第一章 第五十八話 喉を貫く刃
淡い光が、アイリとヴァレクの間を横切って伸びていった。
石の奥から浮かび上がった細い線へ、ヴァレクの視線がほんの一瞬だけ落ちる。
その隙にアイリは、床近くまで押し下げられていた黒銀の剣を引き戻した。両手を胸元へ寄せ、乱れていた切っ先をもう一度ヴァレクとの間へ置く。
「アイリ、そのまま!」
レンの声が聞こえた。
アイリは荒い息を吐き、震える腕で柄を支える。
縄に擦れた両手首は熱を持ち、右肩の奥にも剣を支え続けた重さが溜まっている。それでも、目の前の男との間から切っ先だけは外さなかった。
ヴァレクが顔を上げる。
「まだ戻すか」
「……来ないで」
「それで止められると思うか?」
アイリは答えず、黒銀の柄を握り直した。
ヴァレクが一歩踏み込む。
幅広の剣が横から走り、黒銀の刃を外へ払った。
重い金属音とともに、アイリの両腕が右へ流される。
「っ……!」
押し返そうとはしなかった。
これまで何度も教えられた通り、刃が流れる方向へ身体も半歩ずらす。
ヴァレクはそれを待っていた。
黒銀の切っ先が正面から外れた瞬間、幅広の剣を引き戻すより先に間合いへ踏み込んでくる。大柄な身体を低く入れ、空いた左手をアイリの肩へ伸ばした。
捕まる。
アイリの足が反射的に後ろへ動きかけた。
すぐ後ろにはレンがいる。
「アイリ、刃を追うな!」
レンの声が飛んだ。
アイリの足が止まる。
「柄を戻せ!」
考えるより先に、両手を胸の前へ引いた。
外へ流されていた黒銀の剣が、手元から向きを変える。重い刃を振り回すのではなく、身体から離れていた柄を正面へ戻すだけで、切っ先も遅れて中央へ寄ってきた。
ヴァレクは既に深く踏み込んでいる。
左手はアイリへ伸び、大柄な上体も低く前へ傾いていた。
「来ないで!」
アイリが柄を引き寄せる。
戻ってきた黒銀の切っ先の先へ、ヴァレクの身体が重なった。
鈍い感触が柄を通して両手へ伝わる。
ヴァレクの動きが止まった。
「……え」
アイリの唇から声が漏れる。
黒銀の刃が、ヴァレクの喉へ入っていた。
彼の目が僅かに見開かれる。
アイリの肩へ届きかけていた左手が宙で止まり、指先だけが一度動いた。
幅広の剣も下がる。
ヴァレクは何かを言おうとしたように口を開いたが、掠れた息しか出なかった。
アイリの両手が震えた。
自分がしたのは、レンに言われた通り柄を正面へ戻しただけだった。そのはずなのに、目の前では黒銀の刃がヴァレクの喉へ深く入っている。
「わ、私……」
ヴァレクが後ろへよろめいた。
身体が離れるにつれて黒銀の刃も抜け、アイリの腕が重さに引かれる。
ヴァレクはもう一歩下がろうとしたが、足が石床を捉えきれなかった。
幅広の剣が手から落ちる。
重い金属音が石室へ響いた。
続いて片膝が床につく。
「頭領!」
誰かが叫んだ。
ヴァレクは喉へ手を当てた。
指の間から赤が広がる。
それでも一度だけ顔を上げ、アイリを見た。
怒りより先に、何が起きたのか理解しようとするような色が目に残っていた。
やがて身体が横へ傾き、そのまま石床へ倒れた。
アイリは動けなかった。
黒銀の刃先から赤い雫が落ちる。
柄を握っていた指が、一本ずつほどけていった。
剣が石床へ落ちる。
「私……」
アイリは空になった両手を見つめた。
「刺した……」
「アイリ」
レンの声がした。
顔を上げられない。
倒れたヴァレクと、床に落ちた黒銀の剣が視界の中にある。それだけで、自分が何をしたのかは嫌でも分かった。
「アイリ、こっち見て」
「……お兄ちゃん」
「こっち」
レンが近づいてくる。
傷ついた右腕を胸元へ寄せ、右脚へ負担を掛けない短い歩幅で、それでも真っ直ぐアイリの方へ来た。
アイリはようやく顔を上げる。
レンが見えた。
「私、あの人……」
「分かってる」
「私が――」
「アイリ」
レンはその先を言わせなかった。
「今は俺を見て」
アイリの唇が震えた。
「でも……」
「考えるのは後でいいです」
エリリアの声が重なる。
彼女は細剣を構えたまま、残っている男たちから視線を外していなかった。
「まず、ここを出ます」
◇
ヴァレクが倒れたことで、石室に残っていた空気は一変した。
「頭領……?」
短槍を持った男が、信じられないように呟く。
床では淡い光がなお広がり続け、柱の根元にも細い線が浮かんでいる。壁の向こうから低い振動が伝わるたび、天井から細かな砂が落ちた。
男の一人がヴァレクを見たまま後ずさる。
「死んだのか……?」
誰も答えない。
エリリアが細剣の切っ先を僅かに上げた。
「まだ続けますか」
静かな声だった。
男たちの視線が彼女からアイリへ移る。
その足元には血のついた黒銀の剣が落ち、少し離れた場所にはヴァレクが倒れている。
床を走る淡い線が一度だけ明るさを増し、足裏へ微かな振動が届いた。
「……俺は知らねえ」
一人が剣を下げた。
「もう付き合ってられるか」
「待て!」
短槍の男が声を上げたものの、自分も前へ出ようとはしない。
「頭領が……」
「頭領は死んだ!」
剣を下げた男が叫ぶ。
「こんな場所にまだ残るのかよ!」
返事を待たず、出口へ向かって走り出した。
もう一人もすぐ後を追う。
「おい!」
短槍の男が呼び止めようとした時、彼の足元近くで新たな線が淡く浮かんだ。
男は息を呑んで距離を取る。
その胸元へ、エリリアの細剣が向いた。
「武器を置いてください」
「……くそっ」
男はエリリアと床を交互に見たあと、短槍を石床へ落とした。
「勝手にしろ」
踵を返して走り去る。
正面の通路を塞いでいた最後の男も、仲間たちの背中を見てから剣を下げ、そのまま別の入口へ消えていった。
複数の足音が遠ざかっていく。
エリリアはしばらく通路へ細剣を向け続け、戻ってくる気配がないことを確かめてから切っ先を下げた。
「……行きました」
レンが長く息を吐く。
「終わった?」
アイリが小さく尋ねた。
エリリアは足元の光を見た。
「人との戦いは」
その直後、石室の奥から重い音が響いた。
先ほどより近い。
床が低く震え、柱から砂が落ちる。
「ここは全然終わってないね」
レンが言う。
「ええ。動けるうちに出ます」
エリリアは正面の通路へ視線を向けた。
レンは頷いてから、まだ立ち尽くしているアイリを見る。
妹の視線は自分の両手へ落ちたままだった。
「アイリ」
「……分かってる」
返事はしたが、足は動かない。
レンは左手を伸ばしかけ、赤く擦れた彼女の手首を見て止めた。
代わりに正面へ回る。
「一緒に行こう」
アイリが顔を上げた。
「……うん」
小さく頷く。
レンの視線が床へ落ちた。
黒銀の剣がある。
アイリも同じものを見て、表情を強張らせた。
「俺が持つ」
「でも、左手……」
「腰に戻すだけ」
レンは近くの柱へ身体を寄せ、右脚へ急な負担を掛けないようゆっくり腰を落とした。
左手で黒銀の柄を掴む。
薬指と小指の反応は鈍く、柄の重さが掌へ掛かると握りが僅かに遅れる。それでも親指と人差し指、中指を軸に支え、剣先を床へ向けたまま身体を起こした。
腰の右側にある鞘口へ黒銀の刃を合わせる。
長い剣身を慎重に滑らせ、最後まで収めた。
腰へ馴染んだ重さが戻る。
「行こう」
アイリは鞘を一度だけ見てから、黙って頷いた。
◇
三人は正面の通路へ向かった。
先ほどまで敵が塞いでいた入口に人影はない。
エリリアが先に近づき、暗がりの奥へ目を凝らす。
「行けそうです」
「どこに繋がってるか分かる?」
「分かりません。でも、ここに残るよりはましです」
言葉が終わる前に、石室全体が低く鳴った。
足元から突き上げるような震えが壁と柱へ伝わる。
「っ!」
アイリがよろめいた。
レンも右脚だけでは支えきれず、左手を近くの柱へつく。
エリリアは踏みとどまりながら天井を見上げた。
「急いで!」
三人が入口へ向かって動く。
床を走る淡い光は既に石室の大部分へ広がり、何本もの線が大きな石板を跨いでいた。その一部は柱を伝い、さらに壁の低い位置へ伸び始めている。
中央に並ぶ大きな石板の一枚が、低い音を立てながら僅かに持ち上がった。
「レン!」
「見えてる!」
隣の石板も押されるようにずれ、石同士が擦れる音が耳の奥まで響く。
三人は動き始めた床から距離を取った。
正面の通路まで、あと数歩。
エリリアが先に入口へ入る。
「こちらです!」
アイリが続いた。
レンも右脚の歩幅を崩さないよう追う。
その時、頭上から鋭い亀裂音がした。
「止まって!」
エリリアが叫ぶ。
通路の入口へ石片が落ちた。
一つ、二つと床へ砕け、直後には天井近くの壁からさらに大きな石材が外れた。
轟音とともに入口前へ落下し、石床を砕く。
粉塵が一気に舞い上がった。
「エリリア!」
「ここです!」
白く濁った埃の向こうから声が返る。
エリリアは入口の脇まで退き、アイリもその少し後ろで腕を顔の前へ上げている。
落ちた石材が通路の入口へ斜めに重なっていた。
「通れそう?」
アイリが咳き込みながら尋ねる。
エリリアが石材の隙間へ目を走らせた。
「この状態では難しいです」
「別の出口!」
レンが振り返る。
男たちが逃げた側にも通路が残っている。
「そっちへ!」
三人が方向を変えた。
二歩進んだところで再び床が大きく揺れる。
レンの右膝が崩れかけた。
「お兄ちゃん!」
アイリが反射的に寄る。
「大丈夫!」
レンは近くの柱へ左手を押し当てて姿勢を戻した。
振動が傷ついた右上腕へ響き、息が詰まる。それでも立ち止まらず、石室の端にある別の通路へ向かった。
そちらでも天井から細かな破片が落ち始めている。
「急いで!」
エリリアが先へ出る。
アイリが続き、レンもその後を追った。
入口まであと少しというところで、暗い通路の奥から大きな衝撃音が響いた。
三人の足が止まる。
奥で何かが崩れ、重い石同士がぶつかる音が連続して近づいてきた。
粉塵を含んだ冷たい風が通路から吹き出す。
エリリアが腕で顔を庇った。
「向こうも崩れています」
「戻る?」
アイリが振り返る。
レンは石室を見回した。
正面の出口は落石に塞がれ、今向かった通路の奥でも崩落が続いている。
床の淡い光はさらに広がり、壁へ伸びた細い線まで静かに石室を照らしていた。
ヴァレクの身体が横たわる向こうでは、大きな石板がまた低い音を立ててずれる。
「どこへ行けばいいんだよ……」
レンの声が漏れた。
エリリアは答えず、残っている道を探すように周囲へ視線を走らせる。
その頭上で、乾いた亀裂音がした。
三人が同時に見上げた。
一本の柱の上から伸びた細いひびが、天井をゆっくり走っている。
「離れて!」
エリリアの声に、レンとアイリが身体を動かした。
ひびの一部から石片が落ち、床へぶつかって砕ける。
さらに上で、古い石材が軋んだ。
レンはアイリの側へ寄り、エリリアも二人の近くまで戻った。
三人の周囲で、古い石造りそのものが低く鳴り続けている。
淡い光が床を走り、壁を伝い、崩れ始めた石室を静かに照らしていた。
頭上から、もう一度大きな亀裂音が響いた。
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