第二章 第四話 眠りの向こう
崩れ落ちる石と砂埃の向こうで、レンが倒れていた。その少し先では、アイリが自分の身体には大きすぎる黒銀の剣を両手で握り、迫る何かへ向かって立っている。
「アイリ!」
エリリアは叫びながら手を伸ばし、風を呼んだ。しかし、いつもなら指先へまとわりつく空気は何一つ応えない。もう一度、さらに強く意識を集中させても、風は生まれなかった。
その間にも天井は崩れ、アイリの姿が土煙へ呑まれていく。
間に合わない――そう思った瞬間、三人を黒い影が包み込んだ。
暗闇の奥に、二つの赤い瞳が浮かんでいた。
◇
エリリアは息を呑み、白い天井を見上げた。
薄いカーテンが午後の風に揺れ、室内には薬草と清潔な布の匂いが漂っている。荒くなった呼吸を整えながら胸へ手を当て、ここが崩れかけた遺跡ではなく、王都の白環治療院だと思い出す。
「……夢」
そう呟いても、最後に見た赤い瞳だけは妙に鮮明だった。
エリリアはゆっくり上体を起こした。大きな傷が痛むわけではない。それでも全身は鉛のように重く、身体の内側まで使い果たしてしまったような倦怠感が残っている。
夢の余韻を振り払うように右手を上げ、反射的に風を呼んだ。
窓際のカーテンが、ほんの僅かに揺れる。
「駄目です」
すぐ横から声が飛んできた。
記録板へ何かを書いていた女性治療師が椅子から立ち上がり、エリリアの手を見て眉を寄せる。
「起きてすぐ魔法を使わないでください」
「少し確認しただけです」
「確認なら今ので十分でしょう。ほとんど風が動いていません」
エリリアは指先を見つめた。もう一度試せば多少は違うかもしれない。そう考えただけで、治療師が先回りする。
「二度目は禁止です」
「……まだ何もしていません」
「しようとした顔でした」
反論する気力もなく、エリリアは手を下ろした。
「魔力がなくなったわけではありません。ただ、使いすぎです。それに魔法だけではなく、身体そのものが疲れ切っています。今必要なのは食事と睡眠です」
「どのくらいで戻りますか」
「個人差があります。でも、少なくとも今日中に戦えるところまで戻そうとは思わないでください」
「戦うつもりはありません」
答えながら、エリリアの視線は自然に扉へ向いた。
「レンとアイリは?」
「二人とも大丈夫ですよ」
その返事はすぐに返ってきた。
「レンさんは右腕を治療中ですが、指も動いています。アイリさんも手首と右肩を休ませています。今は二人とも起きています」
「一緒に?」
「午後から同じ部屋です。もっとも、レンさんは今頃眠っていると思いますけど」
治療師が少し呆れた顔をする。
「何かあったのですか」
「午前中、自分でアイリさんのところへ行こうとして転びました」
エリリアは黙った。
「一歩も進めなかったそうです」
「……レンらしいですね」
「笑い事ではありませんよ」
「笑ってはいません」
そう答えたものの、口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
勝手に起き上がり、転んで、治療師に叱られるレン。そのことを聞いて怒るアイリ。そんな光景を想像できること自体が、二人が生きている証のように思えた。
胸の奥に張りついていた緊張が少し緩む。
その途端、夢の最後に見たものが再び脳裏へ浮かんだ。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「私たちは、どこで見つかったのですか」
「街道沿いの石小屋です。商人の方々が見つけて、ここへ運んでくれたそうです」
「遺跡ではなく?」
「はい」
エリリアは布団の上で指を組んだ。
「そこまで、誰が運んだのでしょう」
「それが分からないそうです。商人の方々が見つけた時には、周囲に誰もいなかったと」
やはり、自分たちだけで移動したわけではない。
「赤い瞳の人を見たという話はありませんか」
「赤い瞳?」
「遺跡が崩れる直前、黒い影の中にいたような気がします」
治療師の表情が少し変わった。
「それなら、レンさんも似たことを話していたそうです。赤い目の女性を見たかもしれない、と」
「レンも?」
「本人も夢だった可能性はあると言っていたそうですが」
エリリアは何も答えず、窓の外へ視線を向けた。
二人が同じものを見た。
崩れ落ちる遺跡。三人を包んだ影。途切れた記憶。そして、街道沿いの石小屋。
まだ答えにはならない。それでも、少なくとも自分だけの夢として片づけることはできなくなった。
「アイリは何か覚えていますか」
「そこまでは聞いていません」
「会えますか」
治療師は少し考えた。
「短い時間なら先生に確認してみます。ただし、あなたが歩いて行くのは駄目です」
「私はレンではありません」
「患者さんは皆、自分だけは大丈夫だと思うものです」
返す言葉がなく、エリリアは大人しく枕へ背中を預けた。
◇
治療師が部屋を出ると、静けさの中へ王都の遠いざわめきが入り込んできた。
窓の外には青い空が広がり、屋根の向こうを鳥が飛んでいる。何も起きていないような穏やかな午後だった。
それでも、エリリアの中には別の朝が残っていた。
峡谷で目を覚ました時、アイリがいなかった。
自分は眠っていた。
前日までの戦いと魔法で限界だったとしても、眠っていたという事実そのものは変わらない。
もう少し早く目を覚ましていれば。見張りを続けていれば。気配に気づいていれば。
考え始めれば、その先はいくらでも続いた。
アイリは攫われなかったかもしれない。遺跡へ向かう必要もなかったかもしれない。レンが深い傷を負うことも、アイリが黒銀の剣を握ることもなかったかもしれない。
エリリアは瞼を閉じ、そこで思考を止めた。
だが、自分が助けに立てなかったという記憶までは消えてくれなかった。
「……私が」
声に出したところで、扉が開いた。
先ほどの治療師と助手が一台の寝台を押してくる。
そこにはアイリがいた。
「エリリア」
エリリアの目が僅かに見開かれる。
「アイリ……」
「お兄ちゃんが寝たから、私も少し休んでたんだけど、エリリアが起きてるって聞いたから」
「昨日の夜にも一度起きていますよ」
横から治療師が訂正すると、アイリは少し頬を膨らませた。
「そういう意味じゃないです」
寝台はエリリアの隣へ止められた。
「長くは駄目ですよ。二人とも、今は休むことが仕事です」
「分かりました」
二人がほとんど同時に答える。
治療師たちが部屋を出ると、短い沈黙が落ちた。
エリリアは改めてアイリを見る。顔にはまだ疲労が残り、両手首には包帯が巻かれている。以前から傷めていた右肩も、無意識に庇っているのが分かった。
それでも、確かにここにいる。
「……ごめんなさい」
気づけば、言葉が口から出ていた。
アイリが眉を寄せる。
「何が?」
「私が眠らなければ、あなたは攫われなかった。もっと早く気づいていれば、あの遺跡へ行くこともなく、レンも――」
「待って」
アイリが静かに遮った。
「それ、全部エリリアのせいにするの?」
「私が見張れていれば――」
「私が一人で離れたんだよ」
「ですが――」
「エリリアは疲れてたでしょう。ずっと戦って、魔法も使ってた。それでも寝ちゃ駄目だったって言うなら、いつ休めばよかったの?」
エリリアは答えられなかった。
「それに、全部エリリアのせいなら、私も全部自分のせいにできるよ。私が勝手に動かなければよかった。もっと気をつけていればよかった。もっと強かったら、お兄ちゃんもエリリアも傷つかなかったかもしれない」
「それは違います」
「でしょう?」
即座に返され、エリリアは言葉を失った。
アイリは包帯の巻かれた手へ目を落とした。
「私もさっきまで、そういうこと考えてた」
「レンと?」
「うん」
アイリの表情が僅かに和らいだ。
「考えたことが消えるわけじゃないんだって。怖かったことも、したことも、なかったことにはならない。でも、全部一人で持たなくてもいいって」
エリリアは黙って聞いていた。
「だから、エリリアも全部自分のせいにしなくていいよ」
「ですが、私はあなたを守れませんでした」
「私だって、エリリアを何度も守れてない」
「それとは――」
「同じだよ」
アイリは迷わず言い切った。
「誰か一人がずっと全員を守るなんて無理だよ。お兄ちゃんにも言いたいけど」
最後の一言に、エリリアの口元が僅かに緩む。
「レンは納得しないでしょうね」
「絶対しないと思う」
ほんの短い笑いが二人の間を通り過ぎた。
それでも、胸の奥に残った重さまでは簡単に消えない。
エリリアは視線を伏せた。
「……怖かったのです」
アイリは何も言わず、続きを待った。
「目を覚まして、また二人がいなかったらと思いました。夢の中では、何度呼んでも風が来なくて……二人とも遠くなっていった」
布団を掴んでいた指へ、僅かに力が入る。
「また間に合わないのではないかと」
アイリは身体を少し寄せ、包帯の巻かれた手を伸ばした。寝台同士の間には僅かな距離があったが、指先は届いた。
「いるよ」
エリリアが顔を上げる。
「私も、お兄ちゃんも」
アイリの指がエリリアの手へ触れる。
「お兄ちゃんは今、先生に怒られて寝てる」
「それは、自分から眠ったのでしょうか」
「たぶん違う」
エリリアは小さく笑った。
笑うことができた自分自身に気づき、胸の内側で固まっていたものが僅かに緩む。
「そういえば」
アイリが声を落とした。
「赤い目の人のこと、覚えてる?」
「はい」
「お兄ちゃんも覚えてるんだってね」
「先ほど聞きました」
「私は赤い目までは分からない。でも、急に暗くなって、何かに包まれたような感じは覚えてる」
三人とも同じものを鮮明に覚えているわけではない。
それでも、記憶の一部は重なっていた。
「誰だったんだろう」
「分かりません。ただ、偶然ではないと思います」
遺跡で起きた異変も、レンと石が光ったことも、三人を運び出した何者かも、まだ何一つ答えへつながっていない。
「今考えても、分からないね」
「ええ。それが少し悔しいですが」
「エリリア、そういうの気にしそう」
「気になります」
即答すると、アイリがまた小さく笑った。
エリリアはその声を聞きながら、ようやく枕へ身体を預ける。
「眠ってもいいのでしょうか」
「寝なきゃ駄目なんでしょう?」
「そうなのですが」
「今度は私がいるよ」
エリリアは隣を見る。
アイリの手が、まだ自分の指先へ触れている。
「目を覚ました時も?」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「私も寝ちゃうかもしれないから」
「それなら仕方ありませんね」
二人はほんの少し笑った。
エリリアは目を閉じる。
先ほどまでは、瞼を閉じれば再び崩れる遺跡へ戻るような気がしていた。けれど今は、すぐ隣からアイリの穏やかな呼吸が聞こえる。その向こうには、治療師に叱られながらも確かに生きているレンがいる。
二人ともここにいる。
その事実を確かめるために、もう風を呼ぶ必要はなかった。
エリリアはアイリの指先に残る温度を感じながら、今度は逃げるためではなく、身体を休ませるために静かに眠りへ落ちていった。
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