第二章 第八話 剣を握れない右手
朝の診察が始まる頃には、王都の空を覆っていた薄雲も切れ始めていた。窓から差し込む光は昨日より明るく、白環治療院の回復室に並ぶ三つの寝台と、その間に置かれた薬瓶や水差しの輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。レンは背を起こした姿勢で、右腕を胸元に固定されたまま治療師の診察を受けていた。深く斬られた右上腕の包帯が慎重に解かれ、傷口の状態、腫れ、熱、指先までの血流が一つずつ確認されていく。その間、レンは何度も右手へ視線を落とした。昨日までと同じように五本の指は動く。親指も、人差し指も、中指も、薬指も、小指も、自分の意思に従ってゆっくり曲がった。指先へ触れられれば感覚もある。そこだけを見れば、右手そのものに異常があるようには思えなかった。
「もう一度、握ってください。ただし力は入れすぎないように」
治療師に言われ、レンは右手をゆっくり閉じた。指先が掌へ触れ、拳の形になる。そこまでは問題ない。
「もう少しだけ」
レンが僅かに力を強めた瞬間、右上腕の奥で鋭い痛みが弾けた。
「っ……」
反射的に指が緩む。
「そこまでです」
「まだ――」
「そこまでです」
有無を言わせない声だった。
治療師は傷口を確認し直し、包帯を巻き戻していく。レンは口を閉ざしたまま、自分の右手を見つめていた。
「指が動くこと自体は良い兆候です。感覚も保たれている。ですが、剣を握る時に必要なのは指を曲げる動作だけではありません。前腕、肘、上腕、肩まで連動して力を支えます。今のあなたが強く握ろうとすれば、その負荷が傷ついた右上腕へ集中する」
「傷が塞がれば戻るんですよね」
レンはすぐに尋ねた。
治療師は包帯を結び終えてから、少しだけ間を置いた。
「戻る可能性はあります」
「可能性?」
「今はそれ以上のことは言えません」
レンの眉が寄る。
「傷そのものは順調に治っています。ただ、深く切られた筋肉が以前と同じ力を取り戻すか、剣を振り続けられるだけの耐久力まで回復するかは、もっと時間を置かなければ判断できません。少なくとも、現時点で剣を握って試すことは許可できません」
「握るだけでも?」
「戦うための力を込めて握るなら駄目です」
その返答に、レンは視線を逸らした。
右手は動く。感覚もある。なのに剣は握れない。その事実は、完全に動かないと言われるよりも妙に現実味を伴って胸へ沈んだ。目の前にあるものへ手を伸ばすことはできる。それでも、これまで当然のようにしてきた動作だけが、その先に続かない。
右隣の寝台では、アイリが治療師に手首の包帯を巻き直してもらいながら、黙って兄の様子を見ていた。両手の傷は少しずつ塞がっているものの、握る動作を繰り返すにはまだ痛みが残り、右肩も完全には上げられない。左側ではエリリアも診察を終えたところだった。彼女には目立った大きな傷こそ残っていないが、限界まで消耗した身体と風の魔力はまだ回復の途中にあり、長く立つことも魔力を使うことも禁じられている。
「お兄ちゃん」
アイリが小さく呼ぶ。
「何だ」
「指、ちゃんと動いてるよ」
「分かってる」
「それって、悪いことじゃないでしょう?」
レンは答えなかった。
アイリは少しだけ眉を下げたが、それ以上無理に言葉を続けなかった。
診察が終わり、治療師が器具を片づけ始めた頃、レンは以前から考えていたことを口にした。
「俺の剣、ここにありますか」
治療師の手が止まる。
「黒銀の剣ですか」
「ああ」
「保管しています」
「見せてもらえませんか」
「何のために?」
「見るだけです」
治療師の目が細くなる。
「昨日、匙を使う練習は治療師の許可を取ると約束しましたよね」
「だから今回は先に聞いてます」
「少しは学びましたね」
「少しって……」
「見るだけなら構いません。ただし、右腕で持ち上げない。左手でも重量を支えない。それが条件です」
「分かりました」
「本当に?」
「本当にです」
横からアイリが疑わしそうな顔を向けてきたが、レンは無視した。
しばらくして、一人の衛兵が細長い木箱を運んできた。王都へ到着した際、三人の装備は治療の妨げにならないようすべて回収され、守備隊と治療院の双方で確認を受けたのち保管されている。衛兵は箱を小卓へ置くと、治療師の許可を得て蓋を開いた。
中には、黒と銀の刃を持つ剣が横たわっていた。
レンの呼吸が僅かに止まる。
何度見ても、他の武器とは違う剣だった。光を受けても完全には輝かない黒銀の刀身。柄には長く握り続けた痕が残り、革の一部は血や泥を拭き取った後でも僅かに色が変わっている。それは母エレナから受け継いだものだった。そして同時に、あの遺跡で流れた血と、自分が守り切れなかったものを嫌でも思い出させる剣でもある。
アイリの表情も変わった。
彼女の視線が刀身へ落ちたまま止まる。
「アイリ?」
「……大丈夫」
返事は早かったが、声は少し硬い。
レンはすぐに察した。
ヴァレク。
アイリが自分の手で命を奪った男。その時に握っていたものも、この剣だった。
「見たくないなら閉じてもらうぞ」
「違う」
アイリは小さく首を横へ振った。
「見たくないんじゃない。見ても平気にならないと駄目だと思うから」
「無理に平気になる必要はない」
「お兄ちゃんもね」
逆に返され、レンは言葉を失った。
エリリアが二人を見ながら、静かに口を開く。
「忘れる必要はありません。ただ、見るたびに同じ場所へ戻される必要もないと思います」
アイリはしばらく剣を見つめたあと、小さく頷いた。
レンも木箱へ視線を戻した。
「触っても?」
「右手で軽く触れるだけです」
治療師が念を押す。
「持ち上げません」
レンは右腕そのものを動かさず、木箱を寝台の近くへ寄せてもらった。肘や上腕に負担がかからない位置で、右手だけをゆっくり伸ばす。
指先が柄へ触れた。
革の感触を覚えていた。
何度握ったか分からない形。指をどこへ置けばいいか考える必要さえなく、身体が勝手に位置を選ぼうとする。親指、人差し指、中指、薬指、小指が自然に柄を包む。
それだけなら、できた。
レンの胸に僅かな安堵が生まれた直後、無意識に握力を強めようとした。
「駄目です」
治療師の声が飛ぶ。
だが止められるより一瞬早く、右上腕の奥から鋭い痛みが走った。
「っ……!」
レンはすぐ指を緩めた。
剣は木箱から一寸も動いていない。
ただ握ろうとしただけだった。
それでも右腕は明確に拒絶した。
「だから言ったでしょう」
治療師は怒るより先にレンの右手を柄から離し、傷口に異常がないか確認した。
「すみません」
レンが素直に謝ると、治療師は少し驚いた顔をした。
「……今日はそれだけでも進歩ですね」
「何ですか、その反応」
「昨日までなら『これくらい大丈夫です』と言っていたでしょう」
「言いそう」
アイリが即答する。
「私もそう思います」
エリリアまで加わり、レンは小さく息を吐いた。
それでも、痛みとは別の重さが胸に残っていた。
「左なら……」
レンが呟く。
治療師がすぐに顔を上げる。
「持ち上げません」
「先に言われましたね」
「学んでるので」
レンは今度は左手を木箱へ伸ばした。狼に噛まれた左前腕の傷はすでに危険な状態を脱している。親指、人差し指、中指は比較的素直に動くが、薬指と小指にはまだ薄い痺れが残り、細かな力の調整が難しい。
剣の重量は衛兵が支えたまま、レンは左手を柄へ添えた。
その瞬間、右手とはまったく違う違和感があった。
「……変だな」
「何が?」
アイリが尋ねる。
「持つ場所は分かってる。でも、合ってない感じがする」
柄そのものは同じだ。それなのに、親指の位置も手首の角度も、指へ伝わる圧力も、右手で握った時とは別物だった。薬指と小指に十分な力が入らないため、柄の下側が安定しない。少し締めようとすると今度は人差し指と中指へ余計な力が入り、手首まで硬くなる。
「右手なら考えなくても握れるのに」
「長年使ってきた側ですから当然です」
エリリアが答える。
「反対の手だからといって、同じ動作を左右反転させれば済むわけではありません。身体全体の使い方から変わるはずです」
「……面倒だな」
「今さら気づいたんですか」
「エリリア、最近少し厳しくないか?」
「必要だからです」
口調は穏やかなままだった。
レンはもう一度左手の形を確認し、今度は無理に力を込めず柄から離した。
「左手で剣を使えるようになる訓練は、いつ始められますか」
治療師へ尋ねる。
「もう始まっています」
予想外の返答に、レンは眉を寄せた。
「始まってる?」
「昨日、匙を握ったでしょう」
「……あれが?」
「そうです。まず物を握る。次に、落とさず持ち上げる。角度を変える。手首を使う。指ごとに力を調整する。左手は傷の影響も残っていますから、なおさら基礎からやり直さなければならない」
「剣を使うのに匙から?」
「匙を満足に扱えない手へ、なぜ剣を持たせられると思うんです?」
言い返せなかった。
「軽い木棒を使うのは、日常動作がある程度安定してからです。その次に訓練用の木剣。重さを上げるのはさらに後。黒銀の剣を実際に振るのは最後です」
「どのくらいかかる?」
「それを今聞いても答えられません。左手の痺れがどこまで残るかにもよります」
レンは唇を結んだ。
「不満そうですね」
「不満ですよ」
「なら不満なまま治してください」
治療師は淡々と言った。
「急げば早く戻れるわけではありません。傷を悪化させれば、むしろ遠ざかります」
レンは黒銀の剣を見た。
「俺には、時間があるのか分からない」
それまで軽いやり取りを続けていた空気が静かに変わった。
「アイリを狙ってた連中がいる。エイレンを襲った奴らもいる。レオニスも、エイドルも、九つの印も、まだ何も終わってない。俺がここで何週間も寝てる間に、また何か起きたら――」
「その時に、傷を悪化させたあなたが何をするんですか」
治療師の声は厳しかったが、怒鳴りはしなかった。
「右腕も使えない。左手も壊した。まともに歩ける体力もない。それで誰を守るんです?」
レンは答えられなかった。
「休めと言われることを、何もしないことだと思わないでください。治ることも今のあなたがやるべきことです」
「……分かってます」
「頭では、でしょう」
図星だった。
アイリがしばらく黙っていたが、やがて包帯の巻かれた両手を見つめながら口を開いた。
「私も、早く動けるようになりたいよ」
レンが妹を見る。
「手だって痛いし、肩もまだちゃんと動かない。正直、ずっと寝てるの嫌だし……何か起きたらって考えると怖い。でも、お兄ちゃんが無理してまた倒れる方がもっと嫌」
「アイリ」
「私を守るためって言われたら、何でも無理していいわけじゃないから」
その声には責める響きはなかった。
だからこそ、レンには重かった。
エリリアも静かに続ける。
「レン一人がすべてを引き受ける必要はありません。私はまだ魔力を十分に使えませんし、アイリも治療中です。それでも三人とも生きています。なら、今は三人とも戻るための時間です」
「……俺は」
言葉が途中で止まる。
剣が使えないことが怖いのではない。
正確には、それだけではなかった。
「また間に合わなかったらと思うと、怖いんだ」
口に出して初めて、その感情の形がはっきりした。
「エイレンの時も、アイリが連れていかれた時も……俺は守るって決めてたのに、結局、後から追いかけることしかできなかった。今度何かあって、剣まで使えなかったら……」
「お兄ちゃん」
アイリの声が柔らかくなる。
「私、生きてるよ」
レンは妹を見る。
「今ここにいる。お兄ちゃんも、エリリアもいる。全部守れなかったみたいに言わないで」
「でも――」
「できなかったことはあるよ。でも、できたことまでなくさないで」
レンは何も言えなくなった。
黒銀の剣は木箱の中で静かに横たわっている。
これまで、剣を握れることは当たり前だった。守ると決めた時、まず手を伸ばすものだった。だからこそ、それを失う可能性があるだけで、自分自身の一部まで奪われるように感じていた。
だが剣がない時間にも、やらなければならないことはある。
「……明日も匙からか」
レンがぼそりと言う。
治療師が頷く。
「匙からです」
「その次は?」
「匙を零さず使えるようになったら、杯を持つ練習を増やします」
「剣が遠いな」
「昨日より一日は近づいていますよ」
その言葉に、レンは一瞬だけ黙り、やがて小さく笑った。
「そう考えるしかないか」
「最初からそう考えてください」
診察と確認を終えた黒銀の剣は、再び木箱へ収められた。蓋が閉じられる直前、レンはもう一度だけ柄を見た。次にこれを自分の力だけで持ち上げられるのが右手なのか、左手なのか、それともまだずっと先なのかは分からない。
それでも、焦って答えを決める必要はなかった。
その日の昼、レンは許可を得て再び左手で匙を握った。
最初の一口は器へ戻った。
二口目は途中で僅かに零れた。
三口目で、ようやく口まで運べた。
「できた」
アイリが自分のことのように笑う。
「一口だけだぞ」
「昨日は一口もできなかったでしょう」
エリリアが言う。
「……そうだけど」
「では進歩です」
レンは左手の中の匙を見た。
薬指と小指にはまだ鈍い痺れがある。握る力も弱く、手首もすぐに疲れる。それでも昨日より僅かにましだった。
剣には程遠い。
だが、ゼロではなかった。
夕方までに何度か短い練習を行い、治療師から止められた時には素直に匙を置いた。アイリが「本当に止めた」と驚き、レンが不満そうに睨み返すと、エリリアまで僅かに笑った。
夜になり、回復室の灯りが落とされたあとも、レンはしばらく眠れずにいた。
右腕には変わらず重い固定具がある。左手を布団の上へ出し、指を一つずつゆっくり動かす。治療師に許された回数だけ、開いて、閉じる。薬指と小指は少し遅れる。
一回。
二回。
三回。
そこで止めた。
「珍しいですね」
暗闇の中からエリリアの声がした。
「起きてたのか」
「今、目が覚めました」
「何が珍しいんだよ」
「止められた回数で、本当に止めたことです」
「……俺を何だと思ってるんだ」
「言わない方がいいですか?」
「言わなくていい」
向こうの寝台から、エリリアが小さく息を漏らす気配がした。
しばらく静かになったあと、隣からアイリの寝返りの音が聞こえた。
「……お兄ちゃん」
眠ったままの声だった。
レンは反射的に返事をした。
「ここにいる」
アイリの呼吸はすぐに穏やかなものへ戻った。
暗闇の中で、エリリアが静かに言う。
「今のも、できることの一つですね」
レンは何を指しているのかすぐに分かった。
「剣を持ってなくても、って?」
「はい」
「でも、それだけじゃ守れない時もある」
「もちろんです。だから治すんでしょう」
エリリアの声は穏やかだった。
「右腕は回復を待つ。左手は一から覚える。どちらも今すぐ答えを出す必要はありません」
「簡単に言うな」
「簡単ではないから言っています」
レンは左手を見た。暗くて輪郭しか見えない。
「右が戻らなかったら?」
「左を鍛える」
「左も十分に戻らなかったら?」
「その時に別の方法を考える」
「……迷わないな」
「まだ起きていない最悪の未来を全部先に決めても、今できることは増えませんから」
レンはしばらく天井を見上げていた。
「エリリア」
「何ですか」
「ありがとう」
「何に対してです?」
「分からないならいい」
「そうですか」
それ以上、彼女は追及しなかった。
やがてレンも目を閉じた。
右手には、まだ剣を支えるだけの力がない。
左手には、まだ匙一つを扱うにも集中がいる。
それでも、昨日より一口だけ前へ進んだ。
今は、それでいい。
焦って右腕を壊すことも、左手を無理に酷使することも、守ることにはならない。
眠りへ落ちる直前、レンは左手の指をもう一度動かしかけ――治療師に決められた回数を思い出して、そのまま止めた。
それがこの日、彼が最後に選んだ小さな勝利だった。
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