第二章 第十話 ガリック・ヴェイン
翌朝、白環治療院の回復室では、昨日より少しだけ難しくなったレンの左手の訓練が始まっていた。彼の前には二つの浅い木皿が置かれ、その片方には乾燥豆が十粒並んでいる。昨日と同じように匙で一粒ずつ隣の皿へ移すだけの訓練だが、今日は治療師から「速さを求めず、指先の力を一定に保つこと」という新しい条件が加えられていた。左前腕を噛んだ狼の傷は塞がりつつあるものの、薬指と小指に残る痺れはまだ完全には消えていない。外側の二本へ思うように力が入らないため、気を抜けば親指と人差し指だけで匙を強く挟み込み、手首まで固めてしまう。それは昨日、ガリックに指摘されたばかりの癖だった。
「肩を上げない。手首も固めすぎない。握るんじゃなくて、支える……」
自分へ言い聞かせるように呟きながら、レンは一粒目を掬い、慎重に隣の皿へ落とした。二粒目も成功し、三粒目は途中で匙の端へ転がったものの、手首を急に動かさず、そのままゆっくり角度を戻して皿まで運ぶことができた。
「三つ」
アイリが数える。
「数えなくていい」
「昨日より上手だよ」
「だからって声に出して数える必要はないだろ」
「集中を邪魔していますよ、アイリ」
エリリアが静かに注意すると、アイリは口元だけで笑いながら「はーい」と答えた。
レンは四粒目を無事に移し、続く五粒目も僅かに震えながら隣の皿へ入れた。しかし六粒目を掬おうとしたところで、左手の薬指と小指に残っていた痺れが少し強くなる。昨日なら、あと一つくらいなら問題ないと続けていただろう。レンは数秒だけ自分の指を見つめると、治療師に言われるより先に匙を皿の横へ置いた。
「ここまでにします」
一瞬、回復室が静かになった。
「……どうしたんですか」
治療師が尋ねる。
「何がです?」
「いえ。自分から止めたので」
「止めろって言われる前に止めただけです」
「昨日よりさらに進歩しましたね」
「何で毎回、人間として成長したみたいに言うんですか」
「実際、そのくらい驚いています」
右隣からアイリが吹き出し、エリリアも口元を僅かに緩めた。レンは不満そうに二人を見たものの、左手を無理に握り直すことはしなかった。昨日は四粒に挑戦して二粒を成功させたが、今日は五粒すべてを最後まで運べた。数字そのものは小さい。それでも、剣を握るために必要なものが一日ごとにほんの僅かずつ戻っている実感はあった。
右腕については、まだ同じことは言えなかった。深く斬られた右上腕は包帯と固定具に守られ、指は動いても戦うための力を込めることはできない。今朝も治療師から軽い確認を受けたが、結果は昨日と変わらず、傷そのものは塞がり始めている一方で、筋力がどこまで戻るかを判断するには早すぎた。だからこそレンは、自分で運ぶことのできた五粒の豆を見つめた。今できることを増やす。それしかなかった。
その日の朝食も、三人は中央食堂で取ることになった。昨日の食料騒ぎはすでに収まっており、東側の街道では天坑周辺の二次崩落によって大型荷馬車の通行に制限が続いているものの、別経路からの補給が届き始めたらしく、厨房の前に昨日のような不安げな人だかりはなかった。
回復用の椅子で食堂へ入ったレンたちが最初に見つけたのは、大鍋ではなく、その近くを歩いていた大柄な男だった。
「……ちゃんと使ってる」
アイリが小声で言う。
昨日、大鍋の前で患者たちを止めていたガリックが、今日は左手に杖を持っていた。左脚を庇いながらゆっくり歩いており、明らかに不満そうな顔ではあったが、それでも治療師に渡された杖を放り出すことはせず、一歩ごとにきちんと床へついている。
「何だ、その顔」
ガリックがこちらへ気づく。
「別に」
レンが答える。
「杖を使ってるのがそんなに珍しいか」
「昨日は使ってなかったから」
「昨日は昨日だ」
「治療師に怒られたんでしょう?」
アイリが尋ねると、ガリックは一瞬だけ黙った。
「……説得された」
「怒られたんですね」
エリリアが淡々と言う。
「説得だ」
「かなり強い説得だったのでしょうね」
「エルフの嬢ちゃん、昨日より遠慮なくなってないか?」
「気のせいです」
ガリックは何とも言えない顔をしたまま、杖を使って近くの卓へ向かった。
昨日と違い、今日は食事を守る必要もない。患者たちは一人分ずつ朝食を受け取り、厨房の治療助手も余裕を持って配膳している。レンたちも卓へ案内されると、柔らかい穀物とスープ、パンがそれぞれの前へ置かれた。
レンは左手で匙を取り、昨日ガリックに教えられた通り、親指の位置を少し下げ、外側の指で無理に締めず、手首を必要以上に固めないよう意識する。一口目は問題なく口まで届き、二口目もほとんど震えることなく食べることができた。
「今日は随分ましだな」
少し離れたところからガリックが言った。
「昨日教えられた通りにしてるだけだ」
「それができるなら十分だ」
「褒めてるのか?」
「事実を言ってる」
「分かりにくいな」
「褒められないと飯も食えないのか」
「誰がそんなこと言った」
アイリが小さく笑った。
ガリックは自分の皿を持つと、昨日と同じようにレンたちの卓近くへ腰を下ろした。今度は杖も手の届く場所へきちんと立て掛けている。
「昨日、名字はあとで話すって言ったよな」
レンが尋ねる。
「言ったな」
「今日があとだろ」
「そう急ぐな」
「名前を聞くだけで何を引っ張るんだよ」
「お前が朝飯を半分食ったら教える」
「また食う話か」
「昨日より自分で食えてるんだから文句言うな」
「名前と関係ないだろ」
「俺の中ではある」
レンが言い返そうとしたところで、エリリアが静かに口を挟んだ。
「レン。話を進めたいのでしたら、食べた方が早いと思います」
「エリリアまでそっちにつくのか」
「効率の問題です」
アイリまで頷いているのを見て、レンは諦め、しばらく黙って食事を続けた。
半分ほど食べたところで、ガリックはようやく満足したように腕を組む。
「ガリック・ヴェイン」
「……それだけのために半分食わせたのか」
「お前は治療中なんだから、食うのも仕事だろ」
「昨日の治療師と同じこと言ってるぞ」
「良い治療師なんだろうな」
レンは呆れたように息を吐いたが、その名はしっかりと覚えた。
「ガリック・ヴェイン」
「ああ」
「何してた人なんですか?」
アイリが尋ねる。
ガリックはパンをちぎりながら答えた。
「昔は王立街道警備隊にいた」
「王立街道警備隊?」
「王都と主要都市を繋ぐ街道の護衛だ。商隊、旅人、役人、囚人の移送、避難民の誘導。場所によって仕事は変わる。魔物が出れば追い払い、盗賊が出れば追い返す」
「昨日の動きは、それで?」
レンが尋ねる。
「何の話だ」
「鍋の前で人を止めてた時。誰かを倒すより、通さない動きだった」
ガリックは一度レンを見た。
「よく見てたな」
「暇だったから」
「俺と同じこと言うな」
「昨日そっちが言っただろ」
ガリックは鼻で短く笑った。
「街道じゃ、敵を全部追い回す必要なんてない。後ろに商人や怪我人や子供がいるなら、そいつらへ届かせない方が先だ。俺はそういう戦い方をしてた」
「武器は?」
「左手に大盾。右手に片手槌」
レンは昨日の立ち方を思い出した。身体の片側を壁のように置き、相手の進路をずらしながら、大鍋を背に一歩も場所を明け渡さなかった姿は、確かに盾を持っていた人間の動きとして考えれば納得できる。
「やっぱり盾か」
「分かってたのか?」
「予想はしてた」
「剣士にしては人の足ばっかり見てるな」
「足を見れば次にどこへ動くか分かる」
「悪くない」
ガリックはそう言ってから、レンの左手へ視線を落とした。
「ただ、お前が左で剣を使うなら、右のやり方をそのまま裏返すなよ」
レンの匙が止まる。
「どういう意味だ」
「右手で剣を使ってた時と、左手で使う時じゃ身体の条件が違う。利き足、踏み込み、腰の回し方、視界の取り方まで全部同じにはならない。それに今のお前は左前腕に怪我の影響が残ってる」
「右でできてた動きを、左でも同じように覚えればいいんじゃないのか?」
「そう思って形だけ真似すると、弱いところを別の場所で補おうとする」
ガリックはレンが持っている匙を指した。
「昨日、お前が肩まで上げてたのと同じだ。指が足りないから手首を固める。手首が固いから肘を上げる。肘が上がれば肩まで緊張する。剣で同じことをやれば、今度は身体ごと崩れるぞ」
レンは無意識に左手を見る。
「じゃあ、どうすればいい」
「左で使える形を一から作れ」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないって昨日も言っただろ」
ガリックは淡々と返した。
「右手の剣術を失ったと思って焦るな。覚えてるものは消えてない。距離の見方も、相手の癖を読む目も、足の運びも全部残ってる。使う手が変わるなら、その残ってるものへ新しい動きを合わせろ」
レンはすぐには答えなかった。右手で剣を握れなくなるかもしれないという恐怖は、まだ消えていない。それでも左手で覚え直すということは、これまで積み重ねたすべてが無意味になることではない。
「……盾使いに剣のこと教わるとは思わなかった」
「剣そのものは教えてない。怪我した奴が変な補い方して壊れるのを何度も見たって話だ」
「何人も?」
「街道警備隊に長くいればな」
そこまで話したところで、食堂の入口が少し騒がしくなった。二人の王都衛兵と、昨日レンたちの事情聴取を担当した東門守備隊の副隊長が入ってくる。その後ろには、細長い革包みを抱えた別の兵士が続いていた。
副隊長は食堂内を見回し、レンたちを見つけるとまっすぐこちらへ向かってくる。
「食事中に悪い」
「また何か見つかったんですか?」
アイリの表情が僅かに緊張する。
「ああ。ただし今回は救難信とは別件だ。天坑周辺の調査についてだ」
レンは匙を置いた。
「遺跡?」
「正確には、上部の森と崖道だ。崩落が続いているため遺跡そのものへはまだ入れない。だが、お前たちが戦ったと証言した場所と、その周辺に残っていた痕跡を可能な範囲で調べている」
副隊長が革包みを卓の上へ置くと、近くにいた治療師がすぐレンへ視線を向けた。
「見るだけです」
「まだ何も言っていません」
「顔がそう言ってました」
副隊長が包みを開く。中には折れた矢尻、短い鉄製の鏃、そして太い石弓用の矢――ボルトの先端部分など、複数の金属片が泥や錆を落とした状態で布の上へ分けて並べられていた。
「これを現場から?」
エリリアが尋ねる。
「ああ。崖道の上部、森林側、それから壊れた木段周辺で回収した。お前たちの証言にあった盗賊や弓兵が使ったものだと考えているが、断定はしていない」
レンは並べられた金属片を見つめた。あの階段を降り注いだ矢の雨が脳裏に蘇る。木材へ突き刺さる矢、石へ当たって火花を散らす鏃、自分とエリリアを狙って飛んできた太い石弓の矢。その一部が今は血も殺気も失い、静かに布の上へ置かれていた。
「問題があるんですか?」
アイリが聞く。
「王都の鍛冶師へ見せる予定だ。だが、その前に――」
副隊長の視線がガリックへ向いた。
「そこの男。ガリック・ヴェインだな?」
ガリックの表情が変わった。先ほどまで食事や訓練の話をしていた時とは違う、硬いものが目に宿る。
「だったら?」
「元王立街道警備隊。武具の識別にも多少詳しいと記録にある」
「……俺の記録まで調べたのか」
「ここは王都だ。怪我人として運び込まれた人間の身元くらい確認する」
「嫌な街だな」
「昔からだ」
副隊長は気にした様子もなく、革包みを僅かにガリック側へ向けた。
「分かることがあれば聞きたい」
ガリックはすぐには金属片へ触れず、先に手袋を要求した。同行していた兵士から薄い革手袋を受け取り、それを着けてから一本の石弓用ボルトを手に取る。先端から軸との接合部へ視線を移し、金属の厚みや加工の揃い方まで確かめていくうちに、彼の表情から僅かに軽さが消えていった。
「普通の盗賊が自分で作った物じゃない」
レンが身を僅かに前へ傾ける。
「どうして分かる?」
「形が揃いすぎてる」
ガリックは別の矢尻を取った。
「こっちもだ。大きさも厚みも、軸へ差し込む部分もほぼ同じ。町の鍛冶屋が一本ずつ作ったなら多少は癖が出る。これは数をまとめて同じ規格で作る前提の品だ」
「軍用品?」
エリリアが尋ねる。
「軍用に近い」
ガリックは言葉を選んだ。
「王国軍や王立警備隊が使う物と構造は似てる。ただ、これだけで軍の物だとは言えない。盗品かもしれないし、横流しされた可能性もある。似せて作っただけかもしれん」
副隊長が頷く。
「同じ判断だ」
「じゃあ、何が気になるんだ?」
ガリックが聞く。
副隊長は一本の矢尻を指した。
「そこだ」
ガリックが金属片を光へ向けると、根元近くに不自然に削られた部分が見えた。
「……印を消してるな」
レンが眉を寄せる。
「印?」
「工房か保管庫の識別印だ。武具を大量に管理する所じゃ、どこで作ったか、どこへ納めたかを追えるよう小さな印を入れることがある。これはそこだけ削ってある」
「偶然削れた可能性は?」
アイリが尋ねる。
「ないとは言えない。だが、こっちも同じ位置だ」
ガリックが続けて確認すると、布の上に並んだ三本の金属片すべてで根元付近だけが不自然に削られていた。自然な摩耗とは違い、意図的に表面を削り落としたような跡が残っている。
副隊長が低い声で言った。
「現場で回収したうち、確認できるものには複数同じ処理があった」
「だったら誰かが出所を隠したかった」
レンが言う。
「その可能性は高い」
「軍が盗賊に武器を渡したってこと?」
アイリの声が僅かに強張る。
「そこまで飛ぶな」
ガリックがすぐに止めた。
「王国軍が関わったとはまだ言えない。軍用品が盗まれることもある。倉庫の管理人が金で売ることだってある。商人を何人か挟めば、どこから流れたか分からなくなる」
「でも、印を消してる」
「ああ」
「普通の盗賊がわざわざそこまで?」
「だから厄介なんだ」
ガリックは矢尻を布の上へ戻した。その手がほんの僅かに止まったのを、レンは見逃さなかった。
「知ってるのか?」
「何を」
「同じ物」
ガリックは答えない。
「さっきから顔が変わった」
「お前、本当に人の顔まで見すぎだ」
「何か見たことあるんだろ」
数秒の沈黙が落ち、食堂のざわめきが遠く感じられた。やがてガリックは椅子の背へ寄りかかり、低く息を吐いた。
「昔、似た物を見た」
「どこで?」
副隊長が尋ねる。
「街道警備隊にいた頃だ」
彼の声から、普段の粗さが少し消えた。
「避難民を護送していた一団が襲われた。盗賊の仕業ってことになったが、回収された矢の中に同じような規格品が混じってた。識別印も削られてた」
アイリが息を呑む。
「その時も?」
「ああ」
「調べなかったんですか」
エリリアが尋ねる。
「調べた奴はいた」
「結果は?」
ガリックは口元を僅かに歪めた。
「武器庫から盗まれた物だって報告された」
「なら盗品だったのでは?」
「盗難届の日付が、襲撃のあとだった」
誰もすぐには言葉を返せなかった。最初にその意味を理解したレンの表情が険しくなる。
「襲われたあとで、盗まれたことになった?」
「記録上はな」
「それ、おかしいだろ」
「ああ」
「じゃあ本当は――」
「そこから先は、今ここで話すことじゃない」
ガリックの声は強くなかった。それでも、それ以上踏み込ませない意思だけははっきりしていた。
レンは口を閉じた。ガリックが王立街道警備隊を辞めたこと。命令に従わなかったこと。避難民。削られた印。そして、襲撃のあとに記録された盗難届。繋げようと思えばいくらでも繋げられるが、今はまだ知らない部分が多すぎる。
副隊長も無理に追及しなかった。
「ヴェイン。確認だけさせてくれ。今回の物と、当時見た物が同一の工房製だと断言できるか?」
「できない」
ガリックは即答した。
「似てる。それだけだ。何年も前の話だし、現物も手元にない。規格品なら似るのは当然だ」
「分かった。それで十分だ」
「十分じゃないだろ」
「断言できないと分かったことも情報だ」
副隊長は革包みを閉じ始めた。
「このあと王都の鍛冶組合と軍備管理局にも照会する。ただし、その間この件を食堂で言い広めるな。証拠がないうちに『王国軍が盗賊へ武器を渡している』などという噂が出れば、調査そのものが潰れる」
「分かりました」
エリリアが答え、アイリも頷いた。レンも返事をしたが、表情は硬いままだった。
副隊長たちが立ち去ったあと、三人の皿にはまだ朝食が少し残っていた。それでも、すぐに匙を取る者はいなかった。
「……ここ、王都なんだよね」
アイリが小さく言った。
「ああ」
「もし本当に、ああいう武器が王都の中から出てるなら……ここって安全なの?」
レンは答えられなかった。
白環治療院の外には王都衛兵がいて、そのさらに外には厚い城壁がある。ここは王国の中心だ。それでもアイリを生け捕りにしようとした者たちは普通の盗賊ではなかった。背後にいる存在が王国の内部へ手を伸ばしているのなら、城壁の内側にいるというだけで安全だとは言えない。
「完全に安全な場所なんてない」
ガリックが言った。
アイリが彼を見る。
「でも、それは『ずっと怯えていろ』って意味じゃない。危険があるなら見張る奴が見張る。調べる奴が調べる。怪我人は治す。腹が減ったら食う。全部自分でやろうとすれば、最初に潰れる」
レンの眉が僅かに動く。
「俺に言ってる?」
「半分くらいな」
「残り半分は?」
「俺だ」
ガリックは自分の左脚を杖で軽く示した。
「昨日、治療師に同じようなこと言われた」
アイリが小さく笑う。
「二人とも似てるね」
「似てない」
「似てませんね」
レンとガリックの返事がほぼ同時に重なり、エリリアが静かに息を吐いた。
「その反応まで同じなのですが」
少しだけ張り詰めていた空気が緩んだ。
レンは左手で匙を取り直し、親指の位置を整える。手首を固めすぎず、肩へ無駄な力を入れないよう意識しながら一口を掬い、ゆっくり口まで運んだ。
「食えるようになってきたな」
ガリックが言う。
「今度は褒めてる?」
「事実だ」
「やっぱり分かりにくい」
「そのうち慣れろ」
レンは小さく笑い、もう一口を運んだ。
食事が終わると、ガリックは治療師に呼ばれ、杖を使いながらゆっくり食堂を出ていった。去り際、レンへ一度だけ振り返る。
「左で剣を覚えるなら、右の真似をするな」
「分かってる」
「分かってる奴ほどやる」
「……覚えとく」
ガリックはそれ以上言わずに歩いていった。
レンは自分の左手へ目を落とした。昨日より匙は扱える。右手の剣術をそのまま左へ移すのではなく、左で戦うための新しい形を一から作っていく。その考えはまだ遠く、実感も薄い。それでも、何も見えなかった昨日までより、一つだけ進むべき道が増えた気がした。
同時に、別の道の先ではさらに深い闇が口を開けている。天坑周辺から回収された矢尻は、普通の盗賊には不釣り合いな統一規格で作られ、軍用品に似た構造を持ちながら、その出所を示すはずの識別印だけが意図的に削り取られていた。誰が使ったのかも、誰が渡したのかも、まだ分からない。
それでも、印そのものを消すことはできても、誰かがそこから出所を隠そうとしたという事実までは消せなかった。
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