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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第二章 王都の闇
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第二章 第一話 白い天井の下で

夜が薄れ始める頃、一台の荷車が王都の門へ駆け込んだ。


 荷台には商品を包んでいた布が敷かれ、その上に三人の若者が横たえられている。


「怪我人だ! 道で見つけた!」


 手綱を握る男が門前から叫んだ。


「三人いる! 一人は右腕の傷がひどい!」


 門を守っていた兵士たちが顔色を変えた。


 事情を詳しく聞くより先に、一人が荷台を覗き込む。最も奥に横たわる黒髪の青年は目を閉じ、右腕を胸元へ寄せるようにして動かない。上腕には何重にも布が巻かれていたが、その一部は乾いた赤と新しく滲んだ赤が重なって染まっていた。


 すぐ隣には銀白の髪の少女がいる。両手首は赤く擦れ、汚れた黒い服の袖口にも血が付いていた。


 もう一人の銀髪の女性は意識を保っていた。荷車が止まると、彼女は身体を起こそうとした。


「そのままで」


 兵士が制した。


「治療できる場所へ回す。話は後だ」


「二人を……先に」


 掠れた声だった。


「分かった。全員運ぶ」


 兵士が仲間へ振り返る。


「治療院へ知らせろ! 担架を三つ!」


 足音が門の内側へ走っていった。


     ◇


 レンは、車輪が石畳を打つ音を聞いていた。


 目を開けようとしても瞼が重く、身体のどこが荷台に触れているのかさえ時々分からなくなる。それでも右上腕の痛みだけは鮮明で、荷車が揺れるたび肩に近い傷の奥から鋭い痛みが走った。そのたびに息が浅くなり、胸元へ寄せた右腕をさらに動かさないよう身体へ力が入る。


 どこかで人が話している。


「もう着くぞ」


「この三人、どこで?」


「街道沿いの石小屋だ。あんな時間に三人まとめて倒れてた」


「追われてたのか?」


「知らん。聞ける状態じゃなかった」


 声が遠ざかったり、また近づいたりする。


 レンは左手を動かし、指先で何かを探した。


「……アイリ」


 自分では声を出したつもりだったが、ほとんど息にしかならなかった。


 すぐ近くから弱い声が返る。


「いるよ」


 それだけで胸の奥が少し緩んだ。


「エリリア……」


「います」


 今度は反対側から聞こえた。


 レンは目を閉じたまま長く息を吐いた。二人ともいる。そのことを確かめた途端、頭の中で張り詰めていたものが一本切れたように力が抜けていった。


 次に荷車が止まった時には、何人もの足音が周囲へ集まっていた。


「この青年から」


「右上腕です。布がずれています」


「少女の手首も見て。そちらの女性は?」


「意識あります」


 知らない声が次々に飛び交う。


 身体の下へ布が差し込まれ、持ち上げられた。右肩が僅かに動く。


「……っ!」


「そこ痛む?」


 近くから女の声がした。


 レンは薄く目を開けた。白い服を着た、知らない女性だった。


「右……腕」


「分かった。動かさないからね」


 言葉と同時に右腕の周囲へ手が添えられ、荷台から担架へ慎重に移される。今度は揺れが小さかった。


「剣を着けてる」


 別の声がした。


「腰帯ごと外して。傷の処置に邪魔になる」


 レンの意識が僅かに浮かぶ。腰の右側へ手が触れた。


「待って……」


「大丈夫。預かるだけ」


 黒銀の剣が鞘ごと腰から離れていく。


「本人の荷物と一緒に保管して」


「分かりました」


 その声を最後に、レンは再び目を閉じた。


     ◇


 鼻を刺す薬草の匂いで、意識が浮かび上がった。


 完全には目を開けられない。それでも、もう荷車の上ではないことは分かった。背中の下には柔らかな寝台があり、右上腕に巻かれていた古い布は外されている。


「水を」


「はい」


 濡れた布が肌へ触れた瞬間、傷の奥へ熱い針を押し込まれたような痛みが走る。


「っ……!」


「起きてるな」


 レンが目を開くと、すぐ横に年配の男が座り、袖を肘まで上げて傷を覗き込んでいた。


「名前は?」


「……レン」


「年は?」


「二十」


「ここがどこか分かるか?」


 レンは天井へ視線を向けた。知らない部屋だった。


「分からない」


「王都の治療院だ。街道で見つけた商人が運んできた」


「アイリは?」


「隣で診てもらってる」


「エリリアは?」


「そっちも生きてる。まず自分のことを見ろ」


 男は傷へ視線を戻した。


「深いな」


 助手らしい若い女性が新しい水を運んでくる。


「肩のすぐ下です」


「骨には届いていない。だが筋肉を深く切ってる」


 レンは右手を僅かに動かした。


「手は?」


「今から見る」


 男がレンの手首へ触れた。


「右手。親指」


 レンは動かした。


「人差し指」


 動く。


 中指、薬指、小指も、言われた通りに曲げ伸ばしできた。


「次、俺の指を軽く握れ」


 レンが指を閉じる。力を入れた途端、右上腕の傷から肩へ鋭い痛みが走った。


「……っ」


「そこで止めろ」


 男がすぐ手を離す。


「指は動いてる。軽く握る力もある。ただ、力を掛けると上腕の傷まで響くな」


 レンは息を整えながら右手を見る。五本の指は、自分の意思に応じて動いていた。


「肘は?」


「少しなら」


「ゆっくりやるぞ」


 男が上腕を支えたまま、レンは肘を僅かに曲げた。途中で傷が強く引く。


「そこまで」


 すぐ元へ戻された。


「当分、右腕へ大きな力を掛けるな。肩も大きく動かすな。傷を閉じても、中の筋肉まで一晩で繋がるわけじゃない」


「剣は……」


「論外だ」


 即答だった。


 レンは眉を寄せる。


「どれくらい?」


「今それを聞いても答えは出ん。まず傷を閉じる。それからだ」


 年配の男は新しい布を受け取った。


「左も見せろ」


「左?」


「両方比べる」


 レンは左手を差し出した。


「同じように指を動かせ」


 親指、人差し指、中指までは滑らかに動いたが、薬指が僅かに遅れ、小指もそれに続いた。


 男の視線が変わる。


「これは今回の怪我か?」


「違う」


「前から?」


「少し前。旅の途中で狼に噛まれた」


「感覚は?」


「薬指と小指だけ、少し遠い。動かせるけど、遅れる時がある」


 男は二本の指へ軽く触れ、場所を変えながら反応を確かめた。


「分かった。そっちは今回の傷とは別に診る」


 それだけ言って、再び右上腕へ目を戻す。


 レンは自分の右手を見ながら尋ねた。


「右手は……大丈夫なの?」


 男は傷を洗う手を止めなかった。


「五本とも自分で動かせている。肘も曲がる。今の時点では、それを良い兆候だと思っていい」


「じゃあ治る?」


「だから急ぐな」


 少しだけ声が強くなる。


「深く切れた筋肉は、指が動くからといって明日から剣を振れるものじゃない。傷が塞がっても、力や動きが戻るまでには時間が掛かることがある。今ここで無理をすれば、本来戻るものまで戻らなくなる」


 レンは黙った。


「分かったなら力を抜け」


「……はい」


「よし」


 男は助手へ目を向けた。


「奥まで洗う。必要なところを縫って、肩が動きすぎないよう支える」


「はい」


 再び傷へ水が触れ、レンは歯を食いしばった。痛みは強かったが、それでも森や遺跡で耐えていた痛みとは違う。今は誰かが、この傷を治すために触れている。その違いだけは、はっきり分かった。


     ◇


 少し離れた寝台では、アイリが両手を膝へ置いていた。手首には新しい白い布が巻かれている。


「もう少しだけ見せてね」


 若い女性が右手首へ薬を塗る。縄に擦れた皮膚はところどころ赤く剥け、浅い傷が帯のように手首を囲んでいた。


「痛い?」


「ちょっと」


「指は動かせる?」


 アイリが一本ずつ曲げる。


「うん」


「じゃあ次は肩」


 右腕を僅かに動かされたところで、アイリの眉が寄った。


「そこ?」


「……前に怪我してて」


「今朝また傷めた?」


「傷めたっていうか……重いものをずっと持ってた」


「どれくらい重いもの?」


 アイリは答えようとして、視線を落とした。


 黒銀の剣。柄を握った感触。刃の先で止まった大きな身体。喉から抜けた刃に残っていた赤。


 洗われた自分の指は水気だけを残し、白い布の上で小さく震えていた。


「……剣」


「剣?」


「長い剣を、ずっと」


 女性はそれ以上詳しく聞かなかった。


「じゃあ、かなり無理して使ったんだね。少し動かすよ」


 腕を前へ出し、横へ動かし、ゆっくり戻す。低い位置なら動かせたが、高く上げようとすると右肩の奥に痛みが走った。


「今日はここまで。高く上げたり、急に後ろへ動かしたりしないで」


「はい」


「頭は痛くない?」


「大丈夫」


「気持ち悪くない?」


「ない」


「脚は?」


「疲れた」


「それは見れば分かる」


 少しだけ笑われた。


 アイリも笑おうとしたが、口元はすぐ元へ戻った。


 女性が手首の布を留める。


「水、飲めそう?」


「うん」


 差し出された杯を両手で受け取ると、水面が揺れ、それに重なるように自分の指もまだ僅かに震えていた。


 アイリは杯を口へ運び、冷たい水を一口飲んだ。喉へ流れた瞬間、痛いほど乾いていたことに初めて気づく。


「レンは?」


「奥で治療中」


「大丈夫?」


「先生が診てる」


「エリリアは?」


「隣」


 アイリはすぐそちらを見た。


     ◇


 エリリアは寝台の端へ座り、渡された水をゆっくり飲んでいた。細剣は既に預けられ、長い銀髪にも服にも森と遺跡の埃が残っている。


 彼女を診ていた医師が脈を確かめ、顔色を見る。


「傷より、今は疲労の方が問題ですね」


「はい」


「水を飲んで、食べられるなら少し食べて、あとは眠ってください」


「二人は?」


「青年は腕を治療中。少女は手首と肩を診ています」


「命に関わる状態ですか」


「今のところ、二人とも治療を進められています」


 エリリアの肩から、ほんの僅かに力が抜けた。


「そうですか」


「あなたも横になって」


「もう少しだけ」


「何を待ってるんです」


 エリリアは答えなかった。


 向こうの寝台からアイリがこちらを見ている。目が合った。


「エリリア」


「はい」


「レン、生きてるって」


「ええ」


「先生が診てるって」


「聞きました」


 アイリは杯を握ったまま、しばらく黙っていた。


「……私たち、王都にいるんだって」


「そのようですね」


「何で?」


「分かりません」


 エリリアは短く答え、それから自分でも確かめるように治療院の壁と窓へ視線を向けた。


「けれど、今はここにいます」


「うん」


 アイリは小さく頷いた。


 昨夜の出来事を今ここで整理できる者はいない。三人とも生きている。傷を洗う水があり、眠れる場所がある。今は、それだけで十分だった。


     ◇


 レンの右上腕には、新しい布が厚く巻かれていた。傷は十分に洗われ、開いていた部分を縫い閉じた上から清潔な布で覆われている。右肩が大きく動かないよう、胸元へ回した布で腕も支えられていた。


「苦しくないか」


「大丈夫」


「指」


 医師に言われ、レンは右手を動かした。五本とも自分の意思に応じた。


「痛みは」


「右腕に力入れると痛い」


「なら入れるな」


「簡単に言うね」


「簡単なことを守らない患者が一番面倒なんだ」


 レンは少しだけ笑った。その瞬間にも疲れが押し寄せ、目を開けているのが難しくなる。


 医師がそれに気づいた。


「もう寝ろ」


「アイリ……」


「生きてる」


「エリリア……」


「生きてる」


「剣」


「腰帯と一緒に預かってる」


「ちゃんと?」


「ちゃんとだ」


 医師は呆れたように息を吐いた。


「他に確認するものは?」


 レンは考えようとしたが、疲労で頭がうまく動かなかった。


「……ない」


「なら寝ろ」


 今度は逆らわなかった。


 目を閉じると、遠くで誰かが歩く音や、布を畳む音、水を入れ替える音、小さな話し声が聞こえた。どれも、もう逃げるために聞き分ける必要のない音だった。


 レンはそのことをぼんやり考えながら、意識を手放した。


     ◇


 次に目を開けた時、最初に見えたのは白だった。


 レンはしばらく瞬きもせず、それを眺めていた。


 平らで、淡い朝の光を受けた白い天井。森も石室もない場所で、ただ静かに頭上へ広がっている。


「……どこ」


 声が掠れた。


 身体を起こそうとして左手を寝台へつき、上体が僅かに持ち上がったところで右上腕から鋭い痛みが走った。


「っ……!」


「動かないでください」


 すぐ横から声がした。


 レンが顔だけを向けると、椅子に座っていた若い女性が立ち上がった。昨日、医師の隣にいた助手だった。


「傷を縫ったばかりです」


「昨日……?」


「ここへ運ばれてきたのが昨日の明け方です。今は次の日の朝ですよ」


「そんなに寝た?」


「かなり疲れていたみたいですね」


 レンはゆっくり息を吐き、枕へ頭を戻した。


 右腕を見る。肩に近い上腕には厚い包帯が巻かれ、胸元へ軽く固定されている。右手は外へ出ていた。


 レンは親指から順に五本の指をゆっくり動かした。すべて自分の意思に応じる。軽く握ると、傷の奥が引いた。


「確認はそのくらいで」


 女性が言った。


「先生に怒られますよ」


「もう怒られた」


「でしょうね」


 レンは左手も動かした。薬指と小指はやはり僅かに遅れ、触れた感覚も他の指より遠い。


 そこで、腰の右側にあるはずの重さがないことに気づいた。


「剣は?」


「治療中に腰帯ごと外して、こちらで保管しています」


「……よかった」


「起きてすぐ剣の心配ですか」


「他にもちゃんと心配してるよ」


「では、何を?」


 レンは女性を見る。


「アイリは?」


 声から、さっきまでの軽さが消えた。


「大丈夫です」


「本当に?」


「昨日のうちに目を覚ましています。手首を治療して、肩も診てもらいました。今朝も起きていますよ」


 レンの胸に溜まっていた息が抜ける。


「……そう」


 目を閉じかけ、すぐまた開いた。


「エリリアは?」


「その方も大丈夫です。疲れがひどかったので休んでもらいましたが、意識もありますし、食事も少し取れています」


 二人とも生きている。昨日も聞いたはずなのに、自分の意識が途切れている間に何か起きたのではないかという恐怖が、胸のどこかに残っていた。


「会える?」


「先生に聞いてからです」


「今は?」


「あなたが一人で起き上がろうとしなくなったら考えます」


「厳しいな」


「あなたが言うことを聞かなさそうなので」


 レンは返す言葉を探し、諦めた。


 窓の外から、人の話し声に荷車の車輪が石畳を転がる音、遠くで鳴る鐘、道を行き交う足音が重なって聞こえてくる。どれも知らない場所の音だったが、昨夜まで身体を追い立てていたものとはまるで違っていた。


 レンはもう一度、白い天井を見上げた。


 右上腕はまだ痛み、右脚にも深い重さが残っている。左手の二本の指も相変わらず少し遅く、身体のあちこちにここまで来た時間がそのまま刻まれていた。


 それでもアイリは生きている。


 エリリアも生きている。


 レンは枕の上でゆっくり息を吐き、今度こそ身体から力を抜いた。


 白い天井の向こうで、王都の朝が始まっていた。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークと5つ星の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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