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アストラエオン 炎と影  作者: 鈴木 明
第一章 灰の向こうへ
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第一章 第五十七話 光る遺跡

「終わりだ」


 ヴァレクが幅広の剣を持ち上げた。


 その合図に合わせ、左右から二人の男がレンへ踏み込んでくる。


 エリリアは正面の二人に塞がれ、アイリの前にはヴァレクがいる。柱のそばに立つレンにも、大きく逃げられるだけの場所は残っていなかった。


 右脚へ力を入れるたび奥に鈍い痛みが返り、身体へ寄せた右上腕では傷が脈に合わせて疼いている。ずれた布から滲んだ血は、既に肘の先まで伝っていた。


 レンは迫る二人を見ながら、左足を僅かに引いた。


 その時、石床に落ちていた赤い滴がゆっくりと形を変えた。


 浅い継ぎ目の縁へ触れていた血が細長く歪み、その先端だけが横へ伸びていく。


 誰にも触れられていないのに、赤い滴は石に残る細い線へ沿って進み始めた。


 レンの視線が、迫ってくる男たちから足元へ落ちる。


「……血が」


 右側から来ていた男も気づき、足を止めた。


「何だ、これ」


 赤い筋はゆっくりと指一本ほど進み、そこで静止した。


 直後、その下にある石の内側から淡い光が滲み出した。


 白に近い細い光だった。表面を照らしているというより、厚い石の奥に埋もれていたものが、長い時間を越えて浮かび上がってくるように見える。


「……え?」


 アイリの声が漏れた。


 光は血のある場所から先へ伸びた。


 浅い線を辿って一歩分、さらにその先へと進み、途中で緩く向きを変える。血の届いていない別の場所でも細い線が淡く浮かび、少しずつ石室の床へ広がり始めた。


 剣を構えていた者も、槍を伸ばしかけていた者も動きを止めた。


「何をぼさっとしてる!」


 ヴァレクの声が響く。


 それでもレンへ向かっていた男たちは、すぐには足を動かさなかった。


「頭領……床が」


「見れば分かる!」


 ヴァレク自身も足元へ視線を落としている。


 淡い線は大小の石板を跨ぎ、途中で曲がり、離れ、また別の線と寄り添うように石室へ広がっていった。摩耗と汚れに埋もれていた古い形が、光によって少しずつ浮かび上がっていく。


「エリリア」


 レンは床から目を離せないまま呼んだ。


「これ、何か分かる?」


 返事まで僅かな間があった。


 エリリアも細剣を構えたまま、足元へ広がる光を見ている。


「……分かりません」


「見たことも?」


「ありません。私の知っているものではありません」


 アイリが黒銀の剣を両手で持ち直した。


「動かない方がいい?」


 エリリアは床と周囲を見比べる。


「できるだけ、今いる場所から不用意に動かないでください」


「分かった」


 三人の会話の間にも、淡い光は静かに範囲を広げていた。


 レンは右肘の下に残った血痕を見る。


 最初の光は、そこから始まった。


 けれど右上腕の傷は今も脈に合わせて疼き、酷使した右脚にも深い重さが残っている。自分の身体は何ひとつ軽くなっていないのに、足元の石だけがあり得ない変化を続けていた。


「お前」


 ヴァレクがレンを見た。


「何をした」


「知らない」


「ふざけるな」


「本当に知らない!」


 レンは思わず声を強めた。


「俺だって今初めて見てる!」


 ヴァレクの視線がレンの右腕へ落ち、そこから床の血痕へ移る。


「始まったのは、お前の血が落ちてからだ」


「俺に言われても分からないよ」


「血に反応したってことか?」


「だから、知らないって!」


 ヴァレクは口を閉じた。


 足元から低い振動が伝わってきた。


 石室のどこか深い場所で巨大な石同士がゆっくり擦れたような響きが、一度だけ床を通って足裏へ届く。


 柱の表面から細かな埃が落ちた。


「うわっ……!」


 正面にいた槍使いが一歩下がる。


「頭領、ここ……まずいんじゃないか」


「黙れ」


「でも、こんなの聞いてねえぞ」


「俺も聞いてない」


 ヴァレクは即座に答えた。


「だから何だ。仕事が変わったわけじゃない」


「変わってるだろ!」


 別の男が声を荒らげる。


 彼の靴先の近くまで、淡い線が伸びてきた。


 男は反射的に身を引いた。その間にも光は古い石の線へ沿って進み、別の石板へ静かに渡っていく。


「こんな場所に残るのかよ!」


「捕まえれば出られる」


「本当に出られるのか?」


 ヴァレクの眉間に深い皺が寄る。


「黙って持ち場につけ!」


 返事はなかった。


 それまで保たれていた包囲が、僅かに歪んだ。一人が光る線を踏むのをためらい、別の男は柱から距離を取ろうとして立ち位置を変える。


 エリリアはそのずれを見逃さなかった。


「レン、こちらへ」


 正面の二人へ細剣を向けたまま、身体をゆっくり横へ移す。


「アイリさんも。離れないでください」


「うん」


「はい」


 三人は互いの距離を縮めた。


 レンは右脚へ無理な力を掛けない歩幅で動き、アイリも黒銀の剣をヴァレクへ向けたまま彼の側へ寄る。


 正面にいた剣士が、それを止めようと一歩踏み込んだ。


 その足元で淡い線が浮かび上がる。


「っ!」


 男が咄嗟に足を引いた。


 同時にエリリアの細剣が胸元へ伸びる。


「下がって」


 切っ先が届く前に、男はさらに距離を取った。


 エリリアは空いた場所へ入り込み、三人の前に僅かな余白を作った。


「行けますか」


「どこへ?」


 レンが尋ねる。


 エリリアは正面の通路へ目を向けた。


 入口には、短槍を持った男がまだ残っている。


「今なら、あそこまで行けるかもしれません」


「行こう」


 レンが身体を前へ向ける。


 一歩目から右脚が重かったが、足はまだ動く。


 エリリアが先頭へ出ようとした時、石室の中央から伸びてきた光の一本が、古い柱の根元へ達した。


「……柱」


 アイリが呟く。


 柱の表面に残る細い溝の奥へ淡い光が入り、根元から膝ほどの高さまでゆっくり浮かび上がっていく。


 その直後、石室のさらに奥から重い音が返った。


 遠い。


 それでも先ほどより大きかった。


 壁の向こうで巨大な石の塊が長い年月ぶりに動いたような低い響きが、古い構造を伝って石室へ届く。


 天井から細かな砂と埃が落ちた。


「俺は無理だ」


 一人の男が突然言った。


 周囲が振り向くより早く、剣を下げる。


「こんなの聞いてねえ。俺は出る」


「待て!」


 ヴァレクが怒鳴った。


 男は入ってきた通路へ向かって走り出す。


「戻れ!」


「嫌だ!」


 足音が遠ざかっていく。


 近くにいた別の男も落ち着かず出口へ目を向けた。


「頭領……」


「お前まで行く気か」


「いや、でも……」


「だったら前を見ろ!」


 男は踏みとどまったものの、視線は何度も床へ落ちている。


 先ほどまで三人を囲んでいた形は、もう崩れ始めていた。


 レンは浅く息を吐く。


「今なら行ける」


「ええ」


 エリリアが頷いた。


「私が前を開けます。レンは中央へ。アイリさんは――」


「待て」


 ヴァレクの声が割り込んだ。


 三人が彼を見る。


 ヴァレクは床へ広がる淡い光から視線を外し、レンだけを見ていた。


「お前を先に押さえる」


 レンの背中に冷たいものが走る。


「まだやるの?」


 アイリが黒銀の剣を向けた。


「これが何なのか分からないなら、なおさらだ」


 ヴァレクは幅広の剣を握り直す。


「俺が受けた仕事は、三人を生きたまま捕らえることだ」


「この状況で?」


「この状況だからだ」


 ヴァレクが前へ出た。


 周囲の部下がついてこなくても、その足は止まらない。


「頭領!」


「お前らは出口を押さえろ」


「でも――」


「持ち場を離れるな!」


 アイリがレンの前へ出た。


「アイリ」


「来ないで」


 黒銀の切っ先は、ヴァレクへ向いていた。


「アイリ、無理に止めるな」


「分かってる」


「押されたら逃がせ」


「分かってるって」


 答える声は強い。


 それでも擦れた両手首で重い柄を支え続けた腕には、もう隠せない震えがあった。右肩も少しずつ下がっている。


 ヴァレクはその姿を見ながら近づいた。


「まだその剣を持つのか」


「持つ」


「まともに扱えてもいない」


「知ってる」


「なら置け」


「嫌」


 ヴァレクは幅広の剣を低く構え直した。


 アイリは黒銀の切っ先を前へ残す。


 エリリアが二人の間へ入ろうとした。


「私が――」


「前!」


 レンが叫ぶ。


 正面に残っていた短槍の男が、混乱に乗じて踏み込んでいた。


 エリリアは即座に身体を返し、伸びてきた穂先へ細剣を合わせる。


 鋭い金属音が響いた。


 これでアイリとヴァレクの間へ入れる者はいない。


 レンは左足を一歩前へ出しかけた。


 右脚がその動きに追いつかず、身体が僅かに傾く。右上腕も上体を捻っただけで深く疼いた。


「お兄ちゃん、来ないで!」


「でも――」


「私が下がったら一緒に下がって!」


 ヴァレクが踏み込んだ。


 幅広の剣が黒銀の刃の側面へ当たり、低い金属音とともにアイリの両腕を横へ押す。


「っ……!」


 アイリは力で受け止めず、押された方向へ刃を流した。


 身体も半歩ずれる。


 ヴァレクが開いた空間へ入る。


 アイリは柄を引き戻した。


 黒銀の切っ先が大きく揺れながら、どうにかもう一度ヴァレクの前へ戻る。


「しつこいな」


「そっちが」


 荒い息の合間から返す。


 ヴァレクはさらに一歩入り、幅広の剣を黒銀の刃へ深く重ねた。


 アイリの右肩が下がる。


 痛む手首から力が遅れ、切っ先が床近くまで流された。


 ヴァレクの身体が近づく。


「アイリ!」


 レンが動こうとした、その瞬間だった。


 足裏へ低い振動が走る。


 床を渡っていた淡い線の一本が、鼓動のように一度だけ明るさを増した。


 ヴァレクの目が一瞬、足元へ落ちる。


 石室の中央から伸びた新たな光が、二人の間を横切る浅い溝へ入り、石の奥からゆっくり浮かび上がっていく。


 アイリは荒い息を吐きながら、黒銀の柄を握り直した。


 レンは二人から目を離さなかった。


 淡い光だけが、その間を静かに伸びていった。

ここまで読んでくださり、そして『アストラエオン 炎と影』を応援してくださって、本当にありがとうございます。


もし物語を楽しんでいただけましたら、ぜひブックマークや★★★★★の評価で応援していただけると嬉しいです。


皆さんからの応援は、これからも物語を書き続けていくうえで大きな励みになります。


いつも本当にありがとうございます。これからも『アストラエオン 炎と影』をよろしくお願いいたします!

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