第二章 第五話 夜明け前の救難信
翌朝、白環治療院の鐘がまだ朝を告げる前、レンたちはようやく同じ回復室へ集められた。自分の足で移動する許可など当然出ておらず、三人とも寝台ごと治療師たちに運ばれてきた結果だったが、それでも目を覚ました時から別々の部屋に置かれていたことを思えば、互いの顔を直接見られるだけで胸の奥に残っていた緊張が少しだけほどけていく。淡い朝日が窓硝子を透かし、白い壁と清潔な寝具を薄く照らす中、中央にレン、その右にアイリ、左にエリリアの寝台が並んでいた。廊下からは夜勤を終える治療師と朝番の者が交わす低い声や、薬瓶を載せた台車の車輪が床を転がる音が聞こえてくる。王都はもう一日を始めようとしている。その当たり前の気配が、つい数日前まで崩落する遺跡の底で生死の境をさまよっていた三人には、まだどこか遠い世界の出来事のように感じられた。
「こうして並んでみると、本当に三人とも酷い顔ですね」
枕に背を預けたエリリアが静かに言うと、アイリはすぐに眉を寄せた。
「それ、エリリアが言う?」
「私は自覚しています」
「じゃあ私だって自覚してるよ」
二人の視線がほとんど同時に中央へ向いた。嫌な流れを察したレンは、包帯で固定された右腕を動かさないよう注意しながら顔だけを二人へ向ける。
「……何で俺を見るんだよ」
「お兄ちゃんだけ自覚してなさそうだから」
「してる」
「昨日、一人で立とうとして転んだ人が?」
「それはもう終わった話だろ」
「昨日の話です」
間髪を入れずエリリアまで加わり、レンは数秒二人の顔を見比べた末、諦めて天井を仰いだ。
「二対一はずるくないか?」
「治療師さんを呼べば三対一になりますよ」
「それはもっと駄目だ」
アイリが吹き出し、遅れてエリリアの口元にも小さな笑みが浮かんだ。ほんの短いやり取りだった。それでも、三人の間に生まれた笑い声は、不自然なほど静かだった回復室の空気を確かに変えた。魔物に追われ、刃を交え、誰が生き残ったのかさえ分からないまま意識を失った。その末に、今はこうして同じ朝の光の中でくだらないことで言い合っている。レンはその事実を改めて噛み締めながら、無意識に右腕へ目を落とした。深く斬られた右上腕にはまだ厚い包帯が巻かれ、腕そのものも胸元で支えられている。昨日無理に立ち上がろうとしたせいで治療師から散々叱られ、包帯まで巻き直されたが、幸い傷口が大きく開くことはなかった。指も動く。ただ、剣を握り、以前と同じ力で振れるようになるのかはまだ誰にも分からない。アイリの両手と手首にも縄や戦闘で負った傷を守る包帯が残り、右肩も無理に使わないよう厳しく言われている。エリリアには二人ほど目立つ外傷こそないものの、限界を越えて使った風の魔力と身体の消耗はまだ完全には戻っていない。三人とも、生きている。けれど、まだ誰一人として元通りではなかった。
笑いが静まったあと、エリリアが窓の方へ向けていた淡紫の瞳をレンへ戻した。
「昨日話したことですが……遺跡で見た赤い瞳について、レンもやはり記憶しているのですよね」
「ああ。ただ、顔を見たって言えるほどじゃない。俺が覚えてるのは、暗い中に赤い目があったことくらいだ」
「私もほぼ同じです。崩落の直前、周囲を何か黒いものに覆われたような感覚がありました。その中で、赤い瞳だけが異様にはっきり見えた。ですが、輪郭も顔立ちも服装も思い出せません」
アイリは二人を交互に見たあと、自分の記憶を確かめるように目を伏せた。
「私は赤い目までは覚えてない。急に暗くなったことと……身体を何かに包まれたみたいな感じだけ。怖かったのか、安心したのかも、よく分からない」
「意識そのものが限界でしたからね」
エリリアの声は冷静だったが、その表情には僅かな緊張が残っていた。三人が最後にいたのは崩壊していく遺跡の内部だ。それなのに、次に発見された時には街道沿いの石小屋へ運ばれていた。誰かが助けたと考えるのが自然だったが、その「誰か」が何者なのかは依然として分からない。レンとエリリアが同じ赤い瞳を記憶している以上、単なる幻覚として片づけるにも無理がある。しかし実在する人物だったのなら、今度は別の疑問が生じる。どうやって崩落から三人を救い出したのか。なぜ姿を見せなかったのか。そして、なぜ自分たちを助けたのか。
「もし本当に誰かいたなら、俺たちを石小屋まで運んだのもそいつなのか……」
レンが呟いた時、回復室の扉が二度叩かれた。
「失礼する」
聞き覚えのない男の声とともに扉が開き、白環治療院の治療師に案内されて、一人の兵士が入ってきた。年齢は四十前後。短く整えた茶髪と日に焼けた顔には、長く街の警備に携わってきた者らしい落ち着きがある。使い込まれた革製の胸当てには王都衛兵の紋章が刻まれていた。男は室内へ入るなり三人の状態を確かめるように視線を巡らせ、それから寝台から十分な距離を取った場所で足を止める。
「東門守備隊の副隊長を務めている。まだ治療中のところ悪いが、確認したいことがある。長話をするつもりはない」
「本当に長くしないでください。この三人は揃うと、自分たちが患者だということを忘れますから」
案内してきた治療師が冷ややかに言い、レンは思わず目を逸らした。副隊長はその反応を見て事情を察したらしく、僅かに口元を緩めながら椅子へ腰を下ろし、小さな記録板を膝に置いた。
「事情聴取より治療が優先だ。途中で気分が悪くなればすぐ止める。それでいいな?」
「分かりました」
レンが代表して答えると、副隊長は一度頷いた。
「まず、お前たちが王都へ運び込まれた経緯を確認したい。東街道を進んでいた商隊が、街道沿いにある古い石小屋で三人を発見した。ここまでは聞いているか?」
「ああ。でも、俺たちはそこへ行った記憶がない。最後に覚えてるのは遺跡の中だ」
「私も同じです」
エリリアが続け、アイリも小さく頷いた。
「私は途中のこと、ほとんど覚えてません」
「商人たちの話では、発見時の三人は酷く衰弱していた。エリリアは多少意識があり、レンとアイリも呼びかけには僅かに反応していたらしい。ただし――」
副隊長は記録板へ一度目を落としてから、三人を見回した。
「周辺を調べても、三人が自力で石小屋まで移動した形跡は見つからなかった。別の荷車の轍もない。争った跡もない。三人以外の人間がそこまで出入りしたと断定できる足跡も残っていなかった。商隊の者たちも、周囲に他の人影は見ていない」
「じゃあ……やっぱり誰かが運んだってこと?」
アイリの問いに、副隊長は慎重に答えた。
「その可能性は高い。だが、誰が、どうやって、というところまでは分からん。ここまでなら、お前たちが治療院で話した内容と商人側の証言を照合しただけだ。本題はこの先にある」
副隊長が腰に下げていた革の書類入れから、一枚の折り畳まれた紙を取り出した瞬間、三人の表情から先ほどまでの僅かな和らぎが消えた。紙は薄い灰色で、端に小さな擦れと折れがある。封蝋も家紋も、差出人を示す印も見当たらない。副隊長はそれを丁寧に開き、寝台からでも読めるよう三人へ向けた。
『東街道沿いの石小屋。
負傷者、三名。
人間の兄妹と、エルフの女性。
至急、治療の準備を。』
レンは短い文章を一度読み、意味がすぐには頭に入ってこなかったかのようにもう一度最初から目で追った。
「……これ、俺たちのことか?」
「そう判断している」
「差出人は?」
エリリアがすぐに尋ねる。
「不明だ」
副隊長は紙を裏返した。何もない。署名も、印も、追記もなかった。
「王都衛兵の符号でもなければ、商会やギルドの伝令印でもない。紙とインクも調べたが、今のところ出所を絞れるような特徴は見つかっていない」
「これを商人さんたちが送ったんじゃないの?」
アイリの問いに、副隊長は首を横へ振った。
「違う。それなら、わざわざお前たちのところへ確認に来る必要もない」
彼は指先で紙の端を押さえ、僅かに間を置いた。
「三人を発見した商隊は、状態を確認した直後、一人を騎馬で王都へ先行させている。東門へ到着した時刻も記録されている。ところが、この紙が伝達箱から回収されたのは――その騎馬が到着するより前だ」
一瞬、誰も言葉を発さなかった。
「……前?」
レンが聞き返す。
「ああ。大きな時間差ではない。だが順番を間違える余地はない。夜明け前、まずこの救難信が東門に届いた。内容を確認した守備隊が、念のため白環治療院へ三人分の受け入れ準備を依頼した。その後になって、商隊から先行した男が門へ駆け込んできた」
アイリの顔から血の気が引いた。
「でも、それって……商人さんたちが私たちを見つけて、誰かを王都へ向かわせるより先に、もう別の誰かが知ってたってこと?」
「正確には、少なくとも我々がこの紙を回収した時点では、差出人は三人の居場所と人数、それに人間の兄妹とエルフの女性という組み合わせまで把握していた」
「誰が届けたんです?」
エリリアの声が鋭くなった。
「分からん」
「東門には夜間でも見張りがいますよね」
「当然だ」
「では、誰もその人物を見ていないのですか?」
「一人もな」
副隊長は紙を見つめたまま答えた。
「夜間の急報を受け取るため、東門詰所の外側には施錠式の伝達箱を設けている。朝方、定時確認のため開けたところ、この紙が入っていた。しかしその時間帯、見張りについていた兵の誰も、箱へ近づく者を見ていない」
「魔法は?」
エリリアが間を置かず問う。
「守備隊付きの魔術師に確認させた。転移、風、火、土、その他、こちらで判別できる一般的な術式の明確な残留は出なかった。だからといって、魔法ではないと断定もできんがな」
エリリアは黙り込み、視線を紙へ落とした。風を扱う彼女だからこそ、術式を用いた痕跡が何も残らないという話に引っかかるものがあるのだろう。レンもまた救難信を見つめながら、遺跡の最後に見た暗闇を思い返した。瓦礫が崩れ、音も光も混ざり、意識が遠のいていく中で見えた赤い瞳。女だったような気がする。だが、それすら確信ではない。覚えているのは、黒い何かの向こうからこちらを見ていた二つの赤だけだった。
「赤い瞳の人物について、改めて聞かせてくれ」
副隊長が記録板を構えた。
レンは記憶を無理に形へしないよう注意しながら答えた。
「女だった……と思う。でも顔は見えてない。黒い影みたいなものが近づいてきて、その中に赤い目があった。俺が確実に言えるのはそれだけだ」
「声は?」
「覚えてない」
「見覚えは?」
「ない。少なくとも、俺の知ってる誰かだとは思わなかった」
副隊長はそれ以上誘導することなく書き留め、次にエリリアへ視線を向けた。
「私も似ています。崩落の直前、私たちの周囲を黒いものが覆った。その中で赤い瞳だけを見ました。ただし、人間だったかどうかさえ断定できません。顔も、服装も、髪も確認していませんから」
「アイリは?」
「私は目までは見てません。暗くなったことと、何かに包まれたみたいな感覚だけです。そこから先は……何も」
「それ以前に、同じような人物や気配に遭遇したことは?」
三人とも首を横へ振った。
副隊長は記録板に数行を書き込み、それから筆を止めた。
「整理すると、崩落直前に正体不明の何者かが三人へ接触した可能性がある。その後、三人は本来いたはずの遺跡ではなく東街道の石小屋で発見された。そして商隊からの正式な報告より前に、王都へこの救難信が届いていた」
「その赤い目の人が、手紙も届けたと思いますか?」
アイリが尋ねる。
「可能性はある。だが、それ以上は言えん。同じ人物だという証拠は何一つない」
「でも、もし遺跡から助けて、治療まで頼んでくれたなら……」
アイリが言いかけると、副隊長の表情が僅かに険しくなった。
「助けられた事実と、味方であることは分けて考えた方がいい」
その言葉に、アイリは口を閉じた。
「善意だけで助けたのかもしれない。何か目的があって生かしたのかもしれない。あるいは遺跡から運んだ者と、この紙を書いた者が別々に存在する可能性もある。分からない段階で相手を敵だと決めつける必要はないが、味方だと信じるのも危険だ」
「……そうですね」
エリリアが静かに同意した。
レンも反論しなかった。命を救われた。その一点だけなら感謝すべきことだ。しかし、相手は三人の素性を知っていた。少なくとも、レンとアイリが兄妹であることまで把握している。偶然通りかかった誰かが負傷者を助けただけなら、救難信へわざわざ「人間の兄妹」と書く必要があるだろうか。自分たちは石小屋へ着いた記憶すらない。その場所を知る者が、自分たちより先に王都へ存在を知らせている。助かったという安心よりも、見えない誰かに動きを知られていたという感覚の方が、徐々に重く胸へ沈んでいった。
「この紙はどうするんですか?」
エリリアが尋ねる。
「守備隊で預かる。筆跡、紙、インク、伝達箱そのものも改めて調べる。街道側でも聞き込みを続けているが、今のところ該当する人物を見たという証言はない」
「見つかると思いますか?」
アイリが聞くと、副隊長は無責任な希望を口にすることなく首を僅かに傾けた。
「分からん。ただ、調べる価値はある。最後に一つだけ確認したい。三人が東街道の石小屋へいることを、事前に誰かへ知らせた可能性は?」
「ない」
レンは即座に答えた。
「俺たちは、あそこへ行くつもりなんてなかった。というか、石小屋に運ばれたこと自体、目を覚ましてから知った」
「遺跡に入ったことを知っていた者は?」
レンは少し考える。
「盗賊たちは知っていた。アイリを攫うよう命令した奴も、俺たちが遺跡へ向かったことを把握してた可能性はある。でも……そいつらが崩落のあとまで追ってきて、俺たちを助けて、わざわざ王都へ知らせたっていうのは……」
「現時点では繋がらない、か」
「ああ」
「分かった。こちらでもその線は含めて調べる。ただし、お前たちは勝手に調査へ出るなよ」
副隊長が言うと、扉のそばに立っていた治療師が無言でレンを見た。
「何で俺だけ見るんですか」
「心当たりがないなら気にしなくて結構です」
「ありますけど……」
「あるんですね」
アイリが呆れ、エリリアは小さく息を吐いた。副隊長もとうとう苦笑して立ち上がる。
「今日はここまでだ。何か思い出したことがあれば、些細なものでも治療師を通して知らせてくれ」
「また話を聞きに来ますか?」
「必要があれば。ただ、次は質問だけでなく一つくらい答えを持って来たいところだな」
「それなら今日は終わりです」
治療師が間髪を入れず告げた。
「追い出されているように聞こえるな」
「患者を疲れさせる方は、役職に関係なく追い出します」
「頼もしいことで」
副隊長は救難信を元通り折り畳んで書類入れへ戻すと、三人へ軽く頭を下げ、治療師とともに回復室を出ていった。扉が閉じる。その途端、室内には先ほどまでとは質の違う沈黙が降りた。最初に三人で交わした冗談の余韻はもうほとんど残っていない。
「商人さんたちが知らせるより前に、もう手紙が届いてたんだね」
アイリが呟いた。
「ああ」
「私たち、自分で石小屋に行ったことすら知らなかったのに」
レンは答えず、副隊長が座っていた椅子の前――ほんの少し前まで救難信が広げられていた場所を見つめた。誰が遺跡から三人を運び出したのか。赤い瞳の存在は本当に人間だったのか。救難信を書いたのは同じ者なのか。それとも、まったく別の誰かが一連の出来事を見ていたのか。なぜ姿を隠す必要があったのか。なぜ自分たちの関係まで知っているのか。一つ考えるたび、その後ろから二つ三つと新しい疑問が姿を現す。
「今ここで考え続けても、答えは出そうにありませんね」
エリリアが枕へ背を預け直しながら言った。まだ完全に戻っていない身体と魔力のせいか、その顔には薄い疲労が浮かんでいる。
「昨日より謎が増えた気がする」
レンが言う。
「最悪じゃん」
アイリが不満げに頬を膨らませたが、すぐにその表情を戻した。
レンは窓の外へ目を向けた。朝日は先ほどより強くなり、王都の屋根や塔を薄い金色に染め始めている。通りを行き交う人々の声も増え、遠くでは荷車の車輪と呼び込みの声が混ざり合っていた。誰かにとっては何の変哲もない朝だ。夜明け前に東門の伝達箱へ一枚の紙が入れられたことなど、街のほとんどの者は知らない。
「でも、一つだけ分かった」
レンの声に、アイリとエリリアが顔を向ける。
「俺たちは偶然助かったわけじゃない」
二人は何も言わなかった。
崩落する遺跡から生き延び、誰も知らないはずの石小屋へ運ばれ、商隊によって発見された。その報告が王都へ届くよりも前に、何者かは既に三人がそこにいることを知っていた。それが赤い瞳の存在なのか、それとも別の誰かなのかは分からない。自分たちを救った理由も、その者が味方なのかどうかさえ分からない。ただ一つ確かなのは、あの夜の出来事には、自分たちの知らない意思が介在していたということだった。
夜明け前、まだレンたち自身さえ自分たちがどこにいるのか知らなかった時間に、何者かは東街道の石小屋に人間の兄妹と一人のエルフがいることを知り、王都へ救いを求めた。
その紙には、最後まで差出人の名だけがなかった。
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