第二章 第七話 黒い糸と白い花
翌朝、白環治療院の回復室に最初に差し込んだ光は、雲に薄く遮られた柔らかな灰白色だった。夜のあいだ何度か目を覚ましたレンは、窓の外がようやく明るみ始めた頃、右腕を固定したままゆっくりと目を開いた。深く斬られた右上腕にはまだ熱と鈍い痛みが残っている。眠っているうちに無意識に動かさないよう、包帯と固定具は昨日より少し厳重に巻き直されていた。反対側の左手も自由とは言い難い。狼に噛まれた左前腕の傷そのものは塞がりつつあったが、薬指と小指を中心とした痺れはまだ消えず、握ろうとすると力の入り方が僅かに遅れる。天井を見つめながら何度か指を曲げ伸ばししていると、寝台の脇に立っていた朝番の治療師が、無言のまま彼の手元を見た。
「朝から訓練を始めないでください」
「動くか確かめただけです」
「昨日も同じことを言っていました」
レンは反論せず手を止めた。右隣ではアイリがまだ眠っている。両手と手首には薄い包帯が残り、右肩も寝返りで負担を掛けないよう枕の位置が調整されていた。左側のエリリアはすでに起きていたが、寝台の背を少し起こしただけで、窓辺へ淡紫の瞳を向けて静かに呼吸を整えている。大きな傷こそ残っていないものの、使い果たした風の魔力と身体の疲労は完全には戻っていない。昨日より顔色は良くなっていたが、目を覚ましてすぐ普段通りに動けるほどではなかった。
「眠れましたか」
エリリアが尋ねる。
「何度か起きたけどな。エリリアは?」
「私も似たようなものです。身体より、考え事の方が眠りを邪魔していた気がします」
「黒い糸?」
「それもあります」
昨日、東門の伝達箱に入っていた救難信と正体不明の黒い影について話を聞いたあと、治療師が最後に明かした事実――三人が街道沿いの石小屋で発見された時、傷の一部には見たことのない黒い糸が巻きつき、止血や固定に使われていたという話は、夜になっても頭から離れなかった。治療院へ運び込まれた直後、危険なものかどうか分からなかったためほとんどは処置の際に除かれたが、性質の分からない物質をすべて廃棄するのは危険だと判断され、一部だけが密閉容器に保管されている。それが昨日まで三人へ伝えられていなかったのは、意識が戻ったばかりの患者に説明する必要性が低かったことと、治療院側でも単なる特殊な繊維か何かだと考えていたからだった。
「……ん」
アイリが小さく声を漏らし、ゆっくり目を開ける。
「おはよう」
「おはよう、お兄ちゃん……エリリアも」
「おはようございます」
まだ眠気の残る顔で身体を起こしかけたアイリは、右肩に痛みが走ったらしくすぐ動きを止めた。
「無理するなよ」
「分かってる」
「昨日もそう言っていましたね」
エリリアが穏やかに言うと、アイリは不満そうに彼女を見た。
「二人とも私にだけ厳しくない?」
「昨日のお前を見てたからな」
「お兄ちゃんにだけは言われたくない」
短いやり取りの最中、扉が二度叩かれた。入ってきたのは昨日から三人を診ている治療師と、白髪の混じった年配の治療師だった。年配の男は薄い木箱を両手で持っており、その後ろには東門守備隊から来たらしい二人の兵士もいる。レンたちが一斉に箱へ視線を向けると、年配の治療師は苦笑した。
「察しがいいな。昨日話した黒い糸だ」
彼は寝台の間に置かれた小卓へ木箱を置き、留め金を外した。中にはさらに透明な小瓶が収められている。親指ほどの長さしかない黒い繊維が一本、底に沈んでいた。近くで見ると糸という呼び方さえ正しいのか分からない。太さは縫い糸ほどだが、撚り合わせた繊維らしい毛羽立ちがなく、光沢もない。ただ黒いというより、周囲の明るさからその部分だけが切り抜かれたような色をしていた。
「これが、私たちに?」
アイリの声が低くなる。
「同じものだ。お前さんたちが運ばれてきた時、傷口を押さえたり、動かしてはいけない場所を支えたりする形で巻きついていた。特に酷い出血のあったレンの右腕には多く使われていた」
レンは固定された右腕を見た。意識が戻るより前、自分の身体にそんなものが巻かれていた実感はない。
「誰かが普通に巻いたように見えたんですか?」
エリリアが尋ねる。
「最初はそう思った。だが結び目がなかった」
「結び目が?」
「ああ。どの部分にもなかった。それなのに必要な場所へきちんと沿い、緩みもしていなかった。切って外そうとした時も妙だった。刃物を当てれば切れるんだが、切った端が解けない。普通の繊維なら切断面から多少はほつれるはずだろう」
年配の治療師が小瓶を持ち上げ、窓からの光へかざした。途端に、黒い糸の輪郭が僅かに薄くなる。
レンは目を細めた。
「……色が変わった?」
「昨日も確認した。強い光へ近づけると薄くなる」
治療師が瓶を箱の影へ戻すと、糸は数秒かけて元の濃い黒へ戻った。
「東門の箱に残ってた黒い跡と同じだ」
アイリが呟く。
「似た性質ではあります」
エリリアは慎重に言った。
「ですが、それだけで同じものだと決めるのは早いでしょう」
「その通りだ」
同行していた兵士の一人が頷く。
「守備隊でもそう判断している。伝達箱に残った黒い変色と、この糸に直接の繋がりがある証拠はまだない。ただ、光への反応が似ている以上、比較は続ける」
年配の治療師は瓶を小卓へ戻した。
「昨夜、別のことも起きた」
三人の表情が変わる。
「何ですか?」
レンが尋ねる。
「夜番の治療師が、この部屋の床で黒い糸を一本見つけた」
アイリが即座に自分たちの寝台の下へ視線を落とした。
「どこに?」
「レンの寝台の下だ」
レンは思わず黙った。
「保存していたものが落ちた可能性は?」
エリリアが問う。
「ない。保存用の瓶は薬材室から一度も出していなかった。封もそのままだ。見つかった糸は別に回収したが、朝になる前に消えた」
「消えたって……」
「最初は小さな黒い繊維だったらしい。触らず容器を取りに行き、戻った時には床に黒い粉のようなものだけが残っていた。それも灯りを近づけると薄くなり、日の出前には完全に消えた」
アイリが小さく息を呑んだ。
「じゃあ、誰かがここまで来たの?」
「それも分からない。夜間、部屋の前には治療師がいた。窓も施錠されている。見知らぬ者が入った記録もない」
「またか……」
レンは低く呟いた。
誰にも見られず伝達箱へ入った救難信。詰所の床を移動した黒い影。光を嫌うように消えた黒い痕。そして今度は、治療院の寝台の下に現れた黒い糸。ひとつずつなら偶然や見落としで説明できるかもしれない。しかし、似た現象が続けば続くほど、すべてを無関係だと言い切ることも難しくなっていく。
「少し試してもいいですか」
エリリアが瓶を見つめながら言った。
年配の治療師はすぐには答えず、彼女の状態を確認するように顔を見る。
「魔力を使うなら駄目だ」
「使いません。見るだけです」
「なら構わん」
小瓶がエリリアの寝台近くへ置かれる。彼女は手を伸ばさず、しばらく糸の様子を観察した。瓶の中の黒い線は動かない。光が当たれば僅かに薄くなり、影へ戻せば再び濃くなる。ただそれだけだった。
「風を感じません」
「風?」
アイリが聞く。
「魔力の話ではありません。普通の細い糸なら、人が呼吸しただけでも瓶の中で僅かに揺れることがあります。でもこれは、ほとんど動かない。重いわけでもなさそうなのに」
「生き物みたいなの?」
「分かりません。ただ、少なくとも普通の糸とは違います」
エリリアは数秒黙ったあと、ふと思いついたように顔を僅かに近づけた。
「……もし、私たちを助けた人がこれを使ったのなら」
レンとアイリが彼女を見る。
エリリアは小瓶の中へ視線を向けたまま、静かな声で続けた。
「ありがとうございます。誰かは分かりませんが、私たちを生かしてくれたことには感謝しています」
誰も動かなかった。
変化など起きない。それが当然だと、レンは思った。
だが数秒後、瓶の底で黒い糸の先端が僅かに持ち上がった。
「……動いた」
アイリが囁く。
ほんの一瞬だった。風もなく、瓶にも誰も触れていない。それでも糸の一端がゆっくり浮き、エリリアのいる方向へ向くように曲がった。
「全員、触るな」
年配の治療師の声が鋭くなる。
兵士も即座に身構えた。
糸はそのまま数秒止まり、やがて力を失ったように瓶の底へ戻った。
「今の……私の声に反応したんでしょうか」
「決めつけるな」
レンが言う。
「分かっています」
エリリアもすぐに頷いた。
「でも偶然だったとしても、タイミングが良すぎますね」
誰も否定しなかった。
年配の治療師が瓶を手元へ戻そうとした、その瞬間だった。
糸の中央から、細い亀裂のようなものが走った。
「え?」
アイリが声を上げる。
黒い一本の線は音もなく崩れ、微細な黒い粒へ変わった。瓶の底を覆うほどでもない量だったが、その粉は数秒のうちにさらに薄くなっていく。
「光は当ててないぞ」
兵士が呟く。
確かに瓶は箱の影に置かれている。強い光に晒されたわけではない。それでも黒い粒は消え続け、やがて瓶の中には何も残らなくなった。
「……自分で消えた?」
アイリの問いに、年配の治療師はしばらく無言だった。
「少なくとも、俺にはそう見えた」
回復室に重い沈黙が落ちた。
昨日までなら、黒い糸は三人を助けた際に使われた奇妙な道具に過ぎなかった。だが、保存していたものが声に反応したように動き、触れられてもいないのに崩れて消えたとなれば、ただの道具と呼ぶには不自然すぎる。
「残っているものは、もうないんですか」
レンが尋ねる。
「保存していた分はこれで最後だ。昨夜見つかったものも消えた」
「じゃあ調べられないじゃん」
「そうなるな」
アイリが悔しそうに眉を寄せる横で、エリリアは何か考え込むように目を伏せた。
「何か思い当たったのか?」
レンが聞く。
「いいえ。むしろ逆です。既知の魔法として考えるほど、説明が難しくなっています」
「影の魔法とかじゃないの?」
アイリが尋ねる。
「似た性質の術はあります。でも、使い手から離れてこれほど長く形を保ち、明確な魔力の残留もなく、傷の固定まで自律的に行うものを私は知りません」
「じゃあ何なんだ」
「だから分かりません」
エリリアは苦笑した。
「分からないことを、知っている魔法の名前へ無理に押し込める方が危険です」
レンはその言葉に頷いた。今の段階で「影の魔法」と呼んでしまえば、それだけで考え方が狭くなる。赤い瞳の人物が使ったのかもしれない。別の誰かが使ったのかもしれない。そもそも人が使うものなのかさえ分からない。確かなのは、それが三人の傷を支え、少なくとも命が失われるまでの時間を延ばしたらしいということだけだった。
「もう一つ、確認してほしい物がある」
年配の治療師がそう言って、木箱の底から小さな透明容器を取り出した。
中に入っていたものを見て、レンは眉を寄せる。
「……花?」
白い花だった。
掌に収まるほど小さく、細い茎の先に五枚の白い花弁が開いている。特別華やかな形ではない。野道に咲いていても見落としそうなほど素朴な花だ。それなのに、容器の中の花は摘まれたばかりのように瑞々しかった。花弁には傷一つなく、茎も萎れていない。
「これも、お前たちが運ばれてきた時に見つかった」
年配の治療師はレンを見る。
「レン、お前の胸元だ。服と銀のロケットの間に挟まるように置かれていた」
レンの視線が無意識に胸元へ落ちる。今、ロケットは治療院の規則で他の私物とともに手の届く収納箱へ保管されている。意識を失っていた自分には、花を見つけられた記憶など当然ない。
「誰かが置いたってこと?」
アイリが尋ねる。
「偶然入り込んだ可能性も考えた。しかし、服の外側へ付着していたわけではない。胸元の内側、ロケットのすぐそばだ。運ばれている途中で風に飛ばされて入ったとは考えにくい」
「どうして今まで言わなかったんですか」
「ただの花だと思っていたからだ」
治療師は容器をゆっくり回した。
「問題は、もう六日近く経っているのに枯れていないことだ」
アイリが容器へ顔を近づける。
「本当に全然枯れてない……」
「水にも浸していない。保存魔法も使っていない。普通ならとうに萎れている」
「種類は分かりましたか?」
エリリアが尋ねた。
「治療院の薬草師と、王都の植物に詳しい者へ見せたが、少なくともこの辺りで一般的に見られる花ではないそうだ。似た種類は北の寒冷地にあるらしいが、完全に同じものかはまだ分からん」
「北……」
レンが呟く。
「そこから先は推測するなよ」
年配の治療師がすぐに釘を刺した。
「花一輪で、助けた人間が北から来たなんて決められるほど簡単な話じゃない。交易で運ばれた可能性もあるし、どこか別の場所で育てられていた可能性もある」
「分かってます」
レンは答えた。
以前なら、手掛かりらしいものを見つけた瞬間、それだけを頼りに答えへ飛びつこうとしていたかもしれない。だが今は違う。白い花は何者かが置いた可能性が高い。それもロケットのすぐそばに。そこまでは事実に近い。だが、なぜそこへ置いたのかは分からない。ロケットそのものに意味があったのか、単に胸元へ置いただけなのかさえ断定できない。
「魔力は?」
エリリアが聞く。
「微かにある」
治療師は頷いた。
「だが保存魔法として説明できるほど明確な術式じゃない。花そのものに、ごく薄い力が残っているような感じだと魔術師は言っていた」
「黒い糸と同じものではない?」
「性質は違う。少なくとも同じ反応は出ていない。光を当てても消えないし、色も変わらん」
アイリはしばらく白い花を見つめたあと、小さく尋ねた。
「これも、助けてくれた人が置いたのかな」
「可能性はある」
レンは答える。
「でも、それ以上はまだ分からない」
「うん」
「昨日より慎重になりましたね」
エリリアが僅かに笑う。
「昨日の副隊長に散々言われたからな」
「私たち自身も同じ結論になったでしょう」
レンは白い花から目を離さず、小さく息を吐いた。
「ただ……もしわざとロケットのそばに置いたんだとしたら、その理由は知りたい」
「それは私もです」
エリリアの声も静かだった。
赤い瞳の存在、黒い影、救難信、黒い糸。そして白い花。どこまでが同じ何者かによるものなのか、それとも一部はまったく別の出来事なのか。分からないからこそ、今は一つずつ残された事実だけを拾うしかない。
「花はどうするんですか?」
アイリが尋ねる。
「引き続き保管する。植物についても調べるし、魔力の変化も記録する」
「勝手に消えたりしないといいけど」
「黒い糸みたいにな」
レンの言葉に、誰も笑えなかった。
その後、治療師たちは容器を持って部屋を出ていった。扉が閉じ、ようやく回復室に静けさが戻る。午前中だけで頭を使いすぎたのか、アイリは枕へ背を預けるなり疲れたように息を吐いた。エリリアも目を閉じ、しばらく休む姿勢を取る。
レンだけは寝台脇の小卓へ置かれた朝食を見ていた。
柔らかく煮た穀物、薄いスープ、細かく切られた果物。そして木の匙。
右腕は使えない。
使えるのは左手だけだった。
「……やるんですか」
エリリアが目を閉じたまま言った。
「見てたのか?」
「見ていなくても分かります」
レンは返事の代わりに左手を伸ばし、匙の柄を握った。
薬指と小指の感覚が鈍い。親指、人差し指、中指へ意識して力を入れれば掴める。しかし「握る」ことと「扱う」ことは別だった。匙を持ち上げた瞬間から指先が細かく震え始める。右腕を負傷してから何度か試していたが、まだ身体が新しい動かし方に慣れていない。
「ゆっくりでいいよ」
アイリが言う。
「分かってる」
匙を粥へ入れ、少量を掬う。
そこまではできた。
口元へ運ぼうとした瞬間、柄が指の間で僅かにずれた。薬指と小指に力を入れ直そうとしても反応が遅れ、匙が傾く。粥の半分が器へ戻った。
「……くそ」
「お兄ちゃん」
「もう一回」
レンは匙を握り直した。
二度目も、結果はほとんど同じだった。
三度目は口の近くまで届いた。だが手首が震え、今度は小卓へ少し零れた。
「今日はそこまでにしてください」
治療師の声が扉の近くから飛んできた。
いつ戻ってきたのか分からず、レンは顔をしかめる。
「まだ三回しか――」
「三回も、です」
「練習しないと使えるようにならないだろ」
「練習と無理をすることは違います。狼に噛まれた左前腕の傷は塞がってきていますが、手の痺れと握力低下は残っています。血もかなり失った。今は身体そのものが弱っているんです」
レンは黙り込んだ。
「右腕が使えないから焦る気持ちは分かります。でも、左手まで悪化させたらどうするつもりですか」
「……何もできなくなる」
「そうです」
治療師はレンから匙を取り上げることはせず、代わりに彼の左手を小卓へ置かせた。
「今日は匙を握れた。それで十分です。次は持ち上げる。次に運ぶ。順番にやればいい」
「子供みたいだな」
「子供はもっと素直です」
アイリが吹き出した。
「今のは治療師さんが正しい」
「お前も人のこと言えないだろ。手、まだ包帯だらけじゃないか」
「だから私はちゃんと手伝ってもらってるもん」
アイリは少し得意そうに言ったものの、右肩を動かさないよう身体を支えてもらいながら朝食を取っている姿には説得力があるのかないのか分からなかった。
「エリリアは?」
レンが尋ねる。
「自分で食べられます」
エリリアは匙を持ち上げ、実際にゆっくりと口へ運んでみせた。
「ただし非常にゆっくりです。まだ身体が重いので」
「勝った顔するなよ」
「していません」
「してる」
「気のせいです」
少しだけ空気が和らいだ。
結局、レンはその朝の食事の大半を治療師に手伝ってもらった。情けなさがないと言えば嘘になる。剣を握り、妹を守ることだけは自分がやらなければならないと考えてきた。その自分が今は匙一つまともに扱えない。右腕が以前と同じように動く保証もない。左手の痺れもいつ消えるか分からない。
だが、昨日までならその事実から目を逸らしていたかもしれない。
今は違った。
「明日もやる」
食事が終わったあと、レンは左手を見つめながら言った。
「匙ですか?」
「ああ」
「治療師さんの許可を取ってからね」
アイリが先に釘を刺す。
「分かってる」
「本当に?」
「……たぶん」
「絶対分かってない」
エリリアが小さく笑った。
その日の午後、白い花は薬材室から別の保管室へ移され、王都内の植物記録と照合されることになった。黒い糸については物証が消えたため、残されていた治療記録と当時処置を担当した者たちの証言だけが整理された。誰が三人を救ったのか、なぜ黒い糸を使ったのか、白い花をロケットのそばへ置いた理由は何なのか。答えは一つも出なかった。
夜。
回復室の灯りが落とされ、三人の呼吸が静かに重なり始める。
廊下の明かりが扉の隙間から細く床へ差し込んでいた。
別室。
透明な容器の中で、白い花は昼と変わらず瑞々しく咲いている。
誰もいない。
風もない。
灯りも白いものしかない。
それでもほんの一瞬だけ、五枚の花弁の縁に、存在しないはずの赤い光が映った。
次の瞬間には消えていた。
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