もの塔を流れる銀色の光。都市を囲むように浮かんでいた巨大な黒銀の環。鏡のような黒い運河と、その水面の下へ上下を逆にして存在していたもう一つの街。そして、人の気配が確かにあるにもかかわらず、ほとんど誰の姿も見えない奇妙な都市。
「それから、女がいた」
「知ってる人?」
アイリが尋ねた。
「分からない。見たことはないと思う」
「話したの?」
「俺は話しかけた。でも向こうは何も言わなかった」
「ずっと?」
「ああ。一度こっちを見ただけで、そのまま歩いていった」
そこでレンは僅かに眉を寄せた。
「一瞬だけ、お前かと思った」
「私?」
「似てたわけじゃない。髪も目も全然違った。でも……何かが引っかかった。それで名前を呼んだ」
「その人は?」
「何も言わなかった」
エリリアが静かに尋ねた。
「赤い瞳の人物ではなかったのですね」
「違う。右目が青で、左が薄い金色だった。髪も灰色に近い青だった」
「ロケットの方とも違いますね」
「ああ。全然違う」
確認したところで、答えには一歩も近づかなかった。
レンは胸元のロケットへ触れた。夢の中でも同じものを身につけていた。しかし、それが夢と何か関係しているのかさえ分からない。
「街の名前は?」
アイリに尋ねられ、レンは少し黙った。
「分からない」
「聞かなかったの?」
「聞いた。でも、誰も答えなかった」
都市には文字があった。鐘があった。人の気配もあった。そして、あの女もいた。
それなのに名前だけが分からない。
いや、本当は名前がないのではなく、自分が知らないだけなのかもしれない。
そう考えた瞬間、レンは夢の最後に見た文字を思い出した。
「紙ある?」
「何を書くの?」
「夢で見た文字」
エリリアがすぐに記録紙と細い炭筆を取った。
「左手で書けますか」
「今ならまだ覚えてる」
「無理はしないでください」
「ああ」
レンは炭筆を左手で握った。薬指と小指に残る痺れのせいで細かな線を引くのは難しい。それでも、最初の一文字くらいなら書けると思った。
円に似た線があった。
斜めへ伸びる一本。
その内側を横切る、もう一本。
記憶を頼りに紙へ形を落とし、レンはすぐに眉を寄せた。
「……違う」
「どこが?」
アイリが尋ねる。
「分からない。でも、こんな形じゃなかった」
別の文字を書こうとした。
今度は途中で炭筆が止まった。
ほんの少し前まで頭の中にはっきり残っていたはずの線が、どちらへ伸びていたのか分からない。
「待て……」
焦って記憶を掴もうとする。
「レン、ゆっくり」
エリリアの声が飛んだ。
「消えてく」
「文字が?」
「ああ」
目を覚ましてから、まだ大した時間は経っていない。都市の景色は鮮明だった。黒い運河も、巨大な環も、鐘の音も覚えている。左右で色の違う女の瞳も、灰青色の髪も思い出せる。
それなのに、文字だけが消えていく。
思い出そうとするたび、輪郭が薄れる。
掴もうとするほど、指の間から零れるように形が崩れていった。
レンは炭筆を止めた。
紙の上には、正しいかどうかさえ分からない歪んだ記号がいくつか残っている。
「普通の夢だから忘れてるだけじゃない?」
アイリが慎重に尋ねた。
「……かもしれない」
レンは否定しなかった。
だが、自分でも納得できなかった。
「でも変なんだ。街のことは覚えてる。あの女の顔も、鐘の音も。それなのに文字だけが消えるのが早すぎる」
エリリアは紙に残った不完全な記号をしばらく見つめた。
「今の段階では、夢だった以上のことは断定できません。ただ、同じ場所を見ることがあるなら、次は目が覚めた直後に記録した方がよいでしょう」
「次があればな」
「あると思いますか?」
レンは答えかけて、口を閉じた。
分からない。
それでも、あの都市を一度しか見ないような気はしなかった。
理由は説明できない。
ただ、あの鐘の音も、歩き去った女の背中も、そこで終わったものではないという感覚だけが胸へ残っていた。
その時、王都のどこかで午後を告げる鐘が鳴った。
白環治療院の外から聞こえる、すでに馴染み始めた普通の鐘だった。
それなのに最初の一音だけ、レンの耳には別の響きが重なった。
夢の都市で聞いた、あの低く深い鐘。
身体の奥まで震わせるような音。
レンは反射的に顔を上げた。
だが、二度目に聞こえたのは王都の鐘だけだった。
胸元では、銀のロケットがいつもと変わらない冷たさで横たわっている。
紙の上には、もう正しい形だったかどうかさえ分からない奇妙な文字が残されていた。
そしてレンの記憶には、名も知らない都市の奥へ一言も残さず歩き去っていった、左右で瞳の色が違う女の背中だけが、ひどく鮮明に焼きついていた。
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