第二章 第十一話 傷だらけの朝食
翌朝、白環治療院の中央食堂には、昨日までより幾分穏やかな空気が戻っていた。東側街道では天坑周辺の二次崩落による通行制限が続いているものの、迂回路を使った補給が安定し始め、患者たちの間に広がっていた食料不足への不安もほとんど消えている。厨房では大鍋から白い湯気が立ち、焼きたてのパンと温かい穀物粥の匂いが食堂全体に広がっていた。まだ早い時間で席には余裕があり、レン、アイリ、エリリアの三人も、それぞれ回復用の椅子に身体を預けながら昨日と同じ卓へ案内されている。
レンの前には柔らかな粥と薄いスープ、細く切られた果物が並んでいた。深く斬られた右上腕には変わらず固定具があり、指そのものは動いても、戦うための力を込めることはまだ許されていない。一方の左手も、狼に噛まれた左前腕の影響で薬指と小指に薄い痺れが残り、長く匙を使えば前腕から手首にかけて疲労が溜まってくる。そのため治療師から許されているのは、自分で食べられるところまで食べ、指の反応が鈍くなった時点で止めることだった。レンは昨日ガリックに教えられた通り、親指と人差し指へ無駄な力を集めないよう意識して匙を持ち上げ、一口目、二口目と慎重に運ぶ。三口目で僅かに柄がずれたものの、手首を固めて無理に支えようとはせず、一度止まって持ち直してから無事に口まで運んだ。
「今の、上手だったね」
隣からアイリに言われ、レンは匙を器へ戻しながら「食べただけだぞ」と返した。するとエリリアまで、「昨日までは、それが大変だったでしょう」と穏やかに続ける。二人に一口ごと評価されるのが気恥ずかしいのか、レンは「毎回見なくていいから」とぼやいたものの、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
アイリ自身も、今日は治療師から新しい許可をもらっていた。両手と手首の傷はまだ完全には治っていないが、軽い匙を短時間持つ程度なら試してよいと言われている。ただし右肩への負担を避けるため、肘を身体の近くに置き、痛みが出ればすぐ止めることが条件だった。アイリが左手で匙を握ろうとすると、レンは反射的に「無理するなよ」と声を掛けたが、彼女はすぐに兄を見返した。
「分かってる。でも、それをお兄ちゃんに言われるとちょっと腹が立つ」
「何でだよ」
「この数日、自分が何回同じことを言われたか思い出して」
レンが反論できず黙り込むと、エリリアの口元に小さな笑みが浮かんだ。「反論できないようですね」と静かに指摘され、レンは今度こそ不満そうな顔をしたが、アイリはそんな兄妹のやり取りに笑いながら、ゆっくり匙を持ち上げた。指の傷が残っているため動きは慎重だったものの、最初の一口は無事に口まで届く。
「できたな」
「一口だけだよ」
「昨日、俺に同じこと言っただろ」
「あれはお兄ちゃんだったから」
「意味分からない」
二人が言い合う間、エリリアも自分の食事をゆっくり進めていた。目立った大きな外傷こそ残っていないものの、限界を越えて消耗した身体と風の魔力はまだ完全には戻っていない。匙を持つこと自体に問題はなくても、食事の途中で一度手を止め、呼吸を整えなければならない程度には疲労が残っていた。それでも昨日より顔色は明らかに良く、少しずつ食欲も戻り始めている。
「今日は三人とも昨日よりましそうだな」
聞き慣れ始めた低い声が背後から届き、レンたちが振り返ると、ガリック・ヴェインが左手に杖を持ってこちらへ歩いてきていた。昨日のように治療師から捕まえられるまで無視することもなく、傷めた左脚へ負担を掛けないよう一歩ずつ慎重に杖をついている。ただし、もう片方の手に載せた朝食の量だけは患者らしさから大きく外れていた。三つのパン、大盛りの粥、煮込み肉、根菜、それに果物まで載っている。
「……それ、一人分?」
アイリが目を丸くすると、ガリックは当然のように「そうだ」と答えた。昨日は食料が足りるかどうか気にしていた人間がそれだけ取ってよいのかと尋ねられると、「厨房の奴に確認した。今日は余裕がある」と即答する。ガリックは空いている椅子へ腰を下ろし、杖を手の届く位置へ立て掛けた。
「昨日より多くないか?」
レンが山のような朝食を見ながら言うと、ガリックはパンを一つ手に取った。
「昨日は騒ぎで食うのが遅れた。怪我人は食わないと治らん」
「それ、俺に言うための言葉じゃなかったのか」
「自分にも適用してるだけだ」
「便利な理屈ですね」
エリリアが静かに言うと、ガリックは「正しい理屈だ」とまったく悪びれずに返す。アイリから身体が大きいからそんなに食べるのかと聞かれれば、それもあると答えたあと、少し考えて「腹が減る」と付け加えた。そのあまりにも普通な理由にアイリが笑うと、ガリックは「飯に関しては普通でいい」と言いながらパンへ大きく齧りついた。
四人が同じ卓で朝食を取るのは、これで三度目になる。最初は偶然近くに座っただけだった。昨日はガリックの過去と、天坑周辺から回収された軍用品に似た矢尻について話を聞き、食事どころではない緊張まで共有した。それでも今日になると、誰かが約束したわけでもないのに、ガリックは自然と同じ卓へ来ている。レンもそのことを指摘せず、ガリックもただ空いていたから座っただけだという顔で朝食を続けていた。
食堂には、昨日より多くの子供たちも姿を見せていた。回復が進み、ようやく部屋の外へ出られるようになった者たちらしく、治療助手に付き添われながら朝食を受け取っている。その中の一人、七歳か八歳ほどの少年が、小さな木の器と果物を載せた盆を両手で持って近くを歩いていた。付き添っていた治療助手から「ゆっくりでいいよ」と声を掛けられ、少年も慎重に足を運んでいたが、朝の清掃で床に残っていた僅かな水気へ足を乗せた瞬間、身体が大きく傾いた。
「あっ――」
盆が手から滑り、木の器が床へ落ちて乾いた音を響かせた。白い粥が床へ広がり、その上へ熟した赤い果実が落ちて潰れる。柔らかな果肉が裂け、濃い赤色の汁が白い床を細く流れた。その光景を見た瞬間、アイリの手から匙が落ち、小さな木音が卓の下へ響いた。
「アイリ?」
レンがすぐに妹を見る。しかし返事はなく、アイリの顔から血の気が失われていた。青い瞳は床へ向けられたまま動かず、呼吸だけが急速に浅くなる。白い床を染める赤い果汁は、彼女の中で別の光景へ形を変えていた。そこはもう食堂ではない。冷たい遺跡の石床があり、自分の上へ跨がったヴァレクがいて、何度も顔へ拳が振り下ろされる。口の中に広がる鉄の味、震える手で握った黒銀の剣、最後の力で突き上げた刃が首へ入る感触、そして自分の身体へ降り注いだ熱い血――忘れようとしても消えることのない瞬間が、赤い色一つをきっかけに現在へ重なった。
「……いや」
掠れた声を漏らしたアイリは、包帯の巻かれた自分の手へ視線を落とした。白い布には何も付いていない。それでも彼女には、まだそこが赤く染まっているように見えていた。
「血……まだ、手に……」
「アイリ、こっち見ろ」
レンは身体を前へ動かそうとしたが、回復用の椅子と固定された右腕ではすぐに距離を詰められない。呼びかけても、アイリの視線は自分の手から離れなかった。その様子を見たガリックは杖を卓へ立て掛けると、何も余計なことを言わずレンの椅子の背へ手を掛けた。
「何するんだ」
「お前を近づける。今の位置じゃ届かないだろ」
「脚は?」
「数歩だ。余計な心配するな」
ガリックは左脚へ無理な力を掛けないよう慎重に身体の向きを変え、レンの椅子をアイリのすぐ隣まで押した。距離が縮まった瞬間、レンは左手を伸ばし、包帯の巻かれた妹の手へそっと重ねる。
「アイリ。俺の手だ」
触れられた瞬間、アイリの身体が大きく震えた。
「……血が」
「血じゃない。俺の手だ。見なくてもいいから、触って分かるか?」
レンは力を込めすぎないよう妹の手を包み、返事を急かさず待った。荒い呼吸が続く中、やがてアイリの指先がほんの僅かに動く。
「……お兄ちゃんの……」
「そうだ。俺の左手だ。今どこにいるか分かるか?」
すぐには答えが返らなかった。アイリの唇が震え、「……遺跡」と小さく漏れる。
「違う。ここは白環治療院だ。王都の治療院で、俺たちは朝飯を食べてる」
エリリアも反対側から声を重ねた。普段と変わらない穏やかな声だった。
「私もここにいます、アイリ。レンもいます。今あなたが見ている赤いものは、床に落ちた果物です。無理にあの時のことを忘れなくても構いません。ただ、今いる場所だけを一つずつ確認してください」
アイリの視線が少しずつ床へ戻る。治療助手が転んだ少年を抱き起こし、怪我がないことを確かめていた。潰れた赤い果実は白い粥の上で形を失っている。それを見つめながら、アイリは掠れた声で「……果物」と繰り返した。
「そうだ。さっきまでお前も食べてたのと同じだ」
レンは妹の手を離さず、自分もゆっくりと息を吸った。
「俺に合わせろ。急がなくていい」
一度、長く吸って吐く。アイリも真似をするが、最初は途中で呼吸が乱れた。二度目は少し長く続き、三度目にはようやく肩の上下が緩やかになり始める。視線も床だけではなく、エリリア、レン、少し離れた場所で見守っているガリックへと少しずつ動いていった。食堂の湯気、焼いたパンの匂い、人々の話し声、食器が触れ合う音が、遺跡へ引き戻されていた感覚を現在の朝へ繋ぎ直していく。
「……ごめん。みんな、見てる」
ようやくアイリが言うと、レンは「何で謝るんだ」とすぐに返した。
「見たい奴には見せとけ」
「お兄ちゃん、それ慰めになってないよ」
「でもちょっと戻っただろ」
アイリの口元が僅かに動いた。エリリアもその様子を確認して、小さく息を吐く。
「落ち着いてきましたね。まだ手の感覚が変に感じても、今は無理に確かめなくて構いません。包帯の感触や記憶が重なっているだけかもしれませんから」
その時、近くにいた治療師がガリックを見て眉を寄せた。
「ガリックさん。脇腹を見せてください」
「何だ」
「何だ、ではありません。血が滲んでいます」
全員の視線がガリックへ向くと、患者服の脇腹近く、包帯の下に小さな赤い染みが広がり始めていた。どうやらレンの椅子を動かす際、左脚を庇いながら身体を捻ったことで、治りかけの傷へ余計な負担が掛かったらしい。
「これくらいなら――」
「その台詞は禁止です」
治療師に先回りされ、ガリックは口を閉じた。
「お前、俺の椅子動かしたせいで傷開いたのか?」
レンが険しい顔をすると、ガリックは「少し滲んだだけだ」と答えたが、アイリまで「人を助けて自分の傷を開いてるじゃん」と責めるように言う。
「必要だった」
「それ、昨日までのお兄ちゃんと同じだよ」
「おい、俺を引き合いに出すな」
「でも本当でしょう?」
エリリアが静かに割って入った。
「ガリック。あなた自身が昨日、すべてを一人でやろうとすれば最初に潰れると言っていましたよね。でしたら今は、治療師に任せる場面です」
「大した傷じゃない」
「その判断をするのはあなたではありません」
昨日から何度も自分たちが聞かされてきた言葉をそのまま返され、ガリックは眉間を押さえた。
「何で俺の周り、同じこと言う奴ばっかりなんだ」
「あなたが同じことを繰り返すからでは?」
エリリアの返答は穏やかだったが、逃げ道はなかった。レンも思わず笑いそうになったものの、右上腕へ余計な力が入らないよう身体を緩めながらガリックを見る。
「昨日、お前言ったよな。できない時は周りを頼れって」
「そんな言い方はしてない」
「ほぼ同じだろ。だったら今は治療師にやってもらえ」
ガリックはしばらくレンを睨んだあと、「お前、覚えなくていいことばっかり覚えるな」とぼやいた。それでも今回は抵抗せず、治療師に促されるまま近くの椅子へ座る。幸い傷口が大きく開いたわけではなく、急に身体を捻ったことで治りかけの皮膚へ負担が掛かり、少量の出血が起きただけだった。
「今日はもう立たないでください」
「飯は?」
「座ったまま食べてください」
「それなら問題ない」
「そこを最初に確認するんですね……」
治療師が深いため息を吐く一方、少し離れた場所では落とした食事の片づけが終わり、転んだ少年にも新しい朝食が渡されていた。赤い果汁も白い床から拭き取られ、先ほどまでの騒ぎが嘘のように食堂は元の空気を取り戻し始めている。
「部屋に戻るか?」
レンがアイリへ尋ねると、彼女はすぐには答えず、自分の朝食へ視線を落とした。落とした匙は治療助手が新しいものへ取り替えてくれており、器にはまだ半分以上の粥が残っている。アイリは一度だけ先ほど赤く染まっていた床を見たあと、ゆっくり首を横へ振った。
「……ここで食べる」
「無理しなくていいぞ」
「無理してない。怖くないって証明したいわけでもないよ。まだ怖いし、また同じことが起きたらって思う。でも、だからって毎回部屋へ戻りたくない。今日は……ここにいたい」
レンは妹の顔をしばらく見つめ、それ以上止めることはしなかった。
「分かった」
アイリは新しい匙を左手で取り、まだ僅かに緊張の残る指で一口を掬った。口まで運ぶ途中で少し震えたものの、途中で置くことなく最後まで届く。
「食べられた」
ガリックが言うと、アイリは彼を見た。
「今度はガリックまで数えるの?」
「数えてない。見ただけだ」
「お兄ちゃんと同じこと言ってる」
「似てない」
レンとガリックがほとんど同時に答え、その一致がおかしくてアイリが少し笑った。エリリアも食事を再開し、四人の卓には徐々に朝の日常的な音が戻っていった。匙が器へ触れる音、パンをちぎる音、そしてガリックが驚くほどの速さで大量の朝食を減らしていく音まで混ざっている。
「本当に全部食べるんだ」
アイリが呆れたように言うと、ガリックは「食える時に食う」と当然のように答えた。
「そんなに食べ物が好きなの?」
「好きだな」
「一番好き?」
「どうだろうな」
ガリックはそこで一度だけ匙を止めた。
「でも、食い物が足りないのは嫌いだ」
アイリは昨日、大鍋の前に立っていた彼の姿を思い出したのか、少しだけ真面目な表情になる。
「怖い?」
何気ない問いだったが、ガリックはすぐには否定しなかった。
「怖いな。自分だけなら多少は我慢できる。でも、周りにいる奴らの分までなくなる方が嫌だ」
それ以上は説明しなかった。レンもエリリアも問い返さない。昨日聞いた避難民の話、襲撃、削られた軍用品の印、王立街道警備隊を辞めることになった過去。そのどこかに、ガリックが空になった大鍋を嫌い、食料不足を恐れる理由もあるのだろう。ただ、少なくとも今朝それを無理に聞き出す必要はなかった。
「じゃあ、全部食べるのも怖いから?」
アイリが尋ねると、ガリックはすぐに「それは腹が減ってるからだ」と返した。あまりにも普通の答えに、アイリは今度こそ声を出して笑った。エリリアも小さく笑い、レンもつられたように息を漏らしたが、右上腕へ僅かな痛みが走るとすぐに身体の力を抜く。
「ほら、お兄ちゃんも無理しない」
「笑っただけだぞ」
「笑っても身体に力入るんでしょう?」
「……少しだけ」
「だったら気をつけて」
「お前、さっきまで俺に注意されてたよな」
「今は私の番」
アイリが少し得意そうに答えると、エリリアも「順番なのかもしれませんね」と穏やかに続けた。
「怪我をしている間は、注意する側とされる側を交代していくのでしょう。誰か一人だけがずっと支える必要はないと思います」
「面倒だな」
レンが言うと、ガリックは食事の手を止めずに「悪くないだろ」と返した。
「今度は何だよ」
「一人で全部覚えてなくて済む」
それだけ言うと、ガリックは再び朝食へ戻った。
レンは少しだけ考えたあと、自分の匙を持ち直した。左手の痺れはまだ残り、右腕では剣を振るうことができない。アイリの手と肩も治療の途中で、赤い色一つが彼女を遺跡へ引き戻すこともある。エリリアもまだ風を使えず、短い食事だけで疲労が顔に滲む。ガリックも杖なしでは満足に歩けず、必要に迫られてほんの数歩無理をしただけで脇腹の傷から血が滲んだ。誰一人として元通りではなく、昨日までなら、その傷の一つ一つが「できないこと」の証明にしか見えなかった。
けれど今朝は少しだけ違った。レンが左手で匙を扱えなければ、誰かが持ち方を教えてくれた。アイリが過去へ引き戻されれば、レンとエリリアが現在へ戻る声を掛けた。レンが妹へ届かなければガリックが椅子を動かし、そのガリックが傷を悪化させれば今度は治療師と三人が彼を座らせた。できないことがあるなら、その間だけ誰かが補えばいい。そして自分が動けるようになった時には、今度は別の誰かを支えればいい。それは特別な約束でも、大げさな覚悟でもなく、同じ卓にいる者同士が自然に手を伸ばす程度のことなのかもしれなかった。
やがてアイリの器も空になった。最後の一口を飲み込んだ彼女は、少し疲れたように背もたれへ身体を預ける。
「食べた」
「ああ」
「全部」
「見てた」
「怖かったけど」
「それでも食べたな」
アイリはしばらく兄を見つめたあと、小さく「うん」と笑った。
その朝、四人の誰も傷を忘れたわけではなかった。レンの腕も、アイリの記憶も、エリリアの疲労も、ガリックの身体に残る古いものも新しいものも、朝食一度で消えるはずがない。それでも彼らは、傷を抱えたまま同じ卓に残り、途中で誰一人席を離れることなく最後まで食事を終えた。その程度のことでも、今の四人にとっては十分に前へ進んだと言える朝だった。
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