第二章 第六話 名のない差出人
同じ日の午後、白環治療院の中央回復室へ、東門守備隊の副隊長が再び姿を見せた。午前中の事情聴取からまだ半日も経っていない。朝には白かった窓辺の光はすでに明るさを増し、三つ並べられた寝台の上で、レンたちは治療師から命じられた通り身体を休めていた。レンの右上腕には深い傷を保護する厚い包帯と固定具が残り、アイリも傷ついた両手と手首、まだ無理をさせられない右肩を庇いながら枕へ背を預けている。昼食のあとに短く眠ったエリリアは朝より血色を取り戻していたものの、限界まで使った風の魔力と身体の疲労が完全に抜けたわけではない。そんな三人の前へ現れた副隊長は、今朝とは違って一人ではなかった。後ろには二人の衛兵が控えており、いずれも事情聴取に付き添うというより、自分自身が証言を求められている者のような硬い表情を浮かべていた。
「……また来たんですか」
思わずそう口にしたアイリに、副隊長は申し訳なさそうに眉を下げた。
「俺も今日は戻ってこないつもりだった。だが、今朝の救難信について調べ直していたら、放っておけないことが出てきた」
「良い知らせではなさそうだな」
レンが言うと、副隊長は否定しなかった。
「残念ながらな」
同行してきた治療師が三人の寝台を順番に見回し、最後に副隊長へ厳しい視線を向ける。
「午前中より短くしてください」
「努力する」
「努力ではなく、してください」
「……分かった」
即座に言い直した副隊長を見て、アイリが僅かに笑ったが、その表情も長くは続かなかった。副隊長は寝台から十分に距離を取った椅子へ腰を下ろすと、後ろに立っていた二人を手で示した。
「こちらはローデン・メイゼン。救難信が届いた夜、東門詰所の夜間責任者を務めていた。そしてこちらがネリス・フェルド。当時、詰所内で夜間の通行記録を整理していた衛兵だ」
ローデンは四十代後半ほどの大柄な男だった。短く刈り込まれた髪には灰色が混じり、日に焼けた顔と太い指には、長く門の警備に携わってきた者らしい実直さがある。対してネリスは二十代前半ほどで、栗色の髪を首の後ろで一つに束ねた若い女性だった。二人とも簡単に頭を下げたが、とりわけネリスの表情には、自分が見たものを今なお信じ切れていないような迷いが残っていた。
「今朝見せた救難信については覚えているな」
副隊長の問いに三人が頷く。
「誰が書いたのか分からない。誰が東門まで届けたのかも分からない。そして、商隊から送られた騎馬の報告より先に、伝達箱から発見された。そこまでは今朝話した通りだ。だが、その後で箱そのものを調べ直した結果、前提からおかしいことが分かった」
「前提?」
エリリアが聞き返す。
「本来なら、あの救難信は伝達箱の中へ入れられない」
数秒、誰も言葉を発しなかった。最初に眉を寄せたのはレンだった。
「……箱が壊れてたのか?」
「正確には、その逆だ」
副隊長がローデンへ視線を向けると、夜間責任者だった男が一歩前へ出た。
「東門の伝達箱には、夜間でも急報を差し込めるよう、外側に細い投入口が設けられている。ところが一週間ほど前、その部分の金具が壊れた。紙を入れたあと内部で引っかかり、取り出せなくなる恐れがあったため、修理が終わるまで使えないよう投入口の内側を鉄板で完全に塞いでいた」
「つまり、外から紙を入れても……」
「中へは落ちない」
ローデンが答えた。
「鉄板を外さない限り無理だ」
「じゃあ、箱の扉を開けたんじゃないの?」
アイリが尋ねる。
「普通に考えればそれしかない。だが、その扉を開ける鍵は二本しか存在しない。一つは夜間責任者が携帯し、もう一つは予備として守備隊長室の保管箱に封印されている。あの夜、責任者だった俺の鍵は勤務中ずっと腰にあった。予備鍵の封印も翌朝確認したが、破られた形跡はなかった」
「鍵を一度盗んで、戻した可能性は?」
レンの問いに、ローデンは首を横へ振った。
「俺たちも最初にそれを疑った。だが、勤務記録と同僚の証言を照らし合わせても、鍵から長時間離れた瞬間はない。仮に一瞬だけ抜き取れたとしても、箱は詰所のすぐ外だ。扉を開ければ金具が鳴るし、その場を見張っていた者に気づかれず紙を入れるのは難しい」
「最後に箱を開けたのは、いつですか」
エリリアが尋ねた。
ローデンの顔が僅かに険しくなった。
「救難信を発見する少し前だ。夜間の定時確認で一度開けた。その時、中は間違いなく空だった」
回復室の空気が静かに重くなる。
「それから、誰も触っていない?」
「ああ」
「なのに、次に開けた時には紙があった」
エリリアが確かめると、副隊長が頷いた。
「投入口は鉄板で塞がれていた。鍵も使われていない。箱を壊した形跡もない。底にも側面にも、人が紙を差し込めるような隙間はない。それでも次の定時確認では、今朝見せた救難信が箱の底に置かれていた」
「……どうやって?」
アイリが呟いた。
「それを知るために調べている」
副隊長は簡潔に返した。
「魔法ではないのですか」
エリリアが尋ねる。
「箱と救難信は守備隊付きの魔術師に改めて調べさせた。風、火、水、土、光を含め、こちらで判別できる一般的な属性魔法の残留は確認されていない」
「普通の風では、そもそも鉄板を通り抜けられません」
エリリアは枕へ背を預けたまま、考えるように目を細める。
「箱の内側へ直接作用したのなら何らかの魔力が残ってもおかしくない。でも、それもない……」
「底から入れたとか」
レンが口を挟む。
「箱は石台へ固定されている」
副隊長が答えた。
「底板を外した跡もない」
「じゃあ、本当に紙だけが突然中に現れたみたいじゃん」
アイリが言うと、誰もすぐには否定できなかった。
副隊長は僅かな沈黙のあと、ネリスへ顔を向けた。
「それだけなら、鍵や箱の仕組みに俺たちが気づいていない抜け道があると考えることもできた。だが、もう一つ証言が出た」
視線を向けられたネリスが、両手を身体の前で組み直した。
「私が見たものが本当に関係しているかは分かりません」
「構わない。見た通りに話せ」
「はい」
ネリスは一度息を整えてから、レンたちへ顔を向ける。
「夜明けよりかなり前でした。私は詰所の中で、その日の通行記録を整理していました。ローデンさんたちは外側の持ち場を確認していて、室内には私ともう一人の衛兵だけが残っていました。机には油灯が三つ点いていたんですが……そのうち、扉に一番近かったものだけが突然消えたんです」
「風で?」
アイリが聞く。
「私も最初はそう思いました。でも窓は閉まっていましたし、扉も閉じていました。それに残り二つの火はまったく揺れていませんでした。一つだけ、息を吹きかけられたみたいに消えたんです」
ネリスの声が僅かに遅くなる。
「火を点け直そうとして立ち上がった時、床の上を何かが動きました」
レンの目が鋭くなる。
「何か?」
「……影です」
その一言で、三人の表情が変わった。
ネリスはすぐに首を横へ振る。
「人の影ではありません。誰かが詰所の前を横切ったわけでもありませんでした。灯りの届いていない床よりさらに黒いものが、細長く伸びながら動いたんです。液体のようにも見えました。でも音はなくて、床そのものが黒くなりながら流れているような……上手く説明できません」
「どこへ向かった?」
レンの声が低くなる。
「扉の方です。そのまま扉の下の隙間を抜けて、外へ出ました」
「追ったのか」
「はい。すぐに扉を開けました。でも外には誰もいませんでした。近くにいた衛兵にも確認しましたが、人が出入りした姿は見ていないと言われました。だから、その時は寝不足で見間違えたんだと思って……報告しませんでした」
ネリスは申し訳なさそうに視線を伏せたが、エリリアは責めることなく尋ねた。
「影が消えた方向に、何があったのですか」
「伝達箱です」
答えが落ちた瞬間、回復室から音が消えたように感じられた。
レンの脳裏へ、崩れ落ちていく遺跡の記憶が戻る。揺れる足場、砕ける石壁、耳を塞ぎたくなるほどの崩落音。そして意識が途切れる直前、自分たちを包み込んだ正体不明の暗闇。その奥で、異様なほど鮮明に見えた二つの赤い瞳。顔は分からない。髪も、服も、声さえ思い出せない。ただ、黒いものの奥に赤だけがあった。
「影を見てから、どのくらいで救難信が見つかった?」
レンが尋ねる。
「すぐではありません。しばらく経ってからです」
ネリスに代わってローデンが答える。
「次の定時確認で俺が箱を開けた。その時、救難信が底にあった。だが、その一つ前の確認では確実に空だった」
「つまり、影が動いた時刻と、手紙が箱に入った可能性のある時間帯は重なっている」
エリリアが言う。
副隊長が頷いた。
「そうなる。だが、影が紙を運んだところを誰かが見たわけではない。そこは分けて考えてくれ」
「もう何かある顔してるよ」
アイリが副隊長を見る。
「鋭いな」
「午前中から、そういう顔ばっかり見てるから」
副隊長は苦笑を消し、今度はローデンへ目配せした。
「伝達箱の底にも異変があった」
ローデンが続ける。
「救難信を取り出した時、箱の内側の底だけが黒くなっていた。最初は煤か油だと思ったんだが、布で拭いても何も付かなかった。指で触れても同じだ。木や金属が焦げた様子もない。ただ、その場所だけ色が失われたように黒かった」
「今も残っているのか?」
レンが聞く。
「いや。その黒さは夜が明ける頃には消えた」
「消えた?」
「ああ。それに、消える前から妙な性質があった。油灯を近づけると薄くなったんだ」
エリリアが眉を寄せる。
「光を近づけると?」
「そうだ。箱の奥へ灯りを入れるほど黒さが弱くなり、離すとまた濃くなる。俺だけじゃない。ネリスを含め何人かで確認した」
「私も見ました」
ネリスが頷いた。
「灯りそのものが弱くなったわけではありません。黒い部分だけが、光を嫌がって奥へ退いているように見えました」
「朝になったら完全に消えた」
副隊長が補足する。
「現在は何の変色も残っていない。魔法の残滓も検出されなかった」
エリリアは返事をせず、視線を僅かに伏せた。レンも同じものを考えていた。
影。光に弱い黒い痕跡。誰にも見られずに現れた救難信。そして、遺跡で三人を包み込んだあの暗闇。
「……似ていますね」
エリリアが慎重に口にする。
「ああ」
レンもそれだけ答えた。
だが、似ていることと同じであることは違う。赤い瞳を持つ何者かが三人を救ったのか、それさえまだ推測に過ぎない。遺跡で現れた暗闇、石小屋までの移動、救難信、伝達箱を這ったという影。そのすべてを一人の存在へ結びつければ話は単純になる。しかし証拠のない段階で最初から答えを決めてしまえば、本当に違う何かが潜んでいた時に見落とすことになる。
「関係している可能性はある」
副隊長も結論を急がなかった。
「俺たちもそう考えている。だが今の時点で分かっているのは、救難信が通常の方法では箱へ入れられなかったこと、同じ時間帯に説明のつかない影を見た者がいること、箱の内側に光で薄れる黒い痕跡が一時的に残っていたことだけだ。正体も方法も目的も分からない」
「でも……私たちが治療されるように知らせてくれたんですよね」
アイリが静かに言った。
「少なくとも、そう読める」
副隊長は答えた。
「そこから先は決めつけない方がいい」
レンが妹へ言う。
「分かってる」
アイリは少しだけ口を尖らせる。
「助けてくれたからって、味方とは限らないんでしょう」
「ああ」
「でも、助けようとしたことまで疑う必要はないと思う」
その言葉にレンはすぐ返さなかった。
三人を遺跡から出した者と救難信を書いた者が同一人物なのかは分からない。石小屋へ置いた理由も分からない。善意だったのか、別の目的があったのかも分からない。それでも、救難信がなければ白環治療院の準備は遅れていたかもしれない。少なくとも何者かが、三人に治療が必要であることを知り、それを誰かへ伝えようとした。その事実まで無理に否定する必要はなかった。
「私も……そう思います」
それまで証言だけをしていたネリスが、小さく口を開いた。
副隊長が彼女を見る。
「何がだ?」
「相手が味方かどうかは分かりません。でも、救難信を最初に読んだ時から、少し気になっていたんです」
「気になった?」
アイリが尋ねる。
「文章です」
ネリスは記憶の中の紙面を読み返すように視線を落とした。
「場所。負傷者が三人いること。人間の兄妹とエルフの女性であること。それから、至急治療の準備をするように。それしか書かれていませんでした。差出人の名も、自分が誰なのかも、何が起きたのかもない。助けてほしいという言葉さえありません」
今朝見せられた短い救難信を、レンも思い出していた。確かに余計な文章は一つもなかった。必要な情報だけを切り取り、並べたような書き方だった。
「最初は冷たい文章だと思いました」
ネリスは続ける。
「でも、何度か読み直しているうちに……少し違う気がしたんです」
「どう違うの?」
「冷たいんじゃなくて、急いでいたんじゃないかって」
アイリが瞬きをする。
「急いでた?」
「はい。事情を説明する時間も、自分のことを書く時間も惜しくて、本当に必要なことだけを書いたみたいに見えました。場所と人数さえ伝われば、治療師を準備させられる。名前なんて後でもいい。そう考えて、短くしたような……」
ネリスはそこで一度口を閉じ、自分の感じたものを言葉にしてよいのか迷うように視線を揺らした。
「ただの印象です」
「構わない」
副隊長が促す。
ネリスは小さく息を吸った。
「間に合わなくなるのを、怖がっていたように感じました」
その言葉だけが、しばらく回復室の中へ残った。
レンは何も答えられなかった。
赤い瞳の存在が何を考えていたのか、自分たちを知っていたのか、それとも偶然見つけただけなのか、今も何一つ分からない。だが商隊からの正式な報告が王都へ届くより前に、何者かは三人が石小屋にいることを知らせていた。遺跡から救い出したのが同じ者なら、三人を安全な場所へ運んだだけでは終わらず、その後の治療まで確実に繋げようとしたことになる。
「今日伝えたかったのは以上だ」
副隊長が椅子から立ち上がった。
「伝達箱は引き続き調べる。夜勤者からも改めて証言を取り、同じ現象がほかの門や施設で報告されていないか確認する。ただし、今夜また何か起こるとは限らん。お前たちも、今は身体を治すことを優先してくれ」
「今度は勝手に調べに行くな、とは言わないんですね」
アイリが言う。
「言わなくても治療師が止めてくれると分かった」
「正解です」
部屋の端から治療師が即答した。
「では、用件が終わったのでしたら、今度こそ患者を休ませてください」
「追い出される前に帰るとしよう」
「賢明です」
副隊長が苦笑し、ローデンとネリスも続いて立ち上がった。扉へ向かいかけたネリスだけが、途中で一度足を止める。
「もし……」
三人が彼女を見る。
「もし、救難信を書いた人が、本当に皆さんを遺跡から助けた人なら」
ネリスは少しだけ迷ったあと、柔らかく続けた。
「少なくとも、間に合ったことだけは伝えたいです」
レンたちが返事をする前に、ネリスは小さく頭を下げ、副隊長たちとともに部屋を出ていった。扉が静かに閉じると、回復室には再び三人と治療師だけが残された。
「……影、か」
レンが天井を見たまま呟く。
「遺跡で見たものと同じなのでしょうか」
エリリアが尋ねる。
「分からない」
「でも、偶然って言うには多すぎない?」
アイリの声には朝よりもはっきりした不安が混じっていた。
赤い瞳。三人を包んだ暗闇。誰にも見られず石小屋まで移動していた自分たち。商隊からの報告より先に届いた救難信。誰も開けていない伝達箱。そして夜の詰所を流れた黒い影。並べれば一本の線で繋がっているように見える。だが、その線が本物なのか、自分たちが答えを欲しがるあまり勝手に引いているだけなのかはまだ判断できない。
「これ以上考えるのは、新しい情報が出てからにしましょう」
エリリアが静かに言った。
「珍しく俺も賛成」
「珍しく、は必要ありません」
「昨日からずっと考えてたのはエリリアも同じだろ」
「それについては否定しません」
「二人とも本当に似てるよね」
アイリが何気なく言うと、レンとエリリアがほぼ同時に彼女へ顔を向けた。
「どこが?」
「どういう意味です?」
「そういうところ」
アイリが答える。
「全然分からない」
「私も納得できません」
今度まで二人の返答が重なり、アイリが呆れたように息を吐いた。
「ほら」
三人のやり取りを聞いていた治療師が、今度はもっと深くため息をついた。
「話が終わったのでしたら、本当に休んでください。レンさんは右腕を動かさない。アイリさんも手と肩を休ませる。エリリアさんは魔力を使わない。三人とも同じことを何度言わせるつもりですか」
「はい」
今度ばかりは誰も反論せず、それぞれ枕へ身体を戻した。
治療師は満足したように小さく頷き、記録板を確認しながら扉へ向かった。ところが、取っ手へ手を伸ばす直前でふと動きを止める。
「ああ……そうでした」
何かを思い出した声だった。
レンが顔だけを向ける。
「何ですか?」
治療師はすぐには答えなかった。先ほどまでの呆れた表情が消え、視線が三人の間をゆっくり移動する。
「今のお話と関係があるかどうかは、まだ分かりません。ただ、あなたたちが運び込まれた時のことで、一つ伝えていないことがあります」
エリリアの淡紫の瞳が僅かに鋭くなる。
「何をですか」
「三人が商隊に発見された時、傷の一部にはすでに応急処置が施されていました」
「それは聞いたような気がするけど……」
アイリが首を傾げる。
「布や普通の包帯ではありません」
治療師は首を横へ振った。
「白環治療院へ到着して処置を始めた時、三人の身体には、私たちが見たことのないものが使われていました。傷を圧迫し、動かしてはいけない箇所を固定するように巻きついていたんです。念のため、一部は廃棄せず保管しています」
レンの表情が変わる。
「何だったんですか」
治療師は一瞬だけ答えるのをためらった。
「黒い糸です」
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