第二章 第三話 妹の傷だらけの手
午後になり、白環治療院の窓から差し込む光が朝よりも柔らかく傾き始めた頃、第一回復室の扉が静かに開いた。
「絶対に起き上がらないでくださいね」
入ってきた若い治療師が、開口一番にそう言った。
レンは枕へ頭を預けたまま眉を寄せる。
「まだ何もしてないだろ」
「午前中に一度やっています」
「もう反省した」
「その言葉を信用するかどうかは、これから決めます」
治療師の後ろから、二人の助手が一台の寝台をゆっくり押してくる。それを見た瞬間、レンの表情から不満が消えた。
「アイリ」
隣の寝台に横たわっていたアイリも、兄を見つけると僅かに目を見開いた。
「お兄ちゃん」
壁越しではない声だった。
昨日から何度も無事だと聞き、午前中には壁一枚を隔てて話までした。それでも、こうして互いの姿を直接確かめるのは遺跡を出て以来初めてだった。
助手たちは二つの寝台の間に手が届く程度の空間を残して止めると、車輪へ固定具を掛けた。
「二人とも今日はここまでです。勝手に立たない。相手の寝台へ移らない。何か必要なら呼ぶこと」
「分かりました」
アイリが素直に答えた。
若い治療師はレンを見る。
「……分かった」
「今の間は何ですか」
「何でもない」
治療師は疑わしそうな顔をしたものの、それ以上は言わず、助手たちと一緒に部屋を出ていった。
扉が閉じると、二人の間に静けさが落ちた。
レンは改めて妹を見る。
顔色はまだ白く、疲労も抜け切っていない。だが、以前から傷めていた右肩には無理な力が掛からないよう布が添えられているだけで、身体の大部分は自由に動かせる状態だった。
何よりレンの目を引いたのは、布団の上に置かれている両手だった。
手首には新しい包帯が巻かれている。その先から覗く指にも、細かな擦り傷が幾つも残っていた。
アイリは兄の視線に気づくと、反射的に両手を布団の下へ隠そうとした。
「見せて」
「大丈夫だよ」
「大丈夫かどうかじゃなくて、見たい」
「……見ても面白くないよ」
「面白いと思って言ってない」
アイリはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように両手を戻した。
レンは左手を伸ばしたものの、触れる直前で止める。
「痛い?」
「手首はまだ。指は平気」
「縄?」
「うん。ほどこうとして何度も擦ったから」
アイリは包帯の縁へ目を落とした。
「手は、剣をずっと握ってたからだと思う」
「俺の?」
「他にないでしょう」
微かな笑みを浮かべたものの、その表情はすぐに消えた。
あの黒銀の剣は、アイリの身体には重すぎた。まして右肩には以前から傷が残っていた。それでも彼女は最後まで手放さなかった。
「無理して握らなくてもよかったのに」
レンが言うと、アイリの眉が僅かに寄った。
「じゃあ、どうすればよかったの?」
「そういう意味じゃ――」
「お兄ちゃんは動けなかった。エリリアも限界だった。私が持たなかったら、誰が持つの?」
声は強くなかった。責めているわけでもないからこそ、レンは返す言葉を失った。
「……ごめん」
「謝らないで」
「でも」
「お兄ちゃんのせいじゃないでしょう」
アイリは自分の両手を見つめた。
「私が選んだの。剣を持つって」
そこで言葉が止まり、指先がほんの僅かに震えた。
「アイリ?」
「洗ったんだよ」
「何を?」
「手」
アイリは視線を上げなかった。
「ここに来てから、ちゃんと洗ってもらった。自分でも洗った。何回も」
包帯の巻かれていない指先を擦り合わせる。
「でも、まだ残ってる気がする」
レンは何も言わなかった。
「血」
小さな声だった。
「本当はもう付いてないって分かってる。匂いもしない。見ても何もない。でも、こうして手を見ると……まだ温かい気がする」
アイリの右手が僅かに握られる。
「剣が入った時の感触も、まだ手に残ってる」
遺跡の奥で、倒れたレンと限界まで消耗したエリリアの前に立ち、アイリは黒銀の剣を握った。そしてヴァレクを殺した。レンはあの瞬間のすべてを見ていたわけではない。それでも、意識を失う直前まで何が起きていたのかは覚えている。
「私が殺したんだよね」
アイリが呟いた。
「ああ」
レンは否定しなかった。
妹が僅かに顔を上げる。
「……そこは否定してくれないんだ」
「否定したら、お前が覚えてることまで嘘になるだろ」
レンは左手を伸ばし、今度は妹の指先へ静かに触れた。
「お前は俺たちを助けた。それと同時に、一人殺した。どっちかだけにする必要はない」
「でも、殺したのは変わらない」
「変わらない」
「私がもう少し強かったら、殺さなくても止められたかもしれない」
「それは分からない」
「でも――」
「分からないことまで全部、自分の責任にするな」
アイリが黙る。
「俺だって、あそこで倒れなかったらって考える。もっと早く縄を切れてたらとか、もっと剣を振れてたらとか。でも、それを考え続けても、起きたことは変わらない」
「簡単に言うね」
「簡単じゃないよ」
レンは自分の右腕へ目を落とした。
「だから俺も困ってる」
その言葉に、アイリの視線が兄の包帯へ向いた。
「右腕、まだ痛い?」
「ああ」
「指は?」
レンは布の外へ出ている右手を動かした。五本とも曲がる。
「動く。軽くなら握れる」
「じゃあ大丈夫なんじゃないの?」
「剣は別だって」
レンは指を開いた。
「傷が塞がっても、前みたいに力が戻るかはまだ分からないらしい」
アイリはしばらく黙っていた。
「怖い?」
午前中、壁越しにも聞かれた質問だった。その時は答えを曖昧にしたが、今は妹の顔が見えている。
「……怖い」
レンは静かに認めた。
「指は動く。肘も少し動く。でも、それと剣を振れることは違う。このまま力が戻らなかったらって考える」
それ以上の言葉は一度喉で止まった。
「剣を振れなくなったら、お前を守れないかもしれない。それが怖い」
アイリはすぐには答えず、包帯の巻かれた手を僅かに動かし、レンの左手の指へ触れた。
「じゃあ、左手は?」
「これ?」
「うん」
レンは左手を見た。狼に噛まれた前腕の傷は随分塞がった。それでも薬指と小指にはまだ鈍さが残り、他の指より反応も僅かに遅い。
「こっちも完璧じゃない」
「でも、動くんでしょう?」
「動くけど」
「なら練習すればいいじゃん」
「剣を?」
「いきなり剣じゃなくて」
アイリは少し考えた。
「匙とか」
「匙?」
「ご飯食べるやつ」
「それは分かる」
「まず匙をちゃんと持てるようにする。それができたら、もう少し重いもの」
「例えば?」
「木の棒」
「急に雑になったな」
「じゃあ、お兄ちゃんが考えてよ」
レンは小さく笑った。
「匙。木の棒。その次は?」
「剣」
「飛びすぎだろ」
「間にいっぱい入れればいいでしょう」
アイリもほんの少し笑った。長くは続かなかったが、その笑いが消えた後も、先ほどまで部屋を満たしていた重さは少しだけ薄くなっていた。
「怖くなくなるかな」
アイリが尋ねた。
「何が?」
「私の手」
レンは妹の指を見た。
「分からない」
「また血を思い出すかもしれない」
「ああ」
「ずっと消えなかったら?」
「その時は、その時考える」
「雑」
「お前もさっき木の棒って言っただろ」
アイリが僅かに口元を緩める。
レンはそのまま続けた。
「忘れろとは言わない。俺もたぶん忘れられないものがいっぱいある」
「じゃあ、どうするの?」
「一人で抱えない」
アイリは兄を見る。
「それで消える?」
「消えないと思う」
「じゃあ意味ないじゃん」
「でも、一人じゃなくなる」
その言葉に、アイリは何も返さなかった。
長い沈黙の後、握っていた指から少しだけ力が抜ける。
「……そっか」
「ああ」
「じゃあ、お兄ちゃんもね」
「何が?」
「腕のこと。一人で勝手に怖がらないで」
「勝手にって」
「私にも言って」
「お前まで心配するだろ」
「もうしてるよ」
即答だった。
レンは一瞬黙り、それから小さく息を吐いた。
「分かった」
「本当に?」
「最近そればっかり聞かれるな」
「信用がないんじゃない?」
「誰のせいだ」
「お兄ちゃんのせい」
迷いのない答えに、レンは反論するのを諦めた。
窓の外では午後の風が木々を揺らし、遠くから王都のざわめきが聞こえていた。昨日までの森とも、崩れた遺跡とも違う音だった。
アイリの手はまだ傷ついている。レンの右腕もまだ治っていない。何かが元通りになったわけではない。
それでも、レンは左手で妹の指を包んだ。
「痛くない?」
「大丈夫」
「本当に?」
「お兄ちゃんこそ」
「俺は左だから平気」
アイリは二人の手を見つめた。
血は付いていない。それでも記憶は残っている。きっと、すぐには消えない。
けれど今は、その手を一人で見つめ続けなくてもよかった。
アイリはゆっくり目を閉じた。
「少し寝る」
「ああ」
「手、離さないで」
「分かった」
「寝た後も」
「分かったって」
握る力は弱かった。それでも、互いの温度が分かるには十分だった。
白環治療院の静かな午後の中、兄妹は傷ついた手を重ねたまま、それ以上何も言わなかった。
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