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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第五十九話 赤い瞳の救い手

頭上で響いた亀裂音が、今度は途中で途切れなかった。


 一本の柱の上から伸びていたひびが天井を這い、細い枝のようにいくつも分かれていく。石の内側で乾いた音が連続し、そこから砂と小さな欠片が降り始めた。


「離れて!」


 エリリアの声に、レンはアイリの側へ身体を寄せた。


 二人が動いた直後、さっきまで立っていた場所へ拳ほどの石片が落ち、床で砕けた破片が靴元まで滑ってくる。


 石室の奥では淡い光がなお広がり続けていた。床を走る細い線は柱を上り、壁の低い位置まで伸び、古い石造りそのものを内側から照らしている。


 正面の通路は既に落石で塞がれ、別の入口からも粉塵と崩落音が押し寄せていた。来た道の奥でも何か大きなものが崩れ続けている。


「エリリア、どこへ行く?」


 レンが尋ねる。


 エリリアは細剣を握ったまま、石室の四方へ素早く視線を走らせた。


「今見えている道は、どこも危険です」


「じゃあ――」


 アイリが言いかけたところで、床が大きく揺れた。


 三人の身体が同時に傾く。


 レンは左手を近くの柱へ押し当て、傷ついた右腕を胸元へ寄せたまま踏みとどまった。右脚の奥へ重い痛みが走り、膝が一度大きく揺れる。


「お兄ちゃん!」


「大丈夫!」


 返した声にも、もうほとんど余裕はなかった。


 アイリも長い拘束と戦いで疲れ切った脚を石床へ踏ん張らせている。エリリアは二人の位置を確かめながら、次に落ちてくる石の気配を追っていた。


「こちらへ寄ってください!」


 三人が一つの柱の脇へ集まる。


 その頭上で石が軋んだ。


「ここも駄目です」


 エリリアが即座に身体を離した。


 直後、柱の上部から欠けた石が落ち、三人がいた場所へ叩きつけられる。


 粉塵が一気に舞い上がった。


 視界が白く濁る。


 レンは咳き込みながら左手を伸ばし、アイリの位置を探した。


「アイリ!」


「ここ!」


 すぐ近くから声が返る。


「エリリア!」


「います!」


 二人の声を確かめた直後、頭上からそれまでとは比べものにならないほど大きな音が響いた。


 石室全体が一度沈み込んだように揺れる。


 レンが顔を上げると、粉塵の向こうで天井の一部がずれていた。巨大な石材同士が擦れ、その隙間から細かな破片が雨のように落ちてくる。


「走れますか!」


 エリリアが叫ぶ。


「無理でも行くしかない!」


 レンは答えた。


「アイリ!」


「うん!」


 三人はまだ崩れていない壁際へ向けて動き出した。


 だが最初の一歩から、レンの右脚が大きく遅れた。


 痛みを堪えて踏み直した時には、アイリが振り返っている。


「お兄ちゃん!」


「行け!」


「一緒に!」


 アイリが戻ろうとする。


「戻るな!」


 レンが叫んだ直後、大きな石片が二人の間へ叩きつけられ、床で砕けた。


 アイリが息を呑んで後ろへ下がる。


 エリリアが彼女の肩を引いた。


「アイリさん、こっちへ!」


「でもレンが!」


「レンも来てください!」


「行ってる!」


 レンは右腕を胸元へ寄せたまま、一歩ずつ二人へ近づいた。


 腰の右側では鞘に収めた黒銀の剣が歩調に合わせて揺れ、その重さまで右脚へ響くように感じる。


 あと数歩だった。


 その距離を詰めるより先に、頭上で石が裂けた。


 エリリアの顔が上を向く。


「危ない!」


 レンも見上げた。


 天井の大きな一角が、三人のいる側へ傾いている。


 右脚では崩落の範囲を抜けきれない。アイリとエリリアも、今から走って間に合う距離にはいなかった。


 レンはせめて妹の方へ身体を向けた。


「アイリ!」


 アイリもこちらを見る。


 その向こう、舞い上がる粉塵の中に、人の背丈ほどの暗い輪郭が立っていた。


 さっきまで誰もいなかった場所だった。


 床の淡い光はその足元まで届いているのに、輪郭は粉塵と影の中へ溶け込み、顔も姿も捉えられない。


 ただ二つの赤だけが、暗がりの中ではっきりと浮かんでいた。


 赤い瞳だった。


「……誰?」


 アイリが呟く。


 返事はない。


 赤い瞳が三人へ向けられる。


 次の瞬間、足元へ暗闇が広がった。


 遺跡を満たす淡い光とはまるで違う。石板の形も継ぎ目も、その黒さへ触れたところから境目を失い、深い闇の中へ沈んでいく。


「何……これ」


 アイリの声が震える。


「動かないで!」


 エリリアも細剣を構えたまま、足元へ近づく暗がりを見つめている。


 闇が三人の足元へ届いた瞬間、石床の感触が消え、上下の感覚まで一度に曖昧になった。


「っ――!」


 耳の奥が強く押され、石室を満たしていた崩落音が急速に遠ざかる。


「アイリ!」


「いる!」


 暗闇のすぐ近くから声が返った。


「エリリア!」


「ここにいます!」


 姿は見えないのに、二人の声だけが手を伸ばせば届きそうな距離から響いてくる。


 レンには腰の剣の重さと、右上腕を走る痛みだけが妙にはっきり感じられた。


 頬を何かが通り過ぎる。


 風とは違う、温度のない圧力だった。


 耳の奥がふっと軽くなる。


 目を開けていても、何も見えない。


 赤い瞳も既に闇へ消えていた。


 ほんの一瞬だったのか、長い時間そこにいたのかも分からない。


 やがて突然、肺へ入ってくる空気の匂いが変わった。


 湿った古い石の匂いに代わって、草と土、冷たい夜気が流れ込む。


 足元に硬い感触が戻った。


 レンの身体が前へ傾く。


「レン!」


 エリリアの声と同時に、左肩が石壁へ触れた。


 低い壁と屋根に囲まれ、正面だけが大きく開いた小さな石小屋だった。開口部の向こうには暗い森が広がり、月明かりに照らされた土の道が木々の間を伸びている。


「……外?」


 アイリが息を呑んだ。


 彼女もすぐ近くで膝をつき、赤く擦れた両手を石床へ置いていた。


 エリリアは反対側の壁際へ片膝をつき、細剣を握ったまま肩を上下させている。


 レンは開口部の外へ目を向けた。


 目の前にあるのは風に揺れる森と、月明かりを受けた道だけだった。つい先ほどまで周囲を満たしていた淡い光も、崩れ落ちる石室の轟音も、ここまでは届いていない。


 葉が夜風に擦れる音がする。


「どうやって……」


 言葉の途中で、右上腕が強く疼いた。


 ずれた布には赤い染みが残り、右脚にも歩き続けた重さが深く溜まっている。緊張が途切れた途端、それまで身体を支えていた力まで抜けていくようだった。


 レンは壁へ背を預け、ゆっくり腰を落とした。


「お兄ちゃん」


 アイリが近づいてくる。


「大丈夫?」


「今は……たぶん」


「たぶんって」


「アイリは?」


「疲れた」


 それだけ言うと、アイリもレンの隣へ座り込んだ。


 右肩を少し下げ、擦れた両手首を膝の上へ置いている。


 エリリアは呼吸を整えながら、小屋の外へ続く道を見た。


「人が使っている道だと思います」


 土の上には、幾重にも重なった車輪の跡が月明かりの中へ残っている。


「誰か来るかな」


 レンが言う。


「来なければ……」


 エリリアはそこで言葉を止めた。


 レンも続きを聞かなかった。


 アイリが膝の上から手を動かした。


 赤く擦れた指先が、レンの左手を探る。


 触れると、弱く握った。


 レンも握り返す。


「帰れるかな」


 アイリが小さく言った。


「帰るよ」


「今度は絶対?」


 レンはすぐには答えなかった。


 それでも隣にいる妹の手を離さず、夜の道を見ながら言う。


「帰るために、ここまで来たんだから」


 アイリの指に少しだけ力が戻った。


 小屋の入口にいたエリリアが、ふいに道とは反対側へ顔を向けた。


「……あそこ」


 二人も顔を上げる。


「何?」


 エリリアの視線は、木々の間へ向いていた。


 レンも暗い林へ目を凝らす。


 風に枝が揺れている。


 そのさらに奥で、二つの赤が静かに浮かんだ。


 さっき見た瞳だった。


 木々の影へ紛れた輪郭は捉えられず、ただ赤い瞳だけがこちらを見ている。


「……あの人」


 アイリがレンの手を握ったまま呟いた。


「助けたの……あれ?」


 答えはない。


 エリリアは細剣の柄へ手を添えたまま、木立の奥を見つめた。


「……襲ってくる様子はありません」


「信用できる?」


 レンが尋ねる。


「分かりません」


 エリリアは静かに答えた。


「ただ、私たちをあそこから出したのは、あの人だと思います」


 レンは赤い瞳を見つめた。


「誰なんだ」


 問いは夜気へ溶ける。


 赤い瞳は動かず、答えも返さなかった。


 その時、遠くから低く一定の音が聞こえた。


 車輪が土を踏む響きだった。


 馬の蹄音も重なっている。


 エリリアが道へ顔を向けた。


「誰か来ます」


 少しずつ音が近づく。


 やがて人の声まで聞こえ始めた。


「朝までには着けるか?」


「この道ならもう少しだ。急がせるなよ」


 何人かいるらしい。


 何気ない会話が、レンにはひどく遠い場所から届くもののように聞こえた。


「人だ」


 アイリが呟く。


「ああ」


「本当に?」


「たぶん」


「また、たぶん」


「今度はかなり自信ある」


 アイリがほんの僅かに笑った。


 その表情を見たところで、レンの視界が揺れる。


 右腕の痛みも右脚の重さも、遠くから伝わってくるようにぼやけ始めた。


「お兄ちゃん?」


「ちょっと……眠い」


「寝ないでよ」


「寝たくて寝るわけじゃ……」


 言葉が最後まで続かない。


 アイリの声が近くで聞こえる。


 エリリアも何か言っているが、意味を追うのが難しくなっていく。


 レンは最後にもう一度、木々の方へ目を向けた。


 赤い瞳はまだそこにあった。


 顔も姿も闇に沈んだまま、近づいてくる車輪の音を確かめるように静かにこちらを見ている。


 やがて道の先に灯りが現れた。


 荷車の前に吊られた灯火が揺れながら近づいてくる。


「おい、あそこ!」


 誰かの声が響いた。


「小屋に人がいるぞ!」


 荷車が速度を落とす。


 馬の蹄音が乱れ、人々の声が急に増えた。


「三人いる!」


「怪我人だ!」


「生きてるぞ! 急げ!」


 複数の足音が小屋へ駆け寄ってくる。


 エリリアが何かを答えた。


 アイリの手はまだレンの左手を握っていた。


 レンはもう一度木立を見ようとした。


 そこにあった二つの赤は、いつの間にか消えていた。


「布を持ってこい!」


「荷台を空けろ!」


「急げ!」


 知らない人たちの声が、小さな石小屋を満たしていく。


 一人がレンの前へ膝をついた。


「聞こえるか? 今から運ぶぞ」


 レンは答えようとした。


 声にはならなかった。


 視界が暗くなる直前、左手の中にあるアイリの指を確かめる。


 まだ握っている。


 それが分かれば、もう十分だった。


 レンはゆっくりと目を閉じた。


 夜明け前の街道で、三人を乗せるために荷車が慌ただしく整えられていく。


 その頃には、木立の奥に赤い光は一つも残っていなかった。

皆さん、こんにちは!


『アストラエオン 炎と影』第一章が完結しました。ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます。


今後の展開もぜひ楽しみにしていただき、気に入っていただけましたらブックマークや評価で応援していただけると励みになります。


感想や好きな場面などもぜひお聞かせください。


これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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