第二章 第二話 三人分の鼓動
白環治療院の朝は静かだった。窓から差し込む淡い光の中、廊下を行き交う治療師たちの足音と、薬瓶や器が触れ合う小さな音だけが聞こえている。第一回復室では、レンが枕に頭を預けたまま、胸元へ固定された右腕を見つめていた。
肩のすぐ下には厚い包帯が巻かれている。布の外へ出た右手をゆっくり動かせば、親指から小指まで五本とも自分の意思に応じた。ただ、少しでも強く握ろうとすると、深く斬られた上腕の奥から肩へ鋭い痛みが走る。
「また確認してますね」
枕元で薬を整えていた若い治療師が、呆れたように言った。
「動かなくなってないか気になるから」
「一時間前にも同じことをしてましたよ。五本とも動いています。それより、何度も力を入れて傷を悪くする方を心配してください」
「剣を振れるようになるまで、どれくらい?」
「それも昨日から何度目ですか」
「覚えてない」
「都合の悪いことだけ忘れてません?」
治療師は小さく息を吐き、水を入れた杯を差し出した。レンは左手で受け取る。親指、人差し指、中指は問題なく器を支えられたが、狼に左前腕を噛まれて以来、薬指と小指にはまだ薄い布越しに触れているような鈍さが残っていた。
「右腕は、指が動いて肘も少し曲げられる。それは良い兆候です。でも、剣を振れるだけの力が戻るかどうかは、まだ判断できません。今は傷を治すことだけ考えてください」
「完全に戻る?」
「今は断言できません」
レンは杯へ視線を落とした。右腕には力を掛けられず、左手も以前とまったく同じではない。その二つを並べて考えると、自然に腰の右側へ意識が向いた。
「剣は?」
「保管してあります」
「ちゃんと?」
「今朝も確認しました。あなたが起きたら絶対に聞くと思ったので」
レンの表情が僅かに緩む。
「ありがとう」
「それなら、今度は言うことを聞いてください」
「それは別の話」
「別じゃありません」
治療師の返答があまりにも早く、レンは少しだけ笑った。
「アイリは?」
「隣の第二回復室です。起きていますよ。両手首と手、それから右肩を治療して休んでいます」
「会える?」
「先生の診察が終わってからです」
「隣なんだろ?」
「距離の問題ではありません」
「エリリアは?」
「第三回復室です。昨日の夜に一度起きて、水も飲んで少し食べています。かなり疲れているので、今は眠っています」
二人が生きていることは、昨日から何度も聞かされている。それでも、自分の目で確かめるまでは胸の奥に残った不安が消えなかった。
レンは白い天井を見上げた。昨日まで身体を包んでいた森の湿気も、遺跡の土埃も、鼻の奥へ張りついていた血の臭いもない。ここにあるのは薬草と清潔な布の匂いだけで、頭では安全な場所にいると分かっている。それでも目を閉じれば、崩れ落ちる遺跡と、その中に浮かんだ赤い瞳が蘇った。
「俺たちを見つけた商人に、話を聞ける?」
突然尋ねられ、治療師が首を傾げた。
「どうしてですか?」
「俺たちは街道沿いの石小屋で見つかったんだよな」
「そう聞いています」
「でも、自分たちでそこまで行ってない」
レンの声から軽さが消えた。
「あの時の俺たちじゃ無理だ。誰かが遺跡から運び出した」
「商人の方たちは、石小屋の周りに誰もいなかったと言っているそうです」
「赤い目の女も?」
「赤い目?」
「……遺跡が崩れた時に見た気がする」
「知り合いですか?」
「分からない。夢だったのかもしれない。でも、本当にいたなら……」
治療師は少し考えてから答えた。
「妹さんやエルフの方が、何か覚えているかもしれませんね」
「だから会いたい」
「それと、自分で歩いて行くことは別の話です」
先回りされ、レンは黙った。
「先生の診察が終われば、会う方法を考えます。それまでは横になっていてください」
「隣なのに」
「隣だから少しくらい待てます」
若い治療師は薬を取りに行くため扉へ向かい、出る直前に振り返った。
「本当に起きないでくださいね」
「分かった」
「その返事が一番不安です」
扉が閉じ、回復室へ静けさが戻る。レンはしばらく天井を見つめていたが、やがて壁へ顔を向けた。その向こうにアイリがいると思うと、距離はほんの数歩しかないように感じられた。
待てと言われた理由も分かっている。傷を悪化させれば余計な手間を掛けることも分かる。それでも、昨日まで何度も失いかけた妹が壁一枚向こうにいると知っていて、顔を見ないまま横になっていることには耐えられなかった。
「……見るだけなら」
レンは左手で布団を退けた。右腕は使わない。左手と両脚だけで立ち、隣まで行けばいい。
上体を起こした瞬間、視界の端が暗くなった。耳の奥で低い音が鳴り、全身へ沈んでいた血の不足と疲労が一気に表へ出てくる。レンは動きを止めて呼吸を整え、視界が戻るのを待ってから両足を床へ下ろした。
右脚には狼に噛まれた傷の痛みと、その後も歩き戦い続けた負担がまだ残っている。それでも立てると判断し、左手で寝台の柱を掴んだ。
身体を持ち上げた直後、両膝から力が抜けた。
「――っ!」
反射的に右腕を前へ出しかけた瞬間、上腕から肩へ灼けるような痛みが走った。レンは咄嗟に身体を捻って右腕を庇い、左側から床へ倒れ込む。寝台脇の台へ身体がぶつかり、水差しが石床へ落ちて砕けた。
その音とほぼ同時に、廊下から足音が近づいた。
「何の音ですか!?」
戻ってきた若い治療師は、床に倒れているレンを見た瞬間に表情を失った。
「……何をしてるんですか」
「立てるか確認を」
「寝台の上にいてくださいって言いましたよね!?」
治療師は破片を避けて駆け寄り、まず右腕を確認した。包帯の一部へ新しい赤が僅かに滲んでいる。
「先生を呼んでください!」
「そこまで大げさにしなくても」
「誰のせいですか!」
その声は、壁一枚隔てた第二回復室にも届いた。
◇
アイリは目を開けた。眠っていたわけではなく、身体を休ませるために目を閉じていただけだった。両手首には新しい包帯が巻かれ、縄に擦られた皮膚はまだ熱を持っている。右肩も、少し動かすだけで鈍く痛んだ。
隣室から水差しの割れる音が響き、その直後に人を呼ぶ声が聞こえる。
「……お兄ちゃん?」
寝台脇にいた女性助手が振り返った。
「大丈夫です。そのまま休んでいてください」
「今の、隣だよね?」
「え?」
「お兄ちゃんの部屋でしょう?」
助手が一瞬答えなかった。それだけで十分だった。
アイリは身体を起こす。
「待ってください」
「何があったの?」
「自分で起きようとして転んだだけです。もう治療師が見ています」
「転んだ?」
アイリは寝台の縁へ脚を下ろそうとした。
「行かせて」
「駄目です。あなたも治療したばかりでしょう」
「歩けるよ」
「昨日までまともに休めてもいないんです。急に立ったら、あなたまで倒れます」
「でも――」
左手で助手の腕を外そうとした瞬間、包帯の下の傷が痛み、力が抜けた。それでもアイリは壁へ向かって声を上げた。
「お兄ちゃん!」
◇
「……アイリ」
寝台へ戻されたレンが壁へ顔を向ける。
そこへ年配の治療師が入ってきた。床の破片と濡れた石、そしてレンを順に見た後、低い声で尋ねる。
「何歩進んだ」
レンは答えなかった。
「何歩だ」
「……零」
「何?」
「立ったところで倒れた」
年配の治療師は数秒黙った。
「昨日、何と言った」
「右腕に力を掛けるな」
「他には」
「無茶するな」
「他には」
「……剣は論外」
「よく覚えているじゃないか」
傷を確認すると、縫合部は大きく開いていなかった。僅かに血が滲み、周囲が赤くなっている程度だった。
「縫い直す必要はない。だが、もう少し強く打っていれば話は別だった」
「隣まで行くだけだった」
「一歩も進めていないだろう」
返す言葉がない。
「今のお前は、一晩眠っただけで元に戻ったわけじゃない。血も体力も足りていない。立ちたいなら治療師を呼べ」
「アイリを見たかった」
「妹を心配させるために倒れるのが、お前の見舞いか?」
その言葉には何も返せなかった。
「お兄ちゃん! 返事して!」
壁の向こうから再びアイリの声が飛んでくる。レンは治療師を見る。
「返事くらいはいい?」
「大声は出すな」
「アイリ!」
隣室が一瞬静かになる。
「お兄ちゃん?」
「いる。生きてる」
「何があったの!?」
「ちょっと立とうとして転んだ」
「ちょっとじゃないでしょう!」
「大丈夫だから」
「昨日からみんな『大丈夫』しか言わない!」
レンは僅かに苦笑した。
「腕の傷が少し痛んだだけ。大きくは開いてないって」
年配の治療師が横から口を挟む。
「『少し』ではない」
「先生は黙ってて」
「患者が勝手に軽く説明するからだ」
壁の向こうからアイリの声がした。
「先生、そこにいるの?」
「ああ」
「お兄ちゃん、本当に大丈夫ですか?」
「今のところはな。ただし、もう一度勝手に立つなら寝台へ縛る」
「お願いします」
「アイリ?」
「お願いします、先生」
「妹の方が話が早い」
「俺はもう立たないって」
「本当に?」
「ああ」
「剣を取りに行ったりもしない?」
レンは一瞬黙った。
「……しない」
「今、間があった」
「気のせいだ」
「絶対あった」
「とにかく、お前も休め」
「お兄ちゃんが休むなら」
「分かったよ」
壁越しのやり取りが途切れると、二人の部屋へ少しだけ静けさが戻った。互いの姿は見えず、手も届かない。それでも、すぐそこにいる。
「お兄ちゃん」
「何?」
「ちゃんと、生きてる?」
レンは一瞬、答えに詰まった。右腕は痛み、立つことさえ満足にできず、剣を振れるだけの力が戻るのかも分からない。それでも、自分の胸は確かに動いている。
「ああ。生きてる」
「右手は?」
「あるよ」
「動く?」
レンは包帯の外へ出た指を一本ずつ曲げた。
「ああ。全部動く」
「じゃあ、大丈夫?」
「まだ力は入れられない。剣も、しばらく無理だって」
壁の向こうが静かになる。
「治る?」
「治す」
「先生は?」
「指が動いてるのは良い兆候だって。でも、剣を振れるだけの力が戻るまでは分からない」
「……怖い?」
レンは天井を見つめた。
「どうだろうな」
「怖いんでしょう」
「お前は?」
今度はアイリが黙った。
「……分かんない」
それ以上、レンは聞かなかった。アイリの声の奥にも、まだ簡単には言葉にできないものがある。それだけは分かった。
「手首は?」
「痛い。でも動くよ」
「肩は?」
「昨日よりはまし」
「無理するなよ」
「それ、お兄ちゃんが言う?」
「俺はいいんだよ」
「よくないよ」
即答され、レンは小さく笑った。
「エリリアは?」
「隣の隣で寝てるって。昨日の夜は起きて、水も飲んで少し食べたらしい」
「そっか……じゃあ、三人ともいるんだね」
「ああ」
しばらくして、レンは自分の胸へ意識を向けた。先ほど無理に立とうとしたせいか、鼓動がいつもより強く感じられる。
「アイリ。心臓の音、聞こえる?」
「自分の?」
「ああ」
壁の向こうが静かになる。
「……聞こえる」
「俺のも鳴ってる」
「お兄ちゃんのは聞こえないよ」
「鳴ってるって分かればいい」
「うん」
レンは、そのさらに向こうの部屋を思い浮かべた。銀髪のエルフが、深い疲労の中で眠っている。昨日の夜には水を飲み、少し食べた。今はただ、使い果たした身体を休めている。
「エリリアのも鳴ってる」
しばらくして、アイリが小さく答えた。
「三人分だね」
「ああ。ちゃんと三人分だ」
窓の外から、王都の朝を告げる鐘が静かに響いた。
「じゃあ……今は大丈夫だよね」
レンはすぐには答えなかった。右腕はまだ治っておらず、左手には狼に噛まれた傷の影響が残り、右脚にも長い旅と戦いの負担が沈んでいる。アイリの手首と右肩も痛み、エリリアもまだ十分な休息を必要としている。三人を崩れた遺跡から石小屋まで運び出したのが誰なのかも、赤い瞳の女が本当に存在したのかも分からない。
何も解決してはいない。それでも、三人とも生きている。
「ああ」
レンはゆっくり目を閉じた。
「今は、それでいい」
壁の向こうから返事はなかった。少しすると、アイリの呼吸が穏やかなものへ変わっていく。
若い治療師がレンの右腕へ新しい包帯を巻き直し、年配の治療師も傷が開いていないことを確認すると、ようやく険しかった表情を緩めた。
「今度こそ寝ろ」
「……はい」
「次に勝手に立ったら本当に縛るぞ」
「分かってる」
「その返事はもう信用していない」
「先生までアイリと同じこと言うんだな」
「妹の方が、お前という患者をよく理解しているらしい」
レンはそれ以上反論せず、身体から力を抜いた。
三つの回復室を隔てる白い壁の向こうに、互いの姿は見えない。それでも、レンの胸に一つ、アイリの胸に一つ、そして眠るエリリアの胸にも一つ、確かな鼓動がある。
三人分の鼓動は、遠く響く王都の鐘に重なるように、静かに鳴り続けていた。
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