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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第二章 王都の闇
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第二章 第九話 大鍋を守る男

翌朝、白環治療院の回復室では、朝食より先にレンの左手の訓練が始まっていた。昨日まで使っていた木の匙と浅い器に加え、今日は小さな乾燥豆が十粒、別の皿に並べられている。治療師によれば、粥を掬って口まで運ぶ動作よりも、豆を一粒ずつ匙へ乗せて隣の器へ移す方が指先と手首の細かな調整を必要とするらしい。右上腕を深く傷つけたレンは依然として右腕を固定されており、左前腕には狼に噛まれた傷の名残がある。傷口そのものは回復へ向かっているものの、薬指と小指を中心とした痺れと握力の弱さは残っていた。だからこそ治療師は、剣を持つ以前に、まず日常動作を左手で安定して行えるところまで戻す必要があると繰り返している。


「十粒全部を移す必要はありません。手首が疲れたり、指の痺れが強くなったら、その時点で終わりです」


「昨日も聞きました」


「昨日は匙を口まで運ぶ練習でした。今日は別です」


「内容が変わるたびに同じ説明するんですか」


「あなたが内容が変わるたびに無茶をしそうなので」


 返す言葉がなく、レンは黙って匙へ視線を落とした。


 右隣の寝台では、アイリが包帯の巻かれた手を膝の上に置きながら見守っている。手首の痛みは少しずつ弱くなっているものの、両手を強く握る動作にはまだ制限があり、右肩も完全には戻っていない。左側のエリリアは背を起こし、淡紫の瞳でレンの訓練を静かに観察していた。彼女も昨日より顔色は良いが、限界を越えて使った風の魔力と身体の消耗はまだ完全には抜けていない。大きな外傷がないからといって、すぐ元通りに動けるわけではなかった。


「始めます」


 レンは左手で匙を握った。


 最初の一粒は、匙へ乗せるところまでは上手くいった。だが器へ運ぶ途中で手首が僅かに傾き、豆は小卓の上へ転がる。


「一個目から落とした」


 アイリが言う。


「見れば分かる」


「報告してあげただけ」


「いらない」


「集中してください」


 エリリアの穏やかな声が割って入り、レンは小さく息を吐いた。


 二粒目は無事に隣の器へ入った。


 三粒目も成功した。


 四粒目を掬ったところで、薬指と小指の感覚が僅かに遠くなり、レンは無意識に親指と人差し指へ力を集中させた。匙の柄を握り込んだせいで手首まで硬くなり、豆はまた皿へ落ちる。


「今、握りすぎましたね」


 治療師が言う。


「分かってます」


「分かっていて直せないから訓練しているんです」


「……はい」


 レンは匙を置き、左手を一度開いた。


「どうですか」


「少し痺れが強くなった」


「なら今日はここまでです」


「まだ四粒しか――」


 言いかけて、レンは口を閉じた。


 昨日の夜、決められた回数だけ指を動かし、そこで止めたことを思い出した。無理をすれば早く剣へ近づけるわけではない。それどころか遠ざかる。その説明を何度も聞いて、ようやく自分でも理解し始めている。


「……分かりました」


 素直に匙を置くと、アイリが目を丸くした。


「本当に止めた」


「何で驚くんだよ」


「お兄ちゃんだから」


「理由になってないだろ」


「十分な理由だと思います」


 エリリアまで頷き、レンは不満そうに二人を見た。


 治療師はそんな三人を見ながら、わずかに笑った。


「ちょうどいいですね。今日は朝食を回復室ではなく、食堂で取ってもらいます」


「食堂?」


 アイリの表情が少し明るくなる。


「部屋から出てもいいんですか?」


「歩いて、とは言っていません。三人とも回復用の椅子で移動します。状態を見ながら短時間だけです」


 レンも思わず窓の外へ目を向けた。治療院へ運び込まれてから、診察や処置を除けばほとんどこの部屋の中だけで過ごしてきた。王都にいるという実感さえ、窓越しの景色と廊下から聞こえてくる音だけでしか得られていない。


「外には出ないでくださいね」


「分かってます」


「本当に?」


「何で全員同じ反応するんですか」


「実績です」


 治療師の答えに、今度はエリリアまで小さく笑った。


 しばらくして三人は、それぞれ背もたれの付いた回復用の椅子へ移された。レンは右腕を固定したまま、左手は膝の上に置く。アイリは右肩へ負担が掛からないよう身体の角度を調整され、エリリアも長く座っていられるよう背を深く預けていた。治療師と助手に押されて廊下を進むと、閉ざされた回復室の中では感じられなかった治療院の広さが初めて分かる。白い石壁の間を治療師たちが忙しく行き交い、各部屋からは咳や話し声、食器の触れ合う音が聞こえてくる。兵士、商人、旅人、老人、子供。負傷の理由も身分も違う人々が同じ建物の中で治療を受けていた。


 曲がり角を一つ越えたところで、レンは無意識に廊下の先と左右の扉を確認した。


「出口を探していますか?」


 エリリアが尋ねる。


「癖だよ」


「逃げるための?」


「何かあった時のため」


「何も起きない方を期待してください」


「期待はしてる」


「でも確認はするんだね」


 アイリが呆れた声を出す。


「確認するだけなら怪我は悪化しないだろ」


「そういう問題でしょうか」


 エリリアの問いには答えないまま、レンは視線を前へ戻した。


 食堂は治療院の中央棟一階にあり、回復中でも移動を許可された患者や付き添いの者たちが使う広い部屋だった。長い木卓が何列も並び、奥の厨房からは煮込み料理と焼いたパンの匂いが漂っている。普段なら穏やかな朝食の時間なのだろう。しかし今日は、入口へ近づく前から異様なざわめきが聞こえていた。


「何かあったんですか?」


 アイリが治療師へ尋ねる。


「朝の食材の一部が予定通り届かなかったらしいです」


「不足してるの?」


「今日すぐ食事がなくなるような状況ではありません」


 治療師はそう答えたものの、食堂の中に広がっている空気は、その説明とは一致していなかった。


 東側の街道では、天坑周辺の崩落によって地盤が不安定になった場所があり、夜のうちにさらに小規模な二次崩落が起きたという。王都へ向かうすべての道が完全に閉ざされたわけではないものの、大型の荷馬車が通れる区間が制限され、朝到着予定だった食料輸送の一部が迂回を余儀なくされた。それだけなら一時的な遅延に過ぎない。昼以降には別経路から補給が入る予定もある。


 だが、「食料が来ない」という部分だけが患者たちの間を先に駆け巡った。


「パン、もう一つ取っておいた方がいいんじゃないか」


「昼の分がなくなるかもしれないぞ」


「子供の分だけでも確保しろ」


「厨房は何してるんだ」


 不安が不安を呼び、食事を受け取る列が普段以上に詰まり始めている。誰か一人が余分にパンを取ると、その後ろの者も同じように手を伸ばす。厨房の治療助手が「十分にあります」と繰り返しても、一度広がった恐怖は簡単には止まらなかった。


 レンは椅子を押されながら、食堂の奥へ視線を向けた。


 大きな煮込み鍋の前に、一人の男が立っていた。


 最初に目についたのは、その身体の大きさだった。背が高いだけではない。肩幅が広く、治療院の簡素な患者服を着ていても、厚い胸板と腕の太さが隠れない。年齢は三十代半ばほどだろうか。短く切った暗い茶髪と無精髭の残る顎。左脚には厚い固定具が巻かれ、脇には本来使うよう指示されているらしい杖が壁へ立て掛けられている。


 だが本人は、その杖を使っていなかった。


「あなた、脚を治療中でしょう!」


 厨房の治療師が叫んでいる。


「知ってる」


「だったら座ってください!」


「あとでな」


「あとでじゃありません!」


 男は怒鳴り返すこともなく、大鍋と患者たちの間に立ったまま動かなかった。


 一人の男が彼の横から手を伸ばし、配膳前のパンを二つ取ろうとする。


 大柄な男はその腕を掴まなかった。


 ただ身体を半歩ずらした。


 それだけで進路が塞がれる。


「一人一つだ」


「何だよ、お前」


「患者だ」


「だったらどけよ」


「一人一つならどく」


「食料が来ないんだぞ!」


「遅れてるだけだ」


「昼にはなくなるかもしれないだろ!」


「だから今、一人で二人分食うのか?」


 男の声は低かったが、大声ではなかった。


「お前が今二つ持っていけば、後ろの誰かが一つも食えなくなる。だったら一つにしろ」


「知るかよ」


 相手が強引に前へ出ようとした瞬間、大柄な男の足が僅かに動いた。


 レンの目が細くなる。


 殴らない。


 押さえつけない。


 相手の進行方向へ腰を入れ、肩をぶつけることなく重心だけを外側へ逸らした。


 男は自分から踏み外したように一歩よろめいた。


「……今の」


 レンが呟く。


「どうしました?」


 エリリアが聞く。


「力で押してない」


 大柄な男は怪我をしている左脚へ極力負担を掛けず、右脚を軸に相手の進路だけを切っていた。しかも大鍋を背にしているように見えて、実際には厨房の出入口、食事待ちの列、子供たちが座っている卓まで同時に視界へ入る位置を選んでいる。


「喧嘩慣れしてるとか?」


 アイリが小声で尋ねる。


「それだけじゃないと思う」


 レンは答えた。


 相手を倒そうとする動きではない。


 前へ進ませないための動きだった。


 もう一人、苛立った患者が近づく。


「そこをどけ。俺は昨日からまともに食ってない」


「俺もだ」


 大柄な男は答えた。


「だったら分かるだろ!」


「ああ。腹が減ってる時に飯を取られるのがどれだけきついか知ってる。だから後ろの奴から取るな」


 男は顎で食堂の隅を示した。


 そこには片腕を吊った老人と、小さな子供を連れた母親、立って列へ並ぶことのできない患者たちがいた。


「自分で取りに来られない奴の分を先に残せ。それでも余ったら二つ食え」


「お前が決めることじゃない」


「そうだな」


 大柄な男はあっさり認めた。


「だから厨房の奴らが一人一つって言ってる。それに従え」


 一瞬、相手が言葉を失った。


 厨房側でも治療師たちがようやく状況を立て直し始めた。


「昼の補給は別経路で到着予定です! 現在の食料でも朝食分は全員に行き渡ります! 余分に取った方は戻してください!」


 具体的な説明が広がり、少しずつ人々の緊張が下がっていく。


 大柄な男はその間も鍋の前を離れなかった。


 列が整い始めると、今度は自分から横へ退き、子供や高齢者が先に食事を受け取れるよう通路を空ける。片脚を傷めているせいで歩き方には明らかな不自然さがある。それでも顔には痛みを出さず、厨房を手伝う治療助手へ、食事を運べない患者のいる卓をいくつか指で示した。


「向こうの婆さん、手が使えない。皿を置くだけじゃ食えないぞ」


「分かりました」


「あの子は熱いの駄目そうだ。少し冷ましてやれ」


「あなたは治療師ですか?」


「違う」


「だったら自分の治療もしてください」


「あとでな」


「またそれですか!」


 男は聞こえないふりをしていた。


「面白い人」


 アイリが小さく笑う。


「面倒な人の間違いじゃないか」


 レンが言う。


「お兄ちゃんと同じ?」


「どこが」


「治療師の言うこと聞かないところ」


「俺は最近聞いてる」


「最近、を自分で言うんですね」


 エリリアの一言に、レンは黙った。


 やがて三人も食堂の端にある卓へ案内された。椅子ごと入れるよう場所を空けてもらい、それぞれの前へ朝食が運ばれてくる。レンには柔らかい穀物と薄いスープ、パン。アイリには同じものに加えて煮た野菜。エリリアには胃への負担が少ない薄味の料理が用意された。


 アイリの視線が、少し離れた卓へ運ばれていく濃い赤茶色の煮込み料理で止まった。


 ほんの一瞬だった。


 それでもレンには分かった。


 彼女の指先が包帯の上から僅かに強張る。


「アイリ」


「……大丈夫」


 アイリはすぐ自分の皿へ視線を戻した。


「ただ、ちょっと色が……」


 最後まで言わなかった。


 血。


 ヴァレク。


 あの時の光景を思い出したのだろう。


 レンが何か言う前に、先ほど大鍋の前に立っていた大柄な男が、自分の食事を持って近くの卓へ腰を下ろした。どうやらようやく治療師に捕まって座らされたらしい。彼の皿にも濃い色の煮込みが入っている。


 男は一度アイリを見た。


 次に彼女の視線の先を見た。


 何も尋ねなかった。


 ただ、自分の皿を卓の反対側へ移した。


 アイリからは見えにくい位置へ。


 レンはその動きを見逃さなかった。


「何だ」


 大柄な男がこちらを見る。


「別に」


「なら見るな」


「そっちが近くに座ったんだろ」


「空いてたからな」


「他にも席あるだろ」


「脚が痛い」


「さっき普通に立ってたじゃないか」


「立てることと歩きたいことは別だ」


 あまりにも当然のように返され、レンは一瞬言葉に詰まった。


 男はパンを一口食べると、今度はレンの左手へ視線を落とした。


「何してる」


「食べようとしてる」


「それは見れば分かる」


 レンは左手で匙を握っていた。朝の豆移しで疲労が出たため、治療師からは食事では無理をしないよう言われている。それでも自分でできる範囲まではやってよいと許可されていた。


 匙をスープへ入れる。


 掬う。


 持ち上げる。


 だが薬指と小指の力が弱いため、柄がわずかにずれた。それを補おうとして親指と人差し指へ力を入れる。


「握りすぎだ」


 大柄な男が言った。


「……何?」


「匙だよ。そんなに締めたら手首まで固まる」


「分かってる」


「分かってない持ち方してるぞ」


 レンの眉が寄る。


「放っといてくれ」


「構わんけど、そのままなら食い終わる前に手が疲れるぞ」


「あなた、随分詳しいですね」


 エリリアが男を見る。


「似たようなのを何人も見た」


「怪我人を?」


「片手が使えなくなった奴をな」


 男は自分の匙を置き、レンの手元を指した。


「小指側で無理に支えようとするな。力が入らないなら、今は入る指で形を安定させろ。ただし握り込むな。親指を少し下げろ」


「こう?」


「下げすぎ」


「注文多いな」


「聞いたのはお前だろ」


「聞いてない」


「でも直してるじゃないですか」


 アイリが笑う。


「うるさい」


 レンは言われた通り親指の位置を少し戻した。


「手首も固めすぎだ」


「動かしたら零れる」


「固めても零れてただろ」


「……」


「肩まで上げるな。左手だけで何とかしようとして、身体ごと緊張してる」


 レンはそこで初めて、自分の左肩が無意識に持ち上がっていることに気づいた。


 肩を下げる。


 肘を身体の近くへ置き、匙を浅く持つ。


 スープを少量だけ掬った。


 ゆっくり持ち上げる。


 今度は柄がほとんどずれなかった。


 口まで届く。


「……できた」


 アイリが嬉しそうに言う。


「一口だ」


「昨日も同じこと言ってましたね」


 エリリアの声に僅かな笑いが混じる。


 レンは匙を見ながら、男へ視線だけを向けた。


「何でそんなこと知ってるんだ」


「昔、飯を食うのに苦労してる奴を何人も見たからだ」


「治療師じゃないんだろ」


「ああ」


「兵士?」


 レンが尋ねると、男の目がほんの僅かに細くなった。


「何でそう思う」


「立ち方」


「立ち方?」


「さっき鍋の前にいた時。人を殴らずに進路だけ塞いでた。しかもずっと鍋を守る位置から動かなかった」


 男は黙った。


「誰かを倒す動きじゃない。前へ出さない動きだった。たぶん、何か重い物を持って前線を支える戦い方に慣れてる」


「盾でしょうか」


 エリリアが静かに加える。


「私もそう見えました。身体の正面を使うより、片側を壁のように置く癖があります」


 大柄な男は二人を見比べたあと、鼻から短く息を吐いた。


「患者のくせに人をよく見てるな」


「そっちもだろ」


「俺は暇だからな」


「俺たちだって暇だ」


「なら食え」


「急に命令するな」


「冷めるぞ」


 男はそれだけ言って自分の食事へ戻った。


 今度はレンも反論せず、教えられた持ち方を意識しながら匙を動かした。


 二口目。


 三口目。


 途中で一度だけスープを零したが、昨日より明らかに楽だった。


「外側の指に力が戻ってくれば、もっと安定する」


 男が自分の皿を見たまま言う。


「戻らなかったら?」


「別の持ち方を覚えろ」


 即答だった。


 レンの手が止まる。


「簡単に言うな」


「簡単じゃない」


 男はパンをちぎった。


「だから覚えるんだろ」


 レンはしばらくその横顔を見た。


 乱暴に見える。


 言葉も丁寧ではない。


 治療師の指示を無視して怪我をした脚で立ち、大鍋の前に陣取っていた。


 それでも、誰より先に食事を取ろうとはしなかった。


 厨房の混乱が収まり、子供も老人も、自分で列に並べない患者たちまで食事を受け取ってから、ようやく自分の皿を持った。それも、アイリが料理の色を嫌がったことに気づけば何も聞かず隠し、レンの左手の使い方に気づけば余計な同情を挟まず直し方だけを言う。


「名前は?」


 レンが尋ねた。


 男は食事を続けたまま答えない。


「聞いてるんだけど」


「聞こえてる」


「じゃあ答えろよ」


「人に名前を聞くなら、自分から名乗るもんじゃないのか」


 言われて、レンは僅かに眉を寄せた。


「レンだ」


「アイリです」


「エリリアです」


 三人が順番に名乗る。


 男はようやく顔を上げた。


「ガリックだ」


「それだけ?」


 アイリが尋ねる。


「名前を聞かれたから名前を答えた」


「名字は?」


「今はいい」


「何で?」


「長くなる」


「名字で何が長くなるんだよ」


「話がだ」


 レンが訝しげに見ると、ガリックはそれ以上説明する気がないらしく、残っていたパンを口へ入れた。


「そのうち話す」


「怪しいな」


「患者同士でそこまで信用されても困る」


「鍋守ってた奴が言う台詞か?」


「飯と信用は別だ」


 アイリが吹き出し、エリリアも僅かに口元を緩めた。


 食堂の騒ぎはすでにほとんど収まっていた。


 朝の補給が遅れているという噂に怯えていた人々も、厨房から昼以降の見通しを説明され、必要以上に食料を確保しようとする者はいなくなった。余分に取られかけていたパンは元へ戻され、歩けない患者には治療助手が食事を運んでいる。


 大鍋の底が見え始めた頃、一人の厨房係が中を確認し、大きく息を吐いた。


「これで最後です」


 最後の一杯が、小さな子供を連れた女性の器へ注がれた。


 鍋は空になった。


 だが、食べられなかった者はいなかった。


 ガリックはそれを確認すると、ようやく椅子の背へ深く身体を預けた。


「満足か?」


 レンが尋ねる。


「何が」


「鍋」


「別に」


「ずっと見てただろ」


「空になっただけだ」


「全員食べたあとにな」


 ガリックは一瞬レンを見た。


「そうじゃない空っぽの鍋は、嫌いなんだよ」


 低い声だった。


 それ以上は何も説明しなかった。


 レンも聞かなかった。


 ただ、その言葉だけは妙に耳に残った。


 やがて治療師が現れ、ガリックの左脚を見た瞬間に表情を変えた。


「あなた、また杖を使わずに歩きましたね」


「短い距離だ」


「鍋の前で立ち続けていたとも聞きました」


「必要だった」


「必要かどうかを判断するのはあなたではありません」


「さっき似たような話を聞いたな」


 ガリックがちらりとレンを見る。


「こっち見るなよ」


「仲間がいたと思ってな」


「俺は今日は言うこと聞いてる」


「最近は、だろ?」


 アイリが笑い声を上げた。


「何でそれ知ってるんだよ」


「さっき聞こえた」


「最悪だ……」


 治療師たちに半ば強制的に杖を持たされたガリックが食堂を出ていく。


 その大きな背中を見送りながら、エリリアが静かに言った。


「変わった方ですね」


「うん。でも悪い人じゃなさそう」


 アイリが答える。


「まだ分からないだろ」


 レンはそう言いながら、左手の匙へ目を落とした。


 さっきまでより、少しだけ握りやすく感じる。


「でも、お兄ちゃん、教えてもらったことはちゃんと使うんだね」


「使えるものは使う」


「素直じゃないですね」


「エリリアまで言うな」


 三人の前の皿も、やがてきれいに空になった。


 そして食堂の奥では、大鍋もまた空のままだった。


 誰かが多く奪ったからではない。


 最後の一人まで、きちんと食べ終えたからだった。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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